ある日の午後、店で足りなくなったものを里へと買い出しに出た涼介が買い物を終えて帰路についている。傍にはハルもおり二人仲良くお出かけといった所だ。
「さてさて、今日はこのあとのんびりしようか、ハル?」
涼介が買い物袋を抱えながらハルへと声をかける。ハルも返事をするように短く鳴く。涼介が鈴奈庵で借りた本でも読もうかなと思いながら足を進めていると不意に視界が闇へと染まる。前触れなく突如訪れた闇に涼介は足を止める。軽く声を出してみれば音も聞こえない。なるほどと、理解が涼介の中に宿る。
「サニー、ルナ、スター。あまり悪さをするのは感心しないな」
そう声に出して叫んでみせる。無論未だ音は消えているために涼介にはどれ程の声量であったのか自分でもわからない。けれども、少なくとも音を消している張本人である月の光の妖精、ルナチャイルドへは伝わっている。けれど反応に変化はない為にため息をつく。
「まったく……仕方ないか」
涼介は何も見えない闇の中で一度ぼやくと、荷物を足元へとおく。腕に巻きつけ普段は邪魔にならないようにしている鎖をダラリと垂らす。
「さて、試してみようか」
言葉と共に能力の範囲を広げる。飛べないようにする為に影響下へと置く範囲を拡大する。疎める事に長けた萃香の能力を借り訓練を行った結果、以前よりもずっと広く能力を広げられるように涼介はなっている。
「これくらいが限界か。さて」
広げきると同時に涼介が鎖をつけた右腕を大きく後ろへ逸らす。音と光のない世界の中で、自身の触覚が鋭さを増し、鎖の揺れを知覚する。
「せー、の!!」
掛け声と共に腕を薙ぐ様に振るう。鬼の鎖が腕の勢いにつられ空間を走る。
――伸びろ
鎖を意識し念を送る。涼介の意思に鎖が応じ、その長さを増す。鬼の宝の伸縮自在の鎖が里と涼介の店の間にある平原の中で横薙ぎに地を駆ける。鎖に何か触れると、巻き取る様に鎖が蠢く。手に伝わる感覚だけを頼りに強く腕を引く。能力で重量を落とされた何かが涼介の引く手に合わせて釣り上げられる。
「うきゅ!」
押しつぶされる様な声と共に涼介の耳に音が戻る。涼介はその事でとらえた者がルナチャイルドだと理解する。すかさずハルへと声をかける。
「ハル、サニーを――」
言い切る前にハルの駆ける音が耳へと届く。暗闇の中、見ることはできないがその頼もしい姿を想像する。嗅覚を頼りにハルが日光の妖精、サニーミルクを捉えたのか視界に光が戻る。涼介は戻った光に一瞬目がくらむも、すぐさま視界は正常に働きだす。
「離せ、離せよー」
「うぅ、鎖が重い」
「あーまた駄目か」
ハルに咥えられて抵抗するサニーミルク、鎖に引き倒され脱力気味なルナチャイルド、残念そうに肩を竦めるスターサファイアの姿が涼介の眼前に広がる。いつも通りの光の三妖精の姿に涼介は思わず苦笑する。
「全く、飽きないなぁ」
「ほんとにそうだね、いつも涼介は楽しそう」
不意に背後から涼介の漏らした独り言に応える声が発される。驚きに、反射的に身体が振り向く。視界に入るのは緑色の帽子をかぶり、閉じた瞳に細い管の伸びた飾りをしている小さな少女。どこか虚ろで、何故かおぼろげに見える少女がそこにはいる。
「君は――」
誰だと問い掛けようとした涼介の脳内で目の前の少女が誰であったか思い出される。
いつもの様にお昼の繁盛期が過ぎ去り片づけを終える。一息入れるように自分へのご褒美と一杯の珈琲を涼介は入れる。一口飲めば疲れが吐息と共に抜ける。鼻腔を通る珈琲特有の香りに精神が安らぐ。
今日はこれから誰が来るのだろうかと涼介が想いを馳せる。夏に入り、風通しのために空けている窓から見える空を眺める。視界の遠くを横切る様に過ぎ去る点に、あれは誰だろうかと考える。
「さて、一息入れたし何をして待とうかな」
誰もいない店内に寂しさを覚えポツリと独り言が口をつく。ハルはふらりと散歩に出かけてしまったために珍しく本当に独りきりの店内。誰かしらがいつもいた様な気がする閑散としたフロアを見れば、涼介の顔に苦笑が浮かぶ。
――やれやれ、本格的に寂しがり屋をこじらせたかもしれないな
ふとそんなことまで考えてしまう始末である。思考を切り替えようとカップの中身を飲みきり洗い始める。小鈴の所で借りた本は読んでしまったし、はてどうするかと考えている涼介の耳に扉についた鈴の音が届く。カランカランと音を鳴らし来客を告げる。
