諸提督を集めたその会議に先立ち、ラインハルトはサビーネに許しを伺っている。
それは銀河帝国の皇帝に対する外征の許可という意味ではない。
政治的な手続きということではなく、サビーネの夫としてのものだ。長く離れ、しかも危険な旅路に出ることを言うためのものだ。
「申し訳ない。サビーネ殿、新婚早々だが私は戦いに赴こうと思っている。しばらく留守にしてしまうが、許して頂けるだろうか」
「ラインハルト様、確かに寂しくないと言えば嘘になりますわ。でも、お止めいたしません。それでこそ私のラインハルト様ですから。あなたの全てが愛しいのです。そばにいるあなたも。戦いをするあなたも。だから、元気で帰ってきて、とだけ言います」
サビーネは案の定ラインハルトを肯定する。覇王は戦いの輝きを欲して止まず、それを拒むことはできない。しかしそう言いながらどうしても笑って送り出すことまではかなわず、目に涙が光るのを抑えられない。
「こんなことを言ってごめんなさい。とにかく生きて帰ってきて下さい。戦いに勝てとは言いません。何がどうあっても、私のところに生きて帰ってきて」
ゆっくりと下を向き、涙を落とす。門出に涙は禁物と分かっていても。
「必ずよ。約束して」
ラインハルトにもサビーネの心情はよく分かる。
「サビーネ殿、生きて帰ってくる。しかも勝って帰る。いくら荷物が増えようが狭くないように、少し帝国を広げて帰ってくる」
それは下手な冗談だ。
しかしサビーネには、そう言ってくれるラインハルトが誰よりも愛おしい。
そして何よりも誇らしい。
別の所でも似たような会話がある。同じく召集の前夜のことだ。
こちらは先の二人とは違い、少しばかり夫婦としては先輩に当たる。
「エヴァ、また戦いで行ってくることになりそうだ」
「ウォルフ、また一人にするんですの」
「仕方ない。しかも、今回は遠くになりそうだ。しばらく帰ってこれない」
「あなたがそんなだから、子供ができないんですの」
「おいおいエヴァ、最近は家にずっといたじゃないか。それに俺は戦いに行くんだぞ。将官の妻なら無事で、とか言うものだろう?」
「子供の方が大事ですのよ!」
ウォルフガンク・ミッターマイヤーの妻エヴァンゼリンは毅然として言い放った。
結婚当初の可憐な姿とは違う。ずいぶん強くなったものだ。
それは良いことなんだ、とミッターマイヤーは心に思い直した。
「うちの夫は負けて死んだりなんかしません。当たり前です。無事でと言っても言わなくても、絶対に帰ってきます。そんな分かり切っていることを言うより、できるだけ早く帰ってほしいんですの」
「そうだな、全くだ。エヴァ、戦いに負けるつもりなんかない。早く帰ってくる」
そうは言うものの、ミッターマイヤーは自問自答する。
いやしくも帝国の艦隊指揮官が、まだ出立もしないうちから早く帰りたいなどと言っていいものだろうか。
いいやダメだ。
うちの艦隊の若いバイエルラインなどには聞かせられない話だ。
早く、バイエルラインにも家庭を持ってもらおう。そうすればわかるはずなのだが。
帝国軍に動きあり。大規模な出兵を予想。
同盟情報部潜入工作員からの急報がハイネセンにもたらされる。
もちろん同盟政府、軍部に緊張が走る。
その情報は直ぐにイゼルローン要塞へも伝えられた。
「今回、帝国軍の先頭に立つのはやっぱりあの顔がいいだけのやさ男でしょうかねえ、先輩」
「アッテンボロー、もしそうなら厳しい戦いになるだろうな。ラインハルト・フォン・ローエングラムは強い。でも、彼が来ない方がもっと厳しいかもしれないぞ」
「そうなんですか?」
ヤンのセリフを聞いたアッテンボローはその真意が分からない。
次に帝国側の軍事行動の出兵規模と指揮官がはっきりする。
その情報では艦隊総司令官オスカー・フォン・ロイエンタール、それに従うのはコルネリアス・ルッツ、エルンスト・アイゼナッハだ。
注目の艦隊規模、およそ四万隻に出動命令が下ったということだ。
これは新皇帝の即位にあたっての景気づけというようなものではなく、本気の侵攻である。
ここまで聞いたヤンは表情が厳しくなった。
「これはまずい。アッテンボロー、すぐにハイネセンへ行くぞ」
「えっ、待って下さいよ先輩。今ですか。今からハイネセンに行って引き返したら敵が要塞に着く方が先になりますよ。そりゃかえって危ないです」
「アッテンボロー、間に合わないよりマシなんだ」
ヤンの焦燥がまだアッテンボローには分からない。
四万隻での攻勢は確かに大事だが、確実に敗北とまでは思わないからだ。
