その頃、ラインハルトはフェザーンから大返しを果たし、帝国領内部を進んでいた。
途中でメックリンガー艦隊なども加えて更に大艦隊にしている。
進路はフェザーン回廊の帝国側出口から、帝国領辺境をなめるようなコースであり、つまりキルヒアイスの戦っている場所への最短を選んでいる。
理想的には先にイゼルローン回廊から帝国領に入った敵を叩き、引き続いて応援に来た敵艦隊を次々と撃滅することだ。
うまくいけばほとんど損害なしのまま敵を各個撃破、消滅させられる。
ただし、多少の齟齬があっても全く許容範囲になる。
仮に敵が先に集結を果たしたとしても問題はない。なぜなら思わぬ大決戦になろうとも帝国軍の方に余裕があり、充分な優勢を保てることは自明なのである。
むしろ早く叩き過ぎて消滅し、敵が応援を断念してしまえば今回の大戦略が消化不良のままで終わってしまう。
ヤン・ウェンリーを帝国領内で叩くという目的を達成すればいいのだ。
キルヒアイスと同盟の戦いは最終段階を迎え、あまり気分が良いものではないが最終攻勢を命じている。同盟側は既に組織的抵抗ができる状態ではない。
しかしその時、バルバロッサのオペレーターが叫ぶ!
「後背に艦隊発見! 真っすぐこちらに向かいつつあります! 総数、約二万八千隻!」
キルヒアイスは敵か味方かという確認などしない。
その数からしてラインハルトということはあり得ないからだ。
これは敵の応援艦隊とみて間違いない。
そのこと自体は戦略がうまくいったことの証左であり、成功を意味する。
とても喜ばしいことだ。
ここの帝国軍にとってまずいのはタイミングだけなのだ。
余りにも早すぎる到着で、予想をはるか超えていた。
その通り、ヤンの進軍速度は軍事常識で考えられないほどの速さなのだ。
もちろん魔法ではなく理屈がある。
軍の進行速度は艦のエンジンによって決まるのではない。それよりも進路調整などのソフトウェアによるところが大きい。
更に大きい要因がある。
補給を幾度かしなければならず、その準備や分配に時間がかかる。おまけに荷揚げして補給物資を積み込むという単純作業だけでも艦が大型になればなるほど大掛かりであり、簡単なものではない。
そこでヤンがとんでないアイデアを出していた。
イゼルローンでの最終補給では、要塞に予め連絡し、補給物資をパッケージにしてブイを取り付けた上で要塞表面から出させておいた。
次々と艦は相対速度をゼロにしていく。そして宇宙に浮かべられたパッケージごと素早く積み込み再加速する。
つまりイゼルローン要塞に入って停泊どころか宇宙港に入ることすらしない。
手際の悪い艦などはそのパッケージを収納すらせず、掴んだら艦の外壁にぶら下げて進むものまでいた。
乗員は要塞で一休みという楽しみを失ったが、それで文句を言う者がヤンの第十三艦隊にいるはずがない。いつのまにやらヤンの民主主義護持の使命が艦隊電隊に浸透していたためだ。
ともあれ驚異的な速度で航行を続け、帝国領に入れば先に入った同盟艦隊の跡を辿っていく。それを行えるのはヤン・ファミリーの重要な一員、エドウィン・フィッシャーならではの名人芸だった。
キルヒアイスにとっては大変残念な結果だ。
ようやく今から本格的に掃討戦というところだった。それが終わってから応援に来た敵艦隊と対峙するはずだったのだが。
しかし、それにこだわって時を失うキルヒアイスではない。
今は逆にキルヒアイスの方が不利な態勢になってしまっている。
下手をすれば逆に挟み込まれてしまう。半包囲体制にあった帝国艦列移動させ、再編に取り掛かる。ミュラー艦隊ともしっかり合流して準備するのだ。
「敵艦隊、艦型照合、旗艦ヒューベリオンです!」
「やはりそうですか。ヤン・ウェンリーが帝国領内に来たのは喜ばしいことです」
応援に来たヤンらの艦隊は尚も増速して迫り、その進路を大きくキルヒアイスは開ける。
閉じ込められていた同盟艦隊が、応援の艦隊と合流を果たそうとする。
犠牲になる覚悟を決めていたビュコック提督もすんでのところで無事だ。リオ・グランデは集中砲火を受けて大破したが沈んではいない。
「すまんの、ヤン。また年寄りが生き残ってしもうた」
「ビュコック提督、長生きしてまた戦史を教えてください。本を書くつもりですから、それが終わるまでは協力して下さらなければ困ります」
