アレル様邸の前庭は広大で、広過ぎるが故に手入れも一苦労。彩りを求めて私が植えた草花が目立つぐらいで、山盛りの洗濯物を干しても、十分な余裕がある。
そんな平庭の中央で相対しているのは、一組の男女。ひのき製の剣を互いに向け合う、タバサさんとライアンさんの姿があった。
「いざっ!」
「尋常に」
二本の木剣を逆手に構えたタバサさんが地を駆り、宙を舞っての連撃。その全てを事もなげに捌いたライアンさんの反撃が、タバサさんを後方へと吹き飛ばして、再度タバサさんが仕掛ける。
斬撃が走る度に突風が生じて、洗濯物が吹き飛びそうになる。手心を加えているとはいえ、下手に近付けば生死に関わる。本気を出されたらどうなってしまうのだろう。
「……相変わらず、ですね」
立て続けの異変の中に生じた日常、とでも呼ぶべきか。魔物による被害が各地で相次ぐ一方、タバサさんをはじめとした異世界からの迷い人の出現は途絶え、私達の生活は落ち着きを取り戻しつつある。
タバサさんは今でも私と同じ家屋で暮らしている。昼間は食事処として繁盛する酒場『ルイーダ』の貴重な戦力の一人。最近はライアンさんに手合せを申し出る機会が増えてきていて、今日も剣戟が街中に響き渡っている。
ライアンさんも、アリアハンでの生活に馴染み始めているようだ。六十手前という老齢を感じさせない膂力は尋常ではなく、各方面から力仕事全般を任されたり、アレル様に代わって軍兵への剣術指南役を依頼されたりと、忙しない日々を送っている。視力は依然としてゼロに等しいというのに、時折忘れてしまいそうになる。本当に。
「えー、コホン。お二人共、そろそろお時間です」
頭上でぎらぎらと輝く太陽を一瞥してから、二人に向けて声を張った。タバサさんは午後出勤だと言っていたし、ライアンさんも所用があったはずだから、正午の今が頃合だ。
「ふう……ありがとうございました、ライアンさん。いつも付き合って頂いて、助かります」
額に汗を浮かべながら、肩を上下に揺らすタバサさん。対するライアンさんは汗一つかいていないばかりか、呼吸も平常その物で―――どういう訳か、思案顔でタバサさんを見下ろしていた。
「ふむ。タバサ殿、気を悪くしないで欲しいのだが、宜しいか」
「あ、はい。何ですか?」
やがてライアンさんは、意を決したような様子で口を開いた。
「そなたの剣は、大切な何かが一つ、欠けている」
「欠け……欠けて、いる?」
息詰まるような沈黙が訪れる。あまりに突然の提言に、タバサさんは勿論、私も声を出せず、身動きすら取ることができない。ライアンさんは巨大な木剣を頭上へとかざして、続けた。
「我が剣技は無頼一刀流。単身孤往を貫く、何者にも頼らぬ我流。そなたの隼の剣技も、恐らく我流であろう?」
「は、はい。大部分は、そうです」
「我流は『心の在り方』に等しい。そなたの二刀流……タバサ殿が『二羽の隼』に込めた流儀と信念は、そなたにしか知り得ぬこと。私が言えることは、それだけだ」
「私は……。私は、その」
タバサさんが返答に窮していると、ライアンさんの大きな掌が、タバサさんの肩に置かれた。
「焦る必要はなかろう。セリア殿と同様、少しずつでよい。自ずと思い出せるはずだ」
意味深な言葉を残したライアンさんは、とても自然な笑みを浮かべながら、その足で前庭を後にした。一方のタバサさんは、俯いた姿勢のまま微動だにせず、その表情が窺えない。彼女は今、一体何を考えているのだろう。
(二羽の隼……もしかして、双子の?)