「いらっしゃいませ」
水滴を吹く手を止めて、扉に身体ごと向き直る。扉の前には小さな少女が立っている。帽子をかぶり、目を瞑った様な飾りをつけた小さな少女。記憶にない彼女の姿に一見様だと涼介は判断する。
「はじ――」
初めて来店されたお客様へとかける文言を涼介は口にしかけて止める。涼介の瞳がわずかに見開かれる。少女がその様子にニコリと笑みを浮かべ口を開く。
「またきたよー」
気軽な調子で手をフリフリと顔の横で振りながら少女が笑う。つられる様に涼介も驚愕の表情が笑みへ変わる。
「やぁ、こいし。よく来たね」
涼介が少女をこいしと呼びかける。先ほどまではまるで見覚えのなかった少女に、涼介は親しい友人の様に声をかける。
けれど、何もおかしいことはない。現に二人は友人なのである。この邂逅もすでに片手の指では足りなくなっている。たとえ涼介が忘れていようと、たとえこいしと呼ばれた少女も意識をしていなかろうと二人は友人なのであろう。傍目からみた二人の間の空気がそれを分かりやすく示している。
「あ、思い出した?」
「思い出したよ」
「ふふー」
こいしが涼介の返答に満足そうに声を漏らし、涼介の目の前のカウンター席へと座る。何か意味があるのか、それとも無意識なのか椅子に座ったこいしの身体がふらふらと揺れる。柳の様に、先を垂らす穂の様に不規則に揺らめく。変わらぬこいしの様子に涼介が口元を緩める。
「相変わらず幻想郷中をふらふらしているのかい、こいし?」
「んー? んー、そうだよー。さっきまでおっきな水溜りにいたの」
「へぇ。やはり涼しいからかな?」
「うん。でも途中で青いのがどこかに行っちゃったからここに来たんだー。ここも居心地いいからついついぼうっとしていると流れてきちゃうの」
「それは嬉しい感想だね」
「あと涼しい」
こいしの続けられた言葉にクスリと涼介が笑いを漏らす。確かに温度を落としているために店内は適温で過ごしやすい。けれど、居心地が良いとは別に付け足したことから、それ抜きでもこの店を気に入っていると言われた様で嬉しいのだ。
「そっか。ゆっくりしていくと良いよ。喉は乾かないかな?」
「うん。あ、いいの?」
「構わないよ」
「私お金持ってないよ」
「今までも貰っていなかったよ」
「でもお姉ちゃんが払いなさいって言うの。置いておくだけでも良いからって。ん、そういえば渡されていたお金家に置いてあるんだ」
こいしが思いつくままに言葉を口にする。深く考える様子もなく、その場その場の出来事へ対応する様に言葉を続ける。このまま何も返さないとお金を取りに行くと言い、出て行ってしまうと涼介は過去の経験から学んでいる。
その時はそのまま帰ってこないまま三日が経ち、ふらりと姿を現したこいしが頼んでいた私の珈琲はと首をかしげていた。なお、帰ってきたこいしはやはりお金を持っていなかった。いわく、赤い屋敷と鴉の村があったとの事より、紅魔館と天狗の集落の辺りをふらついていたと涼介には推察できた。
がたりと席を立つ音に涼介は思考をやめる。視線を向ければこいしが扉に向かおうとしている。まずいと思いすぐに涼介は口を開く。
「お金は本当に構わないよ」
「でも、お金は払う物なんでしょ?」
「確かにそうだね。でも、仮にこいしが飲んでも私は忘れてしまうのだからお金は取れないよ。だって商品を売った覚えがないんだからね」
涼介の言葉にこいしの足が止まる。一拍置いた後にこいしが振り返る。いつもと変わらないニコニコと、けれど少し虚ろな表情の中に寂しげな様子を一瞬見つけた気がする。
「ん、そうだねー。なら貰っちゃおうかなー。私アレがいい。人魂の浮いているやつ」
「あぁ、マシュマロコーヒーだね」
「それそれ。この前マシュマロつけている子が飲んでいたやつ」
こいしの感想に涼介が笑い声を漏らす。その反応にこいしが首をかしげて見せる。
「どうしたの?」
「こいしの感想を聞いたら妖夢がへそを曲げそうだなと思ってね」
「ふーん」
あまり興味がなさそうな返答をし、足をプラプラさせながらこいしは涼介の手元へ視線を向ける。ミルで挽かれる豆をその双眸でぼうっと眺める。相変わらず移り気が激しいなと思う。営業中は能力を広げているために、こいしも落ち着いているはずではあるがそれでもこれである。能力が無ければ店の中を歩き待っていた可能性さえ考えられる。
