ドラゴンクエストⅢ 時の果てに集いしは   作:ゆーゆ

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第2章
老兵と迷い犬


 

 今日は二週間に一度の『洗濯』の日。洗濯屋に依頼するのが最も手っ取り早いけれど、それなりの費用が掛かる。生活費の管理を任されている以上、省ける部分は省く。節約に越したことはない。

 たらいに溜めた水の中に洗濯液を入れた後、衣類を浸して足踏み。何度も踏んでいるうちに汚れが流れ出ていき、綺麗な水ですすぐを繰り返す。というのは一般的な方法で、恐れ多くもアレル様の衣服を足蹴にするなんて真似ができるはずもなく、両手で擦り洗い。すすいだ後は裏庭のロープに吊るして、陽の光をたっぷりと浴びせながら―――

 

「レミーラ!」

 

 秘技、レミーラ干し。ジル様から授かった呪文干しは『殺菌力』とやらが優れていて、しかも短時間で乾いてくれる。詳細な原理は今一分からないけれど、旅を続ける中で考案した洗濯法だそうだ。

 

「これでよしっと。タバサさん、そちらはどうですか?」

「全部干し終わったわよ。他には?」

 

 最後の一枚を吊るし終えたタバサさんが、朗らかな笑みを振り撒きながら答える。

 金色に輝く細髪が眩しく、気を抜いていると思わず見惚れてしまう。猛々しくも美しく、目覚め前に消えてしまう夢のような儚さを内包する女性。それが私が知る、タバサという女性だった。

 

「今のが最後です。少し早いですが、切りがいいのでお昼にしましょう」

 

 タバサさんと共にアリアハンへ戻ってから、月が変わり、女神の月初旬。あれから、約一ヶ月が経つ。

 タバサさんは現在、私と共にアレル様邸の離れで暮らしている。本来は来客用の寝床であったはずが、今ではすっかり私達二人の衣食住の場と化していた。

 

「朝に作っておいたスープと、パンでいいですか?」

「ええ、頂くわ」

 

 アリアハンでの生活にも段々と馴染んできたようで、普段はこうして私の家事を手伝い、二日に一度はルイーダさんの飲食店で働いている。食材の扱いは見事な物で、客受けもすこぶる良い。素行の悪い客を腕っぷしで追い払う姿は、老若男女を問わず、注目を集める存在となりつつあった。

 

「ねえヤヨイ。女王様って、どんな人なの?」

 

 そうして迎えた今日。タバサさんはアレル様と共に、アリアハン国家元首である女王陛下との謁見が決まっていた。

 

「ナズナ様と同じで、お優しい方ですよ。三年前にサルバオ様がお亡くなりになってすぐ、長女であるレイア様が即位されたんです」

 

 七つの大陸上に成り立つ国々の中で、女王が治める国家として有名なのは、砂漠の国イシス。そしてこのアリアハンにおいても、レイア様の王位継承が認められ、数代振りの女王が戴冠式を迎えるに至っていた。

 元々アレル様とジル様は、情報交換を目的に、定期的にレイア様に謁見を賜る立場にある。とりわけジル様は、世界中を渡り歩く旅人でもあり、各国の情勢や動きに精通している。アレル様は元より、即位してまだ間もないレイア様にとって、ジル様は気さくに話せる相談役の一人なのだろう。

 

「最近は相談を受ける機会が増えているそうです。ナジミの塔も、あんな状態ですから」

「……無理も、ないわね」

 

 レイア様にとっての悩みの種は、ナジミの塔での一件。アリアハン大陸でも有数の観光地であったはずのナジミの塔は、未だ立ち入りが禁じられている。それに伴い、凶暴な魔獣が降り立ったという事実も大陸外に知れ渡り、駄目押しと言わんばかりに―――先月は、ジパングでも。アリアハン国内は勿論、各国の間に不穏な空気が漂い始めていた。

 

「詳細については追々。あまり時間もありませんから、早いところ食べてしまいましょう」

「そ、そうね」

 

 ともあれ、ジパングが見舞われた異変のこともあり、午後からの謁見には私にも声が掛かっている。時間は厳守しなければならないし、少し早めに仕度をしておこう。

 

「あれ。タバサさん、どうかしました?」

「え。な、何が?」

 