前々から感じていたことでもある。タバサさんは、過去に関して多くを語らない。私が知っているのは、彼女を成している一部分だけなのだ。ジパングでの一件以来、何処か吹っ切れたような印象があったけれど、傍にいる私達だからこそ、決して忘れてはならないことがある。
この世界に生きている以上、『元いた世界の何かが変わる』訳じゃない。
戻れないという現実があり、『手が届かない過去』がある。
「あの、タバサさん。そろそろ」
「ん……そうね。私も行かないと。これ、お願いしてもいい?」
木剣を私に手渡したタバサさんは、逃げるような足取りで、私の前から走り去っていった。思わず後を追いそうになり、ぐっと耐えて小さな背中を見送っていると―――
「ひゃあぁ!?」
突如として地面が揺れて、辺りに砂塵が舞い上がった。目元に砂が入り、手で押さえながらコホコホと咳を付いていると、前方から冷ややかな声を掛けられる。
「何をしているんだ、お前は」
「て、テリーさん、ですか?」
やがて姿を見せたのは、銀色の長髪を揺らすテリーさん。右肩にはドラキチと名付けられたオスのドラキーが乗っていて、その愛くるしい間抜け顔が、テリーさんの整った顔立ちを一層際立たせていた。
悪気がないとはいえ、不意を突くルーラは迷惑極まりない。口の中にも砂が入ってしまったようだ。
「お帰りなさい、テリーさん。五日振りですか?」
「いや、六日だ」
比較的穏やかな生活を送るタバサさんと違って、テリーさんの日常はライアンさん以上に荒々しい。
アレル様のルーラで主要各国を巡り、やがてこの世界の土地勘が付いて以降は、己のルーラで意気軒昂に飛び回る。アリアハンを拠点に世界を股に掛け、情報収集と魔物討伐の毎日。その目覚ましい活躍振りは国内に留まらず、各地で注目を集め始めていた。
「聞きましたよ。イシスの女王様から、直々にお言葉を頂いたそうですね」
極め付けは先日、イシス地方の砂漠地帯における一件。イシス国からほど近い人里を襲撃していた魔物の軍勢が、唐突に降り立った一人の青年によって壊滅し、数多の人命が救われた。一報はすぐにアリアハンにも伝わり、友好国同士の関係にあったイシスとアリアハンは、その繋がりを益々深めるに至った。何を隠そう、テリーさんのお手柄だ。
「俺は偶然居合わせただけだぜ。特に騒ぎ立てることでも、へ、へくしっ」
「テリーさん?」
テリーさんがくしゃみを出すと同時に、頭上から白色の何かが落下した。よくよく地面を見ると、驚いたことに雪の塊。頭上のみならず、身体のそこやかしこに粉雪が散見された。
「雪?ど、どうして雪を被っているんですか?」
「さっきまでレイアムランドにいたからな。生憎の悪天候だった」
年中氷雪に覆われた大地、レイアムランド。場所によっては生憎どころか悪天候が常の極地なんかに、一体何故。
大いに気に掛かるけれど、今はそれどころじゃない。身体が冷え過ぎているせいか顔色が優れないし、このままでは体調を崩してしまう。
「すぐにお湯を沸かしますので、どうぞ中に入って下さい」
「構うな。これぐらい平気だ」
「嘘を付かないで下さい。この間お話しましたけど、私に嘘は通用しません」
言葉の裏側を覗き見る、嘘を嘘と見抜く力。先回りをして通せんぼをすると、テリーさんは観念した様子で頭を垂れた。
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あり合わせの食材をごった煮にして、即席のスープを拵える。皿によそったスープを一口啜ったテリーさんは、身体の芯から温まった様子で大きく息を吐いて、傍らに立っていた私に視線を向けた。
「一つ聞きたいんだが、お前のそれは、神仙術なのか?」
「はい?」
「神仙術の噂は、俺も聞いたことがある。ジパング人の中には、呪文とは違う不思議な術の使い手がいるそうだな」
