ぼっちの門 〜圓明流異聞〜   作:エコー

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今回は比企谷母の視点でお届けします。


二十八、門

 

 

 

 頼りない月明かりの下。

 雪ノ下ちゃんに案内されて河原に着いたわたし達が目にしたものは、河原に横たわる惨たらしい八幡の姿だった。

 その傍には道着姿らしき人影も見える。覆面をしているのかしら、あれが雪ノ下ちゃんの云う不審人物、途中で合流した三浦ちゃんの云う「隼人を殴ったエンメイリュウとかいうヤツ」なのだろう。

 もし本当にあの道着の人物が圓明流ならば、誰かしら。

 そういえばあの覆面。あれって昔九十九くんが戦った相手がしてた覆面、よね。たしか「唵」。

 だとしたら不破、なのかしら。

 

 その光景に、あたしとつむぎちゃんの後を懸命に追って来た由比ヶ浜ちゃん、川崎ちゃんが目を背ける。三浦ちゃんは、息切れでしゃがみ込んでいる。戸部くんと戸塚くんは、呆然としている。

 その中で、小学生の鶴見留美ちゃんだけは目に強い光を帯びていた。

 

 戦いには常に勝敗が付き纏う。きっと八幡はあの覆面との勝負には勝てない。でも、たとえ勝てなくても、負けない戦いは出来る。

 比企圓明流の戦いとは、そういう意味がある。

 

「留美ちゃん、よく見ておきなさい。これが……戦うってことよ」

「お、おばさんっ、何落ち着いてるのっ!?」

 

 つむぎちゃんはわたしの肩を掴んで叫ぶ。けど、これでも取り乱しているつもりなのよ。

 ただ、比企圓明流として生きてきた以上、このくらいの修羅場は何度か見てきているの。

 故に見れば分かる。

 八幡は……「まだ」生きている。不破にとっての、圓明流にとっての勝敗はまだ決していない。

 不破の勝利条件は、敵の死。

 対する比企の勝利条件は、誰かを守り切ること。

 つまり、今回は留美ちゃん達を無事に逃がしたことで八幡の勝利条件は満たされている。

 戦いに勝てなくても勝負に負けない。それが比企圓明流。

 

 視線をスライドさせると、陣雷くんともう一人の男の子が大きな石に背を預けて河原に座り込んでいた。その男の子を見つけるなり三浦ちゃんが駆け寄って声をかける。

 ああ、あの子が隼人くんね。隼人くんは三浦ちゃんに任せて、わたしは陣雷くんに目を向けた。

 

「──状況を手短に説明してくれる?」

 

 脇腹を押さえた陣雷くんが語ったのは覆面の攻撃、いえ、蹂躙だった。

 まず八幡は、覆面の投げ技で右腕をやられたらしい。それからは致命傷は回避しているものの、八幡は防戦一方だという。

 成る程。

 話を聞く限り、自称ではあるけどあの覆面は確かに不破のようだ。

 だとすると、誰なんだろう。

 北斗さんは他界してるし、(まほろ)さんに九十九くん以外の子供がいるなんてあり得ない。

 だってあの人ったら、九十九くんのお母さんにべた惚れだったもの。九十九くんのお母さん──静流(しずる)さんが他界した今も律儀に独身を貫いているし。

 だとしたら、まさか……ねぇ。

 

 さらに陣雷くんの話は続く。

 

 横にいる男の子、葉山くんは一方的に攻め立てられる八幡を庇って蹴られたという。もっと無難な振る舞いをする子だと思っていたけど、案外無茶をする性質(たち)なのかしら。

 八幡の母としては、庇ってくれたことは嬉しいけれど。

 あと、いざとなったら身を棄ててでも救うと陣雷くんが言ってくれたのも凄く嬉しい。

 けれど、ね。

 

「──あ」

 

 わたし達を案内してくれた小学生、留美ちゃんが声を上げた。

 見ると、八幡は立ち上がっていた。見なさい陣雷くん、まだ終わっていないのよ。だけど立ち上がった八幡の姿に一抹の不安を感じるのは何故なのかしら。

 

「ヒッキーが……立った」

「ええ」

「……よかった」

 

