ぼっちの門 〜圓明流異聞〜   作:エコー

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千葉村合宿初日の夜。
雪ノ下雪乃と比企谷八幡の前に現れたのは陸奥九十九。
彼は何をもたらすのか。


十七、最強

 

 

 突風が吹き、月が(かげ)る。

 光源を失った薄闇の森の中、湿った土を踏みしだく音だけが耳に響く。

 足音が近づくにつれ、ひりひりと肌を刺す感覚に襲われる。

 ああ、間違いない。

 こいつは──人ならざる者だ。

 

 ごくり。雪ノ下が唾を呑んだ。

 氷の女王などと俺から揶揄される彼女も、この得体の知れない感覚には緊張せざるを得ないのだろう。

 

 雲を逃れた月が再び森を照らす。

 ソフトモヒカンとでも呼ぶのが適当か、耳にかからない程度に短く切り揃えられた黒髪。その髪をくしゃっと搔き上げた小柄な中年男性は、確かに陸奥九十九と名乗った。

 だが、俺が見ていた陸奥九十九は「仕合」の動画が全てだった。テレビカメラが追い切れない程の速さ。倍近くの体重差をものともしない膂力(りょりょく)

 そして、強敵たちとの数々の死闘。

 それを繰り広げた男が、今俺の目の前に……って、ちょっと待て。

 

 これ、本物か?

 ちょっと小さ過ぎねぇか?

 身長だけなら俺と同じくらいに見えるし。夜だからなのか。

 いや、確かボクシングの統一ヘビー級の王座に輝いた時、最小最軽量のヘビー級王者と書いてあったな。ネットでは。

 しかしさっきのは何だ。

 あれって殺気じゃない、よな。どちらかといえば狂気に近いのか。

 

 あれやこれやと考え事をしていると、先程までの緊張感は霧散していた。いや、ただ単に陸奥九十九と名乗る男の雰囲気が和らいだだけか。

 その男が、声を発する。

 

「久しぶりだな、と言っても……お前には俺と会った記憶が無いんだったな」

 

 さっきは急な出来事で認識出来なかったが、改めて聞くと随分と若々しい声だな。しかも顔つきもネット動画で観た二十歳当時の映像と然程変わり無く見える。

 たしかその映像が二十数年前の物だったから、かれこれもう結構歳いってる筈だよな。

 

 その陸奥九十九(暫定)は、片目を閉じてニィと笑う。

 こえぇ。あと怖い。

 思わず背中に寒気が走って、半歩ほど後ずさる。

 俺の左後方、状況を呑み込めない雪ノ下は、ただ呆然と俺と陸奥を見ていた。

 

「嬢ちゃん、逢い引き中に悪いな。俺はこいつの記憶に用があるんだが」

 

 逢い引きって、牛豚混合の挽き肉じゃないんだから。

 あ、もしかしたらそれ、小学校五年生の時にうっかり俺の好きな女子の名前がクラス中にバレた時の渾名を知ってるのかな。

 んな訳あるか。

 ちなみにその渾名は「愛に生きる男、比企谷」とかの略ではない。「あいつ比企谷のくせにマジありえない、ドン引き」の略である。ぐすん。

 

 と、今はそんな場合ではない。人類最強かも知れない男と対峙しているのだ。しかもその男は不穏な空気を漂わせているのだ。

 今の状況を喩えるなら、レベル8なのに大魔王バーンに遭遇してしまったポップとマァム。しかも勇者は不在ときてる。

 

 絶体絶命。俺たちの身の安全は、目の前の男の気紛れに左右される状況だ。

 

 目の前まで陸奥九十九が歩み寄る。対峙した際の視線から推測すると、やはり俺と身長は変わらない。

 だが、よれよれのTシャツの袖口から見える腕。決して陣雷さんの様に太くはないが、逞しさを感じる腕だ。

 

「──構えろ」

「……は?」

 

 突然何を言い出すんだ、このラスボスは。

 

「少しだけ稽古を付けてやる」

 

 いや、頼んでないんですけど。手加減されてもオーバーキル確定なんですけど。

 

