……ただ、それだけさ……
--AM0:30 雨水
ついさっきまで見えていた満月は、厚い雲に覆われたのか、かけらも見えなくなっていた。もう月光はない。街灯もないこの辺で、今日頼れるのは、少しの標識の反射と、クルマのライトだけだ。
「それじゃあ位置について」
寺田先輩の指示に従って、車を移動させた。隣では、鈴木先輩のS2000が、そのエンジンを低い声で唸らせたまま、ただじっと佇んでいる。
車を位置に付けてすぐ、トントンと、窓をノックする音が聞こえた。星野先輩だ。声が聞こえるように、窓を開けた。
「雨水、アンタ自分のケータイ持ってきた?」
「ええ、ここに入れてますよ」
「じゃあそれ出して。自動車部のグループには入ってたよね? スピーカ状態にして、グループ通話を入れて」
その言葉に従い、俺はケータイを取り出し、チャット用のアプリを起動した。自動車部に入って間もない頃、連絡が楽だからという理由で入れるよう言われたモノだ。半分は雑談用と化しているふしがあるけど……
グループ通話に参加し、スピーカをオンにする。するとケータイから、中嶋先輩の声が聞こえた。
『やほー雨水、聞こえる―?』
「聞こえますよ。そっちは?」
『聞こえるよー。そう言えば、雨水が通話に参加したの初めてじゃない? チャットも全然でないしさ』
「チャットには顔出してるじゃないすか」
『了解、とか何時に行きます、とか事務連絡ばっかじゃん。もっと雑談とかにも参加しなよ、淡泊だなー』
そんなこと言われても、女子グループの通話に入っても話せることないしなあ……一回チャット見てみたら通話履歴5時間って書いてあってびっくりしたよ。いわゆるガールズトークってやつはそんな時間まで盛り上がれるんだろうか?
「へいへい。じゃあいつか参加させて頂きますよ」
『絶対する気ないやつじゃんソレ、まあいいけど……それより、このケータイで一般車が来たらすぐ言うから、この状態で車のどっかに固定して』
「ああそうだ、雨水これ、ケータイ用のホルダー。いい場所がないならこれ使って」
そういって星野先輩は、ポケットの中からホルダーを取り出して、俺に手渡した。車に取り付けるための、小型のやつだ。
俺は「どうも」と言ってそれを受け取った。見てみると、タンポポのシールがところどころに張られている。少し意外だ、好きなんだろうか?
「……なんだよ、文句あんの?」
「あ、いえ、なんでも……」
どうやら顔に出ていたらしく、星野先輩は俺を睨みながらそう言ってきた。それを見てからかいたい気持ちも少し出てきたけど、倍以上に仕返しされる未来しか見えないので、俺は黙ってホルダーを付けて、そこに自分のケータイを固定した。
「よし、こっちは準備OK。鈴木、そっちは?」
「こっちもOK、いつでも行けるよ」
隣と通話状態のケータイ、両方からスズキ先輩の声が聞こえた。どちらの準備もできた。あとはカウントがゼロになるのを待つだけだ。
「よーし、カウント始めるよ!」
寺田先輩のその言葉を皮切りに、あたりは水を打ったように静まり返った。エンジンの鼓動だけが、待っているように響いて、それが暗闇の中に溶けていく。
「3、2、1……」
アクセルを
「GO!」
潰した
金切声
レッドゾーン
シフト
S2000が前に出た
テールランプが、怪しく尾を引いている
『お先!』
電話越しの受け答え、鈴木先輩は心底楽しそうな声色でそう言った。S2000は尚もスマートに加速を伸ばす。でも全体的な速度なら
すぐにカーブ地点に差し掛かる。
テールが赤く光る
最小限にリアを滑らせて
インに入る