 由比ヶ浜ちゃんと雪ノ下ちゃんは顔を見合わせて笑みを浮かべ、その横で川崎ちゃんは目尻を指で拭っている。

 あらあら、八幡ったら。

 可愛いお嬢さんが三人も息子を心配してくれているなんて。小町が見たら嫉妬しちゃうかも。平塚先生に預けてきて正解だったわね。

 

「あ、おば様……あれ」

 

 八幡の様子がいつもと違う。

 右の肩が落ちている。ああ、脱臼しちゃったんだね。ならそろそろ止めに入らなきゃ──

 

 ゆらり。

 八幡の身体がよろめいた。

 いや違う。

 これは──この雰囲気は、駄目だ。

 

「つむぎちゃん、止めるわよ。手伝って」

「ふぇ!? は、はいっ」

 

 立ち竦む子たちを置き去りにして、わたしとつむぎちゃんは駆けた。

 今の八幡は──危険だ。

 

  * * *

 

 八幡がまだ幼稚園を卒園する前のこと……一度だけ八幡に恐怖を抱いたことがあった。

 あれは、まだ小さかった小町を抱っこして訪れた神武館の千葉支部での出来事だった。

 いつもの様に陣雷くんに挨拶をして地下の練習場に向かう階段で、小学生の男の子が小町の頭を小突いたのだ。

 

 わたしは、小町は笑っているし子供のやることだから、と事を荒立てない様に階段を下り始めたのだけど、八幡は違った。

 その自分よりも遥かに年上の小学生の道着の裾を掴んで殺気を放ち始めたのだ。

 その頃から八幡は小町を溺愛していたから怒る気持ちも分かる。

 でも普段は温厚な八幡が、自分よりも年上の、身長も体格も勝る小学生に怒るなんて思わなかった。

 小学生の男の子は、まだ幼い八幡を見てにやにやと嫌な笑顔を浮かべていたわ。

 その笑顔は、地下の練習場で対峙してすぐに真っ青に変わった。

 その組手自体は小学生の男の子からの申し出だったのだけど、怒りに身を任せた八幡は数秒でその男の子を制圧してしまった。

 男の子に馬乗りになった八幡は、その顔面に何度も拳を振り下ろした。

 あのまま止めに入らなかったら、あの子はそこで終わっていたのかもしれない。

 今の八幡は、あの時と同じように見える。

 

 あの時と同じように、くぐってはいけない禁断の門をくぐってしまった。人間の範疇を超える門を。

 

 きっと八幡は格闘の中で記憶を取り戻したのだ。幼い頃の冷酷さと共に。

 ならば動き出す前に八幡を止めなければ、取り返しのつかないことになる。

 相手が圓明流ならば尚更だ。圓明流の勝敗を分ける分水嶺は、即ち生死の境目なのだ。

 つまり、どちらかが死ぬ。

 ──止めなければ。

 その一心でわたしは駆けた。

 

「──あ」

 

 が、遅かった。

 

  * * *

 

 脱臼した右腕をだらりと下げたまま、八幡は覆面に向かって跳んだ。

 ただの飛び蹴りだ。

 普通ならそんな大技など容易く決まるものではない。だがそれは一般的な格闘技の場合だ。

 八幡が空中で放った左脚の蹴りは覆面の肩先を掠めて通過した。が、そこで覆面の身体は硬直し、止まった。

 

 ああ、やっぱりあの子、比企圓明流の記憶が戻ったのね。しかも最悪な状況で。そしてアレを……使ったのね。

 ならばもう、わたしやつむぎちゃんですら迂闊に近寄れない。近づくならば命を賭ける必要がある。

 

「お、おば様……今の、は」

「──比企圓明流の奥義の……ひとつよ」

 

 今はのんびり説明している場合ではない。最悪の場合、あの子は殺人犯になってしまうから。

 しかし覆面も不破圓明流を名乗るだけはあるようだ。すぐに硬直を解き、反撃に転じる。

 でも、それは駄目。

 覆面が放った技は、"斧鉞(ふえつ)"。

 前方宙返りの回転力を乗せた両脚の蹴りを頭上から振り下ろす技。つまり覆面は八幡と同じく見え見えの大技を選択してしまったのだ。違うのは、比企の奥義を使っていないこと。