「イゼルローン要塞ならこのまま先輩がいれば大丈夫ですよ。帝国艦隊は四万隻とはいっても、今まで同盟軍はそれ以上の数で要塞に仕掛けたこともありますが、悔しいことに小揺るぎもしなかったじゃありませんか」
「そして、おまけに今回の総指揮官が金髪のやさ男じゃない、ということかい?」
「ええ、その通りです」
「だからおかしいとは思わないか、アッテンボロー。中途半端な戦力だ。そんなことをして何の意味があるんだろう。それだけじゃない。いつも戦いの先頭に立つあのローエングラム公、いいや夫君陛下が出てこないなんて」
「確かにそうですが……」
やっとアッテンボローにも今回の攻勢がおかしなことだらけで、あり得ないということが分かった。だとすればどういうことか。
「アッテンボロー、嫌な予感がするんだ。だからハイネセンに行ってできるだけ早くシトレ元帥やビュコック爺さんに話をしたい。帝国の戦略とその対処について。イゼルローン要塞のことならメルカッツ提督とファーレンハイト提督に任せれば陥とされることはないだろう。それに、」
「それに何です?」
一呼吸置いてヤンは不思議なことを言い放った。
「おそらく向こうは本気じゃない」
ヤンはハイネセンに通信を送った。是非ともできるだけ多くの提督と集まって話をしたいと。
もちろんハイネセンの統合作戦本部は驚いた。
こんなイゼルローン回廊の最大緊急時に要塞駐留司令官が留守にするなんて。
しかしヤンのただごとではない要請に、シトレ元帥も許可を出した。ヤン大将は決して理由もなくそんな行動をしない。
統合作戦本部ではヤンの要請により、既に多くの将が集まっていた。
初めにヤンはアッテンボローに語ったのと同じことを言う。
「そういうわけで、今回イゼルローン要塞に対する帝国軍の出兵は腑に落ちない点が多く見受けられます。その出兵規模も、総司令官も。そこで一つの可能性を提示したい。可能性ではあるが、同盟にとり極めて重大な結果をもたらすものと確信します。それはイゼルローン要塞への攻勢が単に我々への陽動であり、別に用意された本隊が同盟領に侵攻するということです」
これには同盟の諸将も不思議な顔をするしかない。
意味が分からない。
イゼルローン要塞をかろうじてすり抜けて来るというのか?
それなら陽動という意味は通るが、とうてい現実的とは言い難い。すり抜けるのは大艦隊では無理であり、たちまち航行可能領域で隊列が伸び切ったところを横撃されるだけだ。
それこそそんな可能性は同盟軍が過去何度も討議し、あっさり諦めた戦術でもある。
ヤンは諸将の理解を促すために、敢えてゆっくりと話す。
横目でほんの何人かが戸惑っていないことを見る。その中にはアンドリュー・フォークがいた。その秀才はヤンの話の先を分かっているらしい。やはりな、とヤンはチラリと思う。
「核心を言いましょう。帝国の本隊の方こそラインハルト夫君陛下が率いて来ます。それも大胆不敵な別方向からです。はっきり言えばその侵攻ルートにはフェザーン回廊を使います」
同盟諸将は一瞬静まり返る。
その後激しくざわめきが走る。
「何だと、そんな馬鹿な! フェザーン回廊は今まで軍を通したことなどないではないか…… あまりにも規模が大きい戦略、いや荒唐無稽な絵空事だ!」
当然、そういう声を上げる者もいた。
想像もしていなかったことだ。あり得ない。およそあっていいことではない。しかし大半の将は驚きはするが腕組みをしてヤンの言葉を消化していた。
ざわめきが静まると皆を代弁してグリーンヒル大将が言う。
「なるほど、ヤン大将の言う可能性ももっともだ。あのラインハルト夫君陛下だからそういうこともありえるか。フェザーン回廊を使うという大戦略もまた、前例がないからやらない、という発想はしないだろう。それにそういう華麗なやり方が好みらしい」
そう言うグリーンヒルの脳裏には一つの場面が蘇る。
あの第四次ティアマト会戦、その冒頭で行われた帝国軍の行動は前例のない敵前横断だったのだ。
ラインハルトは今まで誰もしなかったことをしてのけた。
同盟軍は驚き、そのまま負けた。
今度はそのとき以上の大胆不敵なことをされ、いっそう重大な結果になってしまう可能性があるのだろう。
次にはビュコック大将が発言する。
「すると、同盟は二正面作戦を強いられるのじゃな。イゼルローン回廊とフェザーン回廊、どちらか一つでも破られれば同盟は席巻され、死命を制せられる」
同盟軍の実力派ウランフ中将も言う。
「総兵力は帝国の方がずいぶん多い。これは戦略を一手誤れば終わりだ。たちまち同盟は滅ぶぞ」
事の重大さに諸将が唸る。
戦いで勝った負けたの次元ではなく、国家が滅亡するのだ。百五十年続いた自由惑星同盟が。しかも戦力差がこれほどある状況なのである。
