Fate/is inferior than Love   作:源氏物語・葵尋人・物の怪

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幕間三 神の微笑

 昼の雲一つない空が黄昏に落ちたのは、世界から救世主が失われることが決定したその瞬間だった。

 蒼穹が、息を呑む間もなく弁柄色に塗り替わる。

 世界は嘆いている。そして、祝福もしている。

 英雄――それも恐らく最も世界に名を知られることになる救世主の終わりであり、始まりを。

 茨で編んだ冠を被った永遠の王を、十字架に磔、ピラトの兵士達が連れていく。向かう場所は、白い荒土の丘――髑髏に似た場所。英雄はそこで処刑されるのだ。そこに続くダマスカスの街道の路傍では国中の人々が悪罵と嘲弄とで乱痴気騒ぎが起こっていた。

 罪人を伴う兵士達の塊が、愈々されこうべの丘に近付くと、祭りめいた躁狂は最高潮を迎えた。

 

「おい、邪魔だ餓鬼! そこをどかんか!」

 

 併し、兵士の一人の怒声が、そこに水を差した。

 何者かが、死刑囚の一行の進路に割って入ったのだ。

 併し、この光景を見ている少女には、その人物の姿は見えなかった。

 餓鬼と言うからには子供なのだろうという当りこそ付いたが、彼等の邪魔になるであろう道の真ん中にはそれらしき人物は見当たらない。

 そこで少女は、傍と夢の視点の位置に思い至った。

 然う――これはその少年が見ている光景なのだ。

 

「やぁ、メルキゼデク。首尾はどうだい?」

 

 兵士が怒鳴るのを無視し、兵士達が腰に帯びた剣に手を掛けたのを気にも留めず、少年は兵士集団に近寄り、“メルキゼデク”に声を掛ける。

 すると、兵士の集団を掻き分け、

 

「よぉ、靴屋。嫌味でも言いに来たかよ。見ての通りだ。むっちゃ死にそう!」

 

 “メルキゼデク”が顔を見せた。

 無造作に結った空夜の月にも似た銀の髪、日照りの強い土地に在って不自然な白雪のような肌、波紋のような光彩を持つ鳩の血液のような色の紅い瞳と異様な要素を含みながらも――人の良さそうな優しい面差しをしていた。

 痣や生傷で顔が変形しているにも関わらず、それだけはよく分かる。

 憎まれ口を叩きながら、冗談めかしく“死にそう”と語る“メルキゼデク”の笑顔は快活で、見ているだけで希望や勇気が湧いてきそうなほどだった。

 

「貴様等ァ! いい加減にしろ! 自分の立場を考えろ! 時と場合を考えろ!」

 

 二人が和やかな雰囲気を醸し出そうとしていることに余程腹が立ったのか。

 最初に少年を怒鳴った兵士が、手に持った鞭を思い切り振り被った。

 併し、

 

「おい、雑兵」

 

 “メルキゼデク”が一度だけ睨み付けると、その手は止まった。

 特別何かをしたというわけではない。異能や魔術といった神秘はまるで関係ない。

 王気(オーラ)だ。ただ、圧倒的なまでの存在感。

 その為に竦んで動けなくなった。

 

「今、一体どっちを打とうとした?」

「ヒィ!」

 

 喉が干上がり、声が出せない。

 それどころか息の根までもが止まりかける。

 周りの兵士達も、一歩たりとも動くことが出来なくなった。

 

「俺を打とうってなら構わねぇ。嗚呼、俺としちゃ出来る限り救ってきたつもりだが、テメェらにとっちゃそうでなかったんだろうよ。甘んじて受けてやる」

 

 大衆の面前だというのにも関わらず、兵士は泣きはらし、失禁した。

 生まれて初めて心の底から震えあがった。また、こんなものに相対する運命があるなら自分はこの世界に生まれ落ちるべきでは無かったとさえ思った。

 母の血、父の精も恨めしい。

 