 私が指差したのは、スープを盛った小皿。タバサさんが手を付けていた小皿には、橙色の具材だけが、形そのままに残されていた。こんにちは、ニンジンさん。

 

「えーと、ね」

「……」

「その。あれよ」

「……」

「ちがう、ちがうのよ?私は、ただ」

「ピーマン、玉ネギ、白身魚に、ニンジンが追加ですね。他にありましたか?」

「……ないと思う。多分」

 

 生活を共にする中で、分かったことが一つ。タバサさんは、かなりの偏食だった。ごめんなさい、ニンジンさん。

 

___________________

 

 

 ―――旅の扉。

 光の奔流の起点となる泉は、世界各地に点在し、主要各国の厳重な管理化に置かれている。何の前触れもなく自然発生したかと思いきや、忽然と消えてしまうこともしばしば。精霊の気紛れと称される一方、幾百年もの時を超えて、安定して扉同士を繋ぎ続ける物もある。

 中でも、今から七年前。アリアハン王宮地下深くに発生したそれは、唯一無二の起点。すなわち『地上世界ガイア』と『地下世界アレフガルド』を結ぶ、たった一つの旅の扉だった。

 

「ジパングに出現した個体は、恐らくキングヒドラの亜種かと。彼のゾーマが従えていた魔物です」

『そのような魔物が地上に……むう。穏やかな話ではないな』

「ラルス王。アレフガルドでは、何かお変わりは?」

『これと言って聞いておらん。そなたがもたらしてくれた平穏は、変わらずに続いておる』

「……恐縮です」

 

 旅の扉を介した意思の疎通。アレルはラダトーム現国王であるラルス王へ、地上世界で生じ始めた異変について話し聞かせていた。

 ナジミの塔には、ジャミと呼ばれた魔物が。そしてジパングではヒドラ族の頂き。いずれにも共通するのは、邪悪で強大な魔物が唐突に降り立ったという点。その場に居合わせたアレルやタバサの手により事なきを得たものの、一歩間違えれば街単位の犠牲が出ていて然り。被害が最小限に留まったのは、単なる偶然に他ならなかった。

 

『しかし気になるのは、そのタバサという名の女子だな。今の話では、こちら側からの迷い人、という話でもあるまい』

「そのようです。暫くは彼女のような人間が他にいないか、主要各国を当たってみようかと思います」

『ふむ。こちらも前例がないか、調べておくとしよう』

「ありがとうございます。では、また後日に」

『ああ。ルビス様のご加護を』

 

 通信を終えて、ふうと溜め息を一つ置く。アレルは鏡のように透き通った泉の水面を見て、七年前を思い起こしていた。

 大魔王を討ち、背負ってきた全てを為し終えた自分を、故郷へと送り届けてくれた旅の扉。

 地下世界を覆っていた闇は消え、長きに渡った夜が明けて、朝を取り戻した。

 そう。終わったはずだった。終わったと思っていた。それなのに、一体何が。

 黙考していると―――不意に、気配を感じた。

 

「収穫はナシみたいね」

「っ……ジル。リリルーラはやめてくれ」

「あら、こんなに便利な呪文なのに?」

「心臓に悪い」

 

 瞬間合流呪文、リリルーラ。施錠技術の発展が生んだ『アバカム』以来、実に二百年振りとなる新規呪文の誕生は、その利便性のあまり、一部の者しか把握していない。

 アレルは平静を装い、口を尖らせて言った。

 

「それで、どうしたんだよ急に。ガルナの塔を調べるって言ってなかったか?」

「どうも何も、陛下との謁見はそろそろでしょう。もしかして、忘れてた?」

「……ああ、そうか。そうだったな」

 

 どうも様子がおかしい。女王陛下との約束を忘れるなんて、彼らしくない。

 ジルが小首を傾げてアレルの様子を窺っていると、互いの距離が縮まっていき、やがてアレルの両腕が、ジルの背中に回る。吐息が混じり合い、唇が触れた。

 

「んぅ、んっ?」

 

 再び唇が重なって、噴出した湿潤な欲望が、身体の強張りを奪っていく。逞しい腕に包まれ、生々しい感触を全身で感じながら、ジルは久しく彼と触れ合っていなかったことを、漸く思い出す。

 何よりも大切な者に、割れ物にそっと触れるような、寂しげな優しさ。

 いつだって彼は、変わらない。

 