そんなことを言っているヤンだが、別に楽観しているわけではない。
ここからの帰還が難しいのはよく知っている。
ヤンにとっても誤算だったのだ。少し遅すぎた。同盟艦隊はキルヒアイスとの交戦により既に大きな傷を受け、損傷した艦も決して少なくない。するとどうしても全体の速力が落ちる。それでもなんとか追撃を振り切らなければイゼルローンへ辿り着けない。それは敵領ならではの不利であり、正面決戦より難しいことだ。
「ここで艦隊決戦をするつもりはないでしょう。向こうには補給はなく、撤退しか選択肢がありません。こちらとしては丁寧に後背をとって妨害にかかります」
それを熟知しているキルヒアイスの帝国軍は簡単には去らせてくれない。
うまく後背をとって食いついている。
キルヒアイスにとっても難しい面はある。
想定よりも早い段階で合流されてしまった。損傷艦を含めたら数の上では四万五千隻以上になるのではないか。
それに対してここの帝国軍は四万隻、数の上では不利になり、本気で逆襲に転じられたら帝国軍の方が危ない。
お互いに巧緻な戦術を駆使する。
キルヒアイスは撤退の弱点を突きながら、逆撃を丁寧に察知して避ける。
ヤンは弱点すら罠に利用してヒヤリとさせ、艦艇全体の撤退の時間を稼ぐ。そのやりとりをしながら、決して早くないスピードでイゼルローンに移動しつつある。
諸提督は戦いが芸術に成り得ることを目の当たりにした。
だがしかし、どんな戦術をも無意味になる瞬間が近付いてきた。
いかなる戦術だろうとかすんでしまう。大戦略の前には。
「索敵ブイに反応あり! これは、大艦隊です。こちらに近付きつつあり。」
帝国側のオペレーターも同盟側のオペレーターも同時に同じ声を上げた。
そして次の瞬間、帝国軍のオペレーターは歓喜する。
「接近する艦隊、味方です! 旗艦、夫君陛下のブリュンヒルト確認しました!」
全く逆に同盟軍のオペレーターは悲嘆の声を上げる。
「帝国軍の新手、艦艇総数およそ、およそ七万二千隻と推定!!」
これは大艦隊だ!
もはや同盟軍は絶体絶命に陥った。敵地でこれほどの大艦隊が迫ってくるとは。
ただし同盟将兵はまだ絶望はしていない。
同盟軍には今、ミラクル・ヤンがいる。
いつでも危機をその英知で逆転してきたではないか。こんな暗い状況でも戦いの結果はまだわからない!
「それを期待されても…… やれやれだね」
それはのんびりした口調だが、フレデリカにはヤンがいつもと違う危地に立たされ、ひどく緊張しているのがわかった。
フレデリカから見てもこの状況はおいそれと変えられるようなものではない。
そこでフレデリカはヤンに出す紅茶にブランデーを二滴だけ加えてあげた。せめて香りだけでも付けてあげたいと思ったのだ。
フレデリカの愛する夫が飲む生涯最後の紅茶になるかもしれないから。
ラインハルトはゆっくり近付き、ヤンの退路を塞ぐように大軍を展開させた。
もはや逃がしはしない。そういう意志を表した覇王の進軍である。戦略は成り、宇宙統一へ向けた最大の邪魔者をここで消滅させる。
ラインハルトにキルヒアイスが通信を送る。
「ラインハルト様、申し訳ありません。敵艦隊を各個撃破するチャンスを生かせず、みすみす合流されました。それで未だにあの艦数を保たれています」
神妙な顔をしているキルヒアイスにラインハルトが答える。
「何を言う、キルヒアイス。今回の戦略は敵を引きずり込み、そして応援にやってきた艦隊を叩くものだ。戦略的に既に成功した。細かい戦術の齟齬など考慮するに足らない。よく敵を今まで引き付けてくれた。それで充分だ」
実際にその通りなのだ。
この七万二千隻を遣い、片付けだけの問題である。
「それにキルヒアイス。俺にデザートとコーヒーだけ残されたのでは食い足りないからな」
ラインハルトはこの赤毛の親友相手に茶目っ気を出した。
いつものラインハルトの冗談は出来が悪いものが多いのだが、この時は中々良いと自分でも思っている。
「ヤン・ウェンリーを残しておいてくれたのは実に良かった。奴は最後の皿に乗せてメインディッシュとしよう」
ヤンは敵地で二倍以上の敵に囲まれるというこの状況から、先ずは最適解の布陣をとる。
