the Garden of demons   作:ユート・リアクト

3 / 5
悪魔の境界  後編

 

 

「ちょっと待ってよ! ああもう、ばか式! 待ってったらっ!」

 先行する式に置いていかれまいと走り出しながら、わたしこと黒桐鮮花は叫んでいた。我ながら健康的だと思う。

 結界の破断により封印が解かれ、あふれ出した悪魔の群れ。

 倒しても倒しても際限なく増える闇の軍勢には、仲間を呼び寄せるタイプの悪魔も存在するらしい。

 後方支援というその性質上、問題の悪魔は間違いなく戦線の最後列――式と橙子師が悪魔を封印していた、階下の魔術工房にいる。

 そう睨んで先陣を切る式に追いすがりながら、わたしは一抹の不安を感じていた。

 この先に待ち受ける熾烈な戦いに対して、ではない。

 わたしの了承もなく背中に取り憑いた(文字通りに!)、この世の生き物じゃない存在が物質化したという魔剣に対して、だ。

 あぁ、もう……目には目を、歯には歯を、とは言うけれど。

 悪魔と結託して悪魔と戦うなんて経験は、できればこれが最初で最後であってほしいところだった。

「我の助力は不本意か、アザカよ?」

 悪魔だから人間の心を読み取ることができるのか。

 式が持ち去った双子の剣の片割れ――アグニと名乗る、炎の色をした剣が、わたしの意中を察して話しかけてきた。

「当然よ。兄さんにあんな口を利くやつなんて、信用できないわ」

 さっき幹也を見下したようなアグニの発言を指して、わたしは言う。

 斬りつけるように敵意を持った声。

 しかし、アグニは特に気にした様子もなく鼻を鳴らす。

「我ら悪魔と人間とは決して相容れぬ存在、背中を預けるには値せぬ、か」

 他人事のように淡々と事実を述べるアグニが気に入らない。

 だっていうのに、こいつは勝手にわたしの背中に取り憑いて離れる気配もない。

 気持ち悪いから力ずくで引き剥がそうとしても、どうして背中に固定されたみたいにびくともしないのよこいつはああっ! なによ、ア○ンアルファ!? 最高の接着力!? ふざけんじゃないわよおおッ!!

「……すさまじい闘気だ。人間の小娘風情が、よもやそこまで荒ぶるとはな」

「アンタのせいだからね!?」

 なにを勘違いしたのか、わたしの激昂を戦いを目前に控えた高揚によるものだと、都合のいい解釈をするアグニ。

 こいつはさっき、久しぶりに大暴れしたいと言った。だからわたしと式に力添えする、とも。

 その暗い闘争心に満足を与えるまで、意地でもわたしから離れるつもりはないらしい。敵を殲滅する、という目的が一緒とはいえ、はた迷惑もいいところよね。さっさと済ませてこいつを引っぺがさなくっちゃ。

「いよいよ出番か……フフ、血が騒いでおるわ」

 階下の入り口まで差しかかると、興奮を隠しきれない声でアグニが呟いた。

 背中越しに、人ならざる魔の闘気が伝わってくる。猛々しい魂の鼓動。それに背中を押されるように、わたしは目の前の扉を蹴り開けた。

 女の子らしくない、乱暴な仕草……もしかしたら、このときわたしは、アグニの魂に同調していたのかもしれない。意気揚々としたアグニの声が、わたしの魂に直接語りかけてきた。

「いくぞ、アザカよ。我が力は炎――この身に宿した地獄の業火で、汝の敵を焼き払ってくれよう!」

 

 

 

 

 悪魔のあふれ出した魔術工房に踊り込むと――果たして、そこは人外の魔境と化していた。

 周囲には精巧なマネキンから呪術に使うような布人形まで、様々な種類の人形が鎮座している。その全てが人形師(ハイマスター)である橙子師の作品だった。

 それが、この世のものではない魂を得て活動を始めていた。

 橙子師の手がけた人形ならば、単純に魔力で動くものも珍しくない。だが無機物にはない、おぞましい生気さえ身にまとって人形たちは動いている。まるで目に見えない糸で操られているかのように、関節をねじ曲げながら徘徊する傀儡(マリオネット)――無機質なその手に錆びた短剣を持ち、獲物の血を求めて彷徨う様は、人形に殺人鬼の魂が宿る有名なホラー映画を思い出させた。

