東方供杯録   作:落着

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温もりを求める少女に供する五杯目

 扉が閉じる。もはや通路の音も様子も何もわからない。意識の中から侍女の事を外す。改めて見渡せば今店主がいる部屋は広い部屋であった。もはや外観と合わない部屋の作りはこの館の特徴かもしれないなどと思考が遊ぶ。

 本当に暴れることを想定して作られたのであれば、これから降りかかる暴威が嫌でも想像できた。いや、想像の埒外であると解ってしまう。行き過ぎた脅威が原因か店主はこれからくるであろう危機に実感を持てなかった。

 なるようにしかならないと諦観さえ浮かんでいる。せめてどうにか話し合いまで出来る状況に持っていくことはできないだろうか。言葉が届けばあるいはと思考に前を向かせる。助けたいと傲慢にも思ってしまったのだから。

 

「あはぁ」

 

 思考を巡らせていた店主の耳にあどけない少女の声が届く。薄暗い部屋の中央、瞳を凝らせば金の御髪が僅かな光を弾いていた。

 

「こんなところでどうしたの?」

 

 だだっ広い地下室の中央付近の床へ座り、店主に背を向けていた赤い服の少女。扉の開閉音で入室に気が付いたらしく、コテンと背中を倒して仰向けの姿勢になり頭だけをこちらへ向けている。

 少女の姿に店主はひっくり返したたれぱんだみたいだとぼんやりと危機感無く思った。愛らしい仕草に思わず笑みがこぼれる。首が疲れたのか、寝返りを一度うち立ち上がった少女が正対する。

 立ち上がった事で少女の背中に翼がついているのが分かった。姉の蝙蝠の染みた翼とは違い、骨組みに宝石が垂れ下がっているような奇妙な形をした翼。少女の動きに合わせて翼につく宝石がキラキラと光を反射している。

 絶えず揺れ動く宝石に落ち着きのない子供を連想して笑みが深まる。しかし部屋へ入ってから絶えず香る鉄錆の臭い。鼻につく匂いが目の前の光景をひどく不気味な物へと変える。死体の地面に咲く花の絵画のような歪で不安を煽るアンバランスさ。

 血の跡がどこにも見当たらないのに届く強い香り。瞳を閉じれば血の池に立っているのではないかと錯覚してしまいそうな程だ。それほどまでに血が染みついた、吸い続けた部屋。

 嫌でも分かってしまった事実に店主は想像を肯定された。興味に瞳を光らせた少女が見た目通りの可愛らしい子供ではないと。彼女もまた超級の怪物だと。

 

「ちょっとした頼まれごとをしてね。それを果たしに来たのさ」

「お姉さまに言われて来たのね、うふふ。遊んでいいのね、私」

 

 引きちぎられたぬいぐるみを片手に歓喜を表す。言葉や仕草は微笑ましい。癒されそうなほどに愛らしいはずなのに店主の寒気は止まらない。

 身に降りかかる威圧は姉の吸血鬼を超えているように思えた。店主にはどちらも高み過ぎて本当の所は分からない。けれども意図的に威圧を放っていた姉と無意識で振りまく妹の威圧に差が感じられない。ならば妹の方が上なのかもしれないとの考えに自分の中から否はでなかった。

 

「そうだね。君のお姉さんに君の相手をするように頼まれたんだよ」

「ふふーん、暇で暇で死にそうだったんだぁ」

 

 無邪気に微笑む少女の笑顔に死の恐怖を感じた。だが話は出来そうな雰囲気に店主は安堵して小さく吐息を漏らす。張りつめていた身体から力が僅かだが抜ける。

 このまま話をひき伸ばして能力で少しずつ落ち着かせていければいい。色々と話を聞くことも可能だと光明が見えた。頭を過ぎ去った死への予感を押さえつける。

 

「じゃあ、一緒に遊んでね」

「何して遊ぶんだい」

「おもちゃ遊び」

「そうか。じゃあどのおもちゃを使お──」

 

