ドラゴンクエストⅢ 時の果てに集いしは   作:ゆーゆ

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白髪の拳士は、拳聖と共に

 

 峻厳な稜線を描く山脈に四方を囲まれた村、カザーブ。

 村の名を知る者は少ない。村民が二百名程度の平凡な村だ。かつて魔物の大軍を拳一つで退けたという武術家の逸話が残っているぐらいで、大陸という規模から考えれば、小国ノアニール領土内の人里に過ぎない。

 しかし近年では、遠路遥々カザーブを訪ねる者が増加の一途を辿っていた。かつてアリアハンの勇者と旅路を共にし、魔王討伐に貢献した、生ける伝説。聖戦士の一人、『武闘家リーファ』が生まれた聖地として、世界中にその名を轟かせるに至っていた。

 

「お、おい。見ろよ、あいつ」

「……何だありゃ。『棺桶』、だよな?」

 

 そして、彼もまた。見知らぬ地に落とされながらも、強者と剛剣を欲し、流れ着いたさすらいの剣士。青年は漆黒の棺桶を縄で引き摺り、カザーブの東部を目指していた。

 

___________________

 

 

 山々に囲まれ、他の地域から隔離されたカザーブの盆地は、独自の環境を形成している。とりわけ農業の観点から見れば、広大な平野と安定した気候は畑作に適しており、ノアニールという小国にとって、カザーブは貴重な資源村の一つでもあった。

 十年前に帰郷を果たしたリーファは、今では立派な所帯持ち。彼女もまた、村と隣接した広大な畑で働く身であり、今日も愛娘を背に抱きながら、草むしりに勤しんでいた。

 

「……あたしに何か用かい、青年」

 

 額の汗を腕で拭ったリーファは、我が子を起こさないようそっと立ち上がり、畑道に立っていた男性の方を向いた。

 腰に携えた二振りの大剣。右手に握る縄と繋がれた、紛れもない棺桶。あまりに異様な品々を所持する白髪の青年は、辺りを見渡しながら口を開いた。

 

「剣聖と呼ばれた男を探している。勇者と共に魔王を討ったという男だ。この辺りにいると聞いたが」

「ああ、そいつはあたしの旦那だね」

「旦那?」

「ヴァン!あんたにお客さんだよ!」

 

 リーファと並ぶ、もう一人の聖戦士。剣術の腕前ならアレルをも上回るとされたかつての剣士は、今現在ノアニール国民、兼カザーブ村民。リーファに永劫寄り添うと誓ったヴァンは、その剛腕を戦士としてではなく、畑を耕すために揮っていた。

 

「お前が剣聖か」

「見ない顔だな。外の人間か?」

「お前が剣聖なのかと聞いている。答えろ」

 

 青年の強引な物言いに、ヴァンは一度リーファと顔を見合わせてから答える。

 

「懐かしい通り名だな。そう呼ばれていたことはある。それで、用件は何だ」

「業物を探している。剣聖と呼ばれたお前なら、心当たりがあるだろう。お前が所持している刀剣を見たい」

「剣……生憎だが、魔物の脅威が去ってから、武具は全て手放した。剣が欲しければ余所を訪ねてくれ」

「そうか。それなら、次の用件だ。俺と立ち合え」

 

 言い放った声が、ヴァンとリーファの笑みを消した。

 訪ねて早々、赤の他人との果し合い。皆目見当が付かない青年の思惑に、言葉に窮したヴァンは、大仰に両腕を上げながら首を横に振った。

 

「言っている意味が分からんぞ。一体何のつもりだ?」

「二度も言わせるな。こいつを抜け」

 

 青年は高圧的な態度を崩さず、腰の大剣を一振り掴み、ヴァンの足元へと無造作に放り投げる。鞘の先端が畑の畝へと突き刺さり、土中に根付いていた作物を砕いた。

 あからさまな挑発と誘い。ヴァンの気を引こうとした青年の目論見は、しかし逆効果を生んだ。

 