 ヒトのカタチをした器物に何かの自我が乗り移るという概念は珍しくもない。人形は〝ヒトガタ〟とも読むし、ヒトに近いカタチほど魂は宿りやすいものだから。

 橙子師の工房を我が物顔で闊歩するのは、マリオネットだけではない。

 素材のむき出しになった床は、ここ半年間一度も掃除をしたことがなくて、紙クズのつまった焼却炉の中みたいになっている。そこにうず高く積もった、塵や砂ぼこりを媒介として出現した黒い影――それは漆黒のトーガに身を包み、死神の大鎌を携えた、おとぎ話に語られる通りの悪魔の姿だった。

「気味の悪い人形に、絵に描いたような地獄の住人……本当、悪魔のセンスって最悪ね!」

 威勢良く吐き捨てたけど、にじみ出る冷や汗を誤魔化すことはできなかった。

 人は本能的に闇を恐れる。それは長い年月にわたり、悪魔に恐怖してきた遠い先祖の記憶を、その血に受け継いでいるせいなのかもしれない。

 人間である以上、決して逃れることのできない、原初的な恐怖。まるで自分が子供の頃に戻ったような気分だ。

 しかし、わたしだけがガタガタと震えて神様に祈っているわけにもいかなかった。

 なぜなら一陣の旋風が、その地獄のような光景の中でなお吹き荒れていたからだ。

「ははッ!」

 普段の物静かな姿とは一変し、捕食獣が牙を剥くような笑みで楽しげに声を漏らす式は、まさに暴風そのものだった。

 百合のような白い手が振るうアグニの兄弟剣、ルドラ。

 その風の加護は類まれなスピードを使い手に与え、ただでさえ身のこなしが軽い式の速力を不可視の域にまで底上げしている。

 残像さえ生み出すスピードで動き回り、周囲の悪魔を斬り刻んでいく式は、まるで電動ジューサーの回転刃だ――あらゆる方向に対応し、襲い来るものを蹂躙するダンスマカブル。

 文字通りの死の舞踏が、そこに演出されていた。

「この分だと、わたしの援護はいらないんじゃ……」

 一方的すぎる戦況を前に、そう呟きかけたところで、はたと気づく。

 あれだけ式が暴れ回っているというのに、敵の数が減っていない。むしろ増えているようですらあった。

 わたしは自分の頭をこつんと叩く。うっかりしていた。悪魔にもピンからキリまで、様々な種類が存在するという。そして、仲間を呼び寄せる厄介者を叩いて増援を止める為に、ここにやって来たのではなかったか。

 周囲を見渡す。案の定、部屋の一番奥まった場所に、それらしき悪魔を発見した。

「ヘル=グリードか、やはりな」

 そんな気はしていたと言わんばかりに驚きもないアグニが、その悪魔の名を呟く。

 有名な拷問危惧を思わせる巨大な棺を持った、異形の影……その棺桶のなかは冥府へと繋がっており、苦悶と憎悪の表情を浮かべた異界の魂を呼び寄せている。

「あいつが元凶ってわけね」

 わたしは右手に火蜥蜴の皮手袋をはめ、獲物に狙いを定めた。

 あのクリプトキーパー(棺の番人)が陣取る一帯だけ、明らかに敵の密集度が高い。知性を感じさせない雑魚に見えても、弱点を心得るだけの知恵は回るようね。

 烈風のような式でも、あれほどの包囲網を突破するのは至難の業だ……よし!

 甚だ不本意だけど、せっかくだから悪魔の力を使ってみますか。

「あいつまでの道を切り開くわ。できる?」

「造作も無い」

 背中のアグニに呼びかけると、頼もしい返事が返ってくる。

「おぬしは発火現象(パイロキネシス)が攻撃手段のようだな? なら我との相性は悪くない。我を剣ではなく増幅器として使え。あとは汝が『燃えろ』と命じるだけで、現実はそのようになる」

 アグニを介して背中越しに流れ込んでくる炎の魔力が、わたしの右手に集束する。

 人間では到達し得ない、圧倒的な魔力。なるほど、でかい口を利くだけのことはあるようね。わたしは右手を引きつけるように構え、球状に膨れ上がっていく炎の制御に努めた。

 じじじ、と火蜥蜴の皮手袋が焼け落ちつつある。天井は知らぬとばかりに膨張をつづける魔力。う、嘘でしょ……まだ上がるっていうの?

