それからもルパート・ケッセルリンクとアドリアン・ルビンスキーの会話は少し続いている。
「帝国の方ではわざわざ捕虜交換をして工作員を送り込めたためにクーデターが起きたと思っているでしょう」
「それも馬鹿なことだ。まあ、帝国にはそう思わせておけ」
今度はルパートが全く同意の表情をしている。
クーデターは土壌がなければ工作員を送ったぐらいでは起こらない。
そんな簡単なものではない。
詳細に調べ上げ、誰がどう不満をもっているか、どんなつながりがあるか、実力はどうか、生半可な情報では成功はとても無理だ。
何をどう吹き込んで焚きつけるにしろ。一国の体制という代物は莫大な慣性が存在する。
それを変えるのは並大抵ではない。
「それはそうと、手駒がもう一人残っていますが。これからどう使います、自治領主」
「それはヨブ・トリューニヒトのことか。奴はもう使えないだろう」
「奴は野心もあり弁も立ちます。表舞台の役者に立て、裏から操るには恰好ではありませんか。それに軍事企業のリベートという形で多大な投資をしてきました。今捨ててしまうには勿体ないかと」
「確かにな。こちらから送り込んでいたベイ大佐はもう失敗して死んだ。その程度の人間だということは分かっていたが」
何とクーデターの首脳部に食い込み、グリーンヒル大将を殺害しようとしたベイ大佐はフェザーンの手先だった。既にその報いを受けて死んでいる。
ただし次にルビンスキーも自分に言うように話す。
「ルパート、しかしヨブ・トリューニヒトはこの時代は合わない。いや、合い過ぎている」
「どういう意味でしょう、自治領主閣下」
ルパート・ケッセルリンクには言葉の意味が分からない。
「全く平和な時代だったら奴は伸び悩んだろう。しかし、激動過ぎて実力だけが試される時代でもダメなのだ。例えれば川辺の花のようだ。川が消えても立ち枯れてしまう。しかし川の水が増して濁流になればちぎれて流される。そんなものだ」
そこを追及しても仕方がない。ルパートには哲学的なことよりもこれからのことを決める方が重要である。
「ヨブ・トリューニヒトは捨て置くに決めるとしても、これからの方針は」
「また考えねばならんな。帝国が同盟を併呑した後のことも含めて」
「それに関して、フェザーンが帝国を裏で操る方法を今のうちに確実にしませんと。債権だけではもしかするとフイにされる可能性も」
ルパート・ケッセルリンクは以前から思っていた大きな疑問を口に出した。
何かおかしい。
フェザーンは伝統的に帝国と同盟の均衡政策だった。漁夫の利を得ることこそフェザーンの利益になり、また独立維持の要だった。
なぜ急にバランスが崩れることを意図し、そして帝国によって同盟を併呑させるのだろう。
帝国を裏で操る方針とは言うが、それが簡単なことであるはずがない。
何か帝国を操る秘策や決定打があるのか。
ルビンスキーは何をもってそれが可能だと思っているのか。
返ってきた答えはルパートには理解のできないものだった。
「ルパート、帝国のことはひとまず考えなくてよい。どうあがいても、フェザーンに帝国が頭が上がるはずはない」
「それはいったい……」
「帝国自らフェザーンにひざまずく道を選んだ。今の皇帝になった時点でもう決まったのだ」
グラスの氷が半分まで溶けていた。
水面にルビンスキーの自信のある顔が小さく映る。
銀河の戦いは次のステージに入っている。
それは、ほとんどの人間の目に触れることはない。
しかしその影響はどんな艦隊戦よりも大きい。少なくとも当事者にはその規模と影響の大きさがわかっている。
フェザーン自治領主アドリアン・ルビンスキーと銀河帝国宰相リヒテンラーデ侯の戦いが今始まる。
どちらも負けられない戦いだ。
初めにリヒテンラーデは帝国内での資源採掘機器や生産プラントの国内産業保護を唱えた。
その理屈で関税率を変えた。
また、フェザーン資本の出資比率制限を掛けた。出資者の国籍公開の義務付けも行う。一種の脅しのようなものだ。
ルビンスキーは笑って放置した。
「これは面白い見世物になる。帝国はまるでわかっていない。経済は生き物だというのに」
結果として帝国の生産現場は混乱を極め、生産性は低下した。
かえって帝国に必要欠くべからざるものがフェザーンに依存していることがはっきりするだけだ。
フェザーンから見た投資環境の悪化と、それに続く投資の引き上げ検討のニュースは帝国債権の暴落を招く。結果的に生じるどうにも抑えられない金利上昇と相まって帝国の財貨の価値を著しく下げることになった。
たまらず放出された帝国の財宝、工芸品は一瞬で需給バランスを崩し相場は暴落した。
それがまた債権価値を下げ、このスパイラルが急速に帝国の富を幻のように消していく。
たった一ヶ月で帝国の数年分の生産財が名目上吹っ飛んだ計算だ。
フェザーンに打撃を与えるどころか逆に帝国がその百倍の傷を負う。
そして名目上の傷は、じわじわと実体の傷に変わっていく。
混乱から原材料が届かず生産できない工場、赤字で捨てられる農産物、飢える下層民、黒字でも潰れる商店、職を失う高級技術者、帝国経済は惨憺たる有様だ。
リヒテンラーデは帝国の財務官僚の無能さに歯噛みすることになる。
次にはルビンスキーの方から仕掛ける。
同盟と帝国の通貨交換に目に見えない障壁を作った。業務窓口の制限や決済時間の短縮などである。
貿易を支配するフェザーンには簡単なことだ。
もちろんフェザーン自体も業務の滞りは困ったことになるが、帝国の方に遥かに大きい打撃になるのだ。
通貨間の滞りは必要手数料の急上昇につながる。それを避けるため物資同士の直接交換など始めてもそれこそフェザーン商人のカモにしかならない。複雑な金融アルゴリズムや信用価値の換算、帝国人には急に理解などできない。今までフェザーンに任せっきりでそんな経験はないのだから。
この結果を見て、リヒテンラーデは対抗措置を諦めた。
フェザーン抜きの貿易も視野に入れていたのだが、とうてい出来ないことと認知した。
一連の経済戦争は、経済というものがわかっていない帝国の完敗に終わった。
帝国の財務官僚が束になってもルビンスキー一人に敵いもしない。
フェザーンは帝国に比べればたった十分の一の人口ではないか。
生産力もない。資源もない。消費するだけの星系だ。
通商と金融は確かに握っている。それだけなのに。フェザーンにこれほどの力があろうとは。帝国の文化や軍事は数百年の重みがあるが、フェザーンの経済的ノウハウもまた歴史の重みがあるのだ。
帝国の経済官僚は申し開きもできず宰相リヒテンラーデの叱責に平伏するが、逆に少しばかり疑問を持つ。
どうして今フェザーンと競う必要があるのだろう?
