テイルズオブフェイシア ―己が神を信ずるRPG―   作:澄々紀行

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Chapter9  光遠き目覚め

 

 深い深い森の中。豊かな葉を持つ木々の間を、舗装された道が続く。とはいえ石造りでも何でもない、剥き出しの地面が自然と慣らされただけの簡素な道だ。小石はふんぞり返り、数多の雑草が待ち構え、夜行性の獣が彼方から耳元まで声を届けてくる。

 

 時折その道を照らすのは、薄雲の間から顔を出す淡い月の光か、或いはカタカタと音を鳴らしながら通る荷馬車の灯火ぐらいであった。旅人にとっては暗い道。それが嫌なら灯りくらい持参して通れと、どこの誰が言わずとも皆が理解できよう。

 

 それでもほんの僅かな慈悲とばかりに、荷馬車のものであろう車輪の跡が道案内のように続いていた。道を照らし、荷馬車の生霊を辿っていけば――きっと森を抜けられるに違いない。

 

 

 森は獣――魔物たちの縄張りだ。夜ゆえに眠り、夜ゆえに活動するもの達がこぞって耳を立て、道を通るものを観察している。

 

 縄張りを荒らすのなら容赦しない、それ以上道を広げるのならば許さない――そう警戒するだけの魔物ならば、別に良い。道を通るもの達にとって厄介なのは、己が縄張りも関係なく、ただただ血肉を求めてふらりと現れる凶暴な魔物たちの方である。

 

 人の肉を喰いたいと望むのか、それとも特に何も考えていないのか。とにかくそういった無謀で野蛮で危険な種というものが、彼ら魔物の中にも存在していた。同種族にさえ背を向けられるほどに愚鈍なそのもの達は、どうしてだか異種同士で行動を共にし、来る人間を無差別に襲っている。

 

 

 今宵もまた、魔物の集団が、人を襲い――、

 

 

 

「――そして、その命を摘み取られる」

 

 

 夜光を背に飛びかかった魔狼(ウルフ)が一息に貫かれ、浮かぶ霊魂が魔術の風によって刻まれた。その圧倒的な攻撃を成したのは、何の変哲も無い木製の杖。

 

 杖の主――暗色のレザージャケットを羽織った一人の男が、其処にいた。男は杖を軽く振り、魔物の亡骸であったマナの粒子を払って消す。

 

 

「力量の差すらも理解せず、たとえ理解してもその差を越える強さを持てず……愚者はただ怯え、虚無を抱き、狂乱にその身を投げる」

 

 

 魔狼の異常種――巨大な肉体を持った二足歩行のヘレティックが、両腕を振り上げた直後、その身を真っ二つに引き裂かれた。強固な肉体を容易く裂いた男は、次いでマナを這わせた杖を剣のように振りぬいて、二つに分かれたヘレティックを跡形無く消し飛ばした。

 

 

「神を信じぬ輩の末路……ああこんなにも、哀れで恐ろしい」

 

 

 杖を下ろし、男はどこか悲しげに――、

 

 

「……なーんて、面倒そうな賢者を気取ってみたものの……何これすっげえ疲れるし絶対違う。暇潰しにすらなりゃしない……ってああああ独りでやってるって思い出しちまった恥ずかしい……!」

 

 

 ――悲しげに、羞恥に打ち震えていた。

 

 

「つーか、“試練”の“審判役”の俺がどうしてこんな面倒な調整しなきゃなんねーの? ちっ、これも全部あいつの所為だ……あの核野郎、おまえが燃えちまえってんだ……」

 

 

 ぶつぶつ文句を呟く男に、先程の戦いで見せていたキレの良さは感じられない。杖を力なく引きずりながら、夜の森をとぼとぼと歩いていく。

 

 

「核野郎が余計なことしなければ……この程度の魔物や障害、“あいつ”なら楽勝だった筈なのに。試練の直前になっていきなり『弱くなりましたー』とか……アドリブきかねーんだぞったく……」

 

 

 木々の間、草花の生える道無き道を男は行く。遠く、舗装された道を走る荷馬車を見つけては――大きな大きな溜め息を吐く。

 

 

「荷馬車で感知できない場所はこうして歩いて地道に潰すしかない……。あっ、“あいつ”もう入ってきやがった。大丈夫かな、強いやついないよな……」

 

 

 ぽつりぽつりと愚痴を溢しながら、時折現れる“愚か者ども”を容易く滅ぼす。

 

 げんなりと肩を下ろしながらも杖を振るう動作に無駄は無く、その姿はまさしく“戦神”とでも呼べるもの。

 

 

「……どうせ、今の“あいつ”じゃ越せやしない」

 

 

 何十体目かのヘレティックを滅ぼして、月光が溢れ落ちる場所までやって来て――男は、遠い空へと想いを馳せる。

 

 

「あんなに弱くなったんじゃあ、〈神の愛し子の剣〉は鞘に収まったまま。(まこと)の剣は抜けず、ずうっとこの世界で祈り続ける。

 ――俺は、その方が嬉しいけど」

 

 

 白い光の下。肩につくほどの赤毛を靡かせるその男は――やはりどこか悲しげに、打ち震えていた。

 

 

 

***

 

 

 見上げた空は変わらず夜だった。時折薄い雲が流れる中、星光が各々好き勝手に存在を主張している。フォルセが僅かに視線をずらせば、丸い月が地上をぼうっと見下ろしている。

 

 その光景は、幾重にも重なる葉に囲まれていた。深い森の中、生い茂った木々の間から望める夜天――まるで、一つの絵画のように美しく調和している。

 

 指先に柔らかな草が触れる。否、指先だけではない。頭の後ろから踵までその感触は続いている。どうやら己は地べたに寝転がっているらしいと、フォルセは天を仰ぎ見ながらぼんやりと思った。

