神武館からヒッキーが先に帰った後、あたしたちは神武館の千葉支部の喫茶室に残っていた。
ヒッキーは先に帰らされてて、今ここでテーブルを囲んでいるのは、あたし──由比ヶ浜結衣と、ゆきのん、サキサキ、ツムツムと、急遽呼ばれた平塚先生。
それに……お誕生日席にはヒッキーのお母さん。
「悪いわねぇ、呼び出しちゃって」
「……いえ、お気になさらず。私は八幡くんの所属する部活の顧問ですし、この神武館にも浅からぬ縁がありますから」
ヒッキーのお母さんから「信頼の置ける先生も呼んでほしい」って言われた時はどうしようかと迷ったけど、電話をしたら平塚先生はすぐに来てくれた。
でも良かった、平塚先生が来てくれて。神武館にも昔通ってたみたいだし。
ほっとしていると、お誕生日席のヒッキーのお母さんはテーブルを囲むみんなを見渡した。
「でね。話っていうのは八幡についてなんだけど」
そう前置きして語られた内容は、あたしたち、ううん、あたしの常識の範囲を軽々と超える話だった。
* * *
ヒッキーがお母さんに圓明流を習い始めたのは、三歳の頃。
そんな小さな頃から鍛えられてたなんて、ヒッキーちょっとかわいそう。
ヒッキーも最初は嫌々教わっていたんだけど、六歳の頃には自分から色んな技を習うくらい積極的になっていたんだって。
で、七歳になった時にはほとんどの技を覚えちゃったんだって。圓明流の技って、やり方だけ覚えても力とか速さが無いと出来ないって言ってたし、ヒッキーってすごいよね。
でも、今までのヒッキーのイメージからは考えられないな。腕力とか無縁の優しい人だと思ってたから。
「あの子、昔っから怠け者なのよ」
「怠け者……ですか?」
さっきとは正反対の発言に、ゆきのんを始め、みんなして首を傾げる。
「そ。技を実行する為に必要最低限の鍛練しかしないの。技を昇華させようとはせずに才能に寄っ掛かってるだけの、ただの怠け者」
圓明流って、そんな怠け者が覚えられる武術なの?
そんな筈ない。だって、あんなに速く動くなんて普通じゃ出来ないもん。
きっとすごく辛い練習をいっぱいして、傷だらけになって、いっぱい泣いて苦しんだんだよ。
だって、その時のヒッキーはまだ子供なんだもん。
それなのに、人を傷つける技を覚えなきゃいけないって……すごく哀しいことだよね。
ヒッキーのお母さんのお話はまだ続くみたい。
「圓明流の真髄はね、その技よりも鍛練にあるの。誰よりも速く、誰よりも強くある為に、人の潜在能力の限界を引き出す鍛練。それが圓明流の真髄なのよ。それなのにあの子ったら」
溜息を吐くヒッキーのお母さんの姿は、まるで出来の悪い子に悩んでいる様に思えた。
そうなのかなぁ。だって、技が出来るまではちゃんと練習したんだよね。それってすごいことじゃ、ないのかな。
「……なまじ天才に生まれると、本当ロクな人間に育たないわねぇ」
天才。
やっぱりしっくりくる。
ヒッキーは、どこか他の人と違うとずっと思ってた。それは、ぼっちだからとか捻くれてるからとかじゃなくて、自分でも説明出来ない感じだった。
でもヒッキーのお母さんが言った天才って言葉は、不思議と素直にヒッキーと重なった。
「だから、八幡が幼い頃の、圓明流の記憶を失くしたのは……あの子の為には良かったのかも知れない。でもね」
──違う。
よくない。よくないよ。
どんな理由があっても、どんな今があっても、昔の記憶を失ったことが良い筈はない。だって、思い出も全部忘れちゃうんだよ。
腹が立って、思わずヒッキーのお母さんを睨んでしまった。そしたらすぐに隣に座るゆきのんがテーブルの上で手を握ってくれて。
ありがと、ゆきのん。もう大丈夫。
でも本当はヒッキーのお母さんも……辛かったんだろうな。
記憶を失くしたこともだけど、そんな事故に遭ってしまったことが何より悲しかったんだと、ふと思えた。
「記憶を失くしたあの子は……異端児扱いされてね。きっと人前で自分の力を制御する方法も忘れてしまったのね」
ヒッキーはプロのぼっちだなんて言ってたけど、そんなことがあったなんて知らなかった。
でも、あたしが知ったからって何にも出来ることは無いけど、ヒッキーの辛かった過去は消せないけど。
その代わりに、少しでも今を楽しく過ごしてもらいたい。
だって、悲し過ぎるもん。辛い修業をしてきて記憶を失くして、それでぼっちになっちゃったなんて……あたしならどうなっちゃったんだろうな。
きっと、逃げちゃったと思う。あたしはヒッキーみたいに強くないから。
「でも、あの子の師匠としては、あのまま鍛練を続けていたら陸奥九十九にも、なんて……ついそう思ってしまう。母親としては失格ね」
陸奥九十九って人、すごい人なんだよね。格闘技を知らないあたしでも聞いたことあるくらいだもん。
でも、そんな人とヒッキーが戦うなんて……考えたくない。だって。
「ヒッキーは……すごく分かりづらいけど優しくて、強くて……あたしもヒッキーに助けられました。でもそのせいで事故に……」
