ここにヤンの第十三艦隊とラインハルト、キルヒアイスの艦隊とが会敵し、静かに戦いが始まる。
艦隊の動きだけを見れば、平凡な戦いにも見えただろう。決して目を見張るような速さも華麗さもない。
しかしそれは剣の達人同士の戦いを観戦するのに似ている。
極限まで集中した頭脳でお互いに裏の裏を読みつつ進み、一瞬の気の緩み、または悪手が致命傷になる。
そこにはラインハルトの天才の閃きがある。ヤンの魔術的な心理戦術がある。
お互いにオーソドックスな布陣から始まった。
その編成は中央部、右翼、左翼の各隊、中央のすぐ後ろに本隊を置く定石といえる形だ。
ここから開始された平凡な長距離砲撃の中にも感じるものがある。
今戦う相手は、これまでとは全く違う。
優れた音楽家は楽譜の隅から隅まで鮮やかに意味を感じるという。コンサートでは最初の一音でレベルが明らかになるものだ。それと同じである。
だがここから変化を作り出すのだが、最初に仕掛けてきたのはヤンの方だ。
わざと自陣中央部に間隙を作った。その後ろにいるヤンの本隊を一直線に狙えるように。
「何のつもりだ。わざとらしい」
ラインハルトはあっさり罠だと喝破した。しかし同時に考える。
「わざとらし過ぎる罠。お互いに無能であるはずのない戦い、ならば目的は一体何か。意味がないはずはない」
気になる。罠でないと仮定したら、もちろん突撃して敵本隊を叩くチャンスだ。
ラインハルトは果断さを発揮した。
「罠と思わせて迷わせ、動きに躊躇させるのが目的だ。では敵の裏の裏をかいてやる。突撃して敵本隊を叩く。紡錘陣形をとれ」
ラインハルトは一気に突入を図った。
途中まで抵抗はなかったが、途中からはそこそこミサイルの雨が来る。しかも今発射されたミサイルではなく、ラインハルトの艦隊がこのルートに来るだろうと予測して遠距離から撃たれたものだ。だがラインハルトが奏でる芸術的な艦運動はそれを被害最小限で避けきるのを可能にした。
これで罠は食い破った。
「敵本隊を撃滅する。全艦最大戦速!」
こう命じた直後に、ラインハルトには何か引っかかるものがあった。
おかしい。この程度の罠か。そんなはずがあるか! それが閃きを生む。
「右翼にいるキルヒアイスに伝達。急に動いた敵がいれば逃さず撃てと」
ラインハルトが進むといきなり効果的なビームの束が来た。帝国艦に爆散が相次ぐ。
このルートは狙いすましたクロスファイヤーポイントだったのだ。
予め狙点とタイミングを連動させて待ち構えている。
一発命中程度なら大型艦はシールドでなんとかしのげるが、同時にいくつも直撃を受けてはたまらない。
ラインハルトの側に損失艦数が急激に増える。果敢に反撃を試みたがうまくいかない。それもそのはず、単純なクロスファイヤーではなく、最前列は撃たずシールドを最大限にすることに徹し、そのすぐ後方に隠れた艦からの砲撃によるクロスファイヤーという悪辣ぶりである。
ヤンの深い心理戦術であった。
罠と感じていても、人はいったん意識するとなかなか振り払えないものである。まして相手の本隊を早期に撃滅できるかもしれないという美味しいエサがあるのだ。
逡巡していても、必ずかかる。ヤンにはその確信があった。
ヤンの手立てはそれだけではない。
先のミサイル攻撃は激し過ぎず、弱すぎず、絶妙なところに置いている。 これが罠であり、それに対処できたと安心させて更におびき寄せる。
