戦車道は衰退しました 作:アスパラ
年初から何書いてるんだか……。
「ご機嫌ですね、カチューシャ」
「……え?」
角から現したのは、正真正銘の自分、ノンナさんでした。
「か、カチューシャ? 目が覚めたんですね?」
一瞬機能停止追い込まれたノンナさんの脳(本来の持ち主はカチューシャさんですけど)ですが、すぐに「カチューシャが目を覚まして、いたずらを仕掛けている」という現時点で最もありそうな可能性にたどり着きます。
しかし、ノンナさん姿の彼女は首を傾げました。
「寝ぼけておられるんですか? カチューシャ。カチューシャはあなたでしょう?」
その顔は本当に理解していないという風でした。ノンナさんの心中になぜだか不安が渦巻きました。
「だましてしまったことはお詫びします、カチューシャ。ですから」
「だます? 何かしたんですか?」
「ほら! あなたの体をお借りして……」
「? それはどういう意味でしょうか……」
本当に、わかっていませんでした。目の前の、ノンナさんの姿で、ノンナさんのようにしゃべっている彼女は、自分が本物の「ノンナ」であると信じ切っているようでした。
「«Катюша», также весело прийти, пожалуйста, на(カチューシャ、ふざけるのもいい加減にしてください)!!」
ついにノンナさんはロシア語で叫びました。しかし、『彼女』はうろたえることもなく、
「Так хорошо! Это практикуется во время?(お上手ですね! いつの間に練習したのですか?)」
それを聞いて、ノンナさんは逃げ出しました。
ロシア語は世界でも習得が難しい言語です。巻き舌、発音、イントネーション。一長一短で身につけられるものではありません。しかし、さっき『彼女』が発したロシア語は、正真正銘ノンナさんのロシア語でした。ノンナさんの発音で、ノンナさんの訛りで、ノンナさんが選ぶ単語でした。ノンナさんのロシア語は、自分が自分である証明でもあるのです。それを、奪われたのです。
ノンナさんは自室に、『ノンナ』の部屋にこもります。そして鍵をかけました。
「あれは一体何者なのでしょう……。か、カチューシャは……?」
ノンナさんはふと、あの時の『彼女』が、『あなたの名前は何ですか?』をかけていないことを思い出しました。
強烈に嫌な予感がし、急いで部屋に置いてあった豆本をめくります。
最後のページに、それはありました。
『本品は記憶をコピペするだけです。外しちゃったら元に戻るのでご注意!』
「記憶を……、コピー&ペースト、しただけ?」
身の毛がよだちました。ノンナさんは、『自分こそはノンナだと信じている』彼女は、単にカチューシャさんの記憶の上からノンナさんの記憶を移植しただけに過ぎない存在だったのですから。
当たり前ですが、その細胞の一つ一つ、魂に至るまでもカチューシャさんのものです。つまり今の彼女は、自分がノンナだと信じているカチューシャさんといってもよいのです。
「私は……、私は……、ノンナじゃ、ない? で、でも……」
彼女の自意識は間違いなく『ノンナ』でした。それも、頼りないネックレスの効果でしたが。
『カチューシャ、どうかしたのですか?』
『本物』のノンナさんが心配そうに扉をノックします。
「やめて……、こないで……」
彼女の声が聞こえるたびに、自分が偽者だと責められているような感覚に陥ります。ノンナさんは震えて、布団を頭からあぶりました。
「しかし、このままではカチューシャが……」
そう、このままではカチューシャさんの人格は宙ぶらりんになったまま。『カチューシャ』の記憶と人格を持った肉体は存在しないことになるのです。それを解決するには、
「これを外せば……」
『あなたの名前は何ですか?』を外せば、カチューシャさんが復活します。今カチューシャさんに入っているノンナさんの記憶と引き換えに。
「何をやってるんですか私! 外さなければ、カチューシャが……」
しかし、ノンナさんの手はチェーンにかかったまま動きません。
それはノンナさんにとって、初めて明瞭に意識された『死』でした。これを外してしまえば、自分が消える。すべてを認識できなくなる。それは死ぬことと大差ないのです。たとえ自分が記憶だけの存在だとしても。
「申し訳ありませんでした……、カチューシャ」
カチューシャさんを第一に考えてきたノンナさんにとって、これ以上カチューシャさんを殺しづつけることはできませんでした。意を決した彼女は、涙をこぼしながら『あなたの名前は何ですか?』を外しました。