そう。あたしはヒッキーの優しさをこの目で見ている。高校の入学の朝、愛犬のサブレを助けてくれたのはヒッキーだったから。
あの時のヒッキーの動きは速すぎて、あたしにはまるで見えなかった。サブレが消えて、二人の男子が見えたと思ったら……サブレを抱えたヒッキーが倒れていたんだ。
「──あれは八幡の悪い癖みたいなもんよ。あの子、つむぎちゃんの時も同じことしちゃったもの」
ツムツムの表情がくもる。
ヒッキーとツムツムは子供の頃、一緒に圓明流を練習してたと聞いたのは、ついさっきのことだ。
いいなぁ。あたしの知らないヒッキーを、ツムツムは知っているんだ。
可愛かっただろうなぁ。ぴょこんと立ったくせっ毛は、小さい時も同じだったのかなぁ。
「でも、あの事故さえ無ければ今頃は──」
「──違うのよつむぎちゃん。八幡はね、事故で記憶を失ったんじゃないの。自分で記憶を……捨てちゃったのよ」
「どういう、事でしょうか」
みんなの疑問を、平塚先生が代表で聞いてくれた。
「あの子とつむぎちゃんが八歳の頃、二人同時に車に轢かれたんです。幸いにもつむぎちゃんは軽傷だったけど、八歳は……二週間意識不明だったわ」
じゃあ、やっぱり記憶は事故が原因で、じゃないのかな。
「意識が無いはずの八幡がね、ずっと呟いていたわ。守れなかった、って」
──やっぱりヒッキーは優しい。
お母さんが言う「人殺しの技」を習っていたと聞いた時にはびっくりしたけど……ううん、違う。
ヒッキーは、やっぱりヒッキーだ。昔も今も優しいまんま。
ツムツムもそれを知ってるんだ。だからこんなに哀しそうな顔をしてるんだ。
「あの事故は、つむぎちゃんが悪い訳じゃないわ。居眠り運転で歩道に突っ込んできた車が悪いのよ。それにね」
ヒッキーのお母さんがツムツムを優しく見つめる。その顔を見ていると、優しいのはお母さん譲りなのかな、なんて考えてしまう。
「比企圓明流は、圓明流らしくない圓明流なの。陸奥や不破とは違うの」
圓明流らしくない圓明流って、どういう意味なんだろ。
「陸奥の在り方を
ゔうっ、なんか難しい表現だ。よし、簡単に考えてみよう。
陸奥は、グー。不破はチョキ。じゃあ、比企は……パー?
「由比ヶ浜さん、分かりやすく説明してあげるわ」
もう少しで頭から煙が出そうだったあたしに、ゆきのんが説明してくれた。
陸奥は闘うことが目的で、不破は相手の命を奪うことが目的。そして比企は、誰かを守ることが目的、かぁ。
ああ、だからなんだ。
総武高校の入学式の日、サブレを助けてくれたヒッキー。
あれは……比企圓明流の教えだったんだ。
でも、それって。
「つまり、比企圓明流は……相手の命を絶つ事を目的としていない、と?」
聞きにくいことを平塚先生が聞いてくれた。
「そうね。それで合ってますわ。同じ"圓明流"でも成り立ちが違えば目的も変わってくるのは、理解してもらえます?」
「え、ええ。同じ
平塚先生のお話にヒッキーのお母さんはにっこりと笑って頷いているけど、野牛を見た事が無いあたしには全然わかんない。後でこっそりゆきのんに聞こうっと。
ふと、試合の時のヒッキーの姿を思い出す。
「……正直、あの試合の時のヒッキー、凄かったけど……ちょっと怖かった」
「──そうね。そう思うのが当然だと思うわ」
怖かった。だって、あたしの知ってるヒッキーじゃ無かったし、ヒッキーがあんなに強いなんて、知らなかったし。
「でも、ヒッキーが誰かに暴力を振るうなんて考えられないし……ううん、ヒッキーは何があってもヒッキーだし。皮肉屋で、捻くれてて、でも優しくて……」
何を言ってるのか分からなくなったあたしの言葉を引き継いでくれたのは、ゆきのんだ。
「そうね。あれだけの力を持ちながら、彼は誰にもその拳を向けなかった。あの戸塚くんの依頼の時だって」
「そうだね。強さを笠に着ないのはすごく分かる。技は忘れてても、あれだけ強ければ、相手を力づくで捩じ伏せることなんて容易いだろうからね」
空手が黒帯のサキサキから見ても、やっぱりヒッキーは強いんだ。
「あらあら、ウチの馬鹿息子は随分と愛されているのねぇ」
くすくすと笑うヒッキーのお母さんの視線が、ゆきのん、サキサキ、あたしの順番で見つめてくる。
えへへ、これでお母さん公認……って、そんな場合じゃないしっ。
それに、あたしはまだヒッキーのことを知らなさ過ぎる。
「……あたしは、まだヒッキーの中の少ししか理解してなくて、理解したいけど、あんまり自分のこと言ってくれなくて……」
「本当、あの子には勿体ない子たちだわ。でも、貴女たちがいれば安心ね」
なんだろ、熱が上がったみたいに暑い。ゆきのんとサキサキも同じみたいで、真っ赤な顔をして俯いちゃってる。
そんなあたし達にヒッキーのお母さんはさらに優しい目を向けてきた。
「貴女たちが傍にいてくれれば、あの子は修羅には
湯呑みを置いてあたし達を見たヒッキーのお母さんは、テーブルにおでこが着くくらいに頭を下げた。
「どうか、そばにいてあげてね」
次回、もう一話だけ「十一ノ裏」が続きます。