後はクロスファイヤーで撃ち減らし、それを加速度的に濃密にすることによって立ち直れないほど消耗を強いる。
それで終わらせる。
ヤンを横で見るフレデリカは、ここまで精緻に編まれたヤンの魔術に声も出ない。
しかし、このヤンが一目置く人物がいるのだ。
それがキャロライン・フォーク。私の親友。涙もろくて心は熱い。類を見ないブラコン。他の男には決して攻略されない亜麻色の要塞。
しかし、ヤンの戦術は目的を達成できなかった。それは不完全のまま終わった。
クロスファイヤーをもっと強化するための艦の動員を止められてしまった。
最初からヤン艦隊とラインハルトの艦隊では数において大差はない。ということは普通にはその戦術は無理なのだ。ヤンはそれでも可能にするために、ラインハルトのいる本隊が進むのに合わせて遊兵になってしまう艦を移動させ、順次繰り上げて使おうとしていたのだ。
ところがキルヒアイスがもう動いている。
驚異的な速度で外側を大きく回り込み、ラインハルトの本隊へクロスファイヤーをかけるべく動員された艦に接近し狙い撃ってのだ。そういう同盟艦は必然的にキルヒアイスから見ればどうしても背を向けている格好なので撃滅も容易である。しかし、キルヒアイスの速さもさることながら、動きを予期していなければこんな攻撃はできない。
ラインハルトが天才の閃きで既に喝破していたのだ。このクロスファイヤーを。
罠がこんなものかという疑問、そんな小さいヒントから天才は正確な思考へと実を結ぶ。
ヤンもラインハルトもお互いを高く評価しながら、いったん引いて整え直す。
ここからの第二幕はまたしてもオーソドックスに対峙から始まる。
ヤンから見てこの帝国艦隊は恐ろしく強い。
神経を集中して読み勝たねばならない。
「まいったね。簡単な罠ではお気に召してくれないようだ。しかもこちらの策を妨害してくれた部隊は恐ろしく機敏で迅い。どうも帝国には人材が揃っていているようで早めに逃げ出すに越したことはない」
帝国には恐るべき部隊がある。しかし、ヤンの側に人材がいないかといえばそうではなく、フィッシャーが名人芸とされる正確な動きでサポートしている。ヤンが指令する無茶な艦隊運動でも実現してみせるのだ。参謀であるムライの注意深い観測も、パトリチェフの迅速な命令伝達もまた地味に大切な役割を果たしている。もちろんヤンにも充分に分かっていることだ。
さて、どちらが先であったろうか。
奇しくも同じ策で戦局を打開しようとした。
帝国側からワルキューレ、同盟側からスパルタニアンが出て艦載機戦に移行する。本格的な接近戦というよりは相手に混乱を招くための呼び水である。
この戦いにおいて今まで出番のなかった艦載機戦隊、シェイクリ、ヒューズ、コーネフ、ポプランの隊がそれぞれのエースに率いられて出る。
これらのエース級であれば、全体の戦局や空母の位置、補給タイミングを自分たちで考えてなんとかするだろうと見込んでのことだ。ヤンが特に心配しなくとも。
それら艦載機隊は、牽制と同時に帝国側艦載機と戦いに入るが、一部は先ほど高い機動力を見せつけた帝国部隊の赤い旗艦を狙っている。
「コーネフ、あのでかいの墜としたら撃墜何機分にする? ざっと百ってところか。まあ俺様の相手としちゃそれでも物足りないが」
