この時、ラインハルトの艦隊の背後にいたゼークトの要塞駐留艦隊もやっと動き出した。今頃ゼークトにも戦況の理解が及んだのだろう。遅まきながらラインハルトに続き要塞に接近しつつある。
ラインハルト艦隊旗艦ブリュンヒルトのオペレーターが報告してきた。
「要塞表面に入港ブイ出現しています! 敵艦隊、入港ゲートに進行中!」
しまった! ほんのわずか遅かった!
ラインハルトの考えた要塞内部との呼応は絵に描いた餅となったのだ。
即座に悟り、直ちに指示を飛ばす。今からは一瞬でも貴重だ。
「全艦後退! 反転180度、散開しつつ要塞表面より全速で離脱せよ!」
要塞にそういう反応があった以上、管制が敵の手に渡ったとみなしていい。であればトゥールハンマーの危険があり、急ぎ退避しなくてはならない。
「悔しいな、キルヒアイス」
「仕方ありません。ラインハルト様。イゼルローン要塞を帝国軍が失うのはとても残念ですが、それこそ今後の活躍のしようもあります」
「確かにな。ここでイゼルローン陥落を防いでも大した戦果とは思われない。一度叛徒どもに渡してからの方がいいのだろう。軍上層部の慌てぶりも見てみたい気がする」
しかしながら、撤退が意外に手間取る。これは予想外だ。その原因をオペレーターが伝えてくる。
「要塞駐留艦隊が、進路方向にいます」
「何だと。アホウなのか。ゼークトに連絡せよ。要塞の陥落は自明、そちらも反転し全速で要塞から離脱されたし、と」
いちいち言わねば状況の変化が分からないのか。何をしている。
ゼークトから返信が来たが、内容は意外ではなくとも不快なものだ。
「武人が逃げてなんとする! 帝国軍人の意気を示すのだ。要塞にはまだ味方が多数残っているのではないか。何があろうと見捨てて逃げるわけにはいかん!」
そう時間を置かずして、当然のごとく憂慮した事態が訪れる。
「イゼルローン要塞、流体金属層表面にトゥールハンマー確認! 発射態勢にあり!」
第一射が来た。
トゥールハンマーの美しい輝きが白く伸びる。それは横から見た場合の感想であり、撃たれる側にとっては荒れ狂う狂暴なエネルギー、まさに雷神の槌である。
ただしその頃にはラインハルトの艦隊はゼークトの要塞駐留艦隊をすり抜け、間一髪後退に成功していた。
代わりにゼークト要塞駐留艦隊の中で千隻が瞬時にただの原子とプラズマの雲になり果てた。理不尽な偶然で生と死が分かれる。十万人以上のそれまでの人生がたった一つの偶然によってきれいに刈り取られたのだ。
第二射、続けて第三射、第四射が来る。
ここに至り駐留艦隊もまた算を乱してゼークトの手から離れていく。
もしも駐留艦隊だけであればまだしも統率を保てたかもしれない。ゼークトは猛将であり、それなりの統率力はある。
しかし、ラインハルトの艦隊が全力で逃走にかかっているのを横目にしなが自分たちはトゥールハンマーの圧倒的破壊力でなすすべもなく叩かれていく。
これでは自分たちも逃げる誘惑に打ち勝つことはできない。多くの艦が恐怖に包まれ、ただ逃げることしか考えられなくなった。
ゼークトはあくまで要塞への突入を考えていた。
しかし、麾下の艦隊が急速に瓦解して逃走にかかり、わずかな艦しか残されていないのを見て取り、ついに断念した。さっさとイゼルローン回廊から帝国領方面に撤退するラインハルトに続き、ゼークトも撤退する。
その途中、こんな事態になる前にシャトルで離脱していった幕僚が一人いたことを思い出した。
パウル・フォン・オーベルシュタイン大佐、こんな卑怯者は必ず左遷だ。
ここに同盟軍第十三艦隊はイゼルローン要塞を陥とした!