「……なに。なんなの」

「すまん。俺にも、よく分からない」

「謝らないでよ。バカ」

 

 変わらない。何も変わってはいない。

 遠ざかっていく背中は、この国を発った十年前の、あの日と同じく。

 

___________________

 

 

 アリアハン現国家元首、レイア女王。亡き父より王位を継承したレイアの評判は、こと国内においては若年を感じさせず、大多数の支持を得て、国内に漂っていた悲愴感を払拭した。

 教会頼りをよしとせず、自然治癒力を高めることで、心身共に健やかな生活を。

 魔王が滅び、魔物の脅威が去った今だからこそ、隣人と手を取り合って、慎ましく。

 何より英雄を生んだ国の民として、誇り高くあらんとする意志を。

 反面、悩みの種も複数抱えていた。ロマリアとポルトガの対立に、サマンオサの独り歩き。各国の新天地開拓に伴う領土争い、旅の扉の管理問題。そして―――ナジミの塔。

 

「タバサ王女。貴女の話は、以前にもアレルから窺っていました。このアリアハンで暮らす上で不都合がないよう、私からも各方面に呼び掛けておきましょう」

「……心より、感謝申し上げます」

「問題は、ナジミの塔の今後についてですね。ジパングの騒動と合わせて考えますと、問題は国内に留まりません」

 

 レイアはアレルとジルの二人を交互に見やり、静かに瞼を閉じた。

 国民の支持は有り難く受け止めつつ、国家運営に携わる首脳陣においては、同様ではない。寧ろ各大臣らは、己を未熟な国王として捉えている節がある。だからこそ、幼少の頃から付き合いの長い、気兼ねなく会話を交わせるアレルやジルのような同年代は、心の拠り所でもあった。

 

「ナジミの塔の封鎖は、賛否ありますが……引き続き、厳戒態勢を継続しようと思います。ジル、貴女はどのようにお考えで?」

「政に口出しをするつもりはありません。ですがまあ、賢明なご判断かと。今のは独り言よ、レイア」

「フフ。変わりませんね、貴女は」

 

 わざとがましいジルの言い回しに、レイアが小さな笑みを溢す。

 するとジルの隣に立っていたアレルが、一歩前に出て告げた。

 

「陛下。我々はこれから、タバサに関する調査を含め、異変の真因を探ろうと考えています。何か手掛かりとなるような情報があれば、把握しておきたいのですが」

「手掛かり……そうですねぇ。少々お待ちを」

 

 何かが起きつつある事実は共有していながらも、現時点では取っ掛かりすら見当たらない。タバサがいたという世界は勿論のこと、魔物が何処から、何故立て続けに顕れたのか。今は些細な情報を手掛かりにして、根底を目指す他ない。

 暫しの沈黙が続いた後、レイアは何処か気まずそうな面持ちで言った。

 

「アープの塔に、仔犬が住み着いたとか」

「はあ?」

 

 予期せぬ返答に、思わず素っ頓狂な声が出てしまう。アレルは咳払いをして取り繕い、その先を促す。

 

「勿論ただの仔犬が、という話ではありません。アープの塔を訪れた観光客の間で、ここ最近話題となっているそうでして。大臣から小耳にはさんだ次第です」

 

 アープの塔。ナジミの塔と同様、海辺付近に聳え立つ塔の頂上からは、広く大海を見渡すことができる。周辺ではサマンオサにより急速に開拓が進み、漁業の根拠地として栄え始めたと共に、アープの塔に足を運ぶ観光客の数も、近年では増えつつあった。

 

「突然可愛らしい仔犬が現れて、後を追ってみると、忽然と姿が消えていた。概ねこのような証言が、観光客から多数寄せられていると聞いています」

「アープの塔……か。ジル、何か関係があると思うか?」

「現時点では何ともね。でも取っ掛かりとしては、上出来じゃないかしら」

 

 ナジミの塔の異変。次いでジルが見たというガルナの塔の光。そしてここに来て、図ったようにアープの塔。仔犬云々は別としても、塔という明らかな共通点がある以上、放ってはおけない。

 

「それと、サマンオサ繋がりでもう一つ。先日開かれた『武術大会』の件は、ご存知ですね?」

「はい、勿論。結果の方は聞いていませんでしたが、何かありましたか?」

 