 徐々に制御の難しくなってきた魔力は、わたしでさえ不安に駆られる程だ。バランスボールくらいの大きさまで膨れ上がった炎の塊は、ついには溶岩のように不気味な音をたてて脈動を始めた。

 右手が震える……体勢が維持できなくなる。これ以上は……だめ! 暴発する!

「吹っ飛べぇ!」

 わたしは右手を砲塔に見立てる格好で、限界まで集束した炎を撃ち出した。

 それは隕石(メテオ)のように真っ赤な尾を引いて、まっすぐに標的へと直進し――

 炸裂する轟音と閃光。ものすごい衝撃波が部屋どころかビル全体を震撼させ、わたしを骨の髄まで揺るがした。

 なまじ密集していただけに、悪魔どもは炎の威力を存分以上に受け止める羽目になった。そのおかげで威力が拡散することもなく、余波で建物内に被害を出さずに済んだのは僥倖としか言えない幸運だった。

 固体も同然に凝縮された大質量の火球は、居並ぶ悪魔どもを粉砕し、まるで見えない巨人の手が大地をなぎ払ったかのように一直線に道を開く。熱風が吹き抜けたその瞬間、悪魔どもの包囲には完全な穴が貫通していた。

「す、す……凄すぎぃ」

 生身の人間に実現できるレベルをはるかに超えた魔力出力と、それがもたらした破壊の跡を目の当たりにして、わたしは思わず感嘆の声を漏らしていた。これが戦闘中でなければ、へたり込んでいたところだ。凄いなんてものじゃない。これが、悪魔の力……

「この程度で驚くでない、アザカよ。今のは、かの炎拳魔神の真似事に過ぎん。これが本家なら、今頃、この一帯は焦土と化しておるだろう」

 アグニが敬意を示すほどの悪魔の力なんて想像もできないので、わたしは軽い目眩を堪えつつ、気を取り直して前を見た。

 メテオの破壊力は、けれど幾重にも折り重なっていた悪魔の群れと相殺されて、ヘル=グリードの元まで届く頃には空気をチリチリと焦がす程度の火の粉にまで減退していた。

 そして、穿たれたとはいえ穴は穴。いまだヘル=グリードが呼び寄せつづける悪魔の密度をもってすれば即座に塞げる綻びでしかない。

 もう一度大技を放とうにも、そんな暇を許す程、敵も馬鹿じゃないだろう。

 考えている間にも無尽蔵に召喚される異界の魂は次々に実体化を果たし、その密度でもって切り開かれた道を塞ぎにかかっている。うんまあ、これはつまりアレね……

「急げ、ダッシュだわたし……!」

 ヘル=グリードまでの距離を阻む障害が再び出現する前に、あいつの懐に飛び込んでブチのめすより他はない。

 単純明快な答えに行き着いたわたしは、スカートだというのに大股で走り出していた。我ながら淑女だと思う。

 わたしの狙いに気づいた周囲の悪魔が、させじと飛び上がって凶器を奔らせる。

 わたしは全ての妨害に対応せざるを得なかった。アグニの与える加護はパワーを重視したもので、ルドラのようにスピードに特化した代物ではない。式さながらの速力で追撃を振り払うことは望むべくもなかったのだ。

 そして何より、この服装が猛ダッシュに適していない。歩幅を制限するスカートを煩わしく思いながら、目前の悪魔を右の打ち下ろしで叩き伏せる。しかし、やっぱりスカートのせいで満足な踏み込みができなかった。充分な運動エネルギーを確保できなかったパンチは敵を仕留め損ない、その結果にわたしの苛立ちはピークに達する。ああもう、うっとうしいわねこれ……!