「一機は一機さ。ポプラン、パズルは何文字あっても一枚は一枚だろう?」
「しけたこと言うなあ。せめて一杯おごれよ」
そう言いながら我が物顔で飛んでいく。
実際は帝国のワルキューレも必死に邪魔をするのでその赤い艦、バルバロッサに接近できるまでには至らない。
そのころ、自由に飛び回れない者もいる。
空母の主計部に所属する一人の女性士官が艦壁の窓に立ち、外の宙に向かって叫ぶ。
「オリビエ・ポプラン、戦果を上げるまで帰ってくるな! 死んでも戦え! 死んだら仇は取ってやる」
死んでも戦えと叫んでいる強い口調と、必ず生きて帰ってきてという願いのこもった瞳と、どちらが彼女の本心なのだろう。
頬に手を添える。
頬に伝うだけで済まないほどの涙滴が指に滲み、やがてそれも乗り越えてしたたり落ちる。
窓に薄く反射して見えるはずの自分の顔すら、瞳の水にかき消えるほどだ。
実は空母の女性整備兵も、みなイブリンと同じようなものだった。
発艦用意を手順通り済ませ、艦載機を空母のゆりかごから過酷な戦場に送り出す。
女性整備兵が最後にきっちり敬礼をするのは、宙で孤独な闘いを行う男へ向けた心からの礼儀だ。
その時に姿勢を正すのは、敵に一人で挑む男に勇気を与えるための尊敬だ。
しかし発艦を見届けた後、女たちは心のままに涙を流す。
心配と願いと、胸にあふれる愛情のために。
ただじっと動かずに涙の雫を落とす者がいる。おいおい泣く者がいる。
空母の床は女の涙が染み込む場所である。
艦隊戦はたくさんの人が関わる。しかし、実際戦うのは一人一人の人間なのである。
今、第十三艦隊司令官ヤンの横にいるフレデリカも闘う。自分に与えられた役目を果たす。常に索敵に気を払い続け、相手のどんな細かい動きも見逃さない。ミサイルやエネルギーの在庫報告も取りまとめる。
また戦闘中、ヤンに紅茶をいいタイミングで出す。
フレデリカにとってはそれぐらいしかできないのがちょっぴり口惜しい。
しかし、実はフレデリカがいるだけでヤンにとっては落ち着きを与えてくれる効果があったのだ。それは代えがたい大事な役割だった。
またしても戦局が変えられる。次はヤンの方から帝国艦隊へ突撃した。もうこれしかない、という最高のタイミングで。
それは素晴らしく巧緻な突撃になり、ピンポイントで帝国艦隊の中央部を突破した。
帝国側の旗艦を逃したのは残念だが、次にきれいな背面展開をして帝国艦隊の背後を取りにかかる。これはまたしてもフィッシャーが艦隊運用の名人芸を発揮したのであり、第十三艦隊の強みを存分に活かしている。
手強い相手だった。やっとこれで終わりだ。
そうヤンは考え、有利な殲滅戦に移行しようとした。
だが驚くのはヤンの方である。なぜか突破した同盟側が半包囲に取り込められ、激しい砲火を浴びせられてしまう。
実はラインハルトはヤンが背面展開すると読み切っていた。わざと簡単に中央部を突破させたと同時に全ての艦を反転させ、左右に広く移動していたのだ。いわば裏返しである。
背面展開をして再び戻ってくる相手を半包囲に取り込む。
この難しい戦術を成功させ、ラインハルトの覇気が輝く。
「世の中は広い。ヤン・ウェンリー、ここまでの強敵がいたとはな。これは不運なのか。いや違う、こんな面白い戦いができたのは幸運だ。しかし、これで終わりにしてやる」
だがヤンはもう一つ策を打っていた!