「断る。帰ってくれ」

「何だと?」

「剣は手放したと言っただろう。それに、お前さんと剣を交える理由がない」

「……フン。理由が必要なら、俺が作ってやるよ」

 

 煩わしい。遠回しな言動は性に合っていない。形振り構わず、力技で押し通すまで。

 青年の右手が剣の柄に触れると同時に、リーファが両者の間に割って入る。リーファはぱんぱんと掌同士を叩き鳴らし、青年と向かい合って宥めるように言った。

 

「はいはいそこまで。潔く帰んな、青年。みっともないったらありゃしない」

「おい女、そこを退け」

「大声を出すんじゃないよ。この子が起きちまうだろ」

「黙れ。ここまで来ておめおめと―――」

「それとも、『あたし』とやるかい。青年」

 

 突如として発せられた気当たり。望んでいたはずの戦意に、青年は思い掛けず一歩後ずさった。

 自分よりも一回り小さい体躯が、瞬時にして膨れ上がっていくかのような威圧感。猛虎の如き牙を目の当たりにした青年は、不敵に笑いながら、リーファを頭上から睨み下ろした。 

 

「お前が、俺と?」

「目は利く方でね。あんた、『こっち』の心得もあるんだろ」

 

 眼前に突き出されたリーファの左拳。意味するところは、徒手空拳での立ち合い。青年は放浪する中で耳に挟んだ、もう一人の聖戦士の名を思い起こした。

 剣聖とは異なる次元で、最強の名に相応しい最狂。『拳聖』と称された女拳士。不鮮明な記憶に頼らずとも、叩き込まれた裂帛の気合いが、全てを物語っていた。

 

「おいリーファ。本気か?」

「いい運動になりそうじゃないか。それにアカネを生んでから、身体が鈍って仕方なかったしね」

「俺は構わないぜ。『運動』で、済めばいいがな」

 

 上等だ。青年は逸る気持ちを、飛び掛かりたい衝動を抑えるように、固く拳を握った。

 力が欲しい。もっと力を。より強大な力を、この手に。

 

___________________

 

 

 立ち合いの場は、農地から離れた平野。念のためにと村から距離を取るよう言い聞かせたヴァンは、二人の拳が交わってすぐ、目を見開いて驚愕の表情を浮かべ続けていた。

 

「……こいつは、驚いたな」

 

 互いの拳圧が地面を抉り、大木に無数の風穴を空けて横倒しになる。足刀が草木もろ共空間を裂き、鈍重且つ鋭利な音が辺りに響き渡っていく。度々襲い来る拳圧に気を払っていないと、観ているこちら側が先に倒れてしまう。

 不撓不屈。四肢を不動の刃とするリーファの猛攻が、同等かそれ以上の妙技によって流され、返り討ちに遭う。常にリーファと隣り合わせで前衛役を担ってきたヴァンだからこそ、青年の才を理解するに至っていた。 

 

「はあぁ!!」

「ぐっ……!」

 

 やがて。青年の前蹴りが、リーファの下腹部へと突き刺さる。

 身体がくの字に折れ曲がったリーファは後退を余儀なくされ、下っ腹を押さえて苦悶しつつ、乱れた呼吸を整えていく。

 

「ふうぅ……ど、度肝を抜かれたよ。あんたみたいな使い手が、この地上にいたなんてね。青年、出身は?」

「さっさと構えたらどうだ。次で終わらせてやるぜ」

 

 青年はリーファの問いに無視を決め込み、腰を深く落として、前方を見据えた。利き腕の右拳を脇下に引いて、左手は前方に添える。呼吸は緩やかに、深々と。

 正拳突きによる渾身の一撃。あれを食らったら、間違いなく立ってはいられない。

 

「仕方ない。『小細工』を使わせて貰うよ」

「後悔するなよっ……!」

 

 構えはそのままに、青年が仕掛ける。互いの距離が一気に縮まっていき、間合いの半歩手前。

 未だ動きは見られない。恐らくは後の先を狙った受け流し。交差の刹那を見極めて、当てて見せる。

 

(―――!?)