タイヤが焦げる音
それが鳴ったと思っていたら
彼女はとっくにアウトに出て
次のストレートへと加速してゆく
「マジかよ……」
そう言う俺の顔は今苦笑いでもしているのだろうか? でも、悪い気はしていなかった。むしろ、鋭く加速していくS2000をみて、見惚れてさえいたと思う。
「……キレイだ」
多分無意識に言ったのだろう。普段ほとんど言わないようなことが自分の口から出てきて、少しだけ驚いてしまった。
見惚れるのもいいけれど、今は走っているんだ。クルマに愛想を尽かされない程度には、かっこつけなきゃな。そう思って、俺は気を取り直した。
……けれど、サイドミラーに一瞬だけ、閃光が見えた。遠くに小さく、けれどものすごいスピードでこちらに来ているように見えた。
『雨水、鈴木、聞こえる?』
少し焦ったように、星野先輩が通話内で俺たちを呼んだ。
「どうしました?」
『一般車両だ。でも速度が普通じゃない。多分他の走り屋だ』
『車種は何だった?』
鈴木先輩は何か感じるものがあったのか、星野先輩にそう聞いた。けれど俺にはそれが何なのかはもうわかっていた。
……もう後ろに、来ていたから
『車種は暗くてよく見えなかったけど、多分黒か……』
「『アンバーの、ポルシェ』」
気づけば、そいつはボクサーサウンドを響かせて、俺のそばにいた。でもなんで、こんなところに……
九十九さん? いや違う。走り方というか、雰囲気が、彼のそれとは違っている気がした。
……じゃあ一体……
--同時刻 西住
「なんとか、終わる前に着いたな」
夜中に俵山峠で走っているというのは本当だったらしい。織戸のヤツにしては珍しく適当なことを言ってたわけではないみたいだ。
前に見えるのはワンエイティ、少し奥にS2000……ワンエイティが雨水君だろうな。
「なんだ、いい雰囲気で走らせてるじゃないか。まあ、決して上手ではないけれど……」
あのワンエイティ……織戸にSXそっくりに造れと言われたときは何かと思ったけど、なるほど要は、雨水君以外にはなるたけ秘匿したいわけだ。まあ確かに、とてもじゃないが、SXはクルーとつるんで走れるクルマじゃない。
「できるなら、そのワンエイティで満足してもらいたいものなんだけどね……」
自分で言うのもなんだけれど、あのワンエイティはかなりの出来だ。使ったパーツは旧式の物にも関わらず、加速の伸び、安定性、どれをとっても平均以上の性能を出す。高水準でバランスが取れた逸品だ。正直な話、総合的なスペックを見るなら、SXよりも高い。
ハッキリ言ってしまえば、雨水君レベルのドライバーには過ぎた代物だとすらいえるだろう。
けれど彼は、SXに固執する。どんなに振り回され、殺されかけようと、彼はそれを拒絶すらしない。その執着はもはや病気と言っても差しさわりないだろう。
「……」
そんな様になってまで、君がSXを求める理由はなんだ? 求めたその先に何がある?
「……いや、それを確かめに来たんだったな」
いくら言葉を並べても意味はない。そんなことをしても、結局のところ何もわからない。言葉より、もっと奥の単純なところは、もっと単純な方法じゃないと、踏み入れることすらできない。
だからこそ、ここで走るのさ。
「見せてくれよ。じゃなきゃ、あの子はやれない……」
コーナーを抜けた先、ワンエイティが前に出る、すぐ次のコーナーだ。
ワンエイティの後ろに張り付き、様子を見る。パワースライドをし、アンダーを出しつつ、どうにか抜ける。拙くはあるけど、順当にはできている。
(見た感じ、突出した部分はない……けれどなんだ、この違和感は?)
