ハリー・ポッターは諦めている   作:諒介

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CHAPTER1-3

 あの悪戯めいた手紙はハリーの手元に残っていたが、彼はそれを読もうとも思っていなかった。この世界に魔法などは存在しないし、それらは作り話で物語の中にしかないのだから。ただ、記憶にない母親がそれを受け取っていたらしいことは少し気になっていた。だが、ハリーはそれをペチュニアに尋ねるなどしようとも思わなかった。あれ以降ピリピリとしている叔母の機嫌をこれ以上損なうわけにはいかない。

 だからハリーは、つとめていつもと同じようにふるまい新学期の準備を進める叔母の手伝いをしていた。

 嗅覚がマヒするような、どぶ色の染色剤に硬い生地のくたびれた服を漬け込む。これは九月からのハリーの制服になるものだ。古着だし、自宅で染めているとはいえしっかりと手順さえ押さえておけば、傍目におかしな仕上がりにはならないだろう。

 何も言わずに、自分から制服を染め始めたハリーを横目に見て、ペチュニアは大きく息をついたが、ハリーはそれに気づかないふりをして一心不乱に服をしっかりと漬け込んでいた。

 と、その時ダーズリー家のドアをノックする音が廊下に響いた。

 ペチュニアの肩が小さく跳ねる。

 ハリーはいつもの癖で、慌てて玄関に向かおうとゴム手袋を外しバスルームから飛び出ようとしたが、それは珍しくペチュニアによって遮られた。

 

「ハリー。私が出るから。あなたはここにいなさい。いいわね、物音も立てずここから一歩も出てはいけないよ。」

 

 そういったペチュニアの顔は、ハリーが見た表情の中で一番怖かった。

 叔母に逆らうつもりなど毛頭ない。ハリーはタイルの床に座り込み、ペチュニアの言う通りバスルームに籠城することを決めた。

 物音を立てず、いないふりをすることには慣れている。

 静かにしていれば、ペチュニアが何やらキンキンとした声で感情的に話しているのが聞こえてくる。時折、聞いたことのない低い絡みつくような男性の声も聞こえるが、ハリーは内容まで聞いてしまえば面倒なことになる、と夕飯の献立に思いを馳せた。

 魚があればアクアパッツァでもいいかもしれないが、ダドリーは大の肉好きだ。ボリュームのある肉料理のほうがいいかもしれない。そういえば冷凍庫に特売の時に買った牛塊肉がある。夏の陽気で煮込み料理というのも食欲が起きないから、ディアボロ風のソースのソテーにしようか。じゃあ、付け合わせは…。スープは冷蔵庫にヴィシソワーズが冷えているからそれを使おう。いや、それよりもデザートだ。ゼリーにも飽きているころだろう。ここ数日、見た目の涼しさだけでおもわずゼリーばかり作ってしまっている。これもやはり冷凍のベリーをカスタードクリームであえて見たもので、すこしこってり目にしてみよう。チョコレートプディングでもいいかもしれない。

 ハリーがそうやって現実逃避をしていると、不意にバスルームの扉が勢いよく開けられ、思わずハリーは小さく悲鳴を上げた。

 

「やめて!!セブルス!その子はどこにも行かせはしないわ!」

 

 ペチュニアの叫び声はまるで泣き声のようだった。

 

 ハリーはバスルームの入り口に立つ、その黒い物体に目をやった。夏だというのに全身黒づくめの人間がそこには立っていた。黒いローブに黒いマント。黒い髪はべったりと顔の縁に張り付き、黒い神経質そうな瞳がハリーを見下ろしていた。自分のことは棚に上げて、ハリーはずいぶんと顔色の悪い男の人だな、と思った。

 男は、ハリーと目が合うと深く刻まれている眉間の皺を一層深くした。

 座ったままでは失礼になるかもしれない、とハリーは立ち上がり、毛玉だらけでぶかぶかのダドリーのおさがりのセーターのほこりを軽く払う。

 

「えっと…」

 

 いったいどうして自分がここにいることがばれたのだろう。

 ハリーの心境は穏やかではなかった。ペチュニアの言いつけを守れなかったのだ。どんな折檻が待っているかわからない。

 おもわず怯えた目で、その黒ずくめの男の後ろにいる叔母に目を向けた。

 

「ハリー、あなたも言いなさい。そんなところには行かないって!」

 

「あ、うん。ぼくはそんなところには行かない。」

 

 ハリーは力なくペチュニアの言葉を繰り返した。

 しかし、その男はさらに表情を厳しくさせた。

 

「ペチュニア、知っているはずであろう。この子は魔法使いだ。リリーが、この子の母親がそうであったように。」

 

「ええ、知っているわ。知っていますとも。そしてリリーは死んだのよ!」

 

 ぼくが、魔法使い?

 ハリーは聞こえてきた会話に思わず首を傾げた。

 

「ぼくは、魔法使いなんかじゃない。だって、そんな、ありえない、まともじゃないよ、そんなこと。」

 

 ハリーの声は震えていた。

 

「ほう。ならば問おう、ハリー・ポッター。貴様が嫌だと思ったり怖い思いをしたとき、不思議なことは起きなかった、そう言い切れるかね?」

 

 男の声はとても低くてハリーをより緊張させた。

 ないよ、そう答えるべきだとハリーはなんとなく思ったが、言葉が声にならなかった。男の目はまるでハリーの心を見透かすように見つめてきて、喉を締め付けられているような気分だった。

 

「そうだ。あったはずだ。我輩にはわかる。貴様の心がな。貴様はそれらをなかったことにしたのだ。叔母たちが怖かったから、か。なるほど…ペチュニア・ダーズリー!!」

 