 

 青年が拳に力を込めた瞬間、リーファは場違いなほどに緩やかな動作で、両手を前に突き出した。掌がぼんやりと発光し、太陽のような眩しさが、青年の距離感を惑わせる。

 これは何だ。呪文じゃない。剣気でもない。得体の知れない力が、前方に凝縮されていく。

 

「波ぁっ!!」

「な―――」

 

 直後に放たれた波動は、意趣返しだと言わんばかりに、青年の下腹部を射抜いた。受け身を取り損ねた青年は、背中から地べたに倒れ込み、四つん這いの体勢で大いに咳込みながら、辛うじて顔を上げた。

 したり顔が見下ろしていた。勝敗は既に、決していた。

 

「一応言っとくけど、呪文じゃないよ。遠当てでもない。紛れもない、あたしの『武』さ」

「い、今のが……?」

「でもまあ、真正面からの打ち合いならあたしの負けだ。言い訳する気もないよ」

 

 リーファは両膝に手を置いて、青年の顔を覗き込んだ。

 

「かなり深く入っちまったようだね。手を貸すよ」

「さ、触るな」

 

 差し出された手が、ぱんと音を立てて弾かれる。リーファは鋭い痛みが走った手を見詰めると、腰を下ろして屈み、青年と同じ目線で告げた。

 

「一つ聞かせてくれないか、青年。あんた、何で剣を探してるのさ?」

「剣士が、剣を求めて、何がおかしい」

「ふうん。なら、旦那と立ち合いたかった理由は?」

「俺はただ、強く……い、いい加減にしろ」

 

 青年は吐き捨てるように言うと、よろよろと身体を揺らしながら強引に立ち上がる。対するリーファは、青年の目をまじまじと見詰め、彼がその目に宿す異様さを、目の当たりにした。

 傲慢無礼な振る舞い。己を上回る天賦の才に、恐らくは剣術も然り。それほどの力を秘めながらも、彼は心底剣を求め、強さを求めている。

 

「な、何を見ている?」

「あんたの目だよ。言っただろ、目は利く方だって……へえ。案外、優しいんだね」

 

 それなのに―――目の色は、澄み切っていた。悲愴と悲壮が混じり合い、重々しい罪悪感のような枷の向こう側には、溢れんばかりの純粋さ。まるで子供のように初々しい、本能に近い衝動や感情しか見て取れなかった。

 

(綺麗な目……でも、どうして?)

 

 荒んだ男共なら、星の数ほど見てきた。剣に溺れ、力に驕る者の行く末は、決まって見るに堪えないものだ。

 でも、彼は違う。他の誰とも異なっている。

 どうやったら、どんな境遇が、彼のような男性を育むというのだろう。

 

「やめろ、見るな!」

「おっと」

 

 青年がリーファの視線を遮るように腕を振るい、後退したリーファの背中を、ヴァンの厚い胸板が受け止める。リーファはヴァンに心配ないと言い聞かせ、考えごとを後回しにして、快活に笑った。

 

「あはは。あたし、あんたが気に入ったよ。青年、名前は?」

「うるさい」

「待ちなってば」

 

 足早に去ろうとした青年の腕を取り、リーファは告げた。

 

「雪辱を果たしたいんなら、いつでも来るといい。受けてあげるよ」

 

 煮え滾るような激情。底なしの辱めと屈辱感。青年はその全てに蓋をして、深呼吸を置いた。

 誇りは不要だ。戦士としての誇りよりも、強さを。無意識のうちに欲する力を何より重んじた青年は、振り返ることなく、背を向けたまま告げた。

 