「だがな、俺の友達を傷つけてみろ。“手前の敵が右の頬を殴ったなら、左の頬を差し出せ”ってハナシは撤回させて貰うからな」

 

 その言葉の意味は、兵士にも分かった。

 『目には目、歯には歯』という教え通りにするということである。

 だが、分からないのは“ユダヤ人の王”にとって、この少年がどれほどの価値を持つかということ。

 

「ハヒィ……わ、わひゃりまひた」

 

 兵士は耐えた息と、全身の筋肉が弛緩した為に上手く回らなくなった呂律で、少年に武器を振るわないことを誓う。

 すると、“メルキゼデク”はにぃと口角を吊り上げた。

 

「ああ、分かれば良いんだ、分かれば。テメェもその濁った目ン玉、もっと真っ白にされたかねぇだろう?」

 

 そんなことをするつもりだったのか、また如何してこの男は自分が盲(めくら)になりかかっていることを知っているのかと、兵士は恐怖を一層に高める。

 そして、この男は奇跡を以て盲目の男を癒したとされており、若しかしたらその逆も出来るのではないかと疑い、最早足腰からの力すら失せた。

 兵士達は、腰が抜けた兵士に駆け寄り、肩を貸す。

 そんな彼等に、“王”は微笑みかける。

 

「テメェら良いヤツだな。仲間が傷ついたらそんな風になれる」

 

 兵士達は目を見開いた。

 それは思ってもみない言葉であった。この“ユダヤ人の王”への罪が決まった時、兵士達は総督に命ぜられるが儘に、鞭や棒で散々に打ち付けた。

 恨まれても当然のことをしたのだ。故に、この男には兵士達をわざわざ持ち上げる義理もそれによって発生する得もない。

 だのに、如何して救世主と呼ばれたこの男は、そう言うのか――。

 それは、心からそう思っているからに他ない。

 

「だからさ、友達ってヤツの暖かさも、大切さも、分かる筈だよな?」

 

 少しだけ、友と話す時間をくれ。

 言葉の裏側にある、救世主のほんのささやかな訴えに気が付くと、兵士達と物見をしていた街の人々は突然、落涙した。

 この男が受けた仕打ちを知ってそれでなお、最後の願いがあまりにも小さすぎたからなのか、それとも本物の救世主が世界から失われたことを本能的に感じてなのか。

 それは分からない。或いは両方かもしれない。

 

「……心ゆくまで話すと良い。貴方の友と」

 

 鞭を振るおうとした兵士とは別の兵士が、涙と鼻水とで汚れた顔を皺だらけにして答えた。

 

「ありがとな」

 

 “メルキゼデク”は首を垂れる代わりに微笑みを返し、今度は腰が抜けた兵士の前に自ら跪いた。

 

「……なんだ」

「いや、さっきは脅して悪かったな。ムカついたとはいえ、流石に遣り過ぎた。ごめん」

 

 その言葉に、目が濁りかけた兵士は、目の次は耳までおかしくなったのかと自分を疑う。

 死にゆく者の言葉ではない。況して、自分に対して狼藉を働いた者に対して掛ける言葉でもない。

 一体この男はなんなのだと、よく見えない目で男の顔を見つめる。

 盲の兵士は、男の謝罪を受け入れ、また自分も友を傷つけようとしたことを謝るべきかと考えたが、恥をかかされた手前もあり中々言い出せず、押し黙った。

 

「……何も言わなくて良い。何が言いたいかはなんとなく分かるから」

 

 男が抱く、極ありがちな対面を取り繕いたいという詰まらないプライドを、それでも救世主は是とした。

 

「迷惑かけた序でによ、テメェの目、治してやる」

 

 兵士は今度こそ、自分が耳の病気にもなったと思い込んだ。

 然も、自分の目の曇りが物理的なものだけだと仮定するのであれば、自分も散々に打ちのめした“ダビデの子”は、本気で何も知らない兵士の身に起こった不幸に憤り、また何とかしてやりたいと思っている。

 不思議と、頬が湿るのを兵士は感じているだろう。少年の目を通じてこの光景を見ている少女はそう思った。

 

