そこは、深き深淵の狭間。光という概念が存在しない、漆黒の闇。地上世界より深く、地下世界の更に奥底で、『彼女』は仮初の胎動に、打ち震えていた。
歪に膨らみ、異形と化した肉の膨らみは、育むための器。
絶望を啜り、憎しみを食らい、慟哭の涙で喉を潤すことで、膨らんでいく。その度に胎が疼き、果実が濡れて、粟立つ。
(―――まだよ。もっと)
けれど、足りない。歪みが足りない。
時空を越え、世界を越えて歯車を狂わせ、然るべき未来を奪っては歪ませ、地上という名の苗床に、歪な種子を蒔き散らす。
歪みは更なる歪みを生んで、『へその緒』を介して流れ込み、漆黒の奔流が胎動を生む。
充ちてはいないものの、揃いつつある。あとは、肝心な源。そっと床へ着かせてしまえばいい。
雄は、勇者の血肉。雌は、精霊神の処女。歪な器の中で、この世の歪みとない交ぜにして、賜物を宿せばいい。
さあ。孕みましょう。我が名は―――
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「―――!?」
無声の驚愕。アレルは目を覚ました途端に跳ね起き、ベッドを揺らした。
今し方まで呼吸が止まっていたのか、水中で溺れ掛けた直後のように息苦しく、乾いた喉に痛みを覚えた。全身に浮かんだ冷や汗と相まって、微睡みの中で耳にした囁きが、背筋に悪寒を走らせる。
「はぁ、はっ……。ふうぅ」
深呼吸を繰り返しながら、寝間着の袖で額の汗を拭う。しかし声は、耳から離れない。それはまるで、泥濘に足を取られたかのよう。両手で耳に蓋をしても、一層声は残響をして、囁きが繰り返される。
アレルは僅かな月光を頼りに、己の利き手を見詰めた。
「やっぱり……。まだ、なんだな」
血の気が引いた掌を確かに流れる、父から継いだ血。身体中を流れる、勇者の血。
いつだってそうだった。魔の脅威を前にすると、血がざわつきを見せる。血の巡りが逆流するかのような錯覚が、確固たる悪の存在を知らせるに等しく、自分が『普通』ではないという現実を突き付けられる。
まだ、終わってない。
全部終わったら一緒になろうと、想い人にそう告げて、自分は今、何をしている?
だからまだ、終わっていない。何かが始まろうとしている。
「……ジル」
小声を漏らしてから、アレルは拳を強く握った。血盟するように強く、強く。
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アリアハン城下町東部に設けられた礼拝堂の二階には、数名の寄る辺ない者達が暮らしている。
重い病を患い、寝たきりの生活を続ける者。重傷を負って、療養生活を余儀なくされた者。そして―――あまりに悍ましい呪いから解放され、漸く落ち着きを取り戻しつつある女性。
(どうして、こんな子が……)
ジルは静かな寝息を立てる女性を見詰めながら、そっと額に手を這わせた。
外見から判断して、年齢は十代後半。清楚な物腰と言葉遣いから察するに、名のある家柄の人間かもしれない。
何より、ラーの鏡を破壊するほどの呪いを背負わされ、身も心も獣と化したまま、一体どれだけの歳月を経たというのか。そしてそんな呪いを、一体何者が。
「……セリア」
呪いの後遺症なのか、ヒトであった頃の記憶は、一部しか取り戻せていない。
彼女が口にした手掛かりらしい手掛かりは、己の名『セリア』と、生まれである『ムーンブルク』。名前はともかく、ムーンブルクという名の人里は、この地上は勿論、地下世界アレフガルドにすら存在しない。彼女もタバサやライアンと同じく、別世界からの迷い人と考えていい。
「あら?」
ジルが口を閉ざして考え込んでいると、緩く握られたセリアの手の中で、何かが光った。
セリアを起こさないよう慎重に指を解き、やがて現れた光に―――ジルは、唖然とした。
「え……」
思わず立ち上がり、言葉を発せなくなる。ただただ息が詰まって、光から目が離せない。
あり得ない。あっていいはずがない。だって、これは。
ジルは驚愕の表情を浮かべながら、急ぎ足で室内を後にした。慌てて階段を駆け下り、夜間勤めを担っていたシスターの一人、エリスを呼び止めて、声を掛ける。
「ジル様?どうされたのですか、随分と慌てたご様子で」
「あ、貴女、セリアを看てくれていたわよね。この『指輪』を、彼女が持っていたのよ。何か、知ってる?」
セリアが手にしていた光は、『祈りの指輪』。所持者に魔力を注ぐ効能を秘めた聖なる指輪は大変希少で、その製法はエルフのみが知ると言われていた。
「ああ、その指輪はセリアさんの所持品です。今朝方に、私も目にしました」
「所持品って、あの子は何も持っていなかったのよ。指輪どころか、衣服だって」
「その……ここだけの話に、して頂きたいのですが。身体の『中』に、隠していたようなのです」
「か、身体の中?」
体内。それが意味するところは、想像するに容易い。エリスは伏し目がちな様子で続けた。
「セリアさん、今朝からずっとその指輪を手放さなかったんです。セリアさんにとって、それほど大切な物なのだと思います」
「そんな……そんな、こと」
「……あの、ジル様?その指輪が、何か?」
ジルは答えようともせず、セリアが手にしていた指輪をまじまじと見詰めた。
何度見ても、どう見たって、見覚えのある刻印。賢しき者の冠を戴いた、あの日に授かった祈りの指輪に―――己の手で印した誓い、『賢しき光であれ』。
唯一無二の指輪を付けたこの手に握られた、もう一つ。あるはずのない指輪が、ここに。
(セリア……貴女は、誰なの?)
ジルの想いを余所に、祈りの指輪は僅かな光を湛えていた。
捻じ曲げられた運命は少しずつ、動き始めていた。