 

 

「ここは……何処、だ……?」

 

 

 美しい、だが見知らぬ光景に眉を寄せる。己がいるべきは白亜の壁が並ぶ愛しき街――教団総本山グラツィオである筈だ。間違っても、こんな深い森であるわけがない。

 

 

「一体、何がどうなって…………ぐうっ!?」

 

 

 呆然としながら身を起こしたフォルセは、全身を走った激痛に呻き声をあげた。神経を直接引っ張られるような酷い痛みが、皮肉にもフォルセを完全に覚醒させる。

 

 

「っ……く、ぅ、なんて……痛みだ。あの時の禁呪のせいか? マナを破壊されるのがこんなにも、辛いとは……!」

 

 

 少しでも痛みを抑えんと、フォルセは吐き出す声をふるりふるりと震わせる。

 

 グラツィオを襲った禁呪文を受け止めたフォルセは、体内マナを無惨にもズタズタに破壊されていた。その影響で身体は水中にでもいるかのように重く、そして酷い痛みが余すところ無く走っている。

 

 身体を張って禁呪を抑えたことを後悔などしていないが、それでも痛いものは痛いと、フォルセは眉をぎゅっと寄せて俯き、止めどなくやって来る痛みを必死に耐える。

 

 

「……、マナが減ったことで、リージャも殆ど得られないか。僅かにでも残っただけ良かったと……思うべきなんだろうな」

 

 

 細く息を吐き、項垂れたまま身の内のリージャを確かめれば、初級法術がようやっと使える程度しか残っていなかった。当然だ。リージャは体内マナを放出した分だけ還ってくるのだから。

 

 どれほど信仰心を持っていようと、共に捧げるマナが無ければ意味がない。逆もまた然り。信仰心の塊のような人間に対して、マナ破壊はこの上なく効果的な“リージャ奪取”の御技だった。

 

 

(リージャを奪われてなお生き延びたということは……僕にはまだ現世で役割があるのだと、女神が教えてくださったに違いない。だから“この程度”で狼狽えるべきではないんだ、僕は……)

 

 

 激しい義務感で自らを縛り上げるものの――普段から法術に頼りきりであると自覚しているがゆえに、その眼前にある心許ない現状から、フォルセは目を背けることができない。

 

 不安で堪らない、心細くて仕方がない――弱々しく萎む己の思考に、フォルセは思わず不快気な表情を浮かべた。

 

 

 

 ガタ、ガタガタガタ――。

 フォルセの耳に、何重にも木を鳴らす音が聞こえてきた。驚くままに顔を上げ、視線を向けると、木々の間に小さな灯の光が見えた。

 

 

「この音。車輪……馬車、か?」

 

 

 フォルセの予想通り、その音は森を走る荷馬車の音だった。ゆっくりゆっくり進みながら、着実に遠ざかっていく。当然、フォルセは呼び止めようとした。が、邪魔立てするように走った身体の痛みに声を奪われ、結局荷馬車が消えるまでの数秒間、ただ視線を向けるだけしかできなかった。

 

 

「……行ってしまった。でも、少なくとも人の手が入った森だとわかった。道もある。どうにか森からは出られそうだ……」

 

 

 それより、とフォルセは視線を宙にずらした。見渡す限りに生い茂った木々――一体何が起きたのかと、鈍い頭を働かせる。

 

 

「グラツィオで、禁呪文を受けた後……そうだ、信じられないけれど、確かに身体がヴィーグリック言語に分解されたようだった。まるで、そう、このヴィグルテイン技術のように……」

 

 

 フォルセは力無く右腕を持ち上げた。

 

 意識を集中する――経本より青きヴィーグリック言語が現れ、一振りの細剣となって収束した。いつものように柄を握るも、持ち慣れている筈のそれはズシリと重く、結局溜め息を吐きながら再びしまう。

 

 物質を分解・再構築する法、ヴィグルテイン。武器も含め、旅道具一式や聖道具等、多くのものを持ち歩くために使っている身近な技術だ。

 

 日常とは切って離せないそれを非日常で垣間見たのだろうか。フォルセは自身に起きたグラツィオでの現象を思い返すが、同時に、否定を込めて首を振った。

 

 

「有り得ない。人体にヴィグルテイン技術を用いるなんて、仮に可能だとしてもどれほどの知識と労力がいるのか……」

 

 

 痛みと疑問で顔をしかめながら、フォルセは再び辺りを見渡した。周囲にはよく育った草木ばかりが、月光に照らされて揺らいでいる。仮にヴィグルテイン技術によって運ばれたのだとしても、一体何が目的でこんな森の中に放置したのか。やはりあの核の魔物が成したことなのか。疑問は尽きず、湧くばかり。

 

 

「……苛立っていても仕方がないな。此処がグラツィオでない以上、まずは無事に帰ることを考えないと」

 

 

 痛みを耐え、フォルセはゆっくりと立ち上がった。夜露で少しだけ濡れた草を踏みながら、一歩一歩、痛みに身体を慣らすように進む。

 

 ――が、フォルセはほんの数歩で立ち止まった。先程から思考を遮るようにぶつぶつと呟く物体を、どうにかしなければならないのだ。

 

 

「…………ゃ、むにゃ、んふふふふ……」

 

 

 フォルセは地面に転がっている“それ”を無表情で見下ろした。危機感の欠片もない呟き――所謂“寝言”が、近くに寄ったことでいっそうよく聞こえてくる。

 

 

「むふ、ダメよパン屋のおばちゃん……お腹いっぱい……青色のクリームパン……やだぁステキ…………むにゃ」

 

「…………」

 

「どーしよう、そんなもりもりにされても食べきれないわよぉ……うへへへへぇ……」

 