 歌うように滑らかな低い声は緊張はするが、ハリーの脳をマヒさせていく。なぜ答えていないのに、この男には自分の記憶がわかるのだろう。言われた通り、ハリーは幼いころに経験した不思議な出来事を思い出していた。

 

「そうだな。名乗っていなかった。我輩はセブルス・スネイプ。ホグワーツ魔法魔術学校の教授であり、貴様の母親を知っている。このマグルの叔母のこともな。」

 

 セブルス・スネイプはそう言うとペチュニアのほうに向き直った。

 

「たとえお前がどう抗おうと、こやつの入学を覆すことなどできない。どうしてもというのであれば吾輩が連れ出すのみだ。知っておろう、あの老人は諦めはせぬぞ。」

 

 この場にバーノンとダドリーがいなくて本当によかった、とハリーは考えていた。彼らは朝から、スメルティングス校の学用品の買い出しに出かけている。OB仲間にも声をかけ、ダドリーによりよい学校生活のスタートを切らせるための地盤づくりも兼ねているようだ。

 もし彼らがいれば事態はもっと混乱していたに違いない。

 

「でも、その魔法なんて、そんなもの、存在するわけないよ。やっぱり。」

 

 睨みあう大人二人の空気に耐え切れなくなってハリーは俯いて呟いた。

 幼い頃は、物語みたいに誰か自分を知っている人がここ、ダーズリー家から助け出してくれるのではないかと思っていたころもあった。だが、それが魔法使いなどと真面目な顔で言い放つ、黒づくめの機嫌も顔色も悪い男の人だなんて考えてもいなかった。

 つくづく自分はこういう損な星のもとに生まれてしまったのだ、とハリーは心底ため息をついた。できればどこにでもいる普通の男の子でありたかった。

 

「存在する、のよ。だから私は怖かった。」

 

 ペチュニアが吐き捨てるように言った。

 ハリーは「まとも」を何より愛する叔母がそういったことに思わず目を見開いた。

 魔法使いの存在を知っていた、なんて「まとも」じゃない!

 

「そう、貴様の母親は…リリーは優れた魔女だった。父親もだ。」

 

 母親のことを話すスネイプの目は優しげにも悲しげにも見えたが、父親については苦々しく吐き捨てた。

 

「そして、貴様を守って死んだ。」

 

 ペチュニアは俯いたままだった。

 初めて聞かされる両親の話にハリーは驚きが隠せなかった。なにしろ、ペチュニアは事故で死んだと言っていたし、父親はろくでなしで母はそれに誑かされた愚かな女だったと聞いていた。

 

「ハリー・ポッター。貴様はホグワーツで学ばねばならん。魔法の力は強大だ。だからこそコントロールする方法を知らねばならぬ。わかるな、貴様はホグワーツに行かねばならんのだ。」

 

 そういえば学校の図書館で読んだ本に魔女狩りというものがあったと書いてあった気がする。もし本当に、魔法なんてものが存在するとして、強大な力だからこそ人々は恐れたのだろうか。だとしたら、ハリー自身もまた狩られる側の存在ということなのだろうか。そんな恐怖感がハリーを包み込んだ。

 

「そんなことはないわ!ハリー、だめよ!セブルスの言うことを聞いてはだめ!!」

 

 まるで板挟みだ。

 ペチュニアも、このスネイプという男も一向に譲りそうにない。

 ハリーにはどうしていいかわからなかった。本で読んだ魔女狩りのように火炙りにならないためにはその魔法学校とやらに行くべきなのかもしれないが、ペチュニアはそれを望んでいない。

 二人はそんな状況に困った顔をしているハリーを見据えていた。

 こんな選択を迫られたことなど、初めての経験だった。しかもどちらの手をとっても遺恨が残りそうだ。それはハリーも望んでいない。なにより揉め事が大嫌いなのだ。

 ハリーはペチュニアの泣きそうな目を見つめ、そのあとスネイプの射るような黒い目を見つめた。おそらくはどちらも助けてはくれないだろうけど。

 

「成程、助けを求めるか。ならば暫く我輩が預かることとしよう。ペチュニア、お前はこの子を随分と疎んでいたようだがな。ホグワーツ入学は覆せん。たとえお前がどこまで逃げたとしても、我輩たちは貴様らを追いつめる。」

 

 スネイプの声に再度ペチュニアの肩が跳ねた。

 彼の声はまるで呪いのようだ。じわりじわりと絡みつき、体に刻み込まれていく。

 

「さあ、我輩に掴まりたまえ、ハリー・ポッター。」

 

 おずおずとハリーは手を差し伸べた。

 それを見てペチュニアが悲鳴を上げる。

 

「だめよ!ハリー、だめ!!!」

 

「でも、おばさん。このままじゃおじさんもダドリーも帰ってきてしまうし…いいんだ。ぼくがそのなんとかっていうところに行けばきっとこの人だってこれ以上ここには居座らないだろうし。そのほうが、おばさんのためだもの。だって、ぼくはまともではないんでしょう?なのに、今まで育ててくれた。それだけで十分だよ。」

 

 そしてハリーは黒ずくめの男、セブルス・スネイプのローブに掴まった。

 ペチュニアの悲鳴が聞こえる。

 スネイプは口の端だけ持ち上げて、にやりと笑うとどこから取り出したのか黒い杖を振るい、その瞬間ハリーのまわりは大きく歪んだ。いや、ハリー自身も歪んだ気がした。

 全身と世界そのものが捩じれる様な不快感は一瞬で、気が付けばそこは先ほどまでのダーズリー家のバスルームではなく、どう見ても廃屋にしか見えない一軒の家の前にいた。

 

 

 

 


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