  * * *

 

 数分後。俺のライフはゼロに近づいていた。

 

「……はぁ、はぁ、っく、ぷはぁ」

 

 結論。やっぱりこいつは陸奥九十九だった。

 速えなんてもんじゃねえ。強えなんてもんじゃねえ。とんでもねえ速さでとんでもねえ動きをしやがる。

 身体を掠めた拳に、足刀に、肉が食い千切られる様な錯覚を起こす。

 やべえ。直撃したらマジで死ぬ。

 陸奥九十九は稽古だと言っていたが、そんな言葉に確証はない。眉なしきんにくんこと陣雷さんも凄えと感じたが、その比じゃない。

 確か陸奥九十九が世に躍り出たのは十六、七歳の時。目の前で動く男の速度は、その当時の映像の動きと同等だと思えた。

 つまり、今の俺と同じ年齢の時にはこの速度で動けたという事か。

 やっぱりこいつは陸奥九十九。正真正銘の「人外」だ。

 

「──チィッ」

 

 左の正拳突きをぎりぎりで躱してみっともなく逃れると、ぴたりと陸奥九十九の動きは止まった。

 

「はあ、なかなか頑固だな」

 

 意味不明の言葉を吐いた陸奥九十九が再び構えをとる。左手を前に出した、まるで組み合う前のレスリングの様な構えだ。レスリングと違うのは、両手ともすぐに拳を作れる様に半分くらい握っていることだろう。

 

「───比企谷くんっ」

 

 ──っと危ねえ。うっかり目に指を突っ込まれるとこだった。さすがは陸奥、えげつない。つかこれ組手なの?

 眼球の前で止まった手を苛立ちを込めて払い、陸奥九十九から離れる。

 

「思い出さない、か」

 

 一種のショック療法を試みているのだろう。だが、この方法は実験済みだ。

 闘うだけで思い出すような記憶喪失なら、神武館での組手の時に思い出してる筈だ。

 

「やっぱり……圓明流の技じゃないとダメか」

 

 その瞬間。

 目の前の男の雰囲気が変わる。俺より低い筈の身長が高く、身体が大きく感じられる。

 その足は大地に根を張ったようにどっしりとして、そのくせ発射寸前のミサイルの様な緊張感がある。そのミサイルの照準は、俺に付けられているのだ。

 逃げたい。

 直ぐに雪ノ下を抱えて逃げ出したい。

 だが、自分の中の何かがブレーキをかける。

 なんだ、どうした。逃げることなんて簡単な筈だ。今までそうやって生きてきたんじゃないのか。

 馬鹿じゃないのか。何故俺は逃げない。相手は人類最強クラスだぞ。

 

 だが、見てみたい。この男の力の全てを。

 自分の中の別人格がそう叫びながら、俺の足を地面に縫い付ける。

 前に突き出した陸奥九十九の左手が、ぴくんと動いた。

 皮膚が痛い。身体中に細い針を刺され続けられる感覚。

 

 その痛い感覚が消えた瞬間……目の前から陸奥九十九は消えた。

 次の瞬間、陸奥九十九は俺の左側にいた。

 

「うぉわっ」

 

 慌てて距離を取ろうと逆に跳ぶ……

 

 あ。

 

 跳躍の拍子、宙に流れた左腕を取られて跳びつかれる。

 腕ひしぎ十字固めの態勢──いや、違う。これは対飛田高明戦で見せた陸奥の技、"飛燕十字蔓(ひえんじゅうじかずら)"だ。

 この技は動画で見た。腕ひしぎ十字固めのついでに顔面に蹴りを入れる技。このままだと俺の左腕は破壊され、同時に顔面を打ち抜かれる。

 動画の中の対戦相手飛田高明は、持ち前の膂力(りょりょく)と巨躯、それとプロレス仕込みの打たれ強さでこの技から逃れたが、身長も筋力も足りない貧弱な俺には無理ゲーだ。

 

 ふと、脳内にモノクロのビジョンが浮かぶ。

 

 ──見えた。

 