「邪魔ぁ!」

 わたしは迷うことなくスカートの裾に手をかけ、びりびりと引き裂いた。

 それなりに上等だったスカートは台無しになったが、これで不自由なく動けるようになった。右脚を頭上まで振り上げ、一気に振り下ろし、十八番の踵落としを披露する。

「よっしゃあああーッ!! いくわよ!」

 仕留め損なった悪魔をぐしゃぐしゃに踏み潰したわたしは、広くなった歩幅に快哉の声をあげて床を蹴りつける。

 勢いに乗ったわたしの俊足は、あっという間にヘル=グリードの目前まで距離を縮めた。

 そのわたしの背中を襲いかかる、いくつもの凶刃。

 いくらわたしが俊足とはいえ、やっぱり人間の脚力では、悔しいけど悪魔を出し抜くことはできないらしい。そしてダッシュに専念するあまり、わたしは無防備な背中を晒してしまったようだ。

 だけど、わたしは振り返らなかった。なぜならわたしの黒髪をなびかせて、刃物のような疾風が吹き抜けたからだ。

「世話の焼けるやつだな。もっと速かった気がするけど、太ったか?」

「お生憎さま。こっちは出るところはしっかり出てんのよ、つるぺたのあんたと違って」

 式の操るルドラの剣先が、わたしへの追撃を鮮やかに斬り払う。

 ナイスアシスト……と言いたいところだけど、わたしたちは言葉の一部を悪意を持って強調し、憎まれ口を交わした。わたしをデブって言ったツケは、あとで絶対払ってもらうんだから。

 相変わらずのやり取りを手早く済ませ、わたしは火蜥蜴の革手袋に包まれた右手を握りしめる。

 ヘル=グリードまでを阻む障害は、もはや皆無である。さて、と……ちゃちゃっと仕上げにかかりますか。

 身の危険を感じたヘル=グリードが、その手の棺桶を横薙ぎに振り回してきた。

 棺桶を鈍器に見立てた攻撃は、そのサイズと重量だけを見れば確かに脅威だけど……そんな攻撃、式と比べたら、まるで遅いし、まるでぬるい。

 わたしは地を這うように身を低くし、頭上を擦過する鈍器をやり過ごす。

 そして立ち上がりざまに強烈なアッパーカットを繰り出した。右手にアグニの豪炎をまとった必殺パンチは、まるで噴火するマグマのような軌跡を描いて直撃し、敵の動きが一瞬、止まる。

 その隙を見逃すわたしじゃない。

「おネンネの時間よ」

 間髪入れずに跳ね上がった左脚が、ヘル=グリードの脇腹にめり込む。わたしの足先は、もちろん地獄の業火に包まれていた。

 蹴り込んだ勢いで身体を回転させ、もう一発……今度はその反動を利用して身体を切り返し、さらに一発!

「はああああッ!」

 烈火怒涛と降り注ぐ、われながら見事な蹴り技のコンビネーション。

 背後の式が呆れたように呟くのが聞こえた。地獄送りのフルコースだな。

「とどめッ!」

 都合十三発目となるハイキックが、だめ押しで炸裂する。火だるまになり、もはや悲鳴もなく消滅する異形の影。やった、とわたしは歓声を上げかけ……無視できない異臭に、くんと鼻を鳴らした。火薬や燃料の匂いに人一倍敏感なわたしの嗅覚は、それが銃弾に使用される発射薬の匂いだと気がついた。

 見れば、たったいま崩れ去ったヘル=グリードの影にマリオネットが身を潜めていた。その血塗られた手にショットガンを持って、だ。

 ダブルバレルの銃身とストックとをコンパクトに切り詰め、携帯性に優れた熊撃ち用の散弾銃。

 メル・ギブソンの映画でも有名な、そのソウドオフ・ショットガンは、どう見てもわたしに真っ黒な銃口を向けていた。

 わたしは自分の失敗を悟る。とどめの瞬間に気を良くしていたわたしは、まさかの反撃を想定などしていない。そして紅い光を灯すマリオネットの暗く虚ろな眼窩は、われわれの目的は味方を守ることではなく、たとえ味方を犠牲にしてでも人間を殺すことだと告げていた。

 結局、後方支援と思われたヘル=グリードは立派に囮の役割を果たし、まんまと引っかかったわたしの命運はこれにて尽きたわけだ。防弾チョッキもない生身の人間に、熊撃ち用の散弾銃を防ぐ手立てなどあるはずもない。自分の最期を理解して、わたしは脱力したように嘆息する。

(あちゃー、つまんない終わり方になっちゃったわね……)