「……君は、青色のパンで涎を垂らすのかい?」

 

 

 だらしなく口許を動かす“それ”――ミレイに向けて、フォルセは溜め息混じりにそう言った。

 

 

 

 “レムの黙示録”を持つ少女、ミレイ。禁呪の影響で顔をしかめたままのフォルセと違い、彼女には傷一つついていなかった。ヒルデリアの花飾りをつけた帽子も、リボンの多い黒の服装も、そしてそれらを身につける彼女自身も――まるで、自ら其処で寝入ったかのように小綺麗だ。唯一中身の無事だけはわからないが、寝言を聞く限り恐らく多分きっと問題ない、と願いたい。

 

 

「外傷は無さそうだな、良かった。……いや念のため、少し治癒術をかけておいた方が良いか……」

 

 

 強すぎる治癒術は逆に危険だが、今の己ならそんな心配は無用だろう。自嘲も交えながらそう考え、フォルセは眠りこけるミレイに向けて手を翳す。

 

 

「安息を祈り…………っ!?」

 

 

 が、フォルセは唐突に詠唱を中断し、翳していた手をピタリと止めた。置物のように静止した彼の脳裏を、忘却していた記憶と知識がゆるりと通り過ぎていく――

 

 “異端症(ヘレシス)に対して法術は使えない”

 

 彼らは女神フレイヤへの信仰心を持たぬ、星にとって異質な存在であるからだ。

 

 信仰心という曖昧な、だが惑星ホルスフレインでは最も重要な要素を持たぬ異端症にとって、女神の愛であるリージャ、それを用いた奇跡である法術は、たとえ治癒の効果があっても毒となる。

 

 ミレイは自称ではあるが異端症だ。ゆえに彼女にとっても法術は危険。治癒するどころか、危うく害を与えるところだった――そう、思い出したのだ。

 

 

 しかし、フォルセが静止した理由はそこではなかった。翳した手を細かく震わせ、愕然とした表情で見下ろす。

 

 

「リージャが…………リージャが、応えない……」

 

 

 フォルセに残った僅かなリージャは、何故か、彼の意志にまるで反応しなくなっていた。

 

 

「何が……なんで、どうして」

 

 

 視線を宙で彷徨わせ、唇から弱々しい声を落とす。

 

 己の要とも言える力が、減ったどころか反応すらしない――その事実が、フォルセの芯をいとも容易く揺らがせた。震えて縮こまるその姿は、まるで彼が普段導いている迷い子のよう。

 

 狼狽する己を恥じる余裕すら、既に無い。フォルセは険しい表情で、もう一度身の内にある筈のリージャを探した。

 

 

(ああ、確かにある。禁呪で大半が失われたとはいえ、形作れぬほど微弱でもない……なのに、どうして応えない……?)

 

 

 体内のマナとリージャを再び――今度はゆっくりと感じ取ったからか、フォルセは幾分か落ち着きを取り戻した。とはいえ視線は揺らいだまま。背筋がゾッと冷えきった感覚は、未だ解けない。

 

 

「いただきまー……もぐ、むにゃ…………」

 

 

 傍らで、ミレイが幸せそうに身を捩った。フォルセはぴくりと肩を揺らし、彼女の方へと視線を向ける。

 

 

「…………、しょっぱ。クリームパンなのにどうしてしょっぱいのよぉ……」

 

「ミレイ?」

 

 

 ミレイはむくりと起き上がった。が、瞼は半分しか開いておらず、覚醒には程遠い。

 

 

「んもう、もうもうっ……しょっぱいままじゃ、甘くできないじゃない! あたしは甘いのが良いのよ……風で飛んでった砂糖、黙示録で、探さないと…………すうー……」

 

 

 寝惚け眼を宙に向け、何やら文句を垂れる。黙っていれば愛らしい筈なのに、口許の涎と据わった双眸と漏れでる夢の続きが、全てを台無しにしている。

 

 

「……仕方のない子だな」

 

 

 落ち込むばかりだった心をある意味力強く引き止められ、フォルセは思わず半目になりながらも苦笑した。「……あー、笑顔、笑顔……」微笑から苦みを取り除くフォルセの前で、ミレイが再び夢へと旅立とうとしている。

 

 瞼をゆらぁと下ろし、ミレイが猫のように寝転がった。

 

 余裕を取り戻させてくれたその寝顔に、フォルセは敬意ともろもろを込めまくってすうっと息を吸い――

 

 

「……おはようございまーす!」

 

「きゃあああっ!?」

 

 

 ――思いっきり、呼び起こした。

 

 

 

***

 

 

「……あ? 今何か妙に清涼感溢れるような声が……まあいいや。それよりお前だお前。ふざけんなよ、ったく」

 

 

 深い深い森の、端の方。襲い来る“愚か者ども”を蹴散らしていた筈の男が、赤毛を逆立て怒りを顕にしていた。

 

 視線の先には誰もいない――冷気を放つ暗い森が、鬱蒼と広がるだけである。

 

 

「一匹厄介なのが現れた? 感知する前に消え失せた? やっとここら一帯の調整終わった俺への第一声がそれぇ?

 ……このクソ忙しい中そんなの捜すのがどれだけ大変だと思ってんだあああああ!?」

 

 

 木製の杖で地面をブスブスと刺しながら、男は誰かに向かって怒鳴り散らした。うるさい。眠る魔物も起きている魔物も一様に苛々させるほどにうるさい。が、魔物達は皆、彼との力の差をよく理解していたため懸命に我慢していた、実に哀れ。

 

 男の力量をわかっているものだけが、この辺りでは生きていた。理解せず、無謀にも挑みかかったものは皆――男の手によって、既に葬られている。

 

 

「ぜぇ、ぜぇ……にしても、げほ……“暴走”か、やべーな。いつもなら、大した問題にもなってないのに」

 

 

 男は落ち着きを取り戻し、荒れた呼吸を整えた。地面を穴だらけにした杖で肩をこんこん叩き、全身で億劫だと表す。

 

 

「んで、加えて上もこのままなんだろ? 仮にも神の名を冠する試練でこうもトラブルが続くんじゃあ……やっぱり、止めといた方がいいんじゃねぇの?

