こんがり狐色に焼き上げられたチーズ。グラタン用のオーブン皿を覆う、芳ばしい香りを放つそれの下には未だふつふつとホワイトソースが滾っている。熱気をこれでもかと周囲に振りまくその横には、温泉卵を乗せたシーザーサラダが綺麗に彩られていた。
さくさくのクルトンが酸味のあるドレッシングと合わさった時、間違いなく美味を予感させる鮮やかな緑と白、そして黄色のコントラスト。少しばかり値段の張った果実のジュースを、ほんの少しのミネラルウォーターでカクテルに。ともすれば濃度が過ぎるその甘みを爽やかに和らげ、乳脂が豊富に使用されたこの食卓にある種の清涼感をもたらしてくれるだろう。
「…あなた、料理できたのね」
「ふっふーん。恐れ入ったか!」
「別に」
「またまたー。ほれ、卵を握りつぶしちゃうようなほむらちゃーん? 憧れちゃってもいいんだよ?」
「偶々よ」
「ほほう、卵だけに?」
「…」
凍えるような視線でさやかを睨むほむら。熱々の料理とは裏腹に、そのギャグの寒さは極寒の境地。世の中年オヤジでも唸ってしまう程の残念なクオリティである。
スーパーから帰還した二人は仲良く台所に立って料理を作った。まったく使われた形跡のない水場にさやかは呆れ、しかしそれならばと逆に奮起して調理に力を入れた。
人間の三大欲求に連なるものを疎かにすれば、生きる楽しみも自ずと減ってくる。さやかから見たほむらという少女は、何かにつけて破滅的な思考や諦観、自虐的な振る舞いをしてしまう存在だ。それは食事を一切楽しんでいないことが多少の影響を齎している――彼女がそう考えるのも仕方ないだろう。
美しい少女だ。
可愛い少女だ。
けれど羽根のように軽く、抱きしめれば折れそうな少女だ。
その有様は食事など栄養補給でしかないと――否。それ以下でしかないと、何よりも雄弁に語っている。例え実際に生きてきた年月に相違があったとしても、同い年のクラスメイトがそのような姿を見せている事実を彼女は放置しないし、できもしない。
丁寧に、しっかりと、全力で、ついでに少しばかり邪な愛情も込めてさやかは料理を作った。横で指を切り、手の甲を火傷し、卵を握りつぶした少女を微笑ましく見守りながら。
指を切ったほむらが叫び声をあげた際、思わずさやかがその指を口に含んで血を止めた時などは確かに二人の時間が止まっていた。自分が取った行動に、自分自身で驚愕したさやか。口内に広がる鉄の味が薄くなった瞬間慌てて咥えていた指を放した。唾液がつうっと糸を引き、まるで――
そう。まるで保健室でしてしまった、誰にも言えない秘め事のよう。
そんな記憶が脳内から呼び起こされ、さやかは赤面した。そしてほむらの方はというと、こちらはこちらで艶めかしい舌と唇の感触に頬を染めていた。そもそも彼女は他人との身体的な接触が極端に少ない人生を送ってきた故に、突発的な接触――特に好意的なそれに触れてしまえば、素の彼女に戻ってしまうのだ。
まあそんなラブコメのようなシーンがいくつか量産されつつも、料理は完成した。戦力どころかマイナスにしかならなかったほむらがため息をついていたのもご愛敬といったところだろうか。
「じゃー食べよっか! いただきまーす」
「いただくわ」
テレビの無いほむらの家は喧騒と無縁の場所である。時折、食器とスプーンがカチリと音を響かせる以外はしんとしている。友達同士のたわいない会話など彼女達にできようはずもない。なにせ普通の日常生活においての接触というものが殆どないのだから。
「それにしても、ほむらとご飯食べるのもいつぶりだろ」
「…ループを始める前だったかしら」
「んー……いや違う違う。初日にお弁当誘ったら俯いて首振ってたじゃん」
内気な転校生に世話を焼く。そんな役割がぴったりのさやかではあるが、ほむらの内向的な性格はそれを拒絶した。まどかに救われ多少その気質が改善されたとはいえ、さやかとは殆ど接触していなかった一周目。
「初めて一緒に食べたのはたぶん二回目じゃない? ほら、転校初日に、ぶふっ、くくっ……皆の前で『私も魔法少女になったんだよ!』って、まどかに言った時」
「わ、忘れなさい!」
「いや、だって、くひひ……あれはないでしょ…! お、思い出したらお腹痛くなってきた…!」
憧れの少女と同じ存在になれた。失った少女とまた巡り合えた。その嬉しさは人の目を憚らず感情のままにほむらを行動させたのだ。彼女の主観での『一回目』は、クラスに馴染めない転校生が寂しく存在しているだけだった。
『二回目』は、明らかな奇異と笑いの目――そのループ自体では彼女も気付いていなかったが、今思えば間違いなく『電波ちゃん』と見られていたと確信していた。まあ転校初日に魔法少女宣言などすれば当然の帰結であろう。
その回は周囲の目が生暖かく、さやかにしても、自分にやたらと優しかった覚えがほむらにあった。
「…それにしても、記憶が鮮明ね。円環の理に保存されていた魔法少女の記憶は『記録』でしかない。因果の溜まる理由であった私とまどかの記憶こそ、まどかの主観という形で鮮明に記録はされていたけれど…」