 レイアが触れたのは、先週末にサマンオサ国内で開催された祭典。トーナメント形式で繰り広げられた、一対一の武芸者同士による立ち合いの場だった。

 名目としては武芸の益々の発展と、祭典が生む経済効果。しかし他国の目には、新たな兵力を見い出す場。つまり軍備増強の一環として映り、開催中止の要請が入るほどに悪目立ちをしていた。

 

「私も動向を注視していたのですが……今回の優勝者は、予選上がりの老兵だったそうです」

「ま、待って下さい。それは、確かですか?」

「はい。齢六十手前の、一介の剣客だったと」

 

 あまりの衝撃に、アレルとジルは言葉に窮して、唖然とした。

 二人が見せた動揺に対し、ヤヨイが挙手をして詳細を尋ねる。

 

「あのー。今の話は、つまり驚愕に値すること、なのですか?」

「ヤヨイちゃん。サマンオサっていう国は、これまで魔王軍を圧倒的な国力で退けてきた軍事国家なの。過去にも似たような祭典はあったけど、六十手前のおじいちゃんが優勝なんて、まずあり得ないわ」

 

 優勝候補筆頭は、かつてオルテガと同じく勇者と称されたサイモンの一人息子、サザル。若くして一個大隊を統べる剣士は、小細工抜きの剣技だけなら、アレルに匹敵する腕前の持ち主として、大陸中に名を馳せる存在だった。

 そんな彼ですらが届かなかった剣客。アレルは剣の道を歩む一人の武人として、身震いをした。

 

「どうでしょう。何かお役に立ちそうですか?」

「はい、恐らくは。アープの件も含め、早速当たってみます」

 

 アレルは一礼をして、傍らにいたジルと視線を重ねた。

 互いの関心が別方向に向いているのは明らかだった。それなら、役割分担は言うまでもない。

 

「さてと。ヤヨイちゃん、一緒に来てくれるわよね?」

「えっ。あの、い、今からですか?」

「思い立ったが吉日。さあ、飛ぶわよ!」

「ちょ、ま―――」

 

 無言詠唱による瞬間移動。謁見の間にいたはずのジルとヤヨイは、ルーラの光を辺りに振り撒いてすぐ、消えていた。残された光を呆け顔で見詰めていたタバサは、取り乱した様子でアレルに言った。

 

「お、屋内でルーラ!?あ、アレルさん、今のは何ですか!?」

「リレミトとの合わせ技さ。あれぐらいジルには朝飯前だよ」

 

 瞬く間の二重呪文。ジルの人智を超えた魔力に慣れ切ったアレルはともかく、タバサにとっては戦慄を覚えるほどの妙技だった。

 

「やれやれ。ヤヨイも行ったことだし、タバサ。よかったら君も、俺と一緒に来るか?」

「勿論です。私にも、お手伝いをさせて下さい」

 

 アレルは後ろ頭を掻きながら、武術大会を制したという老兵について意識を向けた。

 祭典の褒美は、願いを叶えること。サマンオサ国王、ルカス王の裁量で、優勝者の願いを一つだけ叶えるという物。なら件の老兵が望んだ物は、一体。

 

___________________

 

 

 ジル様に連れられて、約一分後。私とジル様はアープの塔入口の手前に並んで立ち、塔の頂上付近を見上げていた。

 

「これがアープの塔……外観は、ナジミの塔と似ていますね」

 

 スー大陸西岸に位置するアープの塔は、サマンオサにより管理、観光の運営が為されている。本来はサマンオサ領土『外』の建造物であるはずが、まるで領土拡大を前提にしたかのようなサマンオサの態度に、やはり他国は快く思っていないらしい。

 

「シャンパーニやガルナも一緒よ。早速入ってみましょう」

 

 ジル様が扉に手を伸ばすやいなや、見知らぬ男女二人が内部から扉を開けた。入れ替わる形で屋内に入ると、周囲には観光客と思しき複数人の姿が散見された。

 

「結構賑わっていますね。中の雰囲気は、ナジミの塔と大分違いますけど」

「暫く見ないうちに、随分と様変わりしたみたい……完全に見世物と化したわね」

 