「望むところだ。明日の明朝に、またここで」

「はああ?馬っ鹿じゃないのあんた?こちとら所帯持ちの身なんだ。朝っぱらから手合せできるほど主婦は暇じゃってはーい、よしよし。アカネ、どうしたのー?待ってねー、すぐマンマにしましょうねー」

 

 身を翻したリーファの声に、青年はちっぽけな誇りが崩壊していく音を聞いた。

 

___________________

 

 

 それからというもの、青年はリーファの申し出に少しも遠慮をせず、日々立ち合いに臨んだ。カザーブ唯一の質素な宿屋に住み着き、来る日も来る日もリーファと拳を交え、光の波動―――真気を刃とするリーファの絶技で、昏倒した。

 二人の立ち合いは、瞬く間に村中へと知れ渡り、一気に注目を集めた。カザーブの象徴と化した拳聖の技の数々。それらを真っ向から捌き、対等に渡り合う謎の男性。一考に名乗ろうとしない青年はそのまま『青年』という呼び名で親しまれ、カザーブはかつてないほどの賑わいを見せる日々が続いていた。

 そして青年が流れ着いてから、二週間後。昼時を迎えたカザーブの外れには、お馴染みの光景が広がっていた。

 

「がはっ!?」

 

 序盤は手数で勝る青年が優勢。次第に追い込まれていくリーファが、起死回生の一撃。取り巻きは大いに盛り上がり、村民の半数以上が立ち合いの場へ集結するに至っていた。

 

「やれやれ、三十路の主婦には堪えるね。あんたも毎度よくやるよ。それにそろそろ、技の起こりを見切られちまいそうだ」

 

 リーファが腕を振りながらその場を後にすると、次いで青年がふら付きながら立ち上がる。すると遠巻きに観戦していた男性の一人が青年に近寄り、肩に手をやって激励の言葉を贈った。

 

「惜しかったな、にーちゃん。今度こそ期待してるぜ」

「触るな!」

 

 力任せの拒絶。掌で胸を叩かれた男性は、体勢を崩してしまい、立っていられずに尻餅を付いた。青年は男性の様子に構わず、目を向けようともせずにリーファとは反対の方向に去って行った。

 今回が初ではなかった。負け惜しみなのか、それとも八つ当たりの類いか。青年が時折見せる乱暴な振る舞いを快く思わない村民も、決して少なくはない。

 

「いってえ。な、何なんだよあいつ。応援してやってんのに」

「……多分、相当なモンを背負ってんだろうな」

「あん?」

 

 呟くように声を発したのは、村で宿屋を営む男性。宿屋の主は、青年の背中を見詰めながら、気まずそうに胸の内を明かした。 

 

「この間、あいつが部屋で身体を拭いてる時に、見ちまったんだ。どえらい傷痕が、身体中にあって……。まるで継ぎ接ぎの人形みたいな身体だった。きっとあいつは、ずっとああやって生きてきたんだろうな」

 

 無数の視線が、名も知らない青年の背中に注がれた。

 その身に一生物の傷を背負い、頑なに強者へ挑み続けながら、何を求めているのか。その目に映っている物、先に見据えている物は、一体。一人として、分かるはずもなかった。

 

___________________

 

 

 犬頭神の月下旬。青年が宿泊先の一室でベッドに寝そべり、天井を見詰めていた最中、扉をノックする音が鳴った。半身を起こすと、扉を半開きにして顔を覗かせたのは、剣聖と呼ばれた男だった。

 

「よう。今、いいか?」

「何の用だ。勝手に入るな」

「そう邪険にするなよ。ただの差し入れだ。宿屋暮らしだと、何かと掛かるだろうからな」

 

 お前もか。青年は無言で独りごちて、頭を痛めた。

 立ち合いが村民の目に留まるようになって以降、食料や衣類といった物資を押し付けてくる輩が後を絶たない。村民にその気はなくとも、同情や憐みを向けられているようで困り物だというのに。