 部屋に散らかっている元人形と称する物達へ視線を彷徨わせて問い掛けた店主の声が詰まる。少女が抱いていたぬいぐるみが腕の中で押しつぶされてひしゃげて綿を吐き出す。残骸が床に落ち、少女は地を離れ宙へ浮かぶ。

 世界が鮮やかに彩られる。明かりが灯った訳ではない。浮かぶ少女を彩るように無数の妖力弾が生成されたのだ。数えることも億劫になるほどの馬鹿げた色とりどりの弾。店主の表情が自然と引きつる。頬のこわばりを自覚した。もはや笑みを作る事さえ敵わない。

 人形ごっこで遊びながら落ち着ける。なんと馬鹿げた、そして甘い考えだったのだと思わざるを得ない。数秒前の自分を殴り飛ばしたいと反射的に思ってしまう。咄嗟にリュックを壁際へ向けて投げつける。

 

(狂っているとは……本当の狂気とは、こんなにも悲しいモノなのか)

 

「おもちゃはあなたよ」

「はは、そう、かい。それで次はどうするんだい?」

 

 喉がひきつりうまく言葉を吐き出せない。能力で抑えられるといっても権能の及ぶ範囲ならなんでも瞬時にできるわけではない。

 

「おもちゃのお人形が逃げるから、私が的当てするのよ。だから、がんばって私を楽しませてね」

 

 人形劇の開演を知らせる弾幕が降り注いだ。彼女の背後に控える夥しい量の妖力弾が停滞の戒めから解き放たれる。

 視界を埋め尽くさんと迫りくる壁のような弾幕。幸いと言ってしまっていいのか疑問は残るが、迫りくる弾幕の速度は店主の目でも追える程度であった。明らかな手加減。しかし少女の善性に寄るところではなく、少しでも長く遊びたいという意図からだと容易に分かった。

 状況を理解できても店主に選択肢などない。彼に出来ることは目の前の破壊から逃げ延びる為に全力を尽くす事だけ。視線を巡らせすり抜けられそうな場所を探す。

 

「あれれ、お人形さんは飛ばなくていいの?」

「私は飛べないからこの足で頑張るさ」

 

(あぁ、くそ!!)

 

 話し合いの前にまず彼女に自身を人形ではなく、一つの人格を有する個人であると認識してもらう必要があった。茶の席について談笑するなどと夢のまた夢。前途多難な事態に店主が内心で悪態をつく。迫りくる弾幕に僅かな隙間を見つけて走り出す。

 

「ふーん、あんまりあっさり終わるとつまんないから、ダメだったら罰ゲームだからね」

 

 走り始める店主の背中へ少しだけ落胆を含む声が掛けられた。罰ゲームの前に当った時点で死ぬのではないかとも思えるが、少女の中では考慮外なのだろう。だが店主に抗議を上げる時間などない。目の前の状況を変えないかぎり彼に出来ることはなにもない。

 走る、走る、走る。時に転がり、滑り込んでは部屋の中を逃げ続けた。特注の部屋でよかったと彼は部屋の製作者に感謝の念を送る傍ら、目前に迫った妖力弾の隙間を滑り込みながら避ける。

 加減をしているのか部屋が頑丈に過ぎるのか正確な所の判断は付かないが、妖力弾が床にあたっても弾けた床の破片で怪我をすることがない。

 もしこれが普通の地面であったのならすでに死んでいてもおかしくはなかった。破片に切り刻まれたボロボロの姿を幻視する。目の前から飛んでくる小型の妖力弾に対し上体を逸らしてやり過ごす。

 

「あははハハはハははは、すごいすごーい。飛べないのに頑張るね、お人形さん!!!」

 

 そろそろ勘弁してほしい。爆発しそうな心臓の鼓動に弱音を吐きだしたかった。もはや十代のころの若さはない。自らの体力の衰えが恨めしく感じられる。

 飛んだり跳ねたり走らされたりと身体の限界が近づいていた。それでも疲労の溜まる身体を懸命に動かして抗う。

 幻想郷に来てから野良の妖怪にあった時のためにと、ランニングをして鍛えていなければとうの昔に力尽きていたと馬鹿なことを考える。

 

