パシン
障子が勢い良く閉められて唯一の出入口が塞がれた。先程通って来た廊下には誰もおらず、静まり返っている。
完全な密室を作り出した本人は、今私の目の前で肩を震わせてこちらを睨んでいる。どうしよう。控えめに言っても怖い。美人が怒ると怖いって本当だったんだ。
「あの、何を…………。」
「そなたは……」
「はい?」
「そなたは自分が何をしたのか分かってるのか!?」
「っ!! 」
あまりもの大声に思わず肩が跳ねた。
「湯婆婆の弟子になるなんて!……そなたは、そなたは人間の子供なのに!!……そんな……何で……」
「っあの、そんなに心配しなくても別に大丈夫ですよ。私って結構図太いというか……タフなんで。」
大声で怒ったと思ったら何やら俯いてブツブツと話し始めたので、慌ててフォローをする。大丈夫かこの人、情緒不安定というやつだろうか。
「全然大丈夫じゃない! 君は湯婆婆がどれだけ恐ろしい存在なのか全く分かっていない!! 君は、逃げるべきだったんだ!! こんな危ない事をする必要なんてなかった!!」
「っそれは両親を見捨てろって事ですか?! そんなの嫌です!! あの人達はこんな私を愛してくれた! 私はおかしいのに…それでも大切に育ててくれた!! そんな人達を見捨てるなんて出来る訳ないじゃないですか!!」
ハク様の言葉に、流石に言い返さない訳にはいかなかった。私に逃げろだなんて、この人は残酷な事を言う。
転生して、よく分からない力まで持ってしまった子供を愛してくれたそんな両親を見捨てられてたら私はここにはいないのに……
「っそんな事言ってないだろう!!」
「でもっ、そう言う事です! 私は、私の両親を助けるために精一杯やって来た! それを貴方に咎められる資格はありません!!」
「それは……でも…他に方法が……」
「確かに他にも方法があったのかもしれません。これが正解かなんて私にも分かりません。……でも、私は私が考えた精一杯でこの方法にしたんです。……今更何を言っても無かった事には出来ませんよ。」
最後は言い聞かせる様になってしまったが、これが私の本心だ。確かに私の今の立場は非常に危ない。たかが人間の小娘があちら側の存在と対等にやりあえるとは思っていないし、きっと命を賭ける事もあるだろう。だけど私は私のした選択に後悔はしていない。無茶でも無謀でも、何でもやって、それで元の場所に両親と帰るんだ。
私の言葉に俯いてしまったハク様は、暫くの間ぐるぐると考えていた様だが、はぁと重い溜息を吐くと私に向かい合って頭を下げた。
「…………ごめん、君の言う通りだ。傷付ける様な事を言ってすまない。」
「いいえ、別に気にしてないです。…ほら、私図太いですし。」
「ははっ…本当だね。」
「……そこは否定しておく所ですよ。」
「あ、すまないっ……」
ハク様は天然なんだろうか……。だけど、わたわたと慌てている表情に、先程までの曇った影が鳴りを潜めたので良かった。
「ふふふっ」
「……何も笑わなくても良いじゃないか。」
怒っていた訳じゃないと気付いたのか、ハク様の慌て様に笑ってしまった事を咎めて来たが、口が尖って拗ねた様な表情は何だか可愛らしかった。
「ご、ごめんなさっ……ふふっ何だかハク様が可愛いらしくて。」
「かわっ!?……嬉しくない……」
私が笑い過ぎたせいか、余計に拗ねてしまっているハク様に少しだけやり過ぎたかと思い直す。
「……ハクで良い……」
「はい?」
「だから、様なんて付けないでハクで良いよ。そちらの方が私も嬉しい。」
「……わ、分かりました、ハク。」
「敬語もなしだよ。」
「え、えぇとそれは流石に……兄弟子ですし。」
見た目の歳はそう離れていないとは言え、実年齢はとんでもなく上なんだろうし、名前呼びもだけど兄弟子にタメ口はちょっと拙いんじゃないか?
そう思ったのだが、ハク様は、いやハクはこっちを不服そうに睨んでいる。これは私が折れるしかないのか……
「分かったよ、ハク。じゃあ私も君じゃなくて千って呼んで欲しい。」
「っ!」
私が言った言葉に何故か、とんでもないものを見た様な、驚いて警戒した表情になったハクにこちらの方がびっくりしてしまった。
そ、そこまでの反応をされると……少しヘコむ。
「あっ、流石にそれは駄目だった?! ちょっと図々しかったよね、ごめん!」
「…いや、そうではないけど……千は自分の本当の名前、忘れてしまったのかい?」
「本当の名前? 何の事??」
どういう意味だろうか? 本当の名前も何も、私は千以外の何者でもないのだが……
「っ萩野千尋、そなたの名前だろう……?」
「えっ?……あっ……っ!」
「湯婆婆様に名前を取られたんだ。自分の名前を忘れてしまえば元の場所に帰れなくなってしまうよ。」
「私……本当に自分の名前が分からなくなってた……。」
最初に自分の本当の名前を聞いても何も感じなかった……。今回は思い出せたから良いけど、その内に自分の名前をちゃんと認識出来なくなったらと考えると恐ろしい。
萩野千尋、萩野千尋……私は萩野千尋だ。嫌だ、私が私じゃなくなるかもしれないなんて……想像しただけで怖い。
「そなたは萩野千尋。本当の名前は決して忘れてはいけないよ。2人きりの時は私は千尋の本当の名前を呼ぼう。」
「あ、ありがとう……ハク。」
優しく笑ってそう言ってくれたハクに、私は救われた様な気持ちになった。だって、とてもとても怖いんだ。自分の名前を無くしてしまったらと思うと……自分が元に帰れなくなったらと考えると……怖いんだ。
だけどハクが、私の名前を呼んでくれれば忘れる事はないんじゃないかって……そう思ったんだ。
「大丈夫だよ、心配しないで。私は千尋の味方だよ。」
ハクに名前を呼んで貰えれば、私が私でいられる……ハクがいれば私は頑張れる……そう思ったんだ。