 青年が辟易していると、ヴァンは壁に立て掛けられていた大剣を一瞥して言った。

 

「前々から感じていたが、見事な業物だな。何処で手に入れたんだ?」

「それは……」

 

 ヴァンの何気ない問いに、青年は言葉に窮した。不意を突かれたせいか、珍しく感情が表に出てしまう。

 知らぬ存ぜぬを決め込めばいい。慌てて表情を消した青年は、何かを察した様子のヴァンを見て、顔を顰めた。

 

「『分からねえ』って顔だな。俺も薄々勘付いてはいたんだが、リーファの言う通り……いや、まあいい」

 

 ヴァンは敢えて深きに触れず、テーブル上に置かれていた薬草の葉を一枚取り、口調を緩めて言った。

 

「それにしても、大した奴だ。戦いから身を退いて長いとはいえ、あいつと対等に打ち合える奴がいたなんてな」

「全盛期は、もっとすごかったのか?」

「どうだろうな。今でも手刀で薪割りをするような奴だ。そんな女、あいつぐらいのものさ」

「男だってしないだろ……」

「クク、違いない。なんだ、普通に話せるんだな」

 

 青年は舌打ちをして立ち上がり、ヴァンの手にあった薬草を奪い返し、無駄話は終いだと言わんばかりに背を向けた。青年の極端な挙動にヴァンは呆れつつ、踵を返して扉に向かい、ドアノブを半分だけ回したところで、手を止めた。

 

「リーファは、お前との立ち合いを心底楽しんでいる。あいつに代わって礼を言わせてくれ」

「戯言も大概にしろ。俺はただ、力ある者と戦いたいだけだ」

「ああ、それでいい。それと……『記憶』、戻るといいな。思い出したら、名前ぐらい教えてくれよ」

 

 ヴァンが言い残してから、扉が閉ざされる。

 記憶。二十六年分の記憶。青年は上半身の衣服を乱雑に脱ぎ捨て、己の身に刻まれた無数の傷痕に触れた。

 名乗らない、じゃない。名乗りたくとも、分からないのだ。一番分からないのは自分自身。思い出そうにも、見付からない。剣を探し求める理由も。力を欲し、己を衝き動かす根柢にある物が、理解できない。

 

「どうして俺は……どうして、なんだ」

 

 何より、目を合わせられない。立ち合いの場は別として、『リーファ』に見詰められると身体が強張って、吐き気がする。毒物のように耐え難い嫌悪が身体中を走り回って、気が狂いそうになる原因が、見付からない。

 分からない。どうして、俺は。誰か―――教えてくれ。

 

___________________

 

 

 その日の立ち合いは、人目を忍んで行われた。誰の目にも触れたくないという青年の言い分に、リーファは多少戸惑いを覚えつつ、普段と同じように青年と向かい合った。

 

「……ねえ。あんた、何かあったの?」

「何のことだ。さっさと構えろ」

 

 訝しみながら構え、青年の様子を窺う。

 目に見えた焦り。焦燥感が前傾姿勢に繋がり、腰の位置が低く、引き手も深い。全身から発する気当たりが荒々しくて、肌を刺すような痛みが走る。たったの一日でこの変わりよう。

 

(失った記憶……か)

 

 大方を察してはいた。青年は何も語ろうとしない。名前に始まり、年齢、出身、生い立ち、家族。頑なに口を閉ざそうとする青年は、どういう訳か視線の交わりを拒絶する。立ち合いを終えるとすぐ、私と目を合わせようともしない。

 歩み寄りたいのに、近付く術がない。

 不意に消えてしまいそうで、拳を向け合う時間だけが、唯一の会話。

 分からない。青年は今、何を想っているのだろうか。

 

「まあいいさ。さあ、行くよ!」

 

 地を駆り、間合いに入るやいなや渾身の連撃。連日のように手合せが続いたためか、技が一段と冴えている。何処となく精彩さを欠いていた体捌きは切れ味を増して、身体が意のままに動いてくれた。