「ほらホラ、アブナイヨぉ」

 

 ここまで逃げ回れば馬鹿でもわかる。わざと逃げられる隙間が作られていることに。すり抜けた直後に一瞬だけ呼吸と周囲を見渡せる余裕が存在していることに。

 作られた避けられる隙間に、僅かな時間。詰将棋の駒にされた気分であろう。むろん駒である彼に状況を変える方法などない。

 ハイペースで繰り返されるシャトルラン。追い立てるように迫りくる妖力弾。終わりのない迷路。

 気力が尽きるまで繰り返されるとしたら冗談じゃない。店主は内心で悲鳴をあげていた。声に出して酸素を無駄にする余裕はない。話す以前に語りかけさえできない。状況は悪化の一途を辿る。

 

「ッ、ハァ!」

 

 息苦しくて肺が新鮮な空気を求め息を吐きだした。結果、本人の意図しないタイミングで行われた呼吸。一瞬だけタイミングがずれ、足並みも乱れた。視線の先で塞がりゆく出口。

 

(まずい、塞がる)

 

 危険だと思考が警告する。頭から転がりこみながら飛び込む。妖力弾が今までで最も身体のすぐそばを掠めていく。

 ねじ込みながら飛び込んだ身体は、ろくに受け身を取れず床へと打ち付けられた。硬い床がぶつかった勢いをそのまま衝撃として疲れ切った身体に返す。息が詰まる。

 

「つぅ! ……はぁ、はぁ」

(次の……出口を、探さないと)

 

 何度も繰り返されたことを反射的に実行する。しかし能力で疲労を落ち着けても結局は酸素が足りないのだ。

 疲労を麻痺させても、感じないだけで体機能の低下は防げない。

 店主の動きは明らかに精細を欠いていた。思考も最初の時ほど明瞭に働かない。だからこそ店主は気がつけなかった。

 

「アハァ、つかまえたァ」

 

 出口を探す店主の耳へ、少女の楽しげな声が聞こえた。届いた声と同時に拳大の妖力弾が視界へ飛び込む。当たると店主が身構える隙もなく妖力弾がその身を捉える。

 

「がぁ──ぐぅ!!」

 

 一発目が腹部へめり込む。足が止まり「く」の字に身体が折れた。突き出した上体の顔へ次弾が当る。顎を殴りあげられたように顔が跳ねあがった。

 晒した首元へ三発目がめり込む。そして倒れるまでの僅かな間に数えるのも馬鹿らしくなるくらいの妖力弾が次々に身体を打ち据えていく。

 

「あがァ──がぁ、ぐぅううぅぅ!!」

 

 店主の視界は頭部への衝撃で明滅して意識が一瞬途切れた。

 直後に背中から倒れたことにより、後頭部を打ち付けた。後頭部への衝撃で意識を再び取り戻す。

 大の字で倒れて伸びきっている身体のあちこちが痛みを訴える。苦悶に表情が歪む。

 だがどこも折れていない。骨の一本たりとも折れていなかった。その事実に店主は胸が締め付けられる思いがした。

 彼女がいかに人を壊し慣れているのかを雄弁に物語るからだ。彼女はどの程度で人が壊れるかを熟知している。

 拳大の妖力弾の一発一発は成人男性に殴られる程度の威力だった。すぐに壊れないよう丁寧に、丁寧に、加減されていた。

 なんて悲しい知識だろうか。彼女はきっとこれしか他者との対話の手段を知らない。誰かといる時間を少しでも長くするために覚えた技術。

 自身の想像に心が冷える。置かれた孤独を想像してしまう。彼女の境遇が酷く悲しかった。

 

(助けないと……この子を)

 

 身体の痛みを能力で落ち着け麻痺させる。店主が立ち上がると少女が歓喜に満ちた声をあげた。

 