 今際の際に、そんな間の抜けた感想を漏らしたわたしの胸を襲う、とてつもない衝撃。

 散弾粒が拡散する前の至近距離で銃撃され、ショットガンの最大威力を堪能する羽目になったわたしは、そのまま声もなく吹き飛ばされ、背中から地面に叩きつけられた。

「鮮花ああッ!」

 初めて耳にする、式の狼狽しきった声。

 わたしを撃ち殺したマリオネットを細切れにし、わたしに駆け寄ってきた式の表情は、あの物静かな姿からは想像も出来ない程に、普段の冷静さをかなぐり捨てていた。それがなんだかおかしくて、わたしは消え行くような微笑を浮かべる。フフ、馬鹿ね。そんなに慌てても、わたしはもう、助からないってのに。

 熊撃ち用の散弾銃に胸を吹き飛ばされた身体は、あばら骨が飛び出したり肺が潰れたりして、きっとイチゴジャムのように見るも無残な姿に……

「「……あれ? なってない?」」

 きょとんとした顔で、わたしと式の声が重なった。

 困惑したまま上体を起こす。ショットガンの威力は、お気に入りだったベストとブラウスをずたずたに引き裂き、その下のブラまで食い破っていたが……

 思わず自分の胸元をまさぐる。傷一つ、しみ一つ、ない。十代の艶でコーティングされた、われながら完全無欠の乙女の素肌が、そこにはあった。確かにダブルオー・パックの散弾を食らったというのに、だ。

「……おまえの胸、防弾仕様だったのか?」

「そんなわけないでしょっ!」

 理解不能な状況に混乱し、あほなことを口走る式をぴしゃりと制しながら、わたしは背中の硬い感触を思い出す。

 接着されたかのように離れる気配のない、赤い剣。

「……あんたの仕業?」

「然り」

 わたしの問いに、さして特別なことをしたわけでもないと言わんばかりの声で、アグニが頷く。

「小賢しい飛び道具がおぬしを襲う瞬間、魔力を集中して体表を硬化させた。まあ、それだけのことだ」

「それだけのことだが、身体を硬化させておられるのは一瞬の間でしかない。まさに奇跡のようなタイミングよ」

 アグニの説明に、その兄弟剣のルドラが続いた。

「ほんの僅かでもタイミングを誤れば、まともに相手の攻撃を受けることになる――兄者の防御が完璧でなければ、アザカよ、おぬしは今頃、現代の人間の言葉でいう、お嫁に行けない身体になっておったぞ」

「――オヨメ? オヨメとは何じゃ、弟よ?」

「オヨメというのは――」

 かけ合いを始めた兄弟剣をよそに、わたしはもう一度、自分の胸元を確かめる。

 引き裂かれた衣服、散弾を受けた衝撃の余韻こそ残っているが、やはり傷のひとつも見受けられない。信じられなかった。瞬間的に魔力を集中させ、肉体を硬化させることであらゆる攻撃を無効化するロイヤルガード……悪魔の力に驚かされてばかりのわたしだが、これは尚もわたしを脱帽させるに足る破格のスキルだった。

 まったく、この兄弟剣を手に取ってからサプライズの連続である。

「ありがとう。感謝するわ」

「礼には及ばん。かりそめの主人とはいえ我らの使い手が、この程度で死なれては高位悪魔の沽券に関わるのでな」

 照れ隠しでなく本音でそう言っているあたり、こいつかわいくないなー、と不満に思ったが、わたしの口元は笑っている。こいつとは案外、上手くやれそうな気がした。悪魔と共闘するなんていう経験は、どう考えても歓迎できることじゃないけれど。

「……ったく。心配かけやがって……」

 さも迷惑そうにため息を吐いた式の目つきが、そのとき、縄張りに外敵が侵入した気配を嗅ぎ取った肉食獣のごとく険しくなる。鋭利に細められた眼差しは、まさに抜き身の日本刀のような危うさだ。

 その刃の視線を追って周囲を見渡せば、あれだけ蠢いていた悪魔の群れが、いない。

 確かにヘル=グリードを叩いて増援を打ち止めにはした。けれど、まだ敵の数は多かったはずだ。

 不利を悟って逃げ出した、とは思えない。それではこの緊迫した空気に説明がつかないからだ。式は触れたら切れそうな程に殺気立ち、アグニとルドラも無駄口をやめて注意を払っている。