突出した部分は何もない、技量としてはごくごく平凡なレベル……けれどなんだろう? 得体が知れない。滑稽だけど、そうとしか言えない雰囲気が、あのクルマにはあった。
(あの感じは、なんだ? 確か、どこかで……)
不気味だけれど、どこかデジャヴのように感じるその感覚の正体を、僕は気づかないでいた。いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。
長いストレート
少し奥にS2000
だいぶ差をつけられたようだ
ワンエイティは加速
S2000に迫る
エンジンが叫ぶ
それに呼応してより加速する
まるでそれは、生き物のように
「……あの走り、まるで……」
そんなはずはないと、頭の中で否定する。けれど、その走りを目で捉える度に、あるクルマの影が脳裏から離れない。
ストレートが終わる
またコーナー
S2000が減速する
順当だ
ワンエイティは……
「!……」
減速しない、S2000を抜いて、コーナーへ
「何してる! 死ぬぞ!」
そんなことを言っても、届くはずはない。減速しないまま、コーナーへと突っ込んだ。
ダメだ、飛ぶ……
「……なに?」
彼は飛ばない。恐らくサイドブレーキだけを使ったのだろう、減速しないまま4輪を全て滑らせ、コーナーを曲がった。
しかし、ドリフトの際の減速が過ぎたか、それともS2000の加速力が上だったか。ワンエイティはすぐに追いつかれてしまった。
けれど、そんなことは問題じゃない。飛ばなかったのだ、あの速度で。限界まで、一瞬の遅れで死ぬその領域まで、スピードをもっていき曲がった。リスクの計算も何もない。1km/hでも速く走ろうとするそのやり方。
……それはまるで……
「SX……」
彼がSXを欲する理由が、ようやくわかった。彼の走り方は、SXそのものだ。興奮も焦燥もなく、ただひたすら、静かに速度の快楽を求める、その愚行。
あの子のすべてを受け入れて、彼はもはや、あの子の一部になってしまっている。そんな気さえした。
「……なるべく早く、返してあげないとね」
僕はいつの間にか、口角がほんの少し、つりあがっていた。
許されないことだけど、この時僕は少し嬉しかった。ようやくあの子の全てを、許容してくれる人が現れたのだと。
あの子を、最後まで連れてってくれる人が現れたのだと
これが終わったら、すぐにオーバーホールを始めよう。そう思いながら、僕は2人のレースを最後まで見届けてから、そのまま真っ直ぐ家に帰った。
--翌朝 AM9:00 雨水
合宿ももう終わりだ。俺たちは帰りの電車の中にいた。あの時のポルシェはやっぱりみんな気になるようで、帰りの話題はそれで持ちきりだった。
「え、中嶋あのポルシェのこと知ってるの?」
「うん……ていうか、そのことなら雨水の方が知ってるはずだよ。ねえ、知り合いでしょ?」
「え、ホント!? 誰なの?」
中嶋先輩がそう言うなり、土屋の質問攻めの対象が俺へと変わる。合宿終わったばかりなのに元気だなーこいつ……
「別に知り合いってほどのもんでも……それに、その人の走り方とは違う感じだったし、多分違う人だと思うけど」
でもだとしたら、誰なんだろう? 首都高とかのルーレット族とかならともかく、ポルシェで峠に現れるような走り屋なんて、そんなにいない気もするけどな。
「誰にしても、いきなり乱入してくるなんて、随分無茶だな。寺田先輩は、何か心当たりあります?」
「ん……いや、わかんないかな」
星野先輩のその問いに、寺田先輩は静かに首を振った。その様子がどこかぎこちないような気がしたのは、俺の気のせいだろうか。
「あ、無茶と言えば雨水。すっごい無茶な走り方したらしいじゃん。鈴木から聞いたよ」
「げっ……」
「もーダメだよ! 熱くなるのはわかるけど、あんまり危険な走り方しちゃいけないって言ってるじゃん! ちょっとのミスが大事故につながるんだっていつもいつも……」
「わーかりました。わかりましたって……」
チクショウ完全にヤブヘビじゃないか、恨むぞ星野先輩。いや非があるは俺なんだけどさ。
「……」
「……?」
「!……ッ」
? なんだろう、鈴木先輩と目が合ったと思ったら、露骨に目をそらされてしまった。俺の顔にゴミか何かついてんだろうか?
「ちょっと雨水、聞いてる?」
「へーへ―わかりましたってば」
……なんか、中嶋先輩に怒られてばっかりの合宿だったなあ……
--鈴木
「……」
―
――
――――
『……キレイだ』
――――
――
―
「……ずるいっしょ、あれは……」
……合宿は終わり、来月からまた、OARAI……
……舞台はまた、艦上さ……