突破力のあるウランフ、ボロディンの両提督を前に出した。損傷の多いビュコック、パエッタを中央に置き、そして守勢に妙のあるクブルスリー、疑似敗走から逆撃をかけるアッテンボローを後ろに回す。
これは、ある程度の犠牲を覚悟した敵中突破の姿勢だ。
せめて同盟艦隊の全滅は避けなくてはならない。
ラインハルトにも当然その意図はわかる。
覇王は指先を伸ばし、大きな指示を伝える。
「ワーレン、敵の先端部を惑わして足を止めさせよ。それだけで敵の全体が止まる。
ビッテンフェルト、敵はおそらく逃げる先しか見ない。頃合いを見て横から突撃せよ。分断は容易だ。ミッターマイヤー、敵の逆撃につきまとい、これを粉砕せよ」
こうして疲れを取る暇もなく戦いが始まる。
帝国、同盟共に弱将はおらず、一気に決着はつかない。
ただし数で大幅に劣り、回復力のない同盟艦隊は早かれ遅かれ破綻する。帝国軍は手堅くそれを待てばいいだけであり、四分五裂まで持って行けば、ただの掃討戦になる。
最悪でも退路を断てばいい。同盟艦隊は帝国領でどこにも行き場がない。
しかしそうも言っていられない事態が来ようとしていた。
「またもや索敵ブイに反応! こちらに向かって艦隊が近付いてます! 総数約三万隻!」
この戦いでいったい何度目の艦隊接近になるのだろうか。目まぐるしいことこの上もない。
そして今度は先ほどと逆の反応が見られた。
帝国軍の方が緊張する。
「敵の新手です! 艦型照合、旗艦パラミデュース、これはバーミリオンの戦いと同じ艦隊です!」
この知らせを聞いて困ったり失望したりするようなラインハルトではない。
いや、その覇気はむしろ増していく。
「キルヒアイス! ここまで面白くなったとはな。バーミリオンの借りまで返せるぞ。もはや敵のほぼ全軍がここに集まり、またとない好機となった。ここで勝てば宇宙統一は目前だ!」
敵が整うほどラインハルトは輝きを増す。
それが宇宙の覇王だ。
パラミデュースのキャロラインはヤンと連絡を取る。
「ヤン提督、何とか間に合いましたか。状況が良いとは言えませんが」
「確かに状況はまずい。今回我々は帝国の戦略に見事に乗せられてしまった。うかつだった」
「ヤン提督、提督は味方の同盟軍を助けようとここまで来たのです。それは結果がどんなものであれ貴いものだと思います」
ヤンはビュコックを助けたかったのだ。それが危機に陥る原因でも、何も恥ずべきことではない。キャロラインは本心からそう思った。そして今キャロラインさえ危機に飛び込み、結果的に同盟が多大なリスクを負ったのも仕方のないことだ。
「とにかく、イゼルローンにどうやって帰りましょうか。ヤン提督、早急に考えましょう」
「おそらく帝国軍はいったん状況を整理するだろう。そしてすかさず退路を断ち、必勝の信念で挑んでくるはずだ」
ヤンは明確に予想した。
今の乱戦が続くのは帝国に有利かもしれない。帝国にも大きな犠牲を強いるだろうが、数に勝るのだから同盟を壊滅に追い込めるのは自明だ。キャロラインという新たな脅威に対しても艦艇の一部を振り分け、抑え込めばいいだけのことである。
しかし、ラインハルト夫君陛下は乱戦の流れでだらだら行くことなど良しとはしない。これまでの幾多の戦いではそうだった。
華麗に戦い完勝を企図するに違いない。
戦いを嗜む、これが最大の行動原理なのだから。
その通り、ラインハルトは状況をいったん整理にかかった。
今や帝国軍も同盟軍も分散している。ミュラーの艦隊とキルヒアイスは完全に統合され切っていない。その上ラインハルトの本隊とも離れている。
同盟でもビュコックらとヤンも完全に編成されていない。更にキャロラインとも離れ過ぎている。
これはとても奇妙な陣形だ!
帝国と同盟、どちらも相手を挟撃し、あるいは逆に挟撃されているともいえる。
両軍とも整え直すためいったん退いた。
新しい戦場が設定される。
近くにはどちらにとっても詳細の分かっている星域があり、そこを戦いの場に利用しない手はない。
どちらにとっても運命ともいうべき星域だった。
よく知っている赤い星が照らす中、またしてもその場所で帝国と同盟の激闘が展開されるのか。
第三次アムリッツァの戦いが始まろうとしていた。
次回予告 第九十六話 運命の決戦