ぼっちの門 〜圓明流異聞〜   作:エコー

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今回は幕間です。
ガンガンに捏造してますw
そして年内最後の投稿となりまする。


幕間ノ一、比企圓明流の歴史とその考察

 

 

「比企圓明流の起源とその背景」

 

 比企圓明流の成り立ちは古く、鎌倉時代まで遡る。

 元々圓明流は宗家である陸奥のみだった。それが安土桃山時代、双子が生まれて分家が生じたのが不破圓明流だという。

 ならば、比企圓明流はどの様に分家されたのか。

 

 事の発端は、後白河法皇から義経が官位を賜ったことである。法皇は、出家した上皇の呼び名である。

 平氏の専横に忸怩(じくじ)たる思いを抱いていた後白河法皇は、対抗勢力としてもう一方の武家の棟梁である源氏を利用し、意のままに操ろうとしていた。

 その願いは、壇ノ浦で果たされた。

 

 見事平氏を討ち果たした義経が京へ凱旋した時、兄頼朝との確執を形成する火種を持ってしまった。

 後白河院の独断による義経および郎党の任官である。

 これに激怒した鎌倉の頼朝は、義経を目の上のコブと見るようになる。自分の源氏の長者としての地位を、戦上手で人望の厚い義経に取って代わられると危惧したのだ。

 そこへ加えて、義経の軍監であった梶原景時により、義経の虚偽の専横を書き連ねた讒言が届けられた。

 ここで頼朝の腹は決まった。

 京に留まる義経および郎党を鎌倉へ呼び戻したのだ。

 義経は平宗盛親子を連れて鎌倉に戻るが、頼朝との面会は許されずに腰越に留め置かれる。結局兄弟の面会は実現されず、義経は再び京に戻された。

 京に戻ると、また後白河院の悪い病気が顔を覗かせる。

 今度は源氏が怖くなったのだ。

 後白河院は帰京した義経を呼び、頼朝討伐の院宣を与えた。兄頼朝を慮る義経は断わろとするも時既に遅し。

 後白河院は軍勢を設え、大々的に頼朝討伐の院宣を世間に知らしめてしまったのだった。

 

 鎌倉の頼朝はその報せを受けるや否や、すぐに義経討伐の軍勢を差し向ける。

 ここに、同じ源氏の兄弟が争う構図が成立してしまった。

 

 頼朝の動きは早かった。

 自らも軍勢を率いて駿河国の黄瀬川(現在の静岡県東部)に陣を張った頼朝は、京への圧力をかける。身の危険を感じた義経は京を脱して海路で西国へ身を移そうとするも途中で船は難破、静(御前)らと離れ離れとなる。

 静は吉野(現在の奈良県)の山中にて頼朝勢の手に落ちた。

 

 自身の代官を千の兵とともに上洛させた頼朝は、一旦鎌倉に戻る。

 一方、代官であった時政は、千の兵で京へと進む。鎌倉の軍勢が京に近づくと、恐れをなした後白河院は今度は義経討伐の院宣を頼朝に与えてしまう。

 その時点で頼朝が官軍、義経が賊軍という構図が出来上がる。

 さらに時政は、義経包囲網である守護・地頭の設置を朝廷に認めさせ、頼朝を総守護地頭に任官させる。

 

 ここに、大勢は決した。

 

 義経討伐及び総守護地頭の宣下を受けた源頼朝による義経への追討は執拗だった。義経の一族郎党を皆殺しにするべく手を尽くした。

 その頃、吉野の山中で捕らえられた義経の側室、静御前は磯禅師(いそのぜんじ)らと共に鎌倉に移送された。

 静御前はそこで男児を出産。静御前や磯禅師の嘆願むなしく、その男児は鎌倉の砂浜──現在の由比ヶ浜海岸に生き埋めにされた。

 

 と、ここまでは歴史書の記す通り。

 だが、生き埋めにされたその男児は陸奥鬼一の手で救出、保護される。

 その子供は将来、虎一(こいち)となって陸奥を継ぐことになるのだが……。

 