――悟る事をやめた悟り妖怪か
何度か会ううちに断片的に聞いてきた事を繋げ合わせ、こいしの事を何となくではあるが理解してきた。人の心を読むことをやめた結果、無意識下でしか行動が出来なくなったと言っていた。能力の影響で離れてしまえば皆が自分を忘れてしまうと、自らも皆を忘れてしまうとしこいしは言っていたと思い出す。
「はい、こいし」
「わぁー、ぷかぷかしてるー」
「熱いから気を付けてね」
差し出された一杯にこいしが歓喜の声をあげる。無邪気な様子に思わず笑みがこぼれる。
「お姉さんは元気にしているのかい?」
「お姉ちゃん?」
「そうだよ。最近はいつ帰ったんだい?」
皆が忘れて、皆を忘れるとこいしは言ったが一人だけ例外がいるとも言っていた。それがこいしの姉の悟り妖怪。時折こいしが話す内容から姿を想像するに、気苦労の絶えない優しそうな人物像が涼介の中で描かれる。
「いつだったかなー。んー」
「覚えていない位か」
「忘れているだけかもしれない」
「はは、一緒じゃないか」
「そっかなー?」
「今日はこの後覚えていたらで良いから帰ってあげなよ。きっと心配しているよ」
「んー、んー」
珈琲を飲みながらこいしが珍しく考え込む。涼介はせかす事無く静かに待つ。白い髭をこさえたままこいしが口を開く。
「そーだねー、覚えていたら帰るよ。久しぶりにお姉ちゃんに会いたいし」
「久しぶりってもうずいぶん帰っていないじゃないか」
「あれ? 確かにそうだね。涼介頭いいね」
こいしの言葉に思わず涼介から苦笑が漏れる。全く何も考えていないだけなのか、調子がいいのか変わった友人だと改めて思わされる。相変わらず髭を付けたままにするこいしに向けて綺麗な布を持って手を伸ばす。
こいしも涼介の仕草に意図を察したのか顔をグイッと突き出す。顔を拭くようにと差し出そうとしたのに、拭いてくれと差し出されたこいしの行動にやれやれと口元を緩ませる。仕方ないと、涼介はこいしの口元を優しく拭う。気持ちよさそうに瞳を閉じるこいしの姿に猫みたいだなと思わされる。
「はい、取れたよ」
「くるしゅうない」
「それは何か違わないかい?」
「あれ? よきにはからえ?」
「うぅん……さっきより近い、かな?」
「まぁなんでもいっか」
こいしはあっけらかんと言いきると今度はちゃんと珈琲を混ぜ始める。ただ、混ざって色が変わるのを楽しんでいるだけの気もするが、涼介はもう大丈夫だろうと布を置く。
「ねぇねぇ」
「どうした、こいし?」
「また前よりもここは過ごしやすくなったね」
こいしが色の変わるカップから視線を外す事無くそう告げる。その言葉に以前も同じように言われたなと涼介は思い出す。以前は春雪異変の後に訪れたこいしにそう言われたのだったかと思い出す。
「そうかい?」
「うん。落ち着くのはずっと前から変わらないんだけど涼介の中のもやもやが減っているから私は楽だなー」
「もやもや?」
「そう。もやもや。こうね、歯の間に引っかかったような感じかなー。涼介って表面に出ないけど無意識に結構荒れていたからさー。お店は居心地良くても涼介が居心地悪かったんだよねー」
「それは……初めて言われる意見だなぁ」
こいしに言われて何となく何のことを言われているのか涼介は理解した。春雪異変前は生きたくないと、宴会の異変の前はいまだ外の妖怪の事を引きずっていた。無意識を操るこいしにはさぞ煩い無意識であったのであろうとなんとなく涼介はそう思う。
意識下では能力で抑圧できてしまう為、その反動が無意識に出ていたのもあるのかもしれないと思考が飛躍する。涼介の意識を引き戻す様にこいしの声がする。
「やっぱりあの鬼と喧嘩したのが良かったのかなぁ。殴り合っていたの楽しそうだったし」
「あれ、見ていたのかい?」
「見てたよー。見た事ある鬼がいるなーと思っていたら涼介が喧嘩していたの。骨ボキボキだったね」
「店での喧嘩から見ていたのか」
思わず苦笑してしまう。まさかあの喧嘩に観戦者が居たことに涼介は驚きを隠せない。萃香も気が付いていた様子はなかった。目の前の少女はのんびりしただけの見た目通りの子供ではないと、その実力の片鱗を見せられた気がした。
