まあほんとに一瞬だったけど。
病的なまでに青白い肢体に温水が滴り落ちていく。頭からざあざあと流れ続けるシャワーの湯を、まったく関せずにほむらは体を洗い流していた。熱さで頭が呆としている――しかしそれのせいだけではない。いや、むしろ理由の比率としては弱い方だろう。
彼女はこの後の……つまり体を洗い終えた後の事について頭を茹らせ、殊更に悩ませているのだ。長い艶やかな黒髪を、水気のせいで体に張り付いて色気を醸し出している黒髪を、白魚のように美しい指先で弄くる。普段は一回で済ませているシャンプーはもう三回目だ。逆に髪にダメージを与えかねない所業だが、風呂場を出る踏ん切りがつかない彼女には必要な段取りでもあった。
きゅっと蛇口を捻って、シャワーを止める。久方ぶりにまともな食事をした体は、いつもより心なしか血色が良い。青白いことは青白いのだが、白い陶器のような美しさと表現できなくもない程度だ。然り、大した膨らみのない胸も産毛すらない恥丘も陶器のようである。
「ふうぅ…」
零れた吐息は熱を持ち、ため息とは違うそれは何かを期待しているようでもある。丹念に、入念に体の隅々まで丁寧に擦りあげ、彼女はようやく風呂場から抜け出した。湯を長く浴びすぎたせいか体は火照り、そして別の理由でもほんのりと桜色に染まっていた。
「どうしよう…」
体に纏わりついた水滴を全て拭き取り、おろしたての下着を履き、いつもの寝間着を頭から被ろうとするほむら。今更ながら、この家にあるベッドの数に思いを馳せる。そう、たった一つきりしかないそれはサイズこそそれなりに大きいが――煽情的な格好をしたさやかと床を共にするというならば、狭すぎる。少なくともほむらにとっては心もとない広さでしかない。
いったいナニをされてしまうのか。さやかの鞘から剣を抜いてスクワルタトーレ? ティロってフィナーレさせて、最後はクリームなヒルトでグレートヒェンなのか。訳の分からないことを考えながら、ほむらはそのまま洗面所で歯を磨く。
既にさやかのお願いを了承したような形になっているこの状況に、彼女は心臓の鼓動が早まっていることを自覚する。
「be cool……be coolよ、暁美ほむら。別に私があの子のアレを治めてあげる必要なんて一切ないでしょう? 情を捨てなさい。義理など悪魔には必要ない。私はまどかが幸せになるのをただ見守っていくだけでいい。美樹さやかは……敵よ!」
「ほむらー、お風呂長いけど大丈夫? 倒れたりしてない?」
「敵よわぁあーー!?」
「敵!? 魔獣が出たの!? くっ、入るよほむら!」
「ち、ちがっ、あわわっ」
「血が出たの!? 今助けるからね!」
既にほむらが湯あみを初めて一時間半。いくら女性であったとしても流石に心配になる時間だろう。ただでさえ今日は数回も気絶しているのだ。血行が良くなりすぎてふらつき、浴槽に沈んでいないか心配になるのも当然と言えば当然。
風呂場を出ればそこは洗面所になっており、その洗面所を隔てている扉越しにさやかは声をかけたのだ。そして帰ってきたのは叫び声と『敵』の一言。扉を開ける許可を得るか得ないかの瞬間に聞いたのは『血』という言葉。さやかは瞬時に変身をして中へと飛び込んだ。
まず目に入ったのは寝間着を手に持ったまま固まっているほむらの裸体。目に見える部分に血は見えないが、今は考えている暇は無いとばかりに彼女はほむらを抱きとめ、洗面所を転がりでた。
「ほむら! 大丈夫?」
「あや、あわ」
「くっ、姿を隠す魔獣か!」
驚きと羞恥で呂律が回っていないほむらを抱えて、姿の見えない魔獣を警戒するさやか。その姿はまさに姫を守護する勇者の如し。怪我の箇所が一見して不明なため、ほむらを全身で包み込み回復魔法を施す様は慈母にも見える。
回復の魔法で癒され、全身を温もりで包み込まれたような感触にほむらは戸惑う。傷はなくとも、その心地よさは全身をほぐされているような気分にさせる。他人を癒すという願いをかけたからこそ操れる、優しさの象徴とも言える回復魔法。かけられた側からすれば心まで癒されるような、そんな心持になる温かい魔法だ。
「ほむら、敵は……っ、ほむら…?」
「…っ」
「…どう、したの? まだどこか痛い?」
「敵――敵なんか……ぅ、い、居ないわ。どこにも。敵なんかじゃ、ない…」
「ほむら…」
一向に魔獣の気配を感じないことに、流石に違和感を覚えるさやか。どうなっているかを問おうかと視線を下げれば、表情を見せたくないとばかりに顔を胸に埋めるほむら。それがなんだか泣いているように見えて、さやかはまだまだ水気を含んでいる頭を優しく撫でつけた。
「敵は、居ないんだよな?」