『それ』が何を指して言っているのかが分からず、暫し考え込んでから漸く気付く。
神仙術。他者の嘘を暴く私の体質は、そんな大仰な力とは違う。
「いえ、違いますよ。神仙術は一部の血縁者にしか操れませんし、私なんかが、そんな。全くの別物です」
神仙術の使い手は、女王であるナズナ様をはじめとした女性に限られる。ヤマタノオロチの策略だったのか、そのほとんどが人身御供の犠牲となったのが、九年前。少なくとも私が生まれ育った大集落には、数名しか残っていない。
「それよりも、どうしてレイアムランドなんかに行かれたんですか?」
「スー大陸の北端で、奇妙な噂を聞いてな。それが少々気になっただけだ」
スー大陸はサマンオサ北部。大国が存在しない、開拓途上の巨大な大陸だ。六日前にアリアハンを発って、数日前にはイシス地方にいたはずだから、その後にスー大陸を渡り歩いて、更にレイアムランドへ。そして今。
無茶が過ぎる。ルーラがあるとはいえ、強行軍にもほどがある。しかも、たったの一人で。そうまでして事を急く必要が、あるのだろうか。
「あの、テリーさん。あまり一人で無理をしない方が……焦る気持ちは、理解できますけど」
「面白いことを言うな。俺は別に、焦ってる訳じゃない」
テリーさんはスプーンを置いて腕を組み、視線を左方に向けた。その先には、壁に立て掛けておいたタバサさんの木剣が二振り。
「焦ってるのは寧ろ、あの三人の方じゃないのか。何を背負っているのか知らないが、この世界は『逃げ場所』じゃない。それが分からないうちは、探し物は見付かりはしないさ」
遠回しな形容に理解が追い付かず、虚空を見詰めること十数秒。
逃げ場所。この世界の安寧が、逃げているに等しい。抽象的過ぎて、やはり理解には及びそうにない。
「勘違いはするなよ。あいつらは、この世界と向き合うことで、自分自身と向き合おうとしている。それ自体を咎めるつもりはない」
「それは……分かる、気がします。何となくですけど」
「今は道半ばといったところだろうがな。かつての俺も、そうだった」
「それは、カザーブでのことですか?」
「……俺の話は、どうだっていい」
テリーさんは呟きながら立ち上がり、両腕に装着していた手甲を見詰めた。その柔らかな表情が、カザーブでの半年間を物語っているようで、不覚にも胸の奥底が高鳴り、思わず視線を逸らしてしまう。
「あいつらはともかく、アレルやジルは、この国の王を支える役目も担っている。自由に動けるのは俺ぐらいだ。一人旅は性にも合っているからな。精々働いてやるさ」
「そこまで考えて……」
他者との関わりを最低限に留め、単独行動を優先する理由。世界中を駆け巡り、異変の究明を一手に担う理由。全ての行動が、確固たる考えがあっての物。
私は大変な誤解をしていたのかもしれない。取っ付き難く、素っ気ない態度ばかりに気を取られていたけれど、この人は同じ境遇に置かれた三人のことを慕っている。しっかりと想っている。私なんかよりも、ずっと。
「何をにやついている。気味が悪いな」
「いえ、少し驚きました。テリーさんは意外に、皆さんのことを見ていたんですね」
「別に俺は……付き合いは短いが、二ヶ月もあれば分かることもあるさ」
「私はてっきり自分勝手で独りよがりなだっ……私は何も言ってません」
時既に遅く。明後日の方向を見やって口を噤んでいると、テリーさんは目を細めながら両拳を打ち鳴らしていた。口は災いの元とは正にこのこと。
「あっ」
不意に感じた魔力。まるで木の葉が地面に落下するかの如く、音が伴わないルーラの着地。玄関扉を開けたのは、理力の杖を携えた、法衣姿のセリアさんだった。救いの神とは正に彼女のこと。
「どうも、こんにちは」
「セリアさん……ありがとうございます、セリアさん」
「えっ。な、何のことでしょうか?」