「なるほど、遊びの時間は終わりのようだ」

「端役は退場を終え、あとは主役の登場を待つのみか」

 戦いの舞台は整った、とばかりに闘気を高める兄弟剣。

 式は、わたしには見えない何かを視ているように目の前の虚空を凝視している。

「――来るぞ」

 式の呟きが予言であったかのように、異変は始まった。

 空間の歪みが次第に凝固して形を成し、屈強な人型として実体化を果たす。

 そうして出現したのは、人の姿をしていながら、頭部だけは山羊を思わせる格好の、悪夢のような姿。

 黒魔術の象徴である、淫らな雄山羊の姿をした、この世に存在し得ないイキモノ。

「グォオオオオオオオッ!」

 半人半獣の上級悪魔は一度その身体を屈め、それから耳を覆いたくなるような咆哮を上げた。

 自らの偉大さを誇示するかのような仕草。一対の巨大な黒翼が、これ見よがしに広がる。

「……ゴートリングか。すさまじい魔力を感じたから、爵位を持つ大悪魔が来るかと思ったが」

「だが見よ、兄者よ。あの罪悪の深淵を映したかのような漆黒の体色を」

「山羊の一族の中でも最も強力な個体か。相当な数の魂を取り込んだと見える。こいつは……一筋縄ではいかない相手のようだな」

 黒山羊の存在感に圧倒されるわたしと式とは対照的に、兄弟剣は茶飲み話のような気軽さで言葉を交わしている。それで、山羊に連なるものはアグニとルドラに気づいたらしい。雄々しい角を備えた頭部が、口を開く。

「さぞ高名な悪魔とお見受けすル。それが何故、脆弱な人間ごときに力を貸ス?」

 ゴートリング――罪悪の深淵(アビス)を映したかのような漆黒の体色をしているから、さしずめアビスゴートとでも言ったところか――がそう人の言葉を口にしたところで、驚きはなかった。アグニとルドラだって、よく喋るからだ。

 だけど人語を解すという事は、これまでのザコ悪魔とは格が違うということだ。力と知性を兼ね備えた悪魔……それこそアグニとルドラに匹敵するような。

 そのアグニとルドラが答えた。

「なに、ただの利害の一致よ。この娘らは強き力を欲し、我らは戦いの場を求めた」

「長い永い年月のなかで肉体はとうの昔に滅びたが、魂は物質化してなおも闘争を継続しておる。この底無しの欲望に、ひとときの満足を与えられるのであれば、たとえ小娘の細腕に操られることになろうとも構わん。刺激があるから人生は楽しいのじゃ」

「――シゲキ? シゲキとは何じゃ、弟よ?」

「シゲキというのは――」

 ほんの少しの気後れもなく、人間と共闘することを『良し』と肯定した兄弟剣。

 あからさまに不服そうな態度で、アビスゴートが鼻を鳴らす。

「もはや闘争を求めるだけの現象にまで成り果テ、悪魔としてのプライドも忘れた老いぼれガ、度し難いにも程があル……」

 露骨な怒りをぎらつかせる人外の双眸が、わたしと式をも補足する。

「貴様らもダ、小娘どもメ。人間の分際で我が同胞を仇なした罪、死をもってしか償えぬものと知レ」

 尊大に腕組みをした巨体が宙に浮き上がり、詠唱もなく魔術を発動させる。

 雨のごとく降りかかる、強力な魔力の矢。 

 それを、わたしと式は難なく弾き返した。相殺された魔力が、跡形もなく霧散する。

「なニ!?」

 驚愕の声が上がる。人間の小娘に、この攻撃が防げるとは思っていなかったらしい。

 確かに生身の状態だったら危なかったかもしれない。だが今は、アグニとルドラの加護がある。同じ悪魔の力。対抗できぬ道理はない。

 そして、こういう偉そうなやつは実力で黙らせてやるのが一番の処方だと、わたしと式は知っていた。だから真っ向から相手の攻撃を叩き伏せたのだ。アビスゴートの存在感に圧倒され、本能的な恐怖で縛られていた身体も、いまは生意気な山羊もどきに痛い目を見せたくて、ぶちのめす気満々だった。