 ……あ、駄目? ああそう……」

 

 

 男はガックリと肩を落とした。はあ、と大きな溜め息を吐き、怒鳴っていた方へくるりと背を向け歩き出す。

 

 とぼとぼと杖を引き摺りながら歩くその姿は妙に哀愁漂っていたが、それを哀れむ誰かはどこにもいない。

 

 

「わかったよ。お役目通り、俺が“あいつ”を捜して保護する。リージャの無い今の“あいつ”じゃあ、そこらの魔物相手でもコロッとくたばりかねないからな。先に上手いことエリュシオンの方へ誘導して……早いとこ、合流してやらないと」

 

 

 歩きながらも男は口を開いていた。まるで、どこで話そうとも会話が成り立つと思っているように、ぽつりぽつりと喋っている。

 

 傍から見れば大きな独り言を続ける異常者なのだが――それを訝しく思う誰かすら、この森にはいなかった。

 

 

「敵の調整さえ無ければ、とっくに合流してた筈なんだけどなぁ。……とにかく、俺は急いでエリュシオンに向かうから、そっちはどうにかして“あいつ”の誘導頼むぞ。

 ……、……は? さっき荷馬車から見かけた? とっくに目覚めて状況確認してたって? あっははは……そん時回収しとけよこの柔らか石頭あああああっ!!」

 

 

 怒号と共にぐるんと振り返り、男は杖をぶん投げた。哀れ、杖は森の奥の闇にぶつかってバキリと折れ、そのまま地面に落っこちた。

 

 四方八方、森に住む魔物から無言の抗議がジトジト寄せられる。が、男は構うことなく踵を返し、肩を鳴らして森を全力歩きしていった。

 

 

 ――パキッ。

 乾いた音をたてて杖の残骸が割れた。折れた枝同然と化したそれからは何故だかにょきりと芽が生えて、やがて初々しい若木へと成長し、遂には森の一部となってしまった。新たな住処の誕生だ。つい先程まで怒っていた魔物達は手のひらを返してうははと喜び歌い、種族も何も関係なく仲良く一緒に小踊りし始めた。気味の悪い、しかし妙にしっくりくるその光景は、魔物達が解散するまでだらだらぁと続く。

 

 

「ったく、こういう時ばっかり手引き通りつーか、なんつーか……まあいい。今は“あいつ”のことだけ考えよ。考えてもなんでか居場所わかんねーけど。何処にいんだホント。ああもうあの核野郎のせいだろマジで覚えとけよ……」

 

 

 背後で起きている歓喜の踊り含むあれこれを無視し、男は苛立ちを呟きながら、しかし迷うことなく森の中を進んでいく。

 

 

「……、待てよ?」

 

 

 そして、唐突に立ち止まった。

 

 

「よく考えたら此処、めちゃくちゃ端の方じゃん。うわ。だったら先にエリュシオンに帰って、そっから森まで逆走した方が“あいつ”と早く合流できる気がする。どうしよ。

 ああああ……! いいやもう考えるより先に行動だ、行動…………っ!?」

 

 

 空気が、ピンと張り詰めた。男の纏っていた怒りや焦りはすうっと掻き消えて、しかしより鋭利な感情となって周囲を漂い始める。

 

 

「…………」

 

 

 夜風が一層冷えて緑を揺らす。玉のごとき月が薄雲の後ろから顔を出し、男を天上からじっと見下ろした。――男の、黄金の色を有した双眸が返すように空を見上げ、月光に眩み、そして至極面倒臭そうに歪められる。

 

 

「……、いる」

 

 

 男が唸った。

 

 

「“あいつ”の隣に――“異端”がいる」

 

 

 

***

 

 

 騎士団仕込み――かどうかはわからないフォルセの特大「おはよう」を耳元に食らい、ミレイはそのまま浮く勢いで跳ね起きた。余程驚いたらしい、未だにきゃあきゃあと喚いている。

 

 圧し殺した苛立ちや不安までも滲み出たのか――フォルセの“囁いた”「おはよう」は妙にハツラツとしており、寝坊助を叩き起こすのにはある意味丁度良いものだった。らしくないことをした、とフォルセは密かに溜め息を吐いたが、実はちょっとだけスッキリしていたりする。

 

 

「……きゃあああ、あ、ああ…………ふああああ」

 

 

 夜天に届くほどの悲鳴が、大きな大きな欠伸に変わった。能天気なその姿に、フォルセはかくんと脱力する。

 

 

「はふ。……あービックリした。おはよう、聖職者サマ。ところで此処どこ?」

 

 

 ゆっくり時間をかけて覚醒したミレイは、眼前の見知った姿に落ち着きを取り戻し、次いで周囲をきょろきょろ見渡した。

 

 ミレイからの問いに答えを持たないため、フォルセは困ったように微笑を深める。

 

 

「残念ながら、存じ上げません」

 

「そっか。聖職者サマでもわからないんじゃ、どうしようもないわねぇ……」

 

「申し訳ない。私もまだ目覚めたばかりで、状況を殆ど把握できていないのです」

 

「ううん、大丈夫。街で戦ってたと思ったらいきなり森だなんて、誰だってワケわかんなくなるわよ」

 

 