セリアさんはジル様と同居をしながら、シスター見習いの一人として教会に通っている。私と同じく、呪文をジル様に師事して学んでいて、姉弟子に当たる私としては、妹弟子ができて嬉しい限り―――だったはずなのだけれど。
先程のルーラが全てを物語っていて、セリアさんはジル様が会得している呪文の八割以上を、既に自分の物にしている。あのジル様が目を瞠るほどの魔力と才は、私のような凡人とは比較にならない。始まる前から、抜かれていた。
「こちらの話です。えーと、ジル様をお探しですか?ジル様ならお城だと思いますよ」
「いえ、今日は特に用事もありませんので、何かお手伝いできればと思いまして。何なりとお申し付け下さい」
「えっ。ほ、本当ですか?」
アレル様の使用人として、やるべきことは幾らだってある。手を貸して貰えるのなら有り難い限りだ。
さて、何をお願いしようか。考え始めた矢先に、テリーさんが思い付いたように告げた。
「ちょうどいい。セリア、俺と一緒に来てくれないか」
「っ!?」
予期せぬ言葉に、セリアさんは目を見開いてテリーさんを見詰めた後、視線がうろうろと泳ぎ始める。
無理もないと思う。客観的に見て、テリーさんは異性としての外見的魅力があり過ぎるのだ。無駄に心が躍ってしまうから、不用意な言動は慎んで欲しい。
「レイアムランドでの話は、俺も聞いている。間接的にでもあの『卵』に触れたお前なら、何か分かるかもしれないしな。ヤヨイ、お前もだ」
「……レイアムランド?」
聞き間違いだろうか。この人は今、レイアムランドと言ったか。しかも名を呼ばれたような気もする。
「詳しい話は後だ。早速飛ぶぞ」
「え、え?」
「て、テリーさん?」
テリーさんの右手がセリアさんの左腕を、左手が私の右腕を掴み、向かった先は玄関口。
どうして私まで。いやそれより、何故こんな急に。言葉にするよりも前に、テリーさんはルーラの呪文を詠唱した。
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瞬間移動は何度経験しても、身体が一向に慣れてはくれない。とりわけ寒暖差をはじめとした急激な変化は耐え難い物で、着地して間もなく四肢が悲鳴を上げて、身体の震えが止まらなくなってしまう。
「ささ、寒い!?や、やや、ヤヨイさん、こ、ここは」
「じ、呪文を応用して暖を取りましょう。セリアさんは、メラをお願いします」
フバーハの障壁を展開して、セリアさんが生んだ小さな火球が辺りを照らした。その場凌ぎの策だけれど、これで暫くは凍える心配もない。
それにしても、思い立ったが吉日な行動力はジル様を思わせる。せめて防寒具ぐらい用意させてくれてもいいだろうに。胸中で不満を溢していると、テリーさんは辺りを見渡しながら、怪訝そうな表情を浮かべていた。
「やれやれ、またか。魔物が殺気立っているのは、このレイアムランドでも同様らしい」
「わ、わわ!?」
足元が揺れると共に、氷面に亀裂が走り、邪悪な気配が一気に噴出した。吹雪が勢いを増して荒れ狂い、やがて現れた巨人の半身は、溶岩魔人と対を成す存在。
「ひ、氷河魔人……!?」
凍てつくような眼光に射抜かれて、身体が動かなくなる。大蛇の洞窟に現れた溶岩魔人をも上回る、異常な殺気。耳をつんざくような咆哮が、氷雪の大地に響き渡った。
「私に、任せて下さいっ」
セリアさんが勇ましい声を張って、身構えていたテリーさんの前方に躍り出る。暖を取るために浮かべていた火に両手が触れると、火球は見る見るうちに膨れ上がっていき、彼女の身体から溢れ出る魔力の奔流に、私は声を失った。
「メラゾーマ!!」
メラ系統の頂点。放たれた大火球は氷河魔人と共に爆ぜ、緋色の光が周辺一帯を照らして、焔の渦が頭上高くに巻き上がっていく。
後に残されたのは、ぽっかりと空いた円環状の大穴。氷河魔人は欠片一つ残さず消滅していて、セリアさんは可愛らしい仕草を取りながら、呪文の成功に小躍りをしていた。
(何、この……何?)