「俺が死んだらよ、俺の体を槍で突くと良い。そうすりゃ、テメェの目は一発で治らぁ」

 

 そう言い残し、“メルキゼデク”は立ち上がり、友との最期の会話に臨んだ。

 

「ンで、テメェ何しに来たよ、靴屋。さては、この冠が欲しくなったか?」

「ごめん、冗談に付き合ってやれる気分じゃないんだ」

「ケッ、辛気臭い話かよ。今から死にに行くつーのに余計気落ちさせる気かね、テメェは」

 

 “メルキゼデク”はそう言いつつ、地面に血液交じりの痰を吐き出す。

 極めて悪漢めいた振る舞いだが、平素のこの男はいつもそうなのだろう。別段、少年は気に留めるでもなく本題を切り出す。

 

「君に苦言を呈しに来た――というか、はっきり言うと止めに来た」

 

 その言葉に、“メルキゼデク”は不快そうに眉を吊り上げた。

 

「……テメェ、何が言いたい?」

「こんな方法じゃ、人間は救い切れない」

 

 少年ははっきりと、“メルキゼデク”の目的を知った上で断じた。

 

「……人間が滅ぼす悪を――原罪を、君はたった一人で引き受けるつもりだろう?」

「テメェ、何でもお見通しかよ」

 

 はぁと、“メルキゼデク”はうんざりと言わんばかりの顔で深い嘆息をする。

 

「じゃあ、分かってんならよ。止めんな」

「止めるよ! 友達が犬死するって言ってるんだ! 止めないわけないだろ!」

 

 有らん限り、少年は叫んだ。

 天穹が打ち震えるほど、強く、強く、強く、想いを乗せて。

 

「犬死に……だと?」

「だってそうじゃないか! 分かってるだろ! たった一人君が戦った所で、原罪は人間を追いかけて来て殺す! 殺し尽す! 余すことなく! 総てだ! 君がやろうとしているのは、それを近い未来から遠い未来に先延ばしにするだけのことだろ!」

 

 少年の目には、滅びが見えている。

 過去から遣って来る“滅び”、現在どこかで起こっている“滅び”、そして未来に起こるであろう“滅び”。

 そして、その眼は近い内に人間を滅ぼす“原罪”の到来を予見していた。

 また、それを“メルキゼデク”も見ていた。

少女に流れ込んで来る少年の記憶が、“メルキゼデク”という男の彼が知り得るあらゆる事実を伝える。

 そしてその事実の一つが“プロヴィデンス”であった。あらゆる事象、あらゆる存在、あらゆる時代、あらゆる次元を観測する全能ともいえる目はそう呼ばれ、そして彼を慕う人々に讃えられていた。

 屹度、少年以上にこれから起こる“滅び”を、“メルキゼデク”は理解していたことだろうと少女は思った。

 

「……それが何になるってんだよ。そんなことの為にさ、人間を――君も僕も大好きな人間を辞めることないだろ」

 

 少女は頬に、冷たさを覚えた。

 目線が地面に映った。

 ポツリ、ポツリと雨粒が数滴。否、雨粒ではなく、少年は泣いているようだった。

 少年は人間を愛している。元々、非人間的な生き方を強いられる生まれでありながら、その瞳で滅びゆく人間をたくさん見て来て、それで人間が好きになったのだ。

 滅びの中にあって尚も強い人間を。滅びに打ちひしがれ当然弱い人間を。

 それは、少年とは生まれた場所を違いながらも、けれど生まれた時から目と目が合って共に生きていた“メルキゼデク”も同じ筈だった。

 好きになったから、少年も“メルキゼデク”も人間になりたいと思った。そして、やっと人間になれたと確信を得始めた所だったのに――。

 ある日から、“メルキゼデク”はおかしなことを始めた。非人間的な奇跡を振りまき、人間を救い始めたのだ。

 病人を癒し、孤独を癒し、化け物と呼ばれ墓場に繋がれた人の魂を癒し――片田舎の少女を竜とも戦える英雄へと導きさえした。

 そして、その極めつけに、今度は人間を辞めようと言うのである。

 