 ミレイは手をひらひらさせて笑った。案外と楽観的だ。不安になるよりずっと良いが、こうも気にならないものかとフォルセは首を傾げる。

 

 

「あの、核の魔物やグラツィオのこと……気にならないので?」

 

「? 気になるわ。でもここで気にしても仕方ない、でしょ?」

 

「それは、そうですが……」

 

「じゃあいいじゃない。グラツィオには聖職者サマ以外にも騎士はいるんでしょ? あれだけ粘ったんだもの、きっとどうにかしてるわよ。

 それに……」

 

「……それに?」

 

「あの魔物、〈神の愛し子の剣〉を狙ってるみたいだった。ならグラツィオに残らないで、また聖職者サマのところに来るかもしれないわよ」

 

 

 なるほど、とフォルセは納得しかけた。だがどうだろう。自分が本当に〈神の愛し子の剣〉だったとして、ここまで弱体化した自分がまだそうと言えるのだろうか? それに〈神の愛し子の剣〉を狙っているなら、こんな場所に放置する意味もわからない。

 

 とはいえ、ミレイの言う通り考えていても仕方ないことだ。グラツィオは無事だと祈りながら、とにかく急いでグラツィオに帰ろう。そのためにもまず、此処がどこなのか、どうすべきか、慎重に考えねばなるまい。

 

 

「そう、あなたは〈神の愛し子の剣〉……これで安心。うぷぷぷぷ」

 

 

 何がどう安心なのか。ミレイの怪しげな笑い声に、フォルセは早くも不安を覚えた。

 

 

「うぷぷ……あ、こほん。ど、どこの森だか知らないけど……とにかく抜け出さなきゃ始まらないわよね。テキトーに歩いてたら、いつか出口に辿り着くかしら」

 

「……、先程、向こうを馬車が通っていきました。残念ながら呼び止めることはできなかったのですが、恐らく森の外へ通じる道があるのだと思います」

 

「そうなの? それじゃあ早速行ってみましょうよ」

 

「いえ、夜明けを待とうと思います。……規模が知れているならまだしも、この森がどれほど広いのかわかりませんから」

 

 

 夜の森は危険である。明かりさえあれば進めないこともないが、念には念を入れるべきだ――特に今は、フォルセ自身が普段通りと言えない状態なのだから。

 

 が、フォルセの事情を知らないミレイは、当然のように首を傾げた。

 

 

「聖職者サマが一緒なら、ちょっとくらい暗くても大丈夫じゃない?」

 

「あれほど無様にやられたのに、安心などできないでしょう」

 

「そんなことないわ。あれは別格よ、別格。あんな凄い術まで使ってヒキョーじゃない。

 あんなのがホイホイ出るわけないし、普通の魔物なら楽勝でしょ?」

 

「……うっ、それは、」

 

「あっ、モチロンあたしだって協力するわよ。借りだって返せてないもの。魔物と会ったら戦うし、なんだったら料理でも応援でも何でも……」

 

「いえ、実は……」

 

 

 フォルセは一瞬迷い、口を開いた。

 

 

「グラツィオで受けた禁呪の影響で、リージャの殆どが消失してしまいました。その所為か……現在、法術が全く使えません」

 

 

 そう告げるフォルセの顔には、悲哀がたっぷりと浮かんでいた。隠し通すことも考えたが、ミレイの言う通り、今後魔物と遭遇する可能性は充分にある。ならば先に告げておくべきだと判断したのだ。

 

 が、今もなお全身で感じている激痛に関して、フォルセは一言も告げなかった。こちらは教えることではない、自分が耐えればいいと、当然のように決めこんでいる。だからこそ、見え見えの悲哀を浮かべているのだ――法術を使えぬことだけが、唯一の問題だと言うように。

 

 

 思惑通り――フォルセが他にも問題事を抱えているなどとは露ほども思わずに、ミレイは大きな眼をうるりと潤ませた。

 

 

「ウソ……聖職者サマ、法術使えなくなっちゃったの? そうよね、あんなに凄いの受けて平気な筈ないわよね。ゴメンナサイ。あたし、全然気付かなかった……」

 

「貴女が気に病むことではありません。……覚悟の上で、あの禁呪を受け止めたのですから」

 

 

 死ぬ覚悟であって、リージャを失い生き延びる覚悟ではなかったのだが。

 

 

「……わかった。聖職者サマが言うなら、もう気にしない。でもその分、あたし頑張るから! 入信以外なら何でも言ってちょうだい!」

 

「にゅ、……本当に異端症なのですね」

 

「そうよ? む……なによ、怒ってるの?」

 

「怒ってはいませんが……その……」

 

 

 言い淀むフォルセを、ミレイは一転不機嫌を顕にした顔で睨む。

 

 

「異端の何が悪いのよ! イイ人だって沢山いるのよ? えーっと、えーと……」

 

「違います……ただ、異端と告げるのには相当な勇気があっただろうと思いまして。

 私を想って、あの場に留まろうとしたのでしょう?」

 

「えっ? う、うん……だって、助けられてばかりだったし。せっかくの〈神の愛し子の剣〉だし……」

 

 

 感情豊かな娘だな、とフォルセはもじもじ照れ始めたミレイを微笑ましく思う。同時に、そうまでして〈神の愛し子の剣〉――元を辿ればレムの黙示録にこだわり、従う理由は何なのかと疑問を覚えた。

 

 

「貴女は……何故、レムの黙示録を?」

 

「! それ、じ、尋問!?」

 

「……夜も遅いですし、何を願っているのかだけお教えください」

 

 

 豊かな感情を諌めるのはいささか面倒だと、フォルセは笑みの裡で思っている。

 

 

「あたしの願いは……“皆を救うこと”よ」

 

「みんな?」

 