開いた口が塞がらない。二ヶ月前にはメラ系統の存在すら知らなかった人間が、最上級の呪文を手にするなんて現実が、あっていいのだろうか。七年間の歳月を費やしてヒャダルコがやっとの自分が情けなく思えてくる。
「まだだ。油断するな」
緩み掛けた空気が、テリーさんの声で張り詰める。前方を凝視していると、氷面が再度揺れ動き、大穴を囲うように突き出た複数の氷柱が、瞬時に魔人へと変貌した。
レイアムランドを象徴する魔物、氷河魔人が五体。身体の震えが一層強まり、その場に座り込んでしまいそうになるのを耐え忍んでいると、前方に立っていた二人が、同時に動きを見せた。
「も、もう一度私がやります」
「やめておけ。これ以上の火炎は、却って奴らの敵意を生む。お前は下がっていろ」
テリーさんは腰を深く落とした構えを取り、緩く握った右手を脇に添えて、左手を前方に向けた。右手がぼんやりとした光を纏うと、吹雪の轟音が遠退いていく。
呪文とは異なる力の波動。清流を思わせる体捌き。逞しい背中に、リーファ様の面影を垣間見た、その刹那。時の流れまでもが止まったような感覚に陥って、音が完全に消えた。
「拳聖流、霊光掌―――二の型『流星』」
上空へ放たれた波動は、やがて無数の光の矢へと変わり、夜空を駆ける流れ星の如く、辺り一帯に降り注いだ。足元から伝わってくる振動に耐えかねて、耳を塞ぎながら身を屈めていると、向けられていたはずの殺気が、一気に消えていった。
「終わったぜ。もう起きてもいい」
恐る恐る顔を上げると、辺りには大小入り混じった氷塊が転がっていた。テリーさんは呆然と佇んでいたセリアさんをまじまじと見詰めて、苦言を呈し始める。
「呪文の腕は認めるが、使いどころを間違えるな。弱点を突くことで、逆効果に繋がる場合もある」
「はい。以後気を付けます。それにしても、すごい技ですね」
「師に恵まれただけだ。俺の技じゃない」
「……あのー。私、帰ってもいいですか?」
この二人は、本当に私と同じ人間なのだろうか。全く別の生物のように思えて仕方なかった。
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ラーミアの祭壇へ向かう道すがら、テリーさんはスー大陸で耳にしたという奇妙な噂について語ってくれた。
「三日前の深夜、遥か北の夜空に、流れ星のような六色の光を見た、という原住民の話を聞いてな。俺が調べて回った限りじゃ、目撃者は複数人に渡る。内容はどれも似たり寄ったりだったぜ」
「六色の……成程。それでレイアムランドの祠を訪ねたんですね」
余ほどの理由がない限り、レイアムランドに足を運んだりはしない。漸く合点がいったけれど、問題は六色の光とやらの正体についてだ。
引っ掛かるのは、『六色』という点。かつてアレル様は、世界各地に眠っていた六つのオーブを祭壇に捧げ、不死鳥ラーミアを蘇らせた。オーブが湛える神々しい輝きは、今でも瞼の裏に深く刻まれている。何かしらの異変が起きているとすれば、オーブの可能性が高い。
「一度調べてはみたんだが、如何せん以前の状態を知らないからな。お前達なら、何か分かるんじゃないか」
「分かりました。少し時間を下さい」
セリアさんと共に石畳の階段を上り、祭壇の手前で立ち止まって、辺りを見回した。
セリアさんの呪いが解かれた場であるとはいえ、呪いが健在だった頃の記憶は不鮮明なはずだ。一方の私は三度目。一度目はアレル様に連れられて、二度目が前回、そして今日。明確な変化があれば、私でも気付くことができる。
「えっ……あ、あれ?」
「ヤヨイさん?」
思わず目元を擦り、もう一度。見間違いじゃない。オーブが―――無い。
台座に安置されていたはずの六つのオーブ。ブルー、レッド、シルバー、パープル、グリーン、イエロー。その全てが跡形もなく、忽然と姿を消していた。
「オーブが消えた……つまり、どういうことだ?」
「わ、私にも分かりません。どうして、オーブが……?」
