平穏な1月21日はどこにある?   作:うえうら

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1月20日/1月20日

 1月20日(月)

 

 

 電話をしても、声は訊けなかった。

 LINEを送っても、未読のまま。

 まるで妹だけが宇宙に放り出されたみたいだ。

 

 

 生まれて初めて人を殴った。

 音は思ったよりも鋭くて、真っすぐなことだけが取り柄の廊下に悲しいほどはっきりと木霊する。まるで怯えたかのように、天井の蛍光灯は二度三度明滅を繰り返した。

 重くて熱い、初めての感触が震える拳を包んで離さない。その熱がもたらす奇妙な高揚感を僕は受容できずにいた。机にしがみつくことを性分とし、23年間荒事とは無縁だったのだから仕方がないのかもしれない。

 けれど妹との、暦との別離が仕方がないで済むわけがない。

「妹は大丈夫だって言ったよなあ! おい、どうなんだ!! 迅!」

 喉を震わせて怒鳴ったのも生まれて初めてだ。

 相手の胸倉を掴んで、ひったくり寄せるのも当然初めてのこと。スムーズにこんな動作ができるだなんて、僕は本当は技術屋よりも戦闘屋に向いていた可能性もある。両手もきっとキーボードや電子基板より、銃や剣の方が好きなのだろう。僕が戦場に立っていなかったのは恐怖心と安っぽい自尊心が邪魔したからだ。

怖がらずに一歩踏み出していれば、妹より劣る兄の在り方を認めていれば、そうすれば、暦の隣にいることができたのに。

だからこの怒りはまったくの逆恨みだ。そうは分かっていても、襟首を掴む手を緩めることなどできそうもない。

「おいどうなんだ、答えろ。副作用がそう言ったんだよなぁ」

「…………」

 懇願にも似た叫びに迅は何も返さない。

何故一つも返答がないのか。

迅の表情を斟酌するほど今の僕には余裕がなかった。ただ、俯くばかりで回答がうんともすんとも帰ってこないことが、やり場のない私憤をひたすら加速させる。襟首を掴む指がジャージの繊維に食い込んでいく。

「三輪の姉さんの時もそうやって見捨てたんだな」

 こんな台詞がたやすく口から出るのだから、嫌な奴なんだろう僕は。

 苦々し気に視線を逸らす迅に対して、左拳を握っていたと意識する。ほとんど脊髄反射の早さだ。手のひらに爪が突き刺さるほど拳は固く、硬い。

 重心を沈めて振りかぶり、手製の凶器を顔面に叩き付ける。その直前、ぐいと腕を持ち上げられた。

木崎だった。僕の腕を掴む木崎の腕はたくましく、樫の木と見まがうほど隆々としている。

 やっぱりこういう筋張った腕が戦う人の腕なのだろう。積み重ねてきたものが僕とはまるっきり異なるのだ。木崎の腕を眺めながら漠然とそう思う。

「やめておけ。つらいのはみんな一緒だ」

 まったく彼の言う通りで、同僚は五人死んだ。デスクの住所で言えば、左隣の若本と斜向かいの谷田主任が故人となった。若本は同期のジャニーズ系のイケメンで、技術部門の陣頭指揮を執っていた谷田主任は栄養ドリンクマニアだった。テレビドラマを見たり、深夜残業でリポビタンDを飲んだりするたびに、故人を偲ぶことになるのだろう。

 けれど同僚の死は――統計的な死とカウントすることはないにしても――結局他人の死でしかない。辛くないと言えば嘘になるけれど、日めくりカレンダーが薄くなっていくのと同じように悲しみは比例的に減退していく。むしろそれよりも非線形的なはずだ。季節が移り替わるころには、ぽっかりと忘れるほど薄情な人間であることを僕は重々承知している。

 だからこそ暦との別離はまるで次元が違う。

 理性では分かっていても、未だに認められない。

 足元が揺らぎ、胸が張り裂けすると錯覚するほどだ。

 一つの鍋を二人でつついて、就寝前に一緒にゲームをして、朝は早く起きた方がもう片方を急かすように起こす。起こされるのはだいたい僕で、暦の使用するアイテムは怪しげな定食屋くらいにスリリングで日替わりなのだ。今朝はT字箒を眉間にお見舞いされ、血のぬるりとした感触を伴って起きる羽目になった。低血圧にはつらい。