 

「ぐっ……!」

 

 青年は一旦後方へ大きく飛び退き、最も得意とする正拳突きの構えを取った。まるで弓に矢をつがえているかのような視線に、リーファはすぐに青年の意図を察した。

 遠当て。拳圧に重きを置いた無手の矢。下手に踏み込めば、迎撃される。

 

(上等―――)

 

 それなら、こちらも。生命の根源たる気流を操り、対象を穿つ秘技。遠当てを紙一重で流し、間髪入れずに撃ち返す。日常と化した立ち合いは、今日も同様の結末を迎える―――はずだった。

 

「ま、ま。まーま」

「「!?」」

 

 互いの動きに気を取られ、思わぬ者の接近に、毛ほども気付いていなかった。既に青年の拳は前方の空間を叩き、射られた圧は不可視の矢となり、リーファとアカネを同線上に捉えていた。

 一片たりとも逸らしてはならない。リーファは地に足を突き立て、遠当てを正面から受け止めると、途方もない衝撃が、彼女の半身を襲った。

 

「きゃあぁ!?」

 

 脇腹に激痛が走り、身体が宙を舞った。背中から倒れ込み、呼気が胃液と共に吐き出される。横向きに蹲って苦痛を耐え忍んでいると、眼前に小さな二本の足が映った。

 

「ぐぅ、ううっ……あ、アカネ?怪我は、ない?」

「まま、まま!?」

「あはは。よ、よかった」

 

 我が子の狼狽した声が、大きな安息感を生んだ。ほっと胸を撫で下ろし、地面に寝そべったまま腹部を押さえていると、まるで正反対の感情を露わにした怒号が、頭上から降り注いだ。

 

「ふざけるなぁ!!」

 

 青年は感情を少しも隠そうとせず、不得手な回復呪文を詠唱しながら、声を大にして続けた。

 

「何のつもりだ!お前、死にたいのか!?どうして躱さなかった!?」

「できる訳、ないじゃないか。アカネは……はは。ほ、本当に、よかった」

 

 そう。できるはずがなかったのだ。腹を痛め、難産の先に出逢った最愛のためなら、私は。リーファは武闘家ではなく、一人の母親として、掛け替えのない愛娘の体温を噛み締めながら、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。

 

「っ……ねえ、さん?」

 

 無条件の慈しみ。その笑みが、青年の奥底に眠る何かに触れた。

 青年の鼓動が瞬時に波打つように高鳴り、感情がない交ぜになって、思考が停止する。

 

「せ、青年?」

「ああ、あぁ、あああぁあ?」

 

 突然の崩落。心が音を立てて、壊れていく。リーファは青年の異変を、瞬時に理解した。

 姉さん。その一言で充分だった。それ以上を、リーファは求めようとしなかった。

 

「青年。あたしは、平気だよ。何も怖がらなくていい。怖くなんて、ない」

「お、俺は、おお、おれ」

「あれだけ拳を交えれば、嫌でも分かるさ。あんたは……喪うことの痛みを、知ってるんだね」

 

 生い立ちなんて分からない。小難しいことは分からなくていい。

 何より、彼は人間だ。人間だから、誰かを愛していた。彼も誰かに愛されていた。家族とか、恋人とかは関係なく、ヒトとしての感情が青年を育み、喪った痛みが今の青年を成している。ただ、それだけのことだ。

 

「自分じゃない、誰かのために生きる。守りたいから、あんたは力を求めるんだ。あたし達と同じさ。何も変わらないよ」

「分からない。分からないんだ。何も、思い出せない。名前も、何もかもっ……ただ、怖いんだ」

 

 彼に必要な物は、一歩踏み出す勇気。喪った物を取り戻すためではなく、恐らくは凄惨さに満ちた過去と向き合い、乗り越えた先に待っている明日に他ならない。

 

