魔法薬学の授業の開始を待つ地下牢の教室は、まさに一触即発といった空気に満ちていた。直接お互いになにか事を起こそうというわけではないのだろうが、重く息を詰まらせる空気が教室全体を支配している。地下牢という場所のせいかもしれないが、ハリーはできる事ならこの場所から逃げ出したかった。
スリザリンの生徒たちの何人かはハリーに不躾な視線を投げかけてくる。それは、ロンたちが向ける様なキラキラとしたものではなく、もっと濁った何かで、ハリーは非常に居心地が悪くなる。
ドラコも何か言いたげにハリーのことを見ていた。
と、そんな空気を打ち破るかのように靴音を響かせてスネイプが教室に現れた。黒い長いローブを翻し、ゆっくりと生徒一人一人を見やるように教室内を見渡した。ハリーを迎えに来た時ときと変わらない黒ずくめに、相変わらずお世辞にもいいとは言えない顔色。ハリーはそんなスネイプを見上げていたが、彼と目が合った瞬間にスネイプは眉を顰めさっと視線を逸らした。
ハリーは自分の心臓がずきりと音を立てて痛むのを感じた。
自分の何が彼の気に障ったのだろう。ハリーはなぜスネイプがそんな顔をしたのか、まったく心当たりがなかった。スネイプが寮監を務めるスリザリンではなく、その宿敵たるグリフィンドールに入ったことか、もしくはあれだけ予習する時間があったにも関わらず、これまでの授業でこれといった成績を残せていないハリーに失望したからか、ともかくハリーは何がいけなかったのかと考えをぐるぐる巡らせた。
当然そんなハリーにはスネイプの声はおろか、周りの音すら聞こえていなかった。
どうしよう、嫌われた。
どうしよう。どうしよう。
実は、ハリーは少しだけこの授業が楽しみだったのだ。スネイプの書斎には魔法薬学に関する本がたくさんあったし、夏の間魔法薬のことを目にする機会も多かった。レシピ通りに材料を煮詰める工程は料理に似ていて、自分でもできそうだと思ったこともあるが、スネイプが教授だからだ、というのが大きな理由だった。
しかし今はそんな期待は霧散して、ハリーの心の中は「どうしよう」だけで埋め尽くされていた。
だから、隣の席のハーマイオニーがハリーの脇を結構強い力でつつくまでスネイプに呼ばれていたことに気が付かなかったのだ。
「英雄ハリー・ポッターは授業など聞く必要もないと考えていると見える…さあ、先ほどの質問に答えてもらおうか。」
責め立てるように、ハリーを見下ろすスネイプの低い声が鼓膜を揺らす。まるで軽蔑しているかのような視線にハリーは身を固くした。
ほかの生徒たちの視線がハリーに突き刺さった。
先ほどの質問とは何なのか、ハリーにはまったく見当もつかなかったが、聞いていませんでしたと素直に答える勇気もない。そこでハリーは小さく横に首を振ることで答えることにした。
「ほう…ならば、ベアゾール石を見つけたければどこを探す。Mr.ポッター答えたまえ。」
ハーマイオニーがびしっと手を挙げることで答えを知っていることをアピールしているが、スネイプはそれに一瞥もくれずひたすらハリーを睨みつけている。
ベアゾール石。確か、教科書のどこかで見た気がする。端書か何かだが、確かに読んだ記憶はある。混乱する頭でハリーは必死で考えたが、思い出せそうにない。
「わか、りません。」
ハリーは何とかその一言だけを絞り出し、俯いてズボンをぎゅっと握りしめた。
視界が涙で歪む。
なんでこんな質問を自分だけに投げかけてくるのだろう。スネイプの考えていることが全く分からない。
「なんと愚かな。ならば最後の質問だ。ウルフスベーンとモンクスフードの違いを答えよ、Mr.ポッター!」
またなんで自分なんだろう。
隣のハーマイオニーはきっと答えを知っている。だってあんなにも、耳にぴったりと腕が付いてしまうほどまっすぐに、高らかに腕を挙げている。
浅くなる呼吸と、零れ落ちそうになる涙をなんとか堪えながら、ハリーは記憶の棚を押し開ける。聞いたことのない名前ではなかった。きっとどこかで読んでいるはずだ。これに答える事が出来なければ、きっともっとスネイプに嫌われてしまう。何とか思い出さないと。