「また何かあったら見に行こうかなー」
「是非おいで。楽しいよ」
「うん!!」
「また見かけたら声位かけていってよ、こいし」
「そうだねぇ。涼介が暇そうだったらいいよー」
「そうかい。じゃあ楽しみにしてようかな」
「ふっふー」
こいしが楽しげに鼻を鳴らしながら身体を揺する。その様に本当に楽しそうだと伝わってくる。自分まで楽しくなってきそうだと涼介も元気を貰える気さえしてくる。
こいしが珈琲を飲みほして立ち上がる。ふらふらとまた目を離したすきに消えてしまいそうな希薄さを纏いこいしが扉へと近づく。こいしがふと足を止めて振り返る。
「そうだ」
「ん、なんだい?」
「涼介が死んだら家に飾ってあげるね」
「……はは、先約がいるからそちらと相談してとしか私には言えないなぁ」
無邪気で純粋なこいしの提案。それは何も含みの無い、どちらかといえば好意さえ感じさせる声色の提案。嬉しいでしょとでも聞こえてきそうな程綺麗な笑みをこいしが浮かべている。一瞬あっけにとられ言葉に詰まるも何とか涼介は返答をする。以前もどこかの冬の妖怪に似たような事を提案されていた為にするりと言葉が口をつく。
「えぇー、私の家の方があったかいよ? みんなもいるし」
「そう言われてもねぇ……」
何故自分の提案を受け入れて貰えないのか不思議そうに言うこいしの姿に苦笑がついつい顔に出る。死んだ後なのだから自分には関係ないとか、レティと話し合って決めておくれとかと色々な事が浮かぶもため息と一緒に飲み込み、口を開く。
「まぁ、それはまたおいおいね」
「仕方ないなぁー」
頬を膨らましながらこいしが再び扉へと向かう。鈴が鳴り、扉が開く。開いた扉を手で押さえながらこいしがまた涼介へと振り返る。
「じゃあまたこれでお別れだね」
「……そうだね。また次に会うまで忘れてしまうのだろうね」
「寂しそうな顔をしないでよー」
「そうだね。どうせなら笑顔で別れたいよね」
「そうそう」
こいしがうんうんと頷いて見せる。
「こいし、いつでもおいで」
「うん。またくるね、涼介」
こいしが手を振りその場を立ち去る。
ふっとこいしの姿を涼介が見失う。
涼介がハッとする。
――あれ、私は今まで何をしていたのだろうか
意識が酷く曖昧だと涼介は感じる。まるで毎日繰り返す動作を無意識で終えたかのような、気がついたら終わっていた、時間が経っていたといった様な感覚が自らを襲う。
そのまま思考の底へと降りていきそうな意識が扉の鈴の音に引き戻される。
「いらっしゃ――」
反射的に言葉が出るとともに視線が扉を向く。けれどそこには誰もいない。
「あれ、開いた音じゃなくてしまった音?」
涼介が首を傾げながら扉に近づく。扉をあけて外を見ても誰の姿も見当たらない。狐にでも化かされたのだろうかと首をひねりながら店内へと戻ろうと振り向く。
振り向いた涼介の視線にカウンターの上の空のカップが映り込む。
「誰も来客は無かったはずだけど」
おかしいなと涼介は頭を捻る。前にも何度か同じような事があったなとも同時に考える。誰もいないのに鈴が鳴り、空のカップが机の上に置いてある。はて、何度目だっただろうかと口元に手を当てながら考える。
口元に当てた手に涼介は違和感を覚える。自身の口角が上がっていることを手の感触から自覚する。無意識に笑っていたと理解する。視線をあげてカップを見る。カップが机に置いてある深さから何となく座っていた人物の背丈が予想できる。フランドールやレミリア辺りとそう違いはなさそうだと検討を付けられる。
「君は誰なのだろうね」
ふと呟きが涼介の口をついて出る。再び扉を開ければ、逢魔が時が訪れ暗くなり始めた幻想の世界が視界に広がる。風に草木が煽られ、ふらふらとその身を揺らす。何故かその草木の様子に涼介は楽しさを感じる。抱いた気持ちのまま涼介が口を開く。
「待っているからまたおいで」
涼介の言葉が風に流され幻想世界へと溶けて消えていく。
風音の中に涼介は少女の笑い声を聞いた気がした。
あぁ、またあったねと涼介の口元に笑みが浮かぶ。
「――こいし、また会ったね」
「うん。また会ったね、涼介」
無意識に揺蕩う少女がにこりと笑う。
こいしちゃんは書くのが難しいですね