「うふふ、じゃあ、ワタシもがんばっちゃうネェ!!」

 

 喜色に富んだ言葉とは裏腹に無慈悲な宣言。勘弁してほしいと出しかけた言葉を呑み込む。自分はメロスではないのでこれ以上の困難は困るのだ。

 冗談を考えて気持ちに余裕を持とうとした。そして世界が切り替わる。妖力弾の密度が、速度が、軌道が変化してゆく。

 自然と足が動きを止めていく。これは躱せない。隙間が、出口が、見つけられない。目の前の事実を前に身体が動かない。

 

「どォしたのぉ! もっと! もっと!! もっとォオ!!! ワタシと遊んでよォ!!!!」

 

 足を動かさない店主に少女が怒鳴りつけた。荒げられた声が、叫びが、怒っているようにはとても聞こえなかった。独りぼっちな女の子の寂しげで、悲痛で、助けを求める悲鳴に聞こえた。

 

「そう、だね。独りは、さみしいよね」

 

 五百年近くもこんなことを繰り返していたのだろう。危険だからと他者と触れ合う機会は奪われ、時折与えられる玩具へ溜まったうっぷんを晴らすために破壊を振り下ろす。そんなことを繰り返せば、精神が摩耗して気も狂うだろうに。今にも壊れそうな少女(目の前の幻想)を助けたいと心が囁く。

 だからこそ諦めるにはまだ足掻き足りない。出来ることはまだある。店主には過去、藍という妖怪に手伝って貰い習得した能力の応用があった。先ほどは咄嗟の出来事で使えなかった。

 妖力弾は固めた妖力が空間に存在しているものだ。それならば妖力弾とは高まったエネルギー体といえる。それを能力で落ち着ける。

 つまるところ、何もない通常の状態へとなるように高エネルギー体を落ち着け鎮静する。能力の応用、高まっているエネルギーを落とし鎮めて平静へと導く。

 結論は自らにあたる妖力弾だけを消していく。

 

「すごいすごいっ! そんなこともできるんだね、お人形さん!! ねぇ、もっともっと見せてよ!!!」

 

 弾幕の圧力が増していく。ただ耐え、ひたすらに耐え、高ぶった力場を落して鎮める。弾が一つ消えるたびに少女との距離を狭めていく。

 走り回り、妖力弾に殴り飛ばされて離れた彼女との距離を詰めていく。一歩、また一歩と彼女へ近づく。

 消耗の激しさを店主は実感していた。紫が言っていた通りだと痛感する。能力とはそれを持つ者にその範囲の事柄に対し、支配する権能を与える。

 ゆえに、本来なら人や妖怪が努力ではたどり着けない領域の事柄でさえ操れる。空間を裂き、時さえも操る。

 操る事象に関して基本的に妖力や霊力は消費されない。なぜならば、能力とは生まれ付き魂に刻まれたものであり自身の手足と同義なのだから。それ故、自然と誰に学ぶでもなく操れる。

 見えないものであるがゆえに、すべてを把握しきれないという問題もあるが手足だって同じだ。表面は見えるが内部の細かい機能などは把握しているものはあまりに少ない。

 そしてその法則が故に、飛べるほどの霊力さえない店主でも能力を扱えるのだ。力の弱い妖怪でも能力があれば、権能が魂に焼き付いているがゆえに、確固たる存在としての人型を形作ることもできる。能力とは、世界へ直接干渉する力である。

 

「くっ、はぁはぁ……つぅ」

 

 しかし消費がないのは基本的な使い方をするときだけだ。基本的ならば疲れないし、疲れても疲労と回復がつり合う。

 十何キロも歩き続けられるのと一緒だ。だが応用するような使い方はそうはいかない。応用した使い方とは重い物を持つことや走り続けるようなものだ。

 ゆえに、応用によっては長くはもたないし精神が、体力が摩耗していく。むろん、訓練や修行によって干渉できる範囲や規模も上がり負担も減らせる。

 さらに霊力や妖力があれば代用も効かせられるだろう。だが生憎と店主にはそんな高尚な物はない。

 その上、店主は能力の修行をするようなこともなかった。幻想郷へ来る前、藍に師事して修行をして以来一度もない。

 