 上層に繋がる階段に差し掛かると、壁面には額縁に収まった書物や、歴史的価値がありそうな巻物の類が掲示されていて―――その全てが、何故かサマンオサ関連。人の手を加えず、極力自然体を残すべく管理されたナジミの塔とはまるで正反対だ。何というか、色々な意味で好きになれそうにない。

 半ば呆れながら階段を上っていると、私の前を行くジル様が、不意に口を開いた。

 

「ヤヨイちゃん、調子はどう?」

「どう、と言いますと?」

「聞いたわよ。ジパングじゃ女王様の眼前で啖呵を切ったとか」

「あ、あれはそういうつもりじゃ……。でも最近は、考え込むことが多いかもしれません」

 

 自分でも理解に及ばない葛藤。想いの数だけ、悩んでしまう機会も増えた。

 ジパングを離れたキッカケは、外界に対する純粋な好奇心だった。けれど心の何処かで、故郷に居た堪れなさを感じていたことは確かだ。人身御供という犠牲から逃げ出して、自分だけが生き永らえたという負い目は、今も残っている。

 アレル様に仕える身としても同じ。勇者様に仕え、日々尽くすことに誇りを抱く私がいて。逃げ出した過去を受け止めきれずに、償おうとする私もいる。

 

「それにナズナ様は、私とアレル様の関係を、まるでヒミコ様とオルテガ様のように……過剰な期待を抱かれているようですし。ジパングでは見栄を切りましたが、全てを割り切れた訳ではないんです」

「ふーん。意外に色々と考えているのね」

「あ、ひどいです。私だって、思い悩むことはあるんですよ」

「ごめんごめん。でも今は、まどろっこしいことを抜きにして、タバサと楽しんだら?」

 

 それは言われずとも。恥ずかしながら、十年以上友人らしい友人がいなかった私にとって、タバサさんとの出会いは降って湧いた光。この一ヶ月間の充実した日々は、タバサさん抜きでは語れない。

 

「同い年の分、気が合うみたいです。昨日も一緒にお酒を飲んで、同じベッドで眠ったんですよ。気付いたら朝でした」

「……ふ、ふうん。そうなの」

 

 あれ、どうしたのだろう。ジル様の目の色が突然変わった気がする。声も上擦っているし、何か変なことを言っただろうか。

 訝しみながら歩を進めていると、やがて三階へと辿り着く。三階以上は中央の空間が広大な吹き抜けとなっていて、頭上には無数のロープが張り巡らされていた。話には聞いていたけれど、直に目の当たりにすると、異様な光景だ。

 

「フフ、昔を思い出すわね。ロープの上を渡っていたら、頭上からスカイドラゴンが火を噴いてきたっけ」

「全く笑えませんが……」

「あの頃は私も転職してまだ間も……なっ…………」

 

 突然声が尻すぼみとなり、ジル様の足が止まった。視線を追うと―――その先に佇んでいたのは、一匹の仔犬。尻尾を小刻みに振る仔犬は大変愛らしく、「くーん」と一鳴き。思わず胸が躍った。

 

「わあ。本当にいましたね。すごく可愛いです」

「のっ……ろ?」

「ジル様……ジル様?」

 

 振り向いた途端、異変に気付く。ジル様の様子が、おかしい。

 まるで海の底でもがいているように、空気を探しているかの如く、視線が泳いでいる。呼吸も止まっていた。顔に血の気がなく、言葉を発せずにがたがたと震えていて、両目が一瞬、白目を剥いた。

 

「げ、げぇ、かはっ」

「じ、ジル様!?」

 

 膝が折れると同時に、床に嘔吐物が不快な音を立てて流れ落ちた。背中に手をやると、背筋に悪寒が走るほど、ジル様の身体は冷え切っていた。

 数度咳込んだ後、ジル様は口元を乱雑に拭って、掠れた声を漏らした。

 

「の、ろい。こんなの、あり得ない」

「のろい……呪い、ですか?」

「あり得ない。絶対に、あり得ないわ」

 

 訳が分からず、再度仔犬を見やる。目を凝らして無邪気な小顔を見詰めていると―――ぞっとするような恐怖で、呼吸を忘れた。

 歪んでいた。姿形ではなく、存在その物が歪んでいた。何がおかしいのかを把握できない一方、否応なく凝視をしてしまい、五感が泥沼の中へと引き摺り込まれていきそうな、歪み。

 

「なんですか、あれ。あんなの、あり得ない」

 