「ずっと迷ってたけど、決めたよ。これを、あんたに預ける」

「……これは?」

「『夢見るルビー』。以前知り合ったエルフが、友好の証にって譲ってくれた物さ」

 

 リーファが手渡したのは、夢その物。神々しい装飾が施された六角柱型の宝石の中には、精霊を模した小さな像が、ピジョンブラッドの光を湛えていた。

 

「自分と向き合う覚悟があるなら、その宝石の中身を覗きな。あたしに言えることは、それだけだ」

 

 かつて旅路を共にした、賢き者が教えてくれた。夢とは心像であり、己を投影する鏡。魔力を宿した宝石は、彼の奥底に眠る記憶に触れて、きっと夢は―――悪夢に、等しいだろう。

 期待はできない。最悪の方向へ転がる可能性だって、十分にあり得る。そうだとしても、私は彼に託したい。だから、頑張れ。青年。

 

___________________

 

 

 明朝。朝陽が山の端から顔を覗かせ、生まれたての太陽がカザーブの盆地を照らし、そこやかしこから新たな今日を示す産声が上がり始めた時間帯。

 

「おはよ、青年」

 

 リーファは背に陽の光を浴びながら、すっかり立ち合いの場と化した平原の一画で、大の字になって仰向けに寝そべる青年に、朝の挨拶を投げた。青年は微動だにせず、喉と口を精一杯動かして、開口一番に不満を漏らした。

 

「どうして、話さなかった」

「何のことさ?」

「身体中が、麻痺して、丸半日の間、この有り様だ。どうしてくれる」

「あはは。これ、満月草。持ってきたから……。ほら、口を開けて」

 

 リーファは川の水でふやかしておいた満月草の葉を大雑把に割き、身を屈めて、青年の口の中に一切れずつ、指で押し込んだ。青年は赤子のように頼りない力でゆっくりと咀嚼し、飲み込んでは口に含むを繰り返した。

 

「直に効いてくるよ。よいしょっと」

 

 リーファは青年の傍らに座り、同じ風景を共有した。

 目覚めの朝。まだ住民のほとんどは眠っている時間だ。家畜や鳥のさえずりを除けば、誰の声も耳には入らない。まるで無人のように静寂が広がるこの地には―――確かに、人間がいる。限られた時を過ごし、誰かを愛し、愛されながら今を生きて、夜は必ず終わりを告げて、新たな一日が訪れる。

 そして今日もまた、私達は誰かを想い、寄り添いながら生きようとしている。

 

「テリー」

「え?」

「名前だ。俺の、名前」

 

 痺れが薄れたのか、青年は両手を胸の上に置いて、仰向けの姿勢はそのままに、太陽を仰いでいた。

 青年の頬は心なしかこけていて、血の気が薄い。今にも消え去ってしまいそうな危うさが、昨晩をどのようにして過ごしたのかを、思わせた。

 

「夢、見れたみたいだね。テリー」

「……ああ」

 

 一陣の風が吹いて、青年の掠れた声を遠ざけていく。脆く儚げな物悲しさが、胸に去来する。

 リーファは何とはなしに、後頭部でひとまとめに結っていた髪を解いて、風の流れになびかせた。青年はその姿に暫し見入ってしまい、一人として気付きそうにない小さな笑みを浮かべると、そっと瞼を閉じた。

 

「姉さんがいた。たった一人の、肉親だった」

「お姉さんか。どんな人?」

「生きていれば、多分、お前と同じぐらいの歳だ。死に目には、付き添えた」

「……そっか」

 

 期せずして、同い年だった。リーファと正面から向き合えない理由。目を覗かれると、心身が波打って拒んでしまう理由。

 きっと、似ても似つかないんだろうな。リーファは苦笑をして言った。

 

「それが、剣と力を求める、理由なんだね」

「俺は、守れなかった。守れなかったんだ」

 