「うふフフふふ、あ、はっはっはハは、まだ、コワレナイ、はハはははハハ」

 

 彼女の浮かぶ足元近くまでたどり着く。だがそこが限界だった。もう立っていられないと膝が折れた。店主の呼吸音は先ほどからずっとおかしくなっていた。

 ぜいぜい、ひゅうひゅうと喘鳴がして呼吸が安定していない。血が滲み汗がながれ、服が張り付く。

 先ほどから走り通して数多の妖力弾に殴られ、その上この負荷だ。店主の心身はとうに限界を超えていた。

 

「すごいすごい、がんばったね、お人形さん♪ でも、もうコワレそうかな?」

 

 店主の様子にこれ以上は本当に無理そうだと少女は察して弾幕を止める。彼女の喜悦を含む声には何処か寂しげな色が混じっていた。

 

「もうおしまいかな? じゃあ」

 

 少女が掌をゆっくりと持ち上げていく。開いた掌が店主へ向けられていた。ゾクゾクとした止まらない嫌な予感が店主のなかを這いずりまわる。警告されていた内容と目の前の光景が一致している。

 店主にはもう動くほどの体力がない。少女は手を握るだけで店主を壊せる。

 なるほど、反則すぎる上に強力な能力だと納得した。

 

「ご褒美に、ワタシが直接コワシテ、ア・ゲ・ル♪」

 

 どう動いても逃げられそうにないと察してしまえた。だが見上げればすぐ傍に彼女がいる。自分の声が届くならきっとこの瞬間だけだと店主は思う。だからこそ、それに賭ける。己の命さえもベットする。

 

「最後に、一つ、いいかな?」

「なあに?」

 

 まだ動きを見せる店主に興味があるのか。

 はたまた、自らではどうしようもなく、持て余した衝動を止めて欲しいのかはわからない。

 けれども少女の動きが止まる。少女の瞳に、嗜虐と切望の色が見えた気がした。

 

 

  さぁ覚悟を決めようか、私よ

  この子の姉に頼まれたではないか、相手をしてほしいと

  紅茶の彼女に言われたではないか、出張営業をしてほしいと

  ならば、ここで一席設けようではないか

  彼女のための、特別な一杯を供する一席を今この場に設けよう

 

 

 自らを奮い立たせるように店主は心で叫びをあげた。覚悟を決めれば後は実行に移すだけ。全てを賭した店主が笑みを浮かべる。

 

「私の血を、飲まないかい?」

 

 言葉と共に店主は自らの首筋をさらけ出す。持ち上げる事さえ億劫な右腕は酷く緩慢ではあるが自身の意思に従ってくれた。襟首を掴み肌を晒す。

 少女の表情が驚きに染め上げられた。まるで理解できない生き物を見るようだ。

 

「吸血鬼にしてほしいってこと?」

 

 何処か落胆しているような声色だった。

 

「いいや、違うさ。ただ食事として提供しているだけだよ」

 

 続けられた言葉はさらに理解できないものだった。少女の口がぽかんと開かれる。

 

「……どおして?」

「こう見えて私は飲み物をお客さんに出すのが本職なんだよ。だからね、最後は自分の仕事をして締めくくりたいと思ってね」

「…………」

「それに、お姉さんには君の相手をするための出張営業を頼まれたんだ。ここに来てからまだ一人にしか飲み物を提供できていない。これじゃあ、私の仕事人としての誇りにかかわる。だからさ、最後にもう一度聞くよ。私の血を飲まないかい?」

 

 疑問で埋め尽くされている少女の表情からは答えが読めない。これが最後の賭け。血を直接飲むのなら能力が少女に届くかもしれない。自身が入れた飲み物にも、人を落ち着け安心させる力がある。ならば自身の血液には十分以上に可能性はある。