「一つお尋ねしますが、あなたの名前は何ですか?」
気が付いた時、そこには見慣れない長身の女性がいました。
「ノ、ノンナです。あなたは?」
「大洗女子学園調停委員会の者です」
サングラス越しの視界が、じわじわとにじみました。
――――――
どうも、わたしです。
妖精さんレーダーに反応があり、練習後にもかかわらずこうしてプラウダ高校に赴いております。
「記憶の転写装置、ですか」
「はい……、私はとんでもないことを……」
Kさんが涙目になりながらうなだれています。正確には、Kさんの体を借りているノンナさんの記憶ですが。
妖精さんに案内されるがままに発見、回収した二つのキーホルダー。それは記憶を転写・移植するという倫理的にアウトな一品だったのです。そしてノンナさんとカチューシャさんが、その被害にあってしまったのでした。
「すでに本人の意識とは独立した自我が芽生えているみたいですね……これは少し厄介かも」
「私はどうなるのでしょうか?」
Kさん、もといノンナさんが縋り付きます。カチューシャさんの方は道具自体にそれほど記憶が定着していないようだったので問題はなかったのですが、こちらはしっかりと自意識を持っています。
「……ノンナさんにもう一度身に着けてもらえば……、いや、でも記憶混濁と人格分裂を引き起こしかねないかも……」
「うう……」
「実験がてらやってみますか?」
「しかし……それでは向こうの私の意識を殺すことになってしまいます。それは、私の望むところではありません。彼女もまた、私なのですから」
こういう道具は本当に厄介です。一体全体どうすれば……。
「……話し合いましょうか」
こういうことは考えても仕方がありません。
「ええ?」
というわけで、ノンナ―ノンナ会談が開催されることとなりました。
「…………」
「…………」
「まあ、お好きなことを好きなだけ話してください」
「すみません、まだ理解が追い付いていなくて」
本物のノンナさんが珍しく狼狽しています。
「ではノンナ1号さん、あなた、妖精さんの道具を使ったことは覚えてますか?」
「……はい、でもすぐに目が覚めて眉唾物かと諦めたのですが。……1号?」
「ノンナ2号さん、あなたの希望は?」
2号とは、見た目Kさんの記憶ノンナさんのことです。
「……私は消えたくありません。ですが、ほかの誰かを消したいと思いません」
「ではその筋で話し合ってください。こちらで」
ただ話し合えといわれても困るでしょう。経験上、こういう時は共通の危機に対処することで連携や仲間意識が芽生えるのです。
私は革表紙を模したポスターのようなものを二人の間に置き、無理やり手を触れさせました。
『プレイヤー、二名確認。リンク・スタート』
二人のノンナさんはわたしが前に苦しめられた「れきし学習すごろく―十万字-」の中に吸い込まれていきました。
「……しばらく帰ってこないでしょうし、一度大洗に戻りましょう」
二人が現実世界に帰ってきたのは、翌日の朝になってからでした。そのころにはすっかり意気投合しており、時々入れ替わることで合意したそうです。
「では我々はこれで」
「本当にありがとうございました」
銀のプレートを下げたノンナさんが深々と頭を下げました。そしてそれを外して、
「本当にありがとうございました」
「はい、どういたしまして」
二人分の言葉を受け取り、私は微笑みました。
「おそらくもともと一人分の人格だったので、そのうち自然と融合すると思います」
「だそうですよ、私」
ノンナさんはネックレスに話しかけ、それを再び首にかけます。
「わかりました。すでに、もう一人の私の思考が読めるようになっているのでその日は近いと思います」
「二人合わさって、新しいノンナさんが生まれるでしょうかね?」
「さあ?」
わたしとノンナさんはいたずらっぽく笑いあいました。
「あの、所長さん。なんだか私、すごく疲れちゃってるみたいなんですけど」
「……お疲れさまでした」
「き、昨日何があったんですか!? Mさん!? こっち向いてくださいっ!」
ノンナさんが口を挟みます。
「……スターリンにシベリア送りにされてましたよ? あれはつらかったです」
「ええーっ!?」
何も知らないKさんの悲鳴がプラウダ高校に響き渡りました。
『あなたの名前は何ですか?』---名前を書いて首からぶら下げた人の記憶をコピーし、それをぶら下げた第三者にペーストしてしまう倫理的・道徳的にアウトな一品。後日妖精さんにもっと五文字ぐらいのコンパクトなネーミングを提案したのですが、なぜか断られてしまいました。