千葉へ行こうと小町に連れ出されて、着いた先は海浜幕張。
そして今、その駅前でアラサーモンスターに遭遇した。
「……さて、電話に出なかった言い訳を聞こうか」
指をパキポキと鳴らしながら詰め寄る、鼻にサングラスを乗せたアラサーモンスター。
その出で立ちは、
まるで軍事教練の教官である。神武館の眉無しきんにくん支部長が喜びそうな服装だ。
「いや、これから千葉に行くんで──」
「──まだメール見てなかったのか?」
なにこれ。微妙に会話が噛み合わないけど、無理問答なの?
「あー、ヒッキー遅いしっ」
背後から呼ばれたあまり好ましくない渾名に振り向くと、そこにはコンビニ袋を提げた二人の美少女が。
「由比ヶ浜に、雪ノ下……なんでいんの?」
「なんでって、部活じゃん」
──あ、これワナだ。
「結衣さん、やっはろー」
「小町ちゃん、やっはろー」
どこの種族の挨拶だよ、それ。
「雪乃さんも、やっはろー」
「や……んんっ、こんにちは」
「小町も呼んでもらって嬉しいですっ」
おっと、今「やっはろー」って言いかけましたよね雪ノ下さん。
しかし罠の餌が妹とは、なんと巧妙かつ悪辣な手口。千葉の兄なら逃れられない罠だわ。
脳裏に、虎挟みにかかったウサギの姿が浮かぶ。
かわいそうに。俺。
「はちまーん!」
おや。この円やかで甘美な声音、もしや。
振り返れば、そこには駆け寄る天使。
キラキラと光の粒を纏った笑顔。
Tシャツの胸にあしらわれたハートマーク、独り占めしたいぜ。
「戸塚さーん、やっはろー」
「うん、やっはろー」
なにそれ可愛い。由比ヶ浜のやっはろーが「5やっはろー」だとすれば、戸塚のは「10やっはろー」に相当する。
二進数で表すと1010。どうでもいいですね。
「では行こう。早く乗り込みたまえ」
* * *
アラサーモンスター平塚先生の話だと、今日から奉仕部の合宿らしい。目的地は群馬県にある保養施設「高原千葉村」。
それを部員である俺が知らないのは如何なものか。
ルンルン気分(死語)の平塚先生は楽しそうにハンドルを握って、鼻唄なんぞ口ずさんでいる。
鼻唄なのに口ずさむとは、これいかに。
高速に乗ってしばらくすると、騒がしかった後部座席が静かになった。騒がしかったのは主に小町と由比ヶ浜だけだったが。
視線をちらっと後ろへ送ると、皆さん夢の中。
戸塚の寝顔、超眼福。
「──で、何があった」
運転席からの突然の問い掛けに困惑する。
「一応これでも教師だからな、悩んでいることくらい見ていればわかる」
教師? 教官とか軍曹殿の間違いじゃないでしょうか。
カーキ色のカーゴパンツに軍靴で四輪駆動車を駆る姿は、どうみても軍属である。
そのアラサー軍属は、優しい笑みを湛えていた。
「はぁ、悩み……ですか」
目下の悩みは、決して軽々しく語れる類のものではない。例え説明したとして理解しては貰えないだろう。
実はウチは鎌倉時代から代々武術を継承する家で、今その継承問題を抱えている。
急にそんな妄言染みたことを言ったところで誰が信じるものか。
「お母様からな、粗方の事情の説明は受けている。口外無用ともな」
おっと、先回りされてた。
つか何してくれちゃってるの、お袋。秘密にしたいならあんたが口外無用を守んなさいよ。
「正直、私は圓明流には詳しくない。当時の格闘マガジンや動画を読みまくった程度の聞きかじりだ」
いやそれ確実に俺よりも詳しいですよ。
つーか格闘マガジンって何なの。
『この夏、スモールパッケージが熱い!』
とか
『モテかわ女子のローキック講座』
なんて特集組んじゃうの?
「比企谷、君は日本刀を見たことがあるか?」
「いや、無いです」
「知っての通り、日本刀は人を殺める道具だ。だがな、同時に美術品でもある」
「でも……所詮は人殺しの道具でしょう」
人殺し。
この言葉を発する度に強烈な嫌悪感が襲う。
人を殺すという行為は、物理的に相手の生命と人格を全否定する行為だ。
その積み重ねてきた時間を、紡いできた経験を、誰が奪っていいものか。
そんな行為は、許されない。
「そうだ。殺傷の道具だ。だが比企谷、包丁だって人は殺せる。刀で救われた命もあるだろう」
「そんなの……詭弁でしょう」
「人が気持ち良く喋っている時に茶々を入れるな」
「……すいません」
気持ち良かったんですね。酔い痴れてたんですね。
「それにだ……ほら、その気になればボールペンだって定規だって凶器になる。それをしないのが人の倫理だよ」
まったく極論だ。
ボールペンには字を書くという、持って生まれた役割がある。定規だってそうだ。
だが圓明流は違う。日本刀と同じで、そこに在るだけで威圧の対象になり兼ねない。元々が人を傷付け、倒し、殺す為に生まれた武術だ。それ以外の用途は無い。
「人は、凶器以外の価値を日本刀に見いだした。それが美術品、工芸品としての価値だ」
「つまり、圓明流にも別の価値がある、と」
「そうだな。要は、在り方の問題だ。だけどな──」
帽子を被り直した平塚先生が煙草を咥える。
「それを決めるのは比企谷、君自身だよ」
煙草の紫煙が車内に浮かび、運転席側の細く開けられた窓の隙間から逃げてゆく。
「君は……幼い頃の記憶が無いのだろう。なら、問題を先送りにしても支障はないのではないか」
「なんでそういう結論になるんですかね」
「失くした君の記憶とは、すなわち圓明流の記憶だ。そのピースが欠けた状態では継承問題は解決すまいよ」
母上様。
あなたはこのアラサー軍属に何をどこまで話したのでしょうか。もう比企圓明流の秘密とか守る気は無いよね。
「お母様はご健在なのだろう。ならば何れにしても結論を急ぐ必要は無いということさ」
何となく話の結論を出されたところで、車は山道に入った。
「さあ、そろそろ着くぞ。後ろの眠り姫どもを叩き起こすとしよう」
眠り姫の中には戸塚も含まれるのだろうか。
否、戸塚は姫じゃない。天使だ。