 

「……いいよ、私が飲んであげる」

 

 空に浮く少女が近づいてきた。疲労困憊の店主は跪いているような体勢だ。目の前に降り立った彼女の身長からすれば実に噛み付きやすい高さに店主の首筋がある。彼女と至近距離で視線が合う。少女の瞳は何かを求めるように小刻みに揺れ動いて弱々しい光を宿している。

 

「ほら」

 

 短く促して店主は首筋を再度差し出す。眼前の行動に背中を押されたのか少女が口を開き店主の首に噛み付く。吸血が始まった。

 ここからが勝負だと気合を入れる。彼女を落ち着けるのが先か、自分が貧血で意識を失うのが先か。

 

(ここが分水嶺)

 

「どうかな? 自分の血液がおいしいかどうかはわからないけど満足してもらえそうかな?」

 

 問いかける店主に少女の頭が頷くように身じろいだ。依然、吸血は継続したままなのだ。血を飲んでいる彼女の身体が小さく震えていることに気が付く。彼女の身体に店主がそっと手を回し抱きしめる。自身の体温を分け与えるように優しく包み込む。

 

「大丈夫、さみしくないよ。私はここにいるから」

 

 穏やかに言い聞かせながら店主は頭を優しくなでる。その様子はまるで親が子にするように愛情の籠った優しい手つきだ。

 少女の手が店主の服をギュッとつかむ。吸血の速度が低下していった。彼女が首に噛み付いているため、店主と少女は遠目にはハグをしてるように見える。

 

「いなくならないから、そんなにさみしそうにしなくていいよ」

 

 吸血が静止した。

 

「ずっとずっと独りでさみしかったよね。どうしていいか分からなくて、でもどうにもできなくてもどかしかったよね」

 

 店主は耳元から鼻をすする音が聞こえた。

 

「自分の思いが誰にも届かないの悲しいよね。私が聞くから安心してよ」

 

 首筋から牙が離れて少女の口から嗚咽が洩れる。

 

「大丈夫、私がいる。一緒にどうすればいいか考えよう。私は君の味方だよ」

「うっ……ひっく、うう……わ、わた、し……どうしたら、みんな、と」

「一緒に私と考えよう。でも今は思い切り声をあげて泣いていいんだ。我慢なんてしないで全部吐き出しなさい」

 

 言葉を紡いでいく。抱きしめる腕に力を込める。頭を抱える右手はぽん、ぽんと一定の間隔を刻み赤子をあやすように優しく撫で続ける。

 触れ合った場所から体温が移る。感じる温もりが心の中の凍えた部分を溶かしていく。嗚咽が次第に大きくなり、哭泣となり部屋へと響き渡る。

 彼女が泣き疲れて眠りに落ちるまで店主は少女をあやし続けた。

 

 

 

 

 

 

 久しぶりに気持ちよく眠れた気がする。なんだろう、いい香りがする。眠りに落ちる前にも嗅いだ記憶のある、安心する香り。

 思い出した。部屋に入ってきた人で遊んで、その人に、その人は私が本当に欲しかったものをくれた。

 頭が覚醒する。瞳を開けると眠る前に温もりをくれた人の顔が見えた。膝枕をしてくれているみたいだ。触れている部分からまたじんわりと温もりを感じる。

 視線の先のその人は何かを飲んでいる。その光景に安堵した。目が覚めたらいなくなってたらどうしようなんて考えていた自分がおかしかった。

 クスクスと笑いが漏れる。それで私が起きたのに気が付いたみたい。

 手に持っていたカップを床へ置く。穏やかな彼の瞳が私の瞳と重なり合う。

 

「おはよう、気分はどう?」

「すごく、幸せ」

「それは良かった。ああ、そうだ忘れる前に。私は白木涼介。好きに呼んでくれて構わないよ」

「しらき、りょうすけ……ふふ。私はフランドール・スカーレット。フランって呼んでね、お兄ちゃん!!!」

 

 

 


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