今までうまくやってきたのに、急にフェザーンを敵視し、潰そうとする理由があるのだろうか?
フェザーンは自治領ではあるが銀河帝国の一部に間違いない。競争相手ではなく共に栄えたらよいのではないか。
帝国宰相リヒテンラーデは病的なまでにフェザーンを目の敵にしている。
ついにそれを問いただす官僚が現れたが、厳しい表情でリヒテンラーデが答える。
「絶対にルビンスキーめを屈服させねばならん。詳細は語れんが、その理由があるのじゃ。これは正に帝国が滅亡するかしないかの瀬戸際だと思ってもらわねばならんのう。帝国を半分失ってでもやり遂げねばならんことと言っておこう」
官僚たちは返答の内容自体には納得しかねたが、リヒテンラーデの鬼気迫る様子に驚くことになった。
ただごとではない。
この名宰相は命の残り火をかけて何事かを成そうとしている。
ただし、官僚たちはリヒテンラーデがフェザーンとは言わずにルビンスキー個人を指して言ったことの意味を考えることはなかった。
しかしリヒテンラーデも悟ったのだが、フェザーンを経済的に困窮させて言うことをきかせるのは無理だった。
思った以上に帝国とフェザーンは相互依存が深い。
それにフェザーンは経済操作が巧すぎる。帝国の経済規模で何とか屈服させられると思っていたのは間違いだ。
通常の政治的手段ではどうにもならないのを感じたリヒテンラーデはオーベルシュタイン安全保障局長を呼び出した。
リヒテンラーデはオーベルシュタインのことを帝国の忠臣などとはかけらも思っていない。
むしろ伺いしれない闇がありそうだ。しかし、その能力は買っている。
今はそれが一番大事である!
このオーベルシュタインという者は謀略にかけては当代一流だ。
リヒテンラーデも今となっては知っているが、オーベルシュタインこそ先のリップシュタットの戦いの陰の立役者である。
どこまでがオーベルシュタインの手の平の上だったのだろう。銀河の歴史を決める一戦という大舞台をたった一人の者が演出していたとは。しかもほとんどの者がそうと知ることすらない。
エリザベートとアマーリエのヴェスターラント行きも「たまたま決まった」という結論になっている。誰の何の画策かはついぞ不明のまま終わった。このことだけでもリヒテンラーデはオーベルシュタインの証拠を残さない能力について密かに舌を巻いたものだ。
リヒテンラーデとオーベルシュタインの二人はこれまでも緊密な協力関係にあったが、それをもう一歩超えようとしている。
それには理由の一端を明かさなければならない。
リヒテンラーデがどうしてもルビンスキー排除すべき理由を。
「宰相閣下、お呼びと伺いまして参上しました」
帝国宰相府にオーベルシュタインが現れた。表情を消した姿はいつものことだ。
「おお、オーベルシュタイン局長、また少し手伝ってもらいたいと思っておる」
「だいたいのことは承知しているつもりです。宰相閣下。ここしばらくフェザーンに手を出しても逆撃を被るばかりなのも」
「そうじゃ。どうにも手を焼いておる。奴めを屈服させることはできん」
「それで別の手段を取る、ということでしょうか」
「局長、分かっておるなら話は早いわい。とうとう手を下さねばならんと思うてな」
やはりな、とオーベルシュタインは思った。ここしばらくのリヒテンラーデの動きはそこに集約されている。
「直接的に手を下すことこそ困難では。アドリアン・ルビンスキーはむざむざ謀殺されるくらい凡庸な者ではございますまい」
そして、それを行う理由を聞く時がきた。
それでも謀殺を決行しなくてはならない理由とは。
「宰相閣下、通信ではなく宰相府にお呼びとはその謀殺の理由をお聞かせ願えると期待しておりますが」
「そうじゃ。今話しておこう。これは絶対に秘匿すべき内容なのでな、通信などではできん」
帝国宰相という重責を担い続けてきた老人が、語る内容にふさわしく重い表情をした。
「アドリアン・ルビンスキーはある情報を持っておる。それはこれ以上なく重要で、帝国の根幹に関わるものじゃ。このままではいずれルビンスキーは帝国に牙を剥き、帝国はいいようにされる」
「それほどの情報を、ルビンスキーが手に……」
「そうなったのは偶然なのじゃ。事は数年前に遡る」
次回予告 第七十一話 秘密
ルビンスキーの切り札となる情報とは……