額の絆創膏をさすり、確かに暦がいたことを実感する。こんな100円均一の絆創膏が形見だなんて馬鹿な話もないだろう。自然と乾いた笑いが口からこぼれた。

向こう側へ通じる扉があるのなら、躊躇わずに跳び込めるだろう。

だから、悪あがきにもならないけれど僕は叫ぶ。

「暦がさらわれるって分かっていたら、這ってでも駆け付けたのに」

「三矢さんがキューブ化の解析をしなかったら、もう三十人死人が増えていた。諏訪さんも木虎も、全員キューブになったままだ」

「他人は関係ない。暦が無事ならそれでいい」

「その三十人に三矢さんが含まれていたとしても」

「答えはさっきと一緒」

 即答に偽りはない。

 視線が交錯し、迅は僅かに天井を見上げる。それから後頭部をかき、仕方がなさそうに目を細めた。

「三矢さんが駆けつけても、妹さんが連れ去られる未来は変わらなかった。正確に言えばその未来がほとんどだった」

「少しでも可能性があるなら――」

「むしろ減ったんだ。両方の助かる未来が」

 そんなひどい話があるか。

 最善の手段が机に座って電算機と一緒に暗算をすることだなんて……、それほどまでに僕は非力らしい。所詮、トリオン不足で内勤へと転じられた身だ。

「だったら、事前に分かっていたなら暦を出動させなければよかった。大人しく、自宅で――」

 そこで迅はゆっくりと首を振る。

 僕の言葉は自然と途切れていた。その時の迅の目の色は映画を映し過ぎたフィルのようにひどく擦り切れていたように思う。何故か、言葉が出なかった。

「今回連れ去られてしまった隊員を全員出動させなかったら、市民を含めてもっと多くの人が犠牲になる。恣意的に未来を変えない。これがオレの中の一つのルールだから」

 きっと今までにも、僕のような我儘な人間が数多くいたのだろう。三輪の姉の件にしたって、みすみす見殺しにするような人でないと僕でも知っている。

 そもそも怒りをぶつけることがお門違いなのだ。

やるせない。

流石に迅の目の色を見てからは、無事だった隊員と暦の配置を変えてくれていればよかったのになんて言えなかった。

 殴ったことを謝ってから(でも嘘をついた迅の方がずっと悪い)、僕は長い廊下を自宅方面に歩き出した。迅と木崎は逆の方向、ボーダー本部へと帰っていく。彼らは痛みに反逆できる強い人間だ。生憎僕はそう作られていない。

靴が鉛でできているみたいに足取りは重く、進まない。地面に縛り付けられたような遅々とした進行にここが夢ではなく地続きの現実だと諭してくる。

 途中、無事だったC級隊員とすれ違う。チャラチャラとした三人組で、暢気にお汁粉の缶ジュースを飲んでいた。ひたすら理不尽だ。暦はもう、そんな安物すら飲むことが叶わないのに。あいつらが代わりに連れ去られればよかった。

心が真っ黒いマグマのようだ。沈殿していた黒い感情が胃の奥底からボコボコと湧き上がってくる。

まったくの逆恨みで、彼らの無事と暦に起こった悲劇に因果関係はない。しっかりと機能する自分の理性が恨めしい。

 握った拳をそのままに、誰も待っていない家へ帰った。人一人の温もりを欠いた借り家は真っ暗で、ひんやりとしている。

 着の身着のまま、重力に逆らわず突っ伏した。1月の寒さがフローリングを流氷のように底冷えさせていたけれど、どうでもいい。

スイッチ・オフ。

 

 

 「ぎゃひん!?」

 額を襲う激痛に、悲鳴を上げていたらしい。〝らしい〟というのは、僕はどうやら寝ていたようで、その悲鳴が自分のものなのか定かでないということだ。ただ、温い布団から腕を出して額を触ってみれば、何やら鋭利なもので叩かれたらしく、籠るような熱とぬるりとした感触があった。おそらく悲鳴は自分の口から発せられたのだろう。状況証拠からしてそうだし、昨日もこんな悲鳴を上げた覚えがある。デジャブなのかもしれないし、寝ぼけ眼ならぬ寝ぼけ耳――低血圧による五感の機能不全――かもしれない。

「コミカルな痛がり方ですね、兄さん」

 耳や目だけじゃく、朝となると頭まで機能は十全でないらしい。

呼びかけてくる暖かな声が低血圧のもたらす幻でないならば、聞きたいことを聞かせてくる脳の親切設計だろう。それか夢だ。「それにしてもぎゃひんって、手塚治虫のマンガみたいですよねー」ないしはこれも幻聴。「じゃあ、ぐげげげげ」「それは高橋留美子っぽいです」「あばばばばば」「芥川龍之介っ! ……の短編ですね」最近の幻聴は高性能で返答の機能までついている。まことに喜ばしい限りで、技術の進歩は目覚ましい。というのは冗談で、このままだと布団で一人悲鳴を上げ続ける変人になってしまう。僕も目を覚まさなければいけない。

 痛みを訴える額に手を置きながら、逆の手で両目を擦る。

 擦る。信じられないのでもう一度擦る。

 二度三度、意識的に瞬いてみる。消えない。……消えない!

「どーしたんですか、珍しいものでも見るようにして。もう一発いっておきます?」

 小首を傾げ、暦が不思議そうに問いかけてきた。表情は起き抜けを思わせる気だるげなもので、親の顔よりもよく見ている。ヤンキーが金属バットを持つようにT字箒をかけており、それが不思議と板についていた。

花の女子高生がしていいポーズではない気がする。暦にははたきとか、ふかふかのモップとか、お玉とかが何より似合う。服装が白いエプロンならもっと良い。と、兄馬鹿ながらに思ってしまう。

「これが夢じゃないと教えてほしい」

「あらら、相変わらず朝が弱いですね」

「いいから、もう一発」

「もしかして目覚めちゃいましたか」肩にかけたT字箒をトントンとバウンドさせ、暦はいたずらっぽく微笑んだ。「痛みは慣れると快感に変わるとか、脳内物質が出るとかいいますよね」

「目覚めたい気もするし、夢なら覚めないでほしい気もする。けどそっちに目覚める気は――――ひでぶっ!?」

「今度は原哲夫ですか。にしても趣味が古いですねえ」

火花の散った視界を今一度閉じ、祈り念じるように見開く。

笑顔だ。

目の前には、ガラス越しの陽光をその身に受けた暦が満足げな表情で立っていた。

 疑問や困惑を頭から放り投げ、僕は何度も妹の名前を呼んだ。

 

 

「抱きつかないでください、朝っぱらから暑苦しい。そんな私の名前ばかり呼んで……ひょっとしておかしな秘孔をついちゃいましたか?」

 




センター試験。
未来予知が情報のタイムパラドックスてそれちょっとだけ言われているから。
戦闘描写書きたい、書きたくない?

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