しかしここでアップルトン中将がヤンに尋ねる。
「だがヤン大将がこの会議をもちかけたからには、何か考えがあるのだろう?」
確かにそうだ。
皆は驚きを消化すると、現状の分析はともかくヤン・ウェンリーが何も対策を思いつかないことはないと気付く。
ヤンは再び皆の期待の入った視線を浴びる。
この先の話は何か。
「……そうです。同盟には帝国遠征艦隊と正面きって対抗する戦力はありません。残念ながら。そして逆転する魔法もありません。それでも勝とうとするなら、とるべき手段は各個撃破に尽きます。イゼルローン方面、フェザーン方面に別れた帝国艦隊、どちらかに重点を置いて討ちます」
やはり魔法はない。ありきたりではあるが、数で劣勢な方は時間差をつけての各個撃破を試みるしかない。それをしかし具体的にはどうする。
「うまくやるためには戦略を明確にして臨まなければなりません。端的に言えばこちらの戦力配分です。幸いなことに帝国艦隊の総数は同盟の二倍にまではならず、どうやっても圧倒されることにはならないので」
「理論はともかく、具体案としてはどうなるのかな?」
ここでシトレ元帥がまるで士官学校の口頭試問のように尋ねてくる。ヤンという生徒に。
「先ずは、フェザーン回廊を使ってくることが杞憂に終わり、イゼルローン方面だけに侵攻してきた場合です。つまり先の四万隻に更に後詰ということですが、これは要塞の力と速やかな応援をもって防衛します。苦戦するかもしれませんが、そのくらいで済む話です。次に帝国軍がフェザーン回廊を実際に使ってきた場合のことです。これは更に三つの場合に分けられます」
「なるほど、まあその三つの場合が大事だ。それで?」
「最初に帝国がフェザーン回廊を五万隻以下の軍で通過してきた場合を考えてみましょう。この場合には、イゼルローン回廊は要塞と第十三艦隊だけで防衛します。他の同盟艦隊は全てフェザーン回廊出口付近に趣き、縦深陣を敷いて待ち構えます。そうすれば地の理もあり、防衛は成功し、帝国はそれ以上侵攻を続けることはなく諦めて退くでしょう。ですがこのパターンの可能性はほとんどありません」
ここで一息つく。ヤンの話はここからが本題だ。
聞いている皆にも分かっている。
「もう一つは帝国が十万隻程度の艦隊でフェザーン回廊を通る場合です」
「ではその十万隻の帝国艦隊をどうする」
「この場合には、同盟に二正面作戦は不可能になります。いくら地の利があっても絶対的に防衛戦力が足りません。そこでイゼルローン要塞をタイミングよく放棄し、同盟の全戦力を集めてフェザーン回廊から来た帝国艦隊に決戦を挑むしかありません。打ち破れば、その後イゼルローン方面へ取って返し、時間差で各個撃破です。ハイネセンに来られる前に。むろん同盟領内を荒らされる危険性があることには断腸の思いですが、同盟という国家の滅亡には至りません。イゼルローン要塞を奪われるくらいで済みます」
「何と、イゼルローン要塞を戦う前に放棄、か……」
シトレ元帥も諸将も唸る。
通常には考えない発想だ。戦略のため要塞をあえて放棄するとは、さすがはヤンである。
「しかしこの話も無駄だと思われます。問題は最後の一つ、帝国が十万隻をはるかに超える艦隊でフェザーン回廊を押し渡る可能性です」
「そこまでの大艦隊で…… まさに未曾有だ」
「帝国の物量はそれもまた充分可能にするものです。何よりもラインハルト夫君陛下は中途半端はせず、必勝の思いで来るでしょうから。そしてゆめゆめ数の力を軽視しない戦略眼も持っています」
考えたくもないほど恐ろしい可能性だ。
統合作戦本部の会議室が凍り付く。
「この場合は発想の転換が必要になります。打つ手は非常に限られ、いえ、残された手はたった一つです。先のやり方とは全く逆に動くのです。すなわち、イゼルローン方面に同盟の艦隊戦力を集中し、素早くここで勝利を収め、その後間髪置かずに帝国領を急進します。帝国首都星オーディンをこちらが突く構えを見せれば、フェザーン方面の帝国艦隊も同盟領から退かざるを得ません」
「帝国への逆侵攻で退かせるというわけか、それしかない。しかし……」
シトレ元帥の懸念はむろんヤンにも分かる。
次の言葉こそヤンの戦略のキーであり、同盟の未来がかかっている。
「ただし難しい条件が付きます。こちらがイゼルローン回廊から帝国領に侵攻をかけるまで、フェザーン方面の帝国大艦隊を最小限の戦力で食い止め、ハイネセンを守り切らなくてはなりません。その時間稼ぎができなければそのまま同盟は滅亡します」
次回予告 第七十七話 あなたを幸せに
壮大な戦略とは別に。一人一人には物語があります