 それは決定的な差となる。

 八幡は左腕を掲げ、先に振り下ろされた右脚の踵落としに掌を合わせた。途端に空気が弾けた。同時に踵落としは弾かれて、覆面は背中から河原に落下した。

 

「……何だ、今のは」

 

 河原の上、身じろぎをしながら覆面が慄く。八幡は応えない。じっと覆面を見下ろして嗤っている。我が息子ながら……なんて醜悪な笑顔だ。

 

「な、なんだ、なんなんだよおおおおっ」

 

 ふらふらと立ち上がった覆面は、パニックを起こしていた。

 当然だ。

 比企圓明流の奥義は、不破は勿論のこと陸奥さえも知らない。知らなければ、"斧鉞"が何故弾かれたのかを理解出来る筈も無い。

 そして命のやり取りの場において、理解不能な現象は最大の恐怖となる。

 

「──おわりだね」

 

 どこか幼い口調で八幡が零す。その口元はあの幼き日のように嫌らしく歪んでいた。

 肌がひりひりする。八幡が行動を起こす前兆だ。

 

「お、おば様……今のうちに八幡を」

 

 わたしと同様に八幡の鬼気を感じたつむぎちゃんが怯えた声で呟く。あなたもあの恐さが分かるのね。

 

「──無理よ。今のあの子はもう止められない。近づく者全てを攻撃してしまうわ」

「そ、そんな」

「──見ていなさい」

 

 小石を二つばかり拾って、八幡に向けて放つ。

 

「ひ……"(ひょう)"!?」

 

 放った二つの小石は一直線に八幡に向かい、八幡の間合いに入った途端──瞬時に叩き落とされた。

 

「そ、そんな……見もしないで"雹"を二発とも防ぐなんて」

「つむぎちゃん。貴女も圓明流なら分かるでしょ」

 

 元々圓明流は、一対一の戦いの為の武術ではない。独りで多人数を相手に出来る流派だ。名を継いだ者がその気になれば、百人の軍勢とだって渡り合えるのだ。

 それは、全方位に向けて神経を集中させている証し。

 しかも今の八幡は、何がきっかけか分からないけれど正気を失っている。しかも比企の奥義を使えるところを見ると、幼少期の記憶も完全に戻っている様だ。

 

 あの子の眼前に覆面──「唵」がいる内はまだいい。

 もし決着が着いて目の前の敵が斃れてしまったら、この場にいる人間を敵と見做して襲ってくるかも知れない。

 そうなったら、雪ノ下ちゃんたちやつむぎちゃんどころか、実の母のわたしにだって無差別に攻撃してくるだろう。

 その前にあの子を正気に戻さなければならない。

 

 あの目の鈍い光。あれは、戦いに快楽を求めるモノの目だ。

 いざとなったら、命を賭けてこのわたしの手で八幡を──駄目ね、最悪の事態を想像してしまったわ。

 

「こ、この……っざけるなああああっ」

 

 ジャッ。

 河原の砂利を蹴り上げて覆面が飛びかかる。蹴り上げられた飛礫(ひれき)は散弾と化して八幡へと飛ぶ。

 目を守る為、咄嗟に左手で顔を覆った八幡に、覆面の右手が伸びた。

 八幡の顔面を掴んだ覆面はそのまま前へ跳躍、膝を折り畳む。

 陸奥と不破の共通の技、"巌颪(いわおろし)"だ。

 

 さすがは不破、というべきね。

 頭部には奥義"小々漣(さざなみ)"を纏えないことを本能で察知したのだろうか。いかに護りに特化した比企圓明流といえども、表情筋だけでは"小々漣(さざなみ)"は生み出せない。

 だが、不破のその判断も悪手だ。

 きっと覆面の右手首を掴んだ八幡は、その手首に"小々漣(さざなみ)"を放つだろう。

 それを起点に肩、肋骨と"小々漣(さざなみ)"を放っていき、技から逃れる。わたしならそうする。

 

 だが、結果は違った。

 

 

 




今回もお読みくださいましてありがとうございます。

比企圓明流奥義"小々漣(さざなみ)"。
果たしてこの技はどんなモノなのか。皆さまも一緒に考えてもらえると……いいなぁ。


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