こくりと首を僅かに振ったほむらを見て、ようやくさやかは体の力を抜いた。いったい何が起きたんだろうと訝しみつつも、時折体を震わせる少女を抱きしめたまま撫で続ける。
涙に質というものがあるならば、これはきっと自分が流した涙と同じだと彼女は感じ取った。『あたしってほんと馬鹿』 その言葉を最後に、その涙を最後に魔女と化した自分と同じ。
「…誰も敵じゃないよ。敵なんか居ない。誓うよ、あんたが納得するまでは絶対に無理強いなんかしない」
「納得なんて――絶対にできない。まどかが円環の理に戻るなんて……絶対に認めない!」
「それでも、だよ。魂をかけてまでまどかを守りたいあんたと、解りあえないことなんて絶対にない」
「そんなの……無理よ…」
「無理なんかじゃない! あんたがまどかを救いたいみたいに、私だってあんたを救いたいんだ! 本当にこんな結末が、この世界が最善だっていうなら――泣き顔なんて見せるなよ!」
「…っ!」
人は希望なしに生きられない。そしてほむらにとってこの世界は希望のない世界だ。まどかという存在は希望と同時に絶望をも孕んでいる。狂おしいほどに渇望した彼女の幸せは、自分が隣に居ると成立しない。ただただ最初に出会った時のような、笑いあえる日は二度とこない。
希望が傍にあるのに、絶対に触れてはならない。それは単なる絶望よりも遥かに苦しいだろう。だから彼女は悪魔を名乗るのだ。人間ではなく悪魔だから、希望など無くても生きていけると。
それは――きっと、どうしようもない程に瘦せ我慢だ。耐えて、耐えて、耐えて、どこまで続くかも知れない嗟嘆の道。
「あんた一人が全部背負いこむなんて、認めるもんか。人は平等じゃないけど、世界は平等じゃないけど、誰か一人に背負わせるなんて間違ってる」
「なら! まどかが全部を背負うのは正しいとでも言うの!? 私はそんなの絶対認めない!」
「一人じゃないよ。まどかには私が居る。なぎさも居る。導かれた魔法少女達が居る。一人ぼっちなんかじゃないし、絶対にさせない。『まどか』が円環の理じゃないんだ……『私達』が円環の理なんだ」
「そんなの…!」
言葉に詰まり、尻すぼみに声を絞りつくしていくほむら。さやかは目を反らさずに真っ向から彼女と向き合った。『絶対に後悔なんてしない』――何度も宣って、何度も裏切ったその言葉を、今度こそは真実にしてみせると。目の前の少女にも絶対後悔なんてさせるものか、と。
「今はそれでいいんだ。あんたが心を殺してまどかを守るっていうんなら、私があんたの心を守ってあげる。だからほむら……私と友達になってよ」
「なに、を…」
「嫌?」
「…っ」
ほむらにとって『友達』とは、後にも先にもまどか一人だった。きっと、だからこそ執着して、だからこそここまで辿り着いた。円環の理になる直前のまどかの言葉――『ほむらちゃんは、私の最高の友達だったんだね』という言葉は最大の感謝でもあり、しかし彼女の心をより縛るものでもあったのだろう。
だからこそさやかは友達になってほしいとほむらに伝えた。心の拠り所が一つしか無いのならば、二つに増やせばいいと。二つで足りないのなら三つで。それでも足りなければいくらでも持ってくる。『最高の友達』が一人だけなんて決まりはないのだから。
「頑張ったよね。全部知ってる。あんたは世界の誰よりも頑張ったんだ。他の誰が知らなくても、私はあんたの頑張りを知ってる……『偉いよ、ほむら』」
「――――ぅっ…!」
誰も知らない。だから誰も褒めない。彼女は褒めてほしいからやっているんじゃない……そんなことはさやかにも解り切っていることだ。けれど、誰かが褒めなくちゃいけないんだと頭を撫でて優しく告げる。
いつ終わるとも知れない地獄のような道を歩き続けた少女。
とても不器用な少女。
ループの内の一回だけでも割り切って情報収集に努めれば何かが変わるかもしれないのに、ただの一度きりも友達を諦めなかった少女。
全てが終わっても誰も彼女の頑張りを知らない。知った存在と言えば歪んだ孵卵器くらいのもので、挙句にその知識を利用して円環の理を手中に収めようとした非道の生物など数にも含めたくはないだろう。
だからさやかは優しく頭を撫で続ける。世界で一番の頑張り屋さんが、少しでも安らぐように。
「う――ううぅ…」
「ほら、体冷えちゃったでしょ? 私もあんたの髪で濡れちゃったし、一緒に入ろっか」
「うん――――うん?」
「よーし! 裸の付き合いで親交も深まるってもんだ!」
「え、いや、ちょ」
「背中流したげる!」
「ひゅいっ!?」
さやかが自分の体にツいているものの存在を思い出すまで、あと少し――
あぁ^~心がさやさやするんじゃぁ^~
さやさやとは薄いものが触れ合う音の表現である。
つまりまどかとほむらが抱きしめあえばさやさやしている…?