過去六度に渡って幾多の同盟軍将兵を屍に変えてきた大要塞は、ついにその主を変えることになった。
この報がハイネセンに届けられるやいなや同盟市民は熱狂の渦にある。
「奇跡のヤン! 魔術師ヤン!」
今まで何度も叫ばれた言葉が再び繰り返される。過去になかったほど大きな声で。
統合作戦本部でも喜びは一緒であり、大いに沸き立っている。
シトレ元帥が椅子に深く腰掛け溜息をつく。
「ヤン・ウェンリーはやってくれたようだ。君は、意外そうではないようだが。グリーンヒル大将」
「いえ、これは賭けでした。私にとっても」
「そうだろうか。なぜなら娘を傍に置いているのだろう。賭けだとしても充分に勝つと思っていたのではないかね」
当事者であるヤンは喜び半分、また溜息をついた。
「やれやれ、これで給料と年金の分くらいは働いたぞ。あとはそれもらって暮らすとするかな」
横でフレデリカがキラキラした目でその姿を眺めている。そんなつまらないセリフは聞こえてもいない。
やはりヤン提督は英雄だわ。でもあまり偉くなりすぎても困るのよ。私だけの英雄でいいのに。
慌ただしく事後処理に追われる中で、ヤンはフィッシャー分艦隊から報告を受ける。
攻略作戦中、あわやという危機が何度もあったこと、それをなんとか機略で打開したことを。
最後にはイゼルローン要塞表面を使ったビーム反射作戦だ。
それはもちろんヤンも見ている。フィッシャー分艦隊は過去誰も思いつかず、やったこともない戦術をやりとげた。その恐るべき戦術はおそらくフィッシャー分艦隊にいるキャロラインが思いついたものだろう。しかし、その他にも知略が展開されていたのだ。その異才に驚くばかりだ。
一方の帝国軍は同盟と反対の意味で大騒ぎである。
あれほどの大要塞を陥とされた。
莫大な費用を費やし、帝国の威信をかけて作り上げたものなのに。
それだけではない。イゼルローン要塞は運用を始めると、実に素晴らしいものだと判明している。生産機能、艦隊駐留機能は言うに及ばず、回廊をきっちり扼することがどれだけ戦術的優位を作り出したことか。この一点で防げたため、帝国は常に侵攻する側であり、帝国領土の心配をする必要はなかった。逆に同盟は侵攻に怯え、迎撃に回るばかりだ。そのため幾度もイゼルローン要塞を陥としにかかっていたが、犠牲を払うばかりの結果になっている。
おまけにイゼルローン要塞の有効性が判明している今から、帝国が新しい要塞を作ろうとしても無駄である。どんなに費用を使ってもそれはもう無理だ。建設途中に必ず邪魔をしてくるのは必至、そして作るより壊す方が簡単な以上建設を守り切ることは難しい。
イゼルローン要塞の有る無しで攻守は逆転し、それはもう取り返しがつかない。
この大失態の責任を取ってエーレンベルク元帥を始めとする帝国軍三長官が辞任しようとした。いかに相手が見事な策を使った結果であろうとも、要塞司令官と駐留艦隊司令官を決めたのは軍上層部であり、そこに責任があるのは自明である。ただしこの辞任表明は皇帝と国務尚書リヒテンラーデ侯によって慰留された。今辞められても代わりがいない。
そしてゼークトとラインハルトは叱責処分とされた。
ゼークトは要塞から釣り出された挙げ句、情勢の変化を読めずトゥールハンマーで大損害を受けたのだから当然だろう。しかしラインハルトに責任はなく、むしろ最善を尽くしている。それなのに帝国軍上層部は要塞にいる味方を一顧だにせず逃走したことが卑怯だといって問題にしたのだ。幸いなことにラインハルト自身はその議論を薄々感じてはいたがはっきり言われたわけではない。もちろん知れば激怒したか思いっきり落胆しているところだ。
結局、表面上は降格や左遷はなかった。
帝国軍の立て直しのためそれどころではなかったのである。
イゼルローン要塞があればこそ、存亡を賭けて真っ向からの一大決戦という事態は避けられていた。今までの年中行事のような会戦は犠牲は大きいものの、全軍での一大決戦というほどのことではない。
そのため、帝国軍正規十八個艦隊というのは名ばかり、至る所で形骸化が進んでいたのだ。むしろ貴族の私領艦隊の方が同じくらいの数まで膨れ上がり、のさばる事態になっているのがおかしい。
帝国軍を今から早急に立て直そうにも、軍規の緩み、稼働率の低下、貴族の介入、コネ人事、困難がいくつも立ちふさがる。これからの戦いの時期や規模を決めるのは帝国の側ではなく主導権を握られた以上、それに対する備えをしなくてはならないというのに。
銀河のあちこちで大騒ぎが巻き起こる中、戦艦の厨房までもが乱雑になっていた。
今回の立役者の一つフィッシャー分艦隊の旗艦で、キャロラインがアッテンボローのリクエストに応じてまたブラウニーを作るはめになっていた。
「ああ、うっとおしい」
とは言いつつ菓子を食べてくれるのは悪い気分ではない。食べる者がいなくては菓子作りの趣味はどうにも発揮できないのだ。
そして同盟軍の新しい人事が発表された。
イゼルローン要塞攻略を成し遂げた同盟第十三艦隊は増強され正式に一個艦隊になった。
ヤン・ウェンリー艦隊司令官は中将、フィッシャー副司令官とムライ参謀長は少将にそれぞれ昇進した。パトリチェフ参謀は大佐、秘書官フレデリカは大尉である。アッテンボローも准将となった。そこまでは順当だ。
最大の注目を集めたのはキャロライン・フォークである。結果として准将に昇進になった。
これには多くの人が驚きをもって迎えられた。
反対の声も少なくなかったのだ。いかに功があろうと女性士官が将官級というのは大変に珍しい。前例が全くないことはないが、少なくとも現在の同盟軍において他にはいない。
実はこれには意外にもロボス元帥が強く推挙した。
政治的な思惑があったせいである。キャロラインの兄アンドリュー・フォーク准将はロボス元帥の手の内である。ロボス元帥としては当然キャロラインも組み入れ、その名声を利用し、派閥を強化したい。
逆にそうなると対抗派閥であるシトレ元帥の出方が皆の注目になった。しかしシトレ元帥は反対はしなかった。今現在キャロラインがヤンの指揮下にあるのなら問題はないし、そして功に正当に報いることを曲げることはできない。おまけにグリーンヒル大将もまた推すほうに回っていたのである。先のマルガレーテ説得の功を意識していたからだ。
こういった政治的なことが絡み、何と同盟軍には二人のフォーク准将が誕生した!