 頼朝の追っ手から逃れる為に郎党を失った義経は、かねてより懇意であった奥州藤原氏を頼った。

 その当時の奥州藤原氏といえば鎮守府将軍に叙任され、奥州十七万騎といわれる程の軍勢を率いて、北の王国と呼ばれる程の権勢を振るっていたのだが、当主である藤原秀衡の薨去(こうきょ)を期に、頼朝率いる鎌倉勢に呑まれていった。

 当時の陸奥であった鬼一の自己犠牲によって、辛くも頼朝の追撃から逃れた義経。

 

 命からがら逃げ果せた義経は死ぬ前に一目静御前に会おうと決心する。既に静御前が京に戻ったのを知らなかった義経は、一路鎌倉を目指す。

 だが、そこで奇跡は起きた。

 守護や地頭の配する関所を避けて山中を歩き続けた義経が立ち寄った古寺に、静御前の親代わりであった磯禅師(いそのぜんじ)が逗留していたのだ。

 

 磯禅師はすぐに手紙を綴り、京に届けさせた。義経は自ら京に向かうと言い張ったが、道無き道の長旅のせいで体力は衰えて静養が必要だった。

 その義経の姿を憐れんだ磯禅師は、もう一巻の手紙を綴る。

 宛ては──比企尼(ひきのあま)

 

 頼朝の乳母を務めた比企尼は、元を辿れば奥州藤原氏と同じ流れを組む関東の豪族、藤原秀郷の系譜である。

 磯禅師は比企尼に、さる御仁を匿って欲しいと嘆願する手紙を書き、比企尼の住まう比企氏の里、比企谷(ひきがやつ)へと送った。

 その比企尼の元で、義経と静御前はめでたく再会を果たし、そこでもう一人の男児を授かった。

 その名前を十早(とはや)と云う。

 

 陸奥鬼一の妹である静御前は、幼い十早が一人でも生きていけるように陸奥の技を仕込んだ。

 その後、比企氏は二代将軍頼家の時代に北条時政の謀略、世に言う「比企能員(ひき よしかず)の変」により潰えてしまい、義経と静の消息は途絶える。

 だが、二人の次男は比企氏の配下の手により落ち延びて陸奥鬼一の父の元に身を寄せ、さらに技を磨いた。

 先代の陸奥、鬼一の父はその子の元服の年、「比企」の名を与え、圓明流を開かせた。

 それがもう一つの圓明流、比企圓明流の成り立ちである。

 その後の比企圓明流については諸説ある。

 一説では──。

 幾多の死を乗り越えて成立した比企圓明流は、その経緯から不殺を心得とし、最強の盾となり、護る為のみに技を使うことを旨とした。

 それ以降、比企圓明流は表舞台には一切現れないまま現在に至る為、どのように糧を得てきたかは不明である。

 

 他には、キリシタン大名である蒲生氏郷の元へ身を寄せたとか、長崎で蘭学を学んだとか、千葉妙見宮(のちの千葉神社)の守神となったとか、様々な説があるが、史料は乏しく依然真実は謎である。

 

 

「──って、あたしは推測したの」

 

 長々と語っておいて全部推測かよ。

 想像力豊かだな、お袋っ。

 

 

 

 

 




お読みくださいまして誠にありがとうございます!
今回は歴史捏造回でした。
尚、今回のお話の参考資料は「修羅の刻」の義経編とペディアさん、あとは記憶です。
もし、時系列が違うぞっ、とか、理論的に不可能だぞっ、などのご指摘がありましたらご一報いただけると助かります。

さて。

というわけで「セッシャー1」改め……
寸止め大好き変態紳士、エコーと申します。

前作でサキサキが好き過ぎる物語を書いてしまったのですが、私は原作の登場人物はすべからく好きなので、今回はサキサキ贔屓は控えめなつもりですw
まあ、修羅の門とのクロスを決めた時点で恋愛を描くつもりは無かったのですけどね。

次回からは新シリーズ。
「千葉村合宿編」に突入……の予定です。
そしてついにあの人が!?
あ、次回は年明けの投稿になります。

それでは読んでくださった皆さま、良いお年を☆

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