六つのオーブの消失。それが何を意味しているのか。困惑を深めていると、知らぬ間にセリアさんは祭壇上に立って、前方に佇んでいた不死鳥の卵を撫でるように、そっと両手を添えていた。
「セリアさん?な、何をしているんですか?」
「お静かに」
今度は目ではなく、耳を疑った。普段のあどけなさが一切感じられない、凛然としたセリアさんの声が、静寂を生んだ。
すると卵が僅かに振動をして、殻内から微かな声が漏れた。
『貴女からは、聖なる力を感じます』
『貴女からは、聖なる光を感じます』
『貴女は、何者ですか?』
前回も耳にした二つの美声。太古よりラーミアの御卵を見守り続けたという二人の巫女が、セリアさんに応じるように、声を揃えて言葉を並べた。
「私はセリア。貴女達は?」
『私はリリ』
『私はララ』
『私達は、ラーミアの御卵を守っています』
しかし声は続かず、やり取りはそれが最後。再び深い静寂が訪れて、セリアさんと二人の巫女は、それ以上を語ろうとはしなかった。
けれどセリアさんは、瞼を閉じながら、卵を撫で続けた。まるで母親が赤子を愛でるかのように、繊手が卵の紋様をなぞっては、優しく、柔らかに。声を掛けることすら躊躇われて、私とテリーさんは立ち尽くしたまま、セリアさんの背中を見守っていた。
「……教えてくれて、ありがとう。ラーミア」
ほどなくして。
セリアさんは優しげな声を漏らした後、振り返って祭壇を降りた。頭上に疑問符を浮かべる私達に、セリアさんは多少戸惑いながら、順を追って説明を始めた。
「えーとですね。オーブは消えた訳ではなく、独りでに世界中へ散らばったようです」
「……おい。本当に順を追っているのか?」
「お、追っていますから、一つずつ説明させて下さい」
気を取り直して、セリアさんの声に耳を傾ける。
今から八年以上前。アレル様をバラモス城へと導き、使命を全うしたラーミアは、再び永き眠りに付いた。巫女の力を借りて殻に籠り、少しずつ生気を蓄えていき、眠りが深き安眠に達した今、六つのオーブは更なる生吹を求めて、台座を離れた。
「そもそもオーブは、それ自体にはラーミアを蘇らせる力はありません。この地上に生きとし生ける者達の、生命の流れに溶け込んで、気が遠くなるような歳月を経て、生気を宿すんです」
「……そのために、オーブは世界中へ散らばった、ということですか?」
「はい。要するにこれは、喜ばしい変化と言えます」
話が壮大過ぎるせいか、本音を言えば俄かには信じ難い。しかし少なくともオーブの消失は、昨今の異変とは無関係。三日前の流れ星はオーブが上空で振り撒いた光であり、ラーミアの胎動を示す耀き。そう捉えて相違ないようだ。
「成程な……しかし釈然としないな。お前は今、何をしたんだ?」
しかし一方では、全く別の謎が浮かび上がる。セリアさんは何故、一連の真実に触れることができたのか。私達の当たり前の疑問に対し、セリアさんは困惑を露わにして言った。
「私にもよく分からないのですが、自然と声が聞こえたんです。もしかしたら、私の魔力に反応したのかもしれません」
「そもそもラーミアとは一体何なんだ?」
「それも、分かりません」
「お前と話していた巫女は」
「す、少なくとも、ヒトではないようですね」
「……もういい」
歯切れが悪過ぎる返答を前に、テリーさんは頭を抱えて俯いた。私も聞きたいことは山積りだけれど、問い質すのは後回しにしよう。十中八九、埒が明かない。
するとセリアさんは再度振り返り、ラーミアの卵を見詰めてから、告げた。
「一つ、お願いがあるのですが。もう少しだけ、ここに留まってもいいでしょうか。不思議と、何かを思い出せそうな気がして……。お願いします」
深々と頭を下げるセリアさんの申し出を、断れるはずもなく。私とテリーさんが頷きで応えると、セリアさんは子供のように、朗らかな笑みを浮かべた。
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「すっかり夜だな」
「ええ、すっかり夜ですね」