「違いは、ありません。」
そうだ。同じ植物だったはずだ。とハリーは何とか思い出して、俯いたままそう答えた。その声はあまりにも小さいものだったが、なんとかスネイプにそれは届いたらしい。
ハーマイオニーもゆっくりと腕を下ろした。
「さよう。何れもトリカブトの別名、毒性の強い植物である。」
そのままスネイプは最初のハリーが聞いていなかった問題と、ベアゾール石を探す場所に対する解説をし、それを誰も書き留めなかったことをたっぷりと嫌味を込めて指摘した。
どうやら正解を導き出せたことらしいことにハリーは安堵した。
そのあと、スネイプは教科書の一番最初に載っているおできをなおす薬の作り方を説明し、実際にそれを作るように指示をした。
もう、間違えるわけにいかないと思ったハリーは、何度も何度も手順を見返しながら慎重に作業に専念した。
スネイプはがやがやと薬を作っている生徒たちの間をゆっくりと回りながら、その手順を覗き込んでくる。
魔法薬学の教科書に載っている薬の作り方は何れもその手順が、材料の刻み方から鍋のかき混ぜる方向や回数まで細かく指示されている。そこから考えるに、わずかでもそれを間違えてしまえば失敗につながる、ということなのだろう。料理であれば考えられない精密さだ。
途中スネイプが、ドラコがとても素晴らしく角ナメクジを茹でたので見に来るようにと声をかけ、さらにスリザリンに得点を与えた。だが、ハリーはそれどころではなかった。ちょっとでも気をそがれれば失敗してしまうかもしれない。
そんなことを考え、もう一度手順通りにできていることを確認した。たぶんここまでは間違えていない。一緒に作業しているハーマイオニーが何やら色々口をはさんでくるが、ハリーはそれを聞き流していた。
ともかく教科書通りに手順を進める。それに集中したい。
その時、ハリーたちの背後で何やらシューシューという音と、ネビルの悲鳴が上がった。何事かとハリーが振り向いた時には、シェーマスとネビルが使っていたらしい大鍋が捩じれて倒れ、中身を床にぶちまけようとしているところだった。
スネイプはそれを見て、生徒たちに椅子の上に避難するように告げると、杖を一振りしてこぼれた作品を消してしまった。後には無残に捩じれた大鍋だったものと、薬をかぶってしまたらしく蹲るネビルが残っていた。
どうやら手順を間違えてしまったらしく、なぜ教科書通りにやらなかったのかと、ネビルはスネイプに大声で怒られた。そして、なぜ間違えた手順になっていることを指摘して止めなかったのかと、ハリーまで怒られてグリフィンドールは減点された。
流石に背後で一体何が起きていたのかなどハリーにもわからない。
本当にスネイプはロンたちが言うように理不尽なんだ、とハリーはとても悲しくなった。
どうやら手順も間違えたおできをなおす薬はおできを作る薬になってしまうらしく、ネビルの体にはところどころおできが膨れ上がってきていた。
そんな様子のネビルを見やったスネイプは、各自完成した薬を提出するように告げ、ネビルをマダム・ポンフリーの元へと連れて行った。
ハリーとハーマイオニーの作ったおできをなおす薬は見た目だけは成功品と言えるだろうが、実際の効果までは試していないのでわからない。
こうして魔法薬学はネビルにとってトラウマの授業になり、グリフィンドールのスリザリン嫌いを促進させた。
ただ、ハリーはなぜスネイプがあのように冷たい視線を投げかけてきたのかわからなくて、彼に嫌われてしまっただろうことが悲しくて仕方なかった。
ハリーにとってスネイプは、魔法界での最初の知人で、夏の間ハリーを預かってくれた親切な人だったはずだ。きっとあれは誰かに命じられていて、スネイプはいやいやそれにしたがっていただけなのかもしれない。だから、ほとんど家にいなかったのだ。ハリーと顔を合わせたくなかったから。
ネガティブな考えだけが思考を支配して、その日ハリーは全く眠れなかった。