「あたしの家族。仲間。あたしの大切なヒトたち。皆を救うため、あたしはレムの黙示録を持ってやって来たの。

 ……ねぇ、もういいでしょ? まずはこれからどうするか考えましょうよ」

 

「……、そうですね。ありがとうミレイ。それでは……」

 

 

 じっと見定めるような目つきに怯えたのか、ミレイは半ば無理やり話を断ち切った。それに気付き、フォルセは慌てて笑みを浮かべる。

 

 

「先程も申し上げた通り、夜明けを待って行動したい。野宿、ということになりますが……宜しいですか?」

 

 

 ミレイの旅経験がどの程度なのか知らないため、フォルセは気遣うように窺った。

 

 

「野宿かぁ……野宿、はっ」

 

「ん?」

 

「な、なんでもない! ええっと、野宿よね……二人っきりで眠るのよね……そうねぇ……」

 

 

 ミレイは頬をサッと染めた。野宿するのだと改めて告げられ、急に気恥ずかしくなったようだ。上目使いで視線を返し、次いで振り払うようにニカッと笑う。

 

 

「へっちゃらよ! ……って言いたいところだけど、実は暗いし肌寒いしちょっと怖い。野宿は良いけど焚き火とか欲しいかも?」

 

「そうですね……少し風も出てますし、木々も近い。周りに燃え移るかもしれません。ランタンなら何かあっても対応できますので、そちらを用意しますね」

 

「ランタン?」

 

「テントの中だと、結構暖かくなるんですよ。周囲の火のマナを使う魔術道具なので、扱いも簡単ですし」

 

「簡単? なら、あたし点けてみたい!」

 

「ふふ……、少々お待ちを」

 

 

 興味津々なミレイに苦笑し、フォルセは腰の経本を手にした。

 

 開いた頁から青い文字列が螺旋状に浮き出で、収束する。カシャンと音をたてて、ランタンがひとつ現れた。使い方を教えながら渡すその手は細かに震えていたのだが――受け取ったミレイも、どころか張本人たるフォルセですらも、それに気付かなかった。

 

 

「……、どうぞ。私は他のものを用意しますので、点いたら教えてください」

 

「りょーかい! えっとー……まずは自分のマナで、中の魔法陣を起動させる。小さな火が点いたら、横のハンドルを回して調整……」

 

 

 フォルセに教えられた通りの方法を復唱しながら、ミレイはランタンを弄り始めた。瞳を輝かせて点けるその姿は、まるで初めて外に出た幼子のようである。

 

 ミレイを尻目に、フォルセはテントや食材を探して経本を捲っていた。中身の確認はグラツィオで受け取った際に一通り行っていたが、まさかこんなにも早く使うことになるとは思ってもみなかったと、脳裏で静かに苦笑する。

 

 

 暫く経つと、わーお、という驚嘆と共に、橙の灯が森を照らし始めた。高くそびえる幹が夜闇に淡く浮き出で、木々の高さ、森の広さを知らしめる。

 

 己の調整一つで加減の変わる火をウキウキと見つめ、ミレイは元気よくフォルセを呼んだ。

 

 

「聖職者サマ! ランタン点い……」

 

 

 ――ドサッ!

 呼び声は、経本が落ちた音で遮られた。ミレイがポカンと口を開けるその先で、持ち主である神父は、何が起きたかわからない様子で己の手を見つめている。

 

 

「……、聖職者サマ?」

 

「…………? ああ、すみません、手が滑りました……」

 

 

 ミレイに呼ばれ、フォルセはハッと我に返った。珍しく取り繕うような笑みを浮かべ、地面に落とした経本を拾う。

 

 

「経本が落ちるような音じゃなかったけど……それより、ランタン点いたわよ! もっとあったかくした方がいいかし、」

 

「うっ……!?」

 

 

 フォルセは素早く経本を拾い、近付いてきたミレイから逃げるようにバッと後退りした。背を木の幹にドンと打ちつけ、硬い表情でミレイを――というより、その手に持たれたランタンを凝視する。

 

 

「……、……、聖職者サマ?」

 

 

 ミレイは再度、フォルセを呼んだ。心配を通り越して不審を滲ませる声色で、当然表情にもそんな心境が浮かんでいる。仕方ない。折角点けたランタンを見せただけで、何故か持ち主が尻尾を踏まれた猫のように逃げてしまったのだから。

 

 当のフォルセも、自身の行動に深い困惑を浮かべていた。視線はずっとランタンに向いている。だが慌てて後退った理由にはてんで思い当たる節がない。

 

 

(なんだ、いきなり……ランタンが点いた途端、全身が浮ついたような、妙な違和感に襲われた。いや、今もおかしい。明らかにおかしい。ランタンというよりは、寧ろ……)

 

 

 フォルセの視線が、ランタンの中身に向かった。

 

 

「うぅうううう……!! もう、もうもうっ、聖職者サマ! あたしを忘れないでちょうだい!!」

 

「えっ! あ……あう、すみません」

 

 

 耐え切れず怒ったミレイに、フォルセはビクリと肩を揺らした。笑みを失敗しながら経本を抱き締め、視線を左右に彷徨わせる。

 

 

「火の光と、月光が重なって、少し驚いてしまいました。ええ、そうです、眩しかっただけです、問題ないです……」

 

「ホントに? なんだか、聖職者サマらしくない逃げっぷりだったけど」

 

「……私とて、驚くことや怖いことの一つや二つ、ありますよ」

 

 

 言いながら、フォルセは瞼を震わせた。微細なその動きはミレイに気づかれることなく収まったが、当人の心中は荒れる一方だった。

 

 

(……まさか。いやそんな筈はない)

 

 

 ふと思い当たった“奇行の理由”に、真っ向から拒絶を示す。

 