 全てを思い出せた訳ではなかった。漠然とした感情と、身を裂かれるような胸の痛みに裏打ちされた、否定のしようがない過去。二十六年分の負い目を一点に凝縮させたかのような一夜の夢が、最愛の『声』となって脳裏でこだまして、耳から離れない。

 

「俺は、多分……何者にも、なれなかったんだ。苦しいだけで、涙すら出やしない。自分が自分じゃないみたいで……でも、寒いんだ。寒くて仕方ない」

 

 心底望んでいた力を手にした先にあったのは、どうしようもない虚無感。まるで別の誰かを俯瞰して見ているように、自分とはほど遠い無力な自分が、何処か別の世界の中で、喪失していた。

 分からない。遠い過去のように思えて、違う。

 見知らぬ世界の端っこに取り残されて、身体が冷えていく。

 ただ、寒い。寒いんだ。だから―――誰か。

 

「テリー」

 

 不意に当てられた体温。柔らかな温もりが、ひどく懐かしく思えて、微睡みを誘った。

 同時に、誰かの歌声が聞こえた。眠気を思わせる歌詞と、誰かの声。

 ずっと長い間聞いていない、記憶の底の、更に奥深くに眠っていた、遠い遠い過去の声。

 互いに年端もいかなかった頃の、あどけない歌声。

 

「大切な過去を想うことはできる。でも、変えることはできない。もう手が届かないんだ。だから、『今』。これからどうするかが、大切なんだって、あたしは思うよ」

 

 リーファはテリーの頭を膝の上に乗せて、額をそっと撫でながら、紛れもない愛情を、彼に注いだ。見返りを求めない感情は、歪められた何かを正すように、じんわりと沁み込んで、広がっていく。

 

「自分を赦してやりな、テリー。あんたが大切だって思える物を、守りたいって思う人間を、今から守ることはできる」

「俺が……。まも、る」

「そのための力を、あんたに授ける。あたしの『とっておき』を継がせてあげるよ。だから……今は、眠って」

 

 再び、歌声が聞こえた。

 優しげで、風と共に消え去っていく幻の歌は、いつまでもいつまでも、奏でられた。

 

___________________

 

 

 それから―――半年後。半年間の月日が過ぎた、女神の月、五日目。

 身支度を整えたテリーは、ずっと放置をしていた棺桶を引いて、村の北部に店を構える武具屋を訪ねていた。

 

「ほ、本当に、いいんですか?」

「いいと言っているだろう。俺にはもう、不要な物だからな」

 

 僅か三千ゴールドによる即決。膨大な時を費やして厳選し、各地から掻き集めた業物の数々は、この世界においても値の付けようがないほどの希少価値がある。刀剣の全てを路銀の足しに換えたテリーは、その足で村の西部へと向かった。

 旅は身軽な方がいい。水や食料を詰めた麻袋を背負い歩いていると、やがて視界に映った二人の男女の前で立ち止まり、交互に視線を交わした。

 

「もう、行くのかい」

「……ああ」

 

 こつんと拳同士を合わせてから、ヴァンにも同様に。ヴァンは竹筒に入った酒をテリーに手渡すと、旅の行き先を聞いた。

 

「それでお前さん、これから何処へ向かうつもりなんだ?」

「シャンパーニの塔とやらへ。恐らくあの塔が、俺がこの世界に降り立った鍵のはずだからな。……もう、行くぜ」

 

 素っ気なく言い残し、テリーが歩を進める。すっかり伸びた細く長い白髪は、リーファの手で結われていた。文字通り後ろ髪を引かれたテリーは、誰の耳にも届かない小声を漏らした。

 

「じゃあな。ヴァン、リーファ……。リーファ、姉さん」

 

 唯一無二の二人。二人目の最愛を呼ぶ声。それは誓いであると共に、頑なな決意。

 過去と向き合い、決して逃げず、手放さずに、今を生きる。きっとその先に光があると信じて、ただひたすらに、前へ。

 

 

 

 

 


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