一、神武館の娘
圓明流、という武術をご存知だろうか。
もし知っているとすれば、その方はかなりの格闘技マニアだろう。
時代の陰に生き、闇に塗れ、不敗を守り続けてきた武術。
それが圓明流である。
その圓明流が陸奥九十九という天才児を得て表舞台に立ち、光を浴びてから既に四半世紀以上が経つ。
十代だった彼は、数年の内に全日本異種格闘技選手権優勝、世界ヘビー級統一王者など、幾つもの伝説を残した後、忽然と姿を消した。
彼は言った。陸奥圓明流が世界最強だと証明すると。
彼はこうも言った。自分の代で圓明流を終わらせると。
時は西暦二○十二年。平成二十四年からこの物語は始まる。
さて。ここで語り手を彼に委ねるとしよう。
これは、彼ら彼女らの物語なのだから。
* * *
「だりぃ……」
高校二年の一学期。その終了を間近に控えた金曜日、この日は朝から夏の太陽が狂喜乱舞していた。
梅雨時の鬱憤を晴らすかの如くじりじりと灼きつける太陽の所為で、妹の小町を背後に乗せて自転車を漕ぎ出したばかりだというのにもうワイシャツの背中に汗が滲みている。
まったく。少しは加減を知らないものかね、夏の太陽っていう輩は。暑苦しいにも程がある。
背後に鎮座する小町もまた暑さにうんざりとした表情で、胸元に向かってぱたぱたと手で風を送っている。
「お兄ちゃん、もうちょっと早く漕げないかなぁ。こう、風を感じられるくらいにさ」
「阿保、スピード出して事故ったら何にもならんだろ。せっかく来週から夏休みで堂々と引きこもれるってのに」
総武高校の入学式の朝、俺は一度交通事故に遭っている。
同じクラスで同じ部活の女子、由比ヶ浜結衣の犬を助けようとして俺が身代わりに轢かれたのだ。ちなみに轢いたのは同学年で部活の長を務める才女の家の車である。
思いっきり跳ね飛ばされた割には怪我が軽かったせいもあり、あの時は休む口実が出来てラッキーくらいに思っていたが、今は二年生の夏休み直前。
このタイミングで事故に遭えば夏休みは潰れてしまうだろう。幾ら堂々と引きこもれるといえども、そんなのは御免である。
だって、もう予定がぎっしり詰まっているんですもの。
録り溜めたアニメ観て、ラノベの新刊読んで、またアニメ観て。
「どーせお兄ちゃん、夏休みはだらだらするつもりなんでしょ。だったら今の内に運動しとかないと。ほれ、もっと速くっ」
はあ、やっぱ小町はお見通しか。だが生憎俺の決意は鉄より硬いのだ。働かざること山の如し、である。
しかしマイスウィートエンジェル小町のオーダーとあっては速度を上げねばなるまいて。
立ち漕ぎの態勢になってペダルを踏み込むと、あっという間に風が巻き起こる。
「うほ、涼しいー」
気を良くして更にペダルの回転を上げると、背後の小町は「ほえー」と気の抜けた声を上げる。
「しっかり掴まってろよ」
「大丈夫だって。いざとなったらお兄ちゃんが助けてくれるんでしょ」
「……まあ、善処する」
しっかし、このくそ暑い中での二人乗りの立ち漕ぎって目立つんだよな。
* * *
朝っぱらから汗だくの俺は、遅刻ぎりぎりで教室に滑り込む。静かに、静かに。
よし、誰にも見つからず席に着けた。と思ったのだが二つの視線に気づいた。わが大天使である戸塚彩加と、職場見学の頃になんやかんやあった由比ヶ浜結衣。
その「なんやかんや」に関しては原作を読んでくれ。原作ってなんだよ。
今日は期末テストの返却期間の最終日である。当然、クラスの話題はテストの結果に集中する筈だった。
だがその日の朝は教室は別の話題で持ち切りだった。その内容は葉山グループのモブキャラこと大岡が目撃した事件のことだった。
「だから本当なんだって。十人くらいの男子が次々に倒されていくんだから。あー、ムービー撮っとけばよかったわ」
「マジかよ、っべーわ」
それは、最近噂になっている「ギャング狩り」の件だった。そういやチェンメ騒動の時、戸部はカラーギャングとか書かれてたっけ。どうでもいいけど。