 

(女神の従僕に相応しくあるため、僕はとうに乗り越えている筈だ……)

 

 

 だから失せてくれと――フォルセは内心に渦巻く動揺を冷たく、必死に振り払った。

 

 

「……火の大きさは、それで結構です。あとは貴女にお任せします」

 

 

 意を決して――そんな心構えが必要であることにも苛立ちつつ――フォルセは微笑み、頬を膨らませているミレイに視線を向けた。

 

 火の橙と真白の光が混ざり、森を形作る木々が映える――

 

 

「っ……? ミレイ」

 

「なぁに?」

 

「……レムの黙示録が」

 

 

 えっ、とミレイは声をあげ、フォルセの指差す先を見下ろした。彼女が腰に提げていた白い本、レムの黙示録が眩い光を放って輝いている。

 

 

「なっ、なに!? やっだ全然気付かなかった! もしかして、また何か魔物が……」

 

 

 グラツィオに現れた核の魔物のことを言っているのだろう。ミレイは少しだけ怯えながらもランタンを置き、黙示録を取り、光に目を細めながら頁を開いた。

 

 グラツィオでミレイが語った予言めいた文章以外、何一つ書かれていなかった頁に、ヴィーグリック言語の文が新たに書き記されていく。あわわ、とミレイが狼狽えている間にそれは書き終わり、光は次第に収束し、消えていった。

 

 

「……なにか、変化はありましたか」

 

 

 地面に置かれたランタンを惑いながらも慎重に拾い、フォルセは固まるミレイに問いかけた。

 

 ギギギ、と錆びれた歯車のように首を動かしたミレイは、同じような動きで黙示録を持ち直し、フォルセに見せた。

 

 

「文章が、増えた。でもあたし、ヴィーグリック言語読めないからわからない……」

 

「読めない? 貴女が最初に口にしたあの文章は、ヴィーグリック言語で書かれていたのですよ?」

 

 

 訝しげに言ったフォルセに、ミレイはあう、と声をあげた。困惑が多分に含まれた声を二度三度と溢し、動揺を大いに表す。

 

 

「あ、あー、えーっと、それはね……最初から、何て書いてあったかわかったの。見た瞬間、これはこういう意味の文なんだって、心から思ったのよ」

 

「……つまり、読んだわけではないと? 確かにヴィーグリック言語の解読は、フラン=ヴェルニカ教団の者ですら難しい。ですから、貴女がアレを読めたことに驚いてはいました」

 

「ふ、ふーん……きっと、あたしが黙示録の正当な所有者だから読めたのね。でも今回は読めないみたい。えへへ、ザンネーン……」

 

 

 どう足掻いても不審を買うだろう顔を明後日へ向け、ミレイは引きつった笑みで頬を揺らした。

 

 

「……わかりました、私が読みます。御貸しください」

 

 

 それ以上突っ込みはせず、フォルセは自然な動作で手にしたランタンとレムの黙示録を交換した。ホッとしつつも黙示録に目を向け、刻まれた文章を解読する。

 

 

「……、……これは」

 

「なになに、何て書いてあるの?」

 

 

 再び持たされたランタンをカシャンカシャンと鳴らし、ミレイは興奮ぎみにフォルセと黙示録を覗き込んだ。

 

 フォルセは黙示録を見つめたまま、解読した文を読み上げる。

 

 

「『此処は女神が創りし試練の場。名を夢と現の狭間たるゲイグスと称す。今宵のゲイグスは病み続き、奈落の日はいつまでも昇らない』」

 

 

 フォルセの視線が僅かに下がる。

 

 

「『子の叫びに耳を傾けよ。汝が剣を抜くために』」

 

 

 読み終わった。パタン、とレムの黙示録を閉じる。フォルセはそれ以上何も言わず、動かず、読み上げた文の意味を考える。

 

 

「“夢と現の狭間”って、あの核の魔物も言ってたわね。それの名が“ゲイグス”……ええっと、この森の名前? それとも、土地かしら」

 

「わかりません。聞いたことのない名称なので、もっと違うものの名なのかも……。それより、“病み続き”……“奈落の日は昇らない”……」

 

 

 ぶつぶつ呟きながら、フォルセはふと空を見上げた。

 

 木々の間から見える夜空には月が浮かんでいる。雲が流れ、確かに動いているのだが――

 

 

「前半部分は、夜が明けない、と言いたいのかもしれません。言葉通りに受け取れば、ですが……」

 

「明けない? えっ、じゃあずっと夜ってこと!? 朝来ないってこと!?」

 

「教団の設立当初に書かれたとされる書物に、これと似た文章が記されているんです。

 ――二千年前に女神フレイヤと勇者が治めた争乱を『明けぬ夜』、または『治らぬ病』と呼び、そして荒廃の続いた長い年月を『日はアビスに呑まれていた』……と」

 

「つ、つまり……この黙示録の方の意味は?」

 

「『今夜のゲイグスは明けぬ夜がずうっと続きますよ!』……という意味かと」

 

「…………、…………いっ」

 

「いっ?」

 

 

 少女の愛らしくあるべき顔が、酷いことになった。

 

 

「……ぃいやあああっ!! ジョーダンじゃないわよぉおおおおおっっ!!!」

 

「落ち着いてください。……周りの魔物が起きますよ」

 

「だって大変じゃない! 重要事項じゃない! このまま森を彷徨い続けるかもしれないじゃないぃいいいっ!!」

 

「まあそうですが。み、見知らぬ土地に来ても落ち着いていたのにどうして……」

 

「それとこれとは話が別よ! ずっと、ずーっと暗いってことは……!」

 

「わ?」

 

「オバケとか出るかもっ! いやぁあああ!!」

 