 私は自然と、ジル様と同じ言葉を吐いていた。

 あり得ない、あり得ない、あり得ない。脳裏に存在を否定する声が響く中―――前方の空間に、光の粒が浮かんだ。

 

「え?」

 

 粒は段々とその数を増していき、それらが中央付近へと集まっていく。

 仔犬は恍惚に、淫靡に、妖艶に蠢いて。

 真っ黒な眼球を拳一つ分ほど見開き、口尻を耳元まで上げて、悍ましい笑みを湛えながら、『言った』。

 

「い、お、な、ず、んんんんんんんんんんんんんんんん」

「ヤヨイちゃん伏せて!!」

 

 凝縮された魔力。呪文の正体を察したのと、ジル様の胸に抱かれたのは、ほぼ同時だった。

 

___________________

 

 

 耳の奥を射抜かれたような炸裂音。直後に背中から感じた体温に、鳴り止まない崩落音。

 かちかちと歯を鳴らしていると、ジル様の声が耳の痛みを和らげ、繊手が頭を撫でてくれた。

 痛みはない。生きている。仔犬の邪悪な気配も、感じない。

 

「もう大丈夫。私が先に起きるから、ゆっくり、頭を上げて」

「っ……は、はい」

 

 恐る恐る瞼を開き、慎重に身体を起こす。ジル様の手を借りてどうにか立ち上がると、周辺の様子は一変していた。

 イオナズン。最上位の破壊呪文は、塔の上層を半壊させていた。中央の吹き抜けは西側半面を失い、高所を流れる風が、塔の内部へと流れ込んでいる。一瞬のうちに、見るも無残な有り様と化していた。

 

「じ、ジル様。さっきの仔犬は?」

「あそこよ」

 

 呪文の主は、驚いたことに床の上に寝そべり、眠っていた。すやすやと寝息を立てる様は、文字通りただの仔犬。幼気な動物だ。今し方イオナズンの呪文を唱えただなんて、誰が思える。

 

「マジックバリアを二重に展開させながら、ラリホーを唱えたの。効いてくれて助かったわ」

 

 言い換えれば、あの僅かな間に三重詠唱。それはそれで感嘆ものだけれど、あの仔犬が前では、どうしたって霞んでしまう。一体あれは、何なんだ。

 

「ジル様。あの仔犬は、仔犬じゃありませんよね」

「ええ、恐らく女性ね。人間の女性よ。私の魔力に反応したみたい」

「女の……ひと?」

「これほどの呪いとは、私も出会ったことがない。獣化の呪いを掛けられた人間なら、私も見たことがあるけど……あの女性の呪いは、常軌を逸してるわ。身も心も、魂も、幾重に幾重に縛られてる。重ねて言うけど、あんなの、あり得ない」

 

 そんな呪いの塊のような存在が、この塔に平然と居座っていただなんて、考えたくもない。今度は私が胃液を吐き出してしまいそうだ。

 

「ぐずぐずしていられないわ。私達もサマンオサへ向かいましょう」

「サマンオサに?」

「駄目元で、『試してみたい物』があるの。ルカス王にも、一報を入れておきたいしね」

 

 言われてから漸く、ナジミの塔と同様の緊急事態に気付かされる。

 国内有数の観光地が半壊。怪我人の有無も含め、早急に事へ当たる必要がある。レイア様といい、ルカス王も気苦労が増えそうだ。

 

___________________

 

 

 ジルとヤヨイがアープの塔を登り始めた頃。

 サマンオサ城下町の門を潜ったアレルとタバサは、周囲から羨望の眼差しを向けられながら、街中のそこやかしこに張られた情報紙を見詰めていた。

 

「この男性が、陛下が仰っていた剣客か」

「そうみたいですね」

 

 内容は、先日に開催された武術大会の結果。時事性の高い出来事は、速報性を重んじ、紙を媒体にして街中へと流される。貴重な紙を消費してでも、大会結果を国民らに報せようとする辺り、その影響力の大きさを思わせた。

 

(参ったな。疑っていた訳じゃないけど……まさか、この人も?)

 

 優勝者の名は、ライアン。五十七歳、晩年の剣士。

 そして優勝者に与えられた特権、ライアンが望んだ願いは―――『ラーの鏡』。全ての真実を映すとされる、国宝だった。

 

 

 

 


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