話題の中心になれて余程嬉しかったのか、大岡は大袈裟なジェスチャーを交えながら弁舌を振るっていた。そんな大岡に、キングオブリア充こと葉山隼人は困った顔をしながらも相槌を打ち、もう一人のモブである大和はその相槌に相槌を打つ。
炎の女王こと三浦優美子は興味無さげに縦ロールの髪を指で遊び、由比ヶ浜結衣は愛想笑いを浮かべている。
眼鏡腐女子の海老名さんだけが男同士の言葉の応酬に眼を爛々と輝かせていたのが少々恐い。
俺はといえば、いつもの様に机に突っ伏して寝たふりをしながらクラス内の様子を窺っている。
時折同じ奉仕部の由比ヶ浜結衣がチラチラと視線を送ってくるが、それも気にしなければどうということはない。
──前言撤回。
やっぱすっげえ気になるわ。だってあいつ、俺に対してかなりビクビクしてるし。その癖たまに目が合うと視線を逸らしたり、ごく稀に小さく手を振ってきたり……何しろ落ち着かないのだ。奴の一挙手一投足は、俺が落ち着かない原因となっている。
まあ、こいつとのトラブルがあった時よりかは随分とマシになっていると思うのだが、あれから一カ月以上経った今でもしこりは確実に残っている。
それはひどく面倒で、ちょっとだけ寂しかったりもする。
何いってんだ俺は。由比ヶ浜と距離を置こうと思ったのは俺の方なのに。
すべては自業自得なのに。
* * *
朝のホームルームが始まった。どうやら転校生が来るらしい。まったく、あと数日で夏休みだっていうのにご苦労なこった。
俺だったら「二学期からお世話になります」とかのたまわって堂々と夏休みを延長してしまうところなんだが、どうやらこれから来る転校生は俺とは違う勤勉な思考の持ち主らしい。
「龍造寺つむぎ、といいます」
教壇からそう挨拶をするのは女子の声だ。勿論興味の無い俺は机に突っ伏したままだ。
だが狸寝入りの為、どうしても周囲の声が雑音となって耳に入ってくる。
男子たちは「可愛い」だの「メガネ美人」だの「っべーわ」だのと騒ぐ。
対して女子はといえば、ひそひそ声で何かを言い合っているだけである。
つまり転校生は、男子に好かれて女子に疎まれる存在だと仮定出来た。
だからどうした、なのだが。
「じゃあ龍造寺さんは、大岡くんの横に……」
「うわっ、マジかー、いいなぁ」
騒ぎ立てるのは戸部だな。果てしなくどうでもいいけど。
足音と椅子を引く音が聞こえる。転校生が席に着いたようだ。その方向から早速モブキャラ大岡のデレっとした気持ちの悪い声が聞こえた。
「オレ大岡。よろしくね。分からないことは何でも聞いて」
「あ、ありがとうございます。じゃあ聞いてもいいですか」
「ああ、もちろんだとも」
リア充の王、葉山隼人を数段劣化させたようなぺらっぺらな爽やかさに思わず苛つく。ちっ、童貞風見鶏風情が。
俺?
俺は童貞だが風見鶏ではない。風向きによって向きを変えるなんて器用な真似は出来ない。何なら下しか見てないまである。
「あ、あの……比企谷くんって、このクラスですよね」
「え、比企谷? 誰?」
は? 転校生が俺を知っている、だと?
「それってヒキタニくんのことかな?」
比企谷で合ってるんですけどね。
つーか、何で今日転校してきたばかりの生徒が俺の事を知っているんだ。クラス内でも限られた奴にしか存在を認知されていないくらいレアなのに。
……自分で言ってて哀しくなってきた。
「いえ、比企谷くん、です」
「ああ、それなら──」
割り込んできた爽やかな声は、大岡の斜め前に座る葉山のものだ。直後、椅子を引く音が聞こえた。
うん、嫌な予感しかしないね。案の定、俺の肩は叩かれた。
「ヒキタニくん、起きているんだろ。転校生さんがお呼びだよ」
「……余計なことをしやがって」
軽く悪態を吐きながら身を起こすと、何故かクラス内の視線が俺に集中していた。
え、うそ。俺って一躍人気者?
だがその視線は羨望や憧れである筈はない。何なら男子は敵意を、女子は疑念を向けてくる。
その視線を無視して、大岡の席に目を向けた。その横の転校生と目が合った瞬間、胸元で軽く手を振ってきた。
はあ、うぜぇ。
俺は再び突っ伏して夢の中へと逃亡した。