「考え直せ。どうせ、最後には滅びが待ってる。ならいっそ僕等は――」

「ウルセェ、靴屋!」

 

 友の訴えを、“メルキゼデク”は一蹴した。

 そして、ギリギリまで顔を寄せ、友と同じく叫ぶ。

 

「未来がどうとか、どうせ滅ぶとかそんなん関係ねぇ! コイツらは“今”生きたいって思ってんだよ! だったら助けてやりてぇだろ! まだ手が届くんだぞ! 拳はまだ上がるんだぞ! ならやるしかねぇだろ! 俺が行って、闘(や)ってくるっきゃねぇだろ!」

 

 “メルキゼデク”の瞳は、燃えていた。

 信念と、人間愛に。

 少年はその思いに震え、遂に言葉を失った。

 長い、沈黙が流れた。

 

「……そういうわけだ。俺は行くからお前は待ってろ」

 

 そう告げた声に何処か辛さが滲んでいたのは、自分の選択が友を傷つけると自覚しているからなのか。

 

「話は終わりだ! 連れてけ!」

 

 ぞんざいに言い着ける“メルキゼデク”に困惑しながらも、兵士達は彼を取り囲んだ。

 

「……×××××××、お前と会えて本当に良かった」

 

 その言葉が本当の別れとなった。

 そして、世界は救世主を死へと連れていく。それに伴い、街から人も消え、皆、されこうべの場所に向かっていく。

 そして、人の気配が一切失せた寂しい街だけが残った。

 

「馬鹿野郎……ここで待ってろなんて、寂しいこと言うなよ」

 

 少年は独り言ち、空を見上げた。

 幾許かの黄昏を残していた空は愈々、夜のような暗さになった。

 まだ昼なのに。

 それは、まるで一人の人間の死を惜しむようであり、一人の神の誕生を歓ぶようで、少年はなんだかとても厭な気分になる。

 そして、多分その原因は勝手なことばかりを言い残した友人の所為でもある。

 

「僕も、一緒に行くよ」

 

 少年は決意する。

 ――人間になりたいと、思っていて。

 ――人間になれたと、喜んで。

 ――人間として、彼と生きたくて。

 ――人間を、救うと言った彼の言葉に。

 ――人間だから、動かされた。

 願いは、変わった。一人の友の所為で。一人の友のお蔭で。

 未練はあるが、それ以上にこの思いを叶えたい。

 故に少年は、口ずさんだ。

 

「ポェタア、コテアパツクァクォチ」

 

 生まれ堕ち、そして嫌った非人間の家の非人間に受け継がれる、非人間の呪文を。

 少年は世界と契約し、永劫人間を守る為に“人間を辞める”のである。

 その時だった。

 

「そこまでする価値は分からんが、その決断、悪くはない」

 

 ――何処かで、傲慢な王が少年を讃えた。

 

「その道はとても辛い道だよ?」

 

 ――何処かで花の魔術師が、嬉しそうに彼に忠告した。

 

「それもまた良哉」

 

 ――何もかもをそのように受け取る碩学が、いつものように肯定した。

 

「まぁ、頑張れ」

 

 ――他人事のように、畜生腹から生まれた陰陽師が激励した。

 

「別に、これといって特に言うこともないかな?」

 

 ――最後に聞こえたのは、魔術の王の何処までも無関心な言葉だった。

 

 こうして、この日、世界にとって最も都合の良い掃除屋が誕生した。

 




 本編に出てきたのは、まぁ勿論あの方です。
 ……二次創作とはいえ、これ、エルサレム以上にヤバイ案件だわ。
見た目は髪がアルビノで髪がふわふわなロン毛のダビデって感じです。あの方なので。
 そして、あの方にはあの方なのですが、それ以外のモチーフもあります。(分かる人いるかな?)

 あと、途中で出てきた謎言語は一応解読方法があるので、暇があったら考えてみてください。

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