 

 叫びまくるミレイに、フォルセはつい生温い視線を向けた。が、オバケはともかく、一応気持ちだけなら彼女と同じだった。教団が保管する書物を元に読み解いたとはいえ、フォルセ自身、己の考えを信用できていない。

 

 夜明けが来ないなど、俄かには信じられないことだ。だが、もしそれが本当のことであるならば、これから始めようとしている野宿は何の意味も成さないことになる。訪れぬ朝を待って永遠に森住まいなど――想像するだけで、身悶えしそうである。

 

 

「ぜぇ、ぜぇ、げほごほ……」

 

「……落ち着きましたか?」

 

「はぁ……ど、ドンとウォーリアぁ……」

 

 

 ぐにゃりとへこたれるミレイの姿に、フォルセは苦笑を隠しきれなかった。気を引き締めねばならないのに、同行者がこの有り様では否が応でも和まされてしまう。

 

 ミレイの騒ぎように比べれば、言語のちょっとした狂いなど取るに足らないものだ。色んな意味で目が離せない。なんて面倒な子だろうか。

 

 

「さて、どうしましょうか。私の解釈が間違っていると信じて野宿するか。それとも夜は明けぬと覚悟して先へ進むか……」

 

「せ、選択肢がその二つなら……あたし、先に進むべきだと思う」

 

 

 おや、とフォルセは片眉を跳ねさせた。感情豊かに明けぬ夜を怖がっていた少女は、存外しっかりとした芯を持っているようだった。

 

 

(いや、彼女が異端症である時点で……芯の強さは知れたことか。神への信心もないのによく……)

 

 

 進むか、それとも進まぬか。ただそれだけの問いだったが、フォルセが感心するほどには、ミレイの表情は強く真っ直ぐなものだった。

 

 盛大な怯えに負けぬ芯、心の支え――ミレイにとってのそれは一体何であるのか、続く言葉で再び知れることとなる。

 

 

「レムの黙示録に刻まれたんだから、きっとこれも〈神の愛し子の剣〉のための言葉なのよ。だから、〈神の愛し子の剣〉である聖職者サマが言うならその通りだと思うし、このまま出口を目指して進んだ方が良いハズ!」

 

「……私が黙示録に読まれた存在だからこそ、その解釈も正しいに違いないと?」

 

「そういうこと!」

 

 

 ミレイの迷いない瞳を見て、フォルセは納得した。――彼女の言い分にではなく、態度の変わりようにである。

 

 グラツィオで声をかけた時のミレイは、まさに警戒心の塊のようであった。短い間に色々あった。助けもした。情けない姿を見せもした。が、それだけで異端症の警戒が解けるだなどと、神父であるフォルセは思わない。

 

 

(僕のことを黙示録に読まれた〈神の愛し子の剣〉だと信じているのが、警戒を解いた一番の理由なんだろうな。自分がそんな大層なモノだなんて思ってないけれど……行動を共にする以上、警戒されているよりかはずっと良い。

 ……どうであれ、迷い子に応えるのは義務だ)

 

 

 信頼されている分だけプレッシャーを感じるのは、聖職者ゆえの性なのだろうか。

 

 

(それに……異端でありながら願いのため進むこの娘に、僕は……)

 

 

 双肩に乗る信頼と痛みの重みを流しつつ、フォルセはにっこり笑う。

 

 

「わかりました。では充分に注意して、先に進んでみましょう。

 文章後半……『子の叫びに耳を傾けよ。汝が剣を抜くために』の意味は、まだわかりませんが……」

 

「大丈夫よ。あたしだって、よくわかんないままグラツィオに行ったけど、こうしてちゃんと聖職者サマに会えたもの。だからきっと、進んでみたらいつかわかるわ!」

 

「そうだったんですか。良かったですね。……本当に」

 

 

 夜空の月が、丁度よく雲で隠れた。再び顔を出されるその前に、フォルセは滲んだ呆れをさっさと隠す。

 

 傍らで過ぎ去った失笑に気付かぬまま、ミレイは手に持つランタンをグッと掲げた。

 

 

「善は急げ、朝が来ないならこっちから出向くまでよ!

 さあ聖職者サマ、さっき言ってた荷馬車が通ったっていう道に、早いとこ行ってみ……」

 

 

 ――ぐるるるる。

 

 

「…………」

 

 

 響き渡った腹の音が、昂った鋭気に水をぶっかけた。

 

 フォルセは折角直した微笑を崩し、眼を丸くする。

 

 

「……、う。う。……うっ。ううううう……!」

 

 

 拳を上げたまま、ミレイは全身から湯気が出そうなほどに熱し、震え始めた。ぐるるるる。追撃がかかる。ぐきゅるるる、るるる。耐えきれず、ランタンをガシャンと落とした。

 

 

「……、今後のことを考えて、やはり少し休憩してから進みましょうか」

 

「…………」

 

「サンドウィッチくらいなら、すぐに御用意できますよ? グラツィオで作られた特製のパンを使いましょう。食べられないものがありましたらお教えください」

 

「……ハイ、オネガイシマス…………」

 

 

 ミレイは消え入りそうな声で返事をした。羞恥を払うこともできぬまま、ランタンを弱々しく拾い、フラフラと近くの木に近寄って蹲り、うぉああああ、と謎の呻き声を発し始める。

 

 

(これ以上呻く前に、早く作ってあげねばならないな。……下手したら、蒸発して消えてしまいそうだ)

 

 

 今度こそ隠せなかった呆れと笑いの混ざった顔で――身体の痛みで声無く呻き、フォルセは少女のため、休憩の用意をし始めるのだった。

 

 

 




2015/05/25:完成
2016/11/13:加筆修正
2016/12/01:ハーメルン引越し

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