「そりゃあ、まどかの主観なんだから私の記録だって随分残ってたもん。自分の記憶で補完すればだいたい起きた事のおおよそは理解できるって」
「そう…」
誰かに理解してほしくなどなかった。けれど誰かに理解してほしかった。誰も信じてくれず、誰も理解しないからこそ意固地になった。もう誰かの理解などいらないと頑なになっても、しかし目指すところは誰かの理解を得ずして終着には至らない。
最後の最後に、叶えたかった願いそのものであるまどかが己の過去の全てを理解して――けれどその心情まではけっして理解してくれていなかった。ほむらはどこまでもまどかに救われてほしかったのだ。救いを与える存在になどなってほしくはなかったのだ。
「…」
「どしたの?」
「いいえ、なんでもないわ」
「いや、なんでもあるような顔して言う事じゃないでしょ」
「そういう、他人にずけずけと踏み入るような性格は直した方がいいんじゃないかしら」
「でもあんたにはずけずけ入らないと離れていくばっかじゃない」
「それで問題ないわ」
「私にとっては問題なの!」
すました顔のほむらを唇を尖らせて見つめるさやか。今日一日で随分と距離が縮んだと考えていた彼女であったが、まだまだ壁は厚いようだ。とはいえ予想外の事態に弱く、頭が真っ白になれば素直になるのは見て取れているのだ。やりようならいくらでもあるだろう。
さやかが目指すもの――まどかの力を取り返すという目的は不変のものではあるが、手段に関してはその限りではない。敵対して力づくという手段ではなく、理解して説得するという方向もきっと間違いじゃないと、彼女は信じていた。
思えばずっと険悪な仲が続いてきたのだ。先の世界で素のほむらに接して、ようやく少し心が絆された。それを覆す程の裏切りを目の当たりにして、さやかが憤慨していたのは確かに事実だ。
しかし記憶を取り戻すにつれほむらを理解し、今朝がたの騒動でほとんど敵意はなくなってしまった。誰よりもまどかの為に動いて、どこまでも自分を不幸にする少女暁美ほむら。その行動が間違いだと思ってはいても、その想いだけはけっして間違いではないとさやかも思っているのだ。
まどかに力が戻って、みんなで円環の理として楽しく過ごす。それでいいじゃないかと彼女は思う。今の生は楽しく、それを失うのは確かに悲しい。しかしこのままではまどかもほむらも幸せになりようがない。
キュゥべえの思惑が絡んだとはいえ、魔法少女は人類の負の感情エネルギーを一身に背負ってきた。そしてまどかとほむらはその負債を全てその身に肩代わりさせた。誰かが不幸を背負ってしまうというなら、せめて少しくらいの我儘は通したっていいじゃないかとさやかは思う。
永遠に魔法少女を救済しなければならず、現世に自分が存在した痕跡は何もない。そんな不幸。けれどきっと二人が一緒にそれを為すなら幸せにだって変えられる。ほむらにとってまどかは特別で、まどかにだってほむらは特別なのだ。
全ての魔法少女に平等の救いを齎す円環の理『鹿目まどか』は、世界で唯一の魔女『暁美ほむら』を救うべく相当な力を割いた。これが特別と言わずしてなんだというのか。
キュゥべえは『円環の理』を概念と呼んだ。しかし円環の理であったさやかにはちゃんとその間の記憶もある。人間として過ごしたわけではないけれど、概念だの思念だの溶け合った思考だのLCLだのとはけっして違うのだ。
まどかが『円環せんべい』をばりばりと食べながらほむらの頑張りを円環テレビ(下界監視用)で見つめる様子を呆れてみていた記憶もある。
まどかが円環カメラを構えながらほむらの雄姿を写真にしていた記憶もある。
魔法少女が円環の理に導かれる際は、魔法少女姿のまどかの分身が傍らに現れるだけである。しかしほむらが導かれかけた時はサーカスの様に華やかで、迎えにいく様はエ〇クトリカ〇パレード(円環仕様)であった。
特別以外にありえないだろう。そしてもう少し自重しろよと突っ込みをいれた記憶も、もちろんある。それを知ればきっとほむらだって悪くは思わないと彼女は考える。
「ほむらはさ……いや、やっぱなんでもない」
「…?」
「料理は、その、美味しい?」
「ええ。このチーズはカロリーメイト(チーズ味)を彷彿とさせるし、ホクホクのジャガイモもカロリーメイト(ポテト味)に勝るとも劣らない。サラダもカロリーメイト(ベジタブル味)にけっして負けていないわ」
「褒めてないよそれ!」
「冗談よ」
「むうぅ…」
頬を膨らませるさやか。気を取り直して自分も料理を堪能し、説得は寝る前にするかと舌鼓を打つ。少なくとも彼女には、スプーンに乗せたジャガイモをふうふうして冷ましている少女が悪魔などとは思えなかった。
「ねえほむら」
「…?」
「夜、少しだけ相手してもらえるかな」
「――――ひゅぃっ!? あ、や、え…」
きっと話し合えば解り合えるよ。そんな思いを込めたさやかの微笑みは、ほむらにとって悪魔の笑顔に見えたのだった。
勘違いはまだまだ続く。