周りはこの兄妹の関係がどうなることかと心配する。兄の方が、もし同格にまで出世したきた妹に嫉妬などすれば。
しかし、この兄妹は喜びこそすれ仲が変化することなど微塵もあるはずはない!
そんなに浅い絆ではないのだ。後にハイネセンで二人は楽し気に祝うことになる。
「いやあ、負けたな、キャロル。しかし早いなあ」
「なんだか行くところ戦いばっかりだから、こうなっちゃったのよ」
「いや、でも凄いことだ。これでもし階級章を付け忘れてもキャロルのを借りられるなあ。そりゃいい」
「兄さんには貸してあげなーい。それで次は追い越しちゃうわよ」
「困ったな。でも同盟軍のために良いことやってキャロルが出世してくれるのはいいな」
「うふふ、素直にそう言ってくれるんなら、今マーマレードクレープ焼くわよ」
だがほとぼりが醒めた頃、ロボス元帥は裏から手を打った。
キャロラインは異動になり、第十三艦隊には留まれなくなる。
同盟第九艦隊アル・サレム中将の幕僚の欠員補充を理由に異動となる。もちろんアル・サレム中将はロボス派であり、これでキャロラインを完全に取り込んだ形になる。。
また、同時にアッテンボロー准将も第十三艦隊から離されてしまい、第十艦隊ウランフ中将の下で分艦隊司令に命ぜられた。
そのため第十三艦隊でアッテンボローとキャロラインの送別会が開かれた。
キャロラインにとってこの艦隊は、うっとおしいこともあったが、暖かな艦隊だった。
フレデリカもイブリンも、フィッシャーもいた。居心地のいい艦隊だ。危険な任務もピクニックに行くような感じだった。それなのに離れるとは。
キャロラインは送別会の最初から泣いた。
いろんな思いがないまぜになって涙になり、スピーチの一つもできなかった。それをフレデリカとイブリンが支える。その様子を見ていたオリビエ・ポプランは密かにイブリンの美貌をチェックする。この後、恋人に手ひどい裏切りにあったばかりで落ち込んでいたイブリンはポプランの誘いに乗ることになる。
同盟軍元帥、ラザール・ロボスがついに動きだし、これまでにない軍事作戦を考えている。自身の名声を決定的に巨大化するために。
ハイネセンに戻ったヤンはこんな不吉な噂を耳にした。
ロボス元帥はシトレ元帥と差を付けられ過ぎ、何としても立場を逆転したいのだと。
これでは何のためにイゼルローン要塞を陥としたかわからない!
ヤンの考えるところ、帝国と和平を結ぶまたとないチャンスなのに。帝国の動揺はひとかたならず、今なら交渉の余地もある。同盟も防御体制にゆとりがありじっくりとそれを待てる。
ヤンはこれを受け、第十三艦隊を離れると決まっているアッテンボローとキャロラインの二人に話しておきたいことがあった。
そのためアッテンボローとキャロラインを家に招待することに決めた。
キャロラインが嫌と言えないように、フレデリカも併せて。
といっても、ヤンだけでは文字通り何のお構いもできない。
ここは頼れる先輩、アレックス・キャゼルヌ少将の宅を借りることにした。その上でキャロラインを誘ったのだ。
「いやあ、艦隊でやった送別会の続きをしたいんだが」
「は? 送別会の続き、でしょうか?」
「そうなんだ。フレデリカ・グリーンヒル大尉も呼んである。それに場所はキャゼルヌ少将の家にしたよ。キャゼルヌ少将のオルタンス夫人は料理上手で聞こえている。君もそういうのが好きだと聞いているからね、きっといい話ができると思うよ」
「ええ、オルタンス夫人の料理上手のことは知っています。では、是非伺わせていただきます。ヤン司令」
ヤン・ウェンリーは上司の命令として言っても構わないのに、なぜか気を遣ってくれている。ありがたいことだが、なんか妙な感じだ。
まあその招きにはフレデリカも来る。
実はキャロラインにも計算がある。
彼女がヤン・ウェンリーのそばにいるのを見るのは、きっと面白いだろう。二人が一緒にいるのを今まで実際見たことがない。
しかし、ダスティー・アッテンボローも来るのだろうか……
その時は、よもや深刻な話になるとは思いもしなかった。