突破で通過すると同時にシェーンコップの乗る強襲揚陸艦を発進させていた。ただ一隻、敵の白い旗艦を制圧し、仕留めるために。
ヤンの思索はそこまでの領域に至っていたのだ。
ラインハルトの旗艦ブリュンヒルトはそれに気づいたが、もう接舷が避けられない距離まで近づかせてしまった。
対空砲火の死角を縫い、猛スピードで強襲揚陸艦が接近してくる。
それは小型で俊敏、しかも攻撃兵器はない代わりに一発二発で沈まないほど防御が強い。こんな宇宙空間でも狙った獲物に接触し、冗談のような肉弾戦に持ち込むことができる。もちろん強靭な兵士というものは帝国でも同盟でもそう簡単に育成できるものではなく、多数用意できるわけもないが、ピンポイントで使うには素晴らしい戦術だ。
「しまった! 白兵戦用意! ここで超接近戦の用意をしていたとは…… うかつだった」
旗艦ブリュンヒルト全域に警報が鳴る。
しかし結局、接舷はされなかった。
その前に強襲揚陸艦へ向かって味方帝国艦からの遠距離砲撃がきたのだ。
それは至近弾となり、同盟の強襲揚陸艦は肝を冷やされた。おそらく第二撃が来れば当てられてしまうと思わせられるほどの危険度だ。
慌ててジグザグの回避行動に入り、その隙にブリュンヒルトの方は充分に増速し、交差するコースから逃れた。
強襲揚陸艦としてはもう諦めざるを得ず、そのままヤン艦隊に帰還する。
「普通ならばあり得ない砲撃のため近づけず、敵の大将の首はとれませんでした。ヤン提督、残念ですが楽しみは次に取っておくことに」
「仕方ないね、シェーンコップ。あれほど接舷直前まで来ながら帝国艦が砲撃してきたのは予想外としか言いようがない」
確かにそうだ。揚陸艦は帝国の白い旗艦にかなり近いところまで接近できていたのだから、その妨害をするための砲撃が下手をして旗艦に当たったらどうするのだ。
尋常ではない。
しかも、それを白い旗艦の方で許したとすれば、よほどの信頼関係がなければできるはずがない。
それをやってのけたのは、会戦当初から動きのいい赤い帝国戦艦のようだが。
これはキルヒアイスの戦艦バルバロッサだ。
実は、キルヒアイスはブリュンヒルトが危地にあると知るやいなや自分から砲術士官に取って代わっていた。
「すみませんが、ラインハルト様のブリュンヒルトが危ないことになっています。少しの間そこを替わっていただけませんか」
そして何とキルヒアイスが自ら同盟強襲揚陸艦へ射撃にかかる。
ためらいなく撃った。
有効射程をはるか超える超遠距離射撃だ。
一撃で揚陸艦に当たりはしなかったが、至近だった。この技を見て、危険なのが分かったらしく揚陸艦は後退した。これで目的は達成、ブリュンヒルトに近づけさせなければいい。
それは大胆かつ恐ろしいほど正確な射撃であり、バルバロッサの砲術士官はしばらくの間自信喪失から立ち直れなかったほどである。「キルヒアイス司令があんな技を見せるとは、俺のいる意味はいったい何なんだ」
もちろんキルヒアイスに絶対の信頼を置くラインハルトとしては、超遠距離砲撃がバルバロッサからのものだとわかっている時点で何も心配はしていない。
「旗艦に強襲揚陸艦の接近を許すとは間抜けな話だ。しかし、キルヒアイスの射撃は相変わらず俺より上手いな」
揚陸艦は必ず阻止できる。
ましてやブリュンヒルトに砲撃が誤って当たることなど考えてもいない。
二人の信頼関係はあまりにも強く、当たり前過ぎて言葉にする必要もない!
キルヒアイスが俺のために何かするのだ。何か心配することなどあるだろうか。
「いや待てよ。キルヒアイスが揚陸艦に一撃で当てられなかったのだからよほど慌てていたのか。今度姉上に会ったらキルヒアイスでも慌てることがあったと教えて上げよう。いつも姉上には俺ばかりが叱られているからな。たまにはキルヒアイスも叱ってもらえばいい」
少し笑った後、ラインハルトは艦隊を引かせて再編にかかる。頭を冷やす時間が必要だと判断した。
同時にヤンの方も艦隊をいったん取りまとめさせた。
「ヤン・ウェンリーは確かに強い。しかし、俺にキルヒアイスがいる限り負けなどしない。この戦い、必ず勝ってやる!」
「グリーンヒル大尉、ちゃんとつけてくれてるかい。いや、超過勤務時間だよ」
「え、ヤン提督、勤務時間ですか? 艦隊戦の最中ですが……」
「勤務時間につけてくれればその分くらい働くさ」
「では紅茶を飲む時間は引いておきます」
「あ、ちょっとそれは困る! リラックスするのも勤務の内、充分な説得力だろう?」
天才対魔術師。
それぞれが相手の力を認め合い、全力を尽くす。
しばらく攻防戦は未だ続く。