「ご、ごめんなさい!本当にごめんなさい!」
もう少しだけ。セリアさんの言葉を真に受けた私とテリーさんは、見事に裏切られる結果となった。
祠の隅で○×遊びに興じ続けた私達は、その回数が三十に達した頃になって、漸くレイアムランドを発った。ルーラでアリアハンに戻ると、陽は完全に沈んでいた。何ごとにも限度があるだろうに。
「ヤヨイー」
「あ、タバサさん。それにライアンさんも……ああっ!?」
庭先で呆然としていると、後方からタバサさんとライアンさんがやって来る。二人の顔を見て、益々頭が痛くなってしまう。
夕飯の支度を、何一つしていない。朝と昼はともかく、夜だけは皆で食べる日常が当たり前と化した今、この場に集った全員分の夕飯が見当たらない。アレル様とジル様は、お城で食事を取ると言っていたから問題ないものの、これはどうしたものだろう。
「それなら、外へ食べに行きましょう。お店なら沢山あるじゃない」
困り果てていると、タバサさんが気にする素振りも見せずに告げた。
やはりそうなるか。これ以上セリアさんを追い詰める訳にもいかないし、いい機会だと受け取って、今晩ぐらい少々の贅沢をしてもいいのかもしれない。
「それしかありませんね。では、場所は何処にしますか?」
「酒を飲める店にしてくれ。酒で鬱憤を晴らしたい」
「最寄なら、ルイーダ殿の酒場であろうな」
「私も賛成。そういえば、セリアってお酒飲めるの?」
「は、はい。時折ジルさんと一緒に、嗜む程度ですが」
思い思いを口にしながら、私達は夜の繁華街へと向かった。
歩きながら見上げた先には、一面の星空が広がっていた。
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―――羽目を外し過ぎたのかもしれない。
ルイーダさんの酒場だけでは飽き足らず、二軒目の酒場から帰路に着いた私達は、ひどくゆっくりとした歩調で、夜の帳が下りた街路を歩いていた。
「うぅ……テリー、速い。もっとゆっくり」
タバサさんの酒の弱さは今晩も変わらずで、赤面を通り越して顔面蒼白となったタバサさんは、テリーさんの肩を借りて歩くのがやっと。今日は大して飲んでもいなかったはずだけれど、どうも悪い方向に酔いが回ってしまったらしい。昼間の一件を、引き摺っているのだろうか。
「無理をするな。少し休んでいくか?」
「んん。多分、大丈夫」
一方のテリーさんは強い体質のようで、ほど良く楽しめたようだ。今日になって分かったことだけれど、テリーさんは酔いが回ると素直な一面を覗かせるというか、普段の刺々しさが鳴りを潜めて、端的に言えば優しくなる。もしかしたら、こちらの顔が本来のテリーさんなのかもしれない。
「このように愉快な夜は久方振りだ。一興一興」
ライアンさんは異次元。水で喉を潤すかのように、私の倍以上は飲んだはずなのに、顔色一つ変わっていない。でも、ああやって己を曝け出すライアンさんも珍しい。常に調和を重んじて、他人の感情に応じることがほとんどのライアンさんが、自分から。
「ジルさん……ジルさん」
そんなライアンさんの背中で寝息を立てるセリアさん。酒を飲むと饒舌になる人間は多いけれど、セリアさんはその傾向が顕著で、ジル様について捲し立てるように語り出す。ジル様がどれほど偉大で、魅力的な女性なのかを語り出しては止まらなくなる。聞いている側が恥ずかしくなるぐらいに。
(こんな日々が……いつまで、続くのでしょうか)
最近は考え込んでしまう場面が増えつつある。
そもそも四人の足並みは同じではない。元いた世界へ戻りたいという想いに差があるように映るし、テリーさんの言葉を借りれば、道半ば。誰しもが重い何かを背負いながら、毎日を精一杯生きている。こんな風に笑い合える夜の隣では―――得体の知れない異変が、この世界の何処かで、生じ始めている。
明日に何が起こるのか、誰にも分からない。分からないからこそ、今は穏やかな日常を過ごして欲しいと、そう願わずにはいられなかった。