 左腕を引っ張る力に逆らわずに、掴まれた腕をぐるんと回して肘を上に向ける。その肘を畳んで、左へ跳んで陸奥九十九の背中を地面に打ち付けて──それからどうすりゃいいんだ。

 

 気がつくと、服についた土を払いながら陸奥九十九が起きあがる途中だった。俺は地面に倒れたままだ。

 

「ほう。"飛燕十字蔓"を返すことは出来るんだな。だけどその後は……てんでダメだ。なんでそのまま肘で急所を狙わないんだ」

 

 肩をこきこきと鳴らしながら陸奥九十九は薄く(わら)う。

 

「今のは、畳んだ肘を俺の頭か喉、それか鳩尾に落とすのが正解だ」

 

 冗談じゃねぇ。そんなことしたら死ぬかも知れない……あ、陸奥圓明流はそういう技だったな。

 

「比企谷くんっ」

 

 叫びながら駆け寄るのは雪ノ下だ。

 覚束ない足取りで凹凸のある木々の間を駆けてきた雪ノ下は、俺の無事を確かめると陸奥九十九の前に立つ。

 

「──誰だか知らないけれど、うちの部員に対して手荒な真似はやめてもらえ……ない、かしら」

「お、おいっ」

 

 毅然とした台詞だが、それは命乞いの言葉だ。その証拠に声は細く、その華奢な足は震えていた。

 怖いのだ。そりゃ怖いだろう。

 いきなり現れた男が妙な雰囲気を発して顔見知りを襲っているんだから。

 だが、その雪ノ下の行動は俺には意外だった。まさか俺を庇うなんて。

 守ろうとするなんて。

 だがそんなことはするな。これは圓明流の問題なのだから。圓明流に関係の無いお前が危険に身を晒すことは無いんだ。

 制止の為、目の前に立つ雪ノ下の腕を掴もうとすると、陸奥九十九の放つ不穏な気が消えた。

 

「やれやれ、舞子といい、この子といい……なんで女ってのは、こうも強いかね」

 

 頭をがしがしと掻きながら零す陸奥九十九の纏う空気は、現れた当初のそれに戻っていた。

 

「──やめだ。これ以上続けたらあの怖い顔した子に呪い殺されちまう。代わりに……ひとつ芸を見せてやる」

 

 興を削がれたと言わんばかりの陸奥九十九は、肩をこきこきと鳴らした後、近くの木に拳を当てる。

 

「はあああああああ……」

 

 陸奥九十九が気合いを入れていく。

 空気が震える。

 木々がざわめく。

 枝で眠っていた鳥達が騒がしく飛び立つ。

 さらに緊張は高まり──そして。

 

「──っ!」

 

 空気が震え、破れた様な感覚を受けた後、頭上から葉っぱが降ってきた。

 何だ。何をしやがった。

 まさか……トリックか。

 

「これが"無空波"だ。尤もこれを見るのは初めてじゃない、筈だけどな」

 

 降り注ぐ葉っぱの一枚が顔に付く。引っぺがしてみると、葉っぱそのものではない。

 瑞々しい葉っぱの、その欠片だ。

 

「陸奥には、不破や比企には無い技がある。同時に」

 

 既に陸奥九十九は後ろを向き、歩き始めていた。

 

「比企にも、陸奥や不破に無い技がある筈だ。それを……思い出せよ」

 

 あ、この人ってば、俺の記憶喪失を治す気なんて無いのね。

 振り返ることなく高々と右手を挙げた陸奥九十九は、森の闇へと消えて行った。

 去り際にもうひとつ言葉を残して。

 

「"不破"に気をつけろよ……」

 

 どういう意味だよ。

 責任持って教えてから行けよ、おい。

 

 

 




お読みくださいましてありがとうございます。
八幡と陸奥九十九の邂逅は、意外と穏やか(?)に終わりました。

さて、今後の投稿なのですが……
少々仕事やプライベートが忙しくなるので、次回以降は不定期とさせていただきます。
少なくとも週1回の投稿を目指して参りたいと思っておりますので、何卒宜しくお願い致します。

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