「ずいぶんと偉そうな口を利くじゃないか、ヤギ頭。細切れ肉にされたいか?」

「それとも丸焼きがお望みかしら? 生憎、焼き加減は苦手だから真っ黒な炭クズにしかできないけれど」

 式はルドラをバトンのように振り回して剣舞を披露し、わたしは炎を灯す右の拳を片方の手のひらに叩きつける。

 挑発されて鼻息も荒いアビスゴートの双眸が、ぎらりと赤光を放った。

「思い上がったナ、人間メッ! 泣き叫ぶ貴様らの秘所かラ、はらわたをすすリ、喰らってやル!」 

 怒りと憎悪にまみれた咆哮。それが開始のゴングとなった。

 先ほどよりも密度を増した魔力の矢が放たれる。

 獲物を追尾する意思を持っているかのような軌跡を描く、それこそホーミング・ミサイルを彷彿とさせる攻撃。

 式はそれを、ルドラの剣閃で撃ち落とし、あるいは回避してやり過ごしながら、少しずつ、しかし確実にアビスゴートとの距離を詰めていく。間断なく降り注ぐ弾幕に晒されているというのに、あくまで風のように不退転だ。魔力弾が巻き起こす風圧が式の黒髪を揺らしても、その貌に浮かぶ獰猛な微笑みまでは揺らせない。

「疾ッ!」

 彼我の距離があと八メートルまで差し迫った瞬間、式の身体が弾けた。

 跳躍する肢体、極限まで引き絞られた弩弓から解き放たれたかのようなスピード。

 颶風のごとき速度を伴って振りかざされるルドラを前に、だがアビスゴートは慌てる素振りを見せない。

「大したスピードだガ……所詮は小娘の細腕に過ぎヌ」

 つまらなさそうな吐息と同時に出現する、魔力によって生み出された光の壁。

 練り上げられた魔力量からその硬度を見て取ったわたしは、たとえ太古の悪魔の魂が物質化したという魔剣でも、その光の壁を突破するのは不可能なものと予想したが……

 いざ振り下ろされたルドラは容易く光の壁を通過し、その刃を深々とアビスゴートの肉体に食い込ませていた。

「がァッ!? ……その目、直死の魔眼カッ!」

 激痛よりも驚きで、アビスゴートの紅い双眸が見開く。

 その驚きも当然だ。式は、べつだん強大な攻撃力によって光の壁を突破したわけではない。特別な目によって視える、死という名の切断面をなぞっただけだ。理屈で言えば、それだけのことだ。だが、これにはわたしも舌を巻いた。まさか形のない、生きてもいない魔力障壁さえも殺害するとは、なんという絶対性だろうか。

「グ……」

 袈裟懸けに斬りつけられたアビスゴートの身体が、高度を落とす。それを見逃すわたしじゃない。

 式がジャブなら、わたしはストレートだ。相手が怯んだ隙に、とどめの一撃を打ち込むべくアビスゴートに接近する。地獄の業火に包まれた両手両足は敵をぶちのめしたくて、うずうずしていた。

 ぺろり、と。血の匂いを嗅ぎつけた鮫のごとき心境で、わたしは舌なめずりする。さぁて……フルボッコの時間よ!

「させるものカ!」

 アビスゴートが毛むくじゃらの右腕を振り上げる。その動きに追随する格好で、わたしの足元の地面を割って噴き上がる、毒々しい深紅の奔流――火薬では決して生み出すことのできない、魔力によって呼び出された地獄の業火。

「うわ熱ゃあッ!?」

 巨大な火柱に飲み込まれ、わたしは悲鳴を上げる。

 像だってフライにできるくらいの火力も、炎の加護に守られたわたしの肉体を燃やし尽くすことはできなかったが、これで服の方は完全にダメになった。さすがにアグニの威光も服の方にまで気は回らなかったらしい。わたしが自分で引き裂いたスカートは跡形もなく焼失し、ボロボロだったブラウスも完全に焼け落ちた。警察を呼ばれたら即、逮捕されるレベルの露出度だ。嗚呼、兄さん……鮮花は、鮮花はもう、お嫁に行けないかもしれません。もらって。

 わたしが怯んで足を止めた隙に、アビスゴートは次の行動に移っていた。

「その厄介な目、潰させてもらうゾ」

 悪意に満ちた眼差しで、アビスゴートが何事かを呟いた。

 わたしの耳には理解さえできない魔界の言語で紡がれた呪文は、すぐにその効果を表出させる。

「……ッ!?」

 驚愕と戸惑いの表情で、いきなり式が足を止める。

 何が起こったというのか。それまで疾風のごとく動き回っていた彼女が、ぴたりと制止したまま、動かない。

 その手のルドラが苦虫を噛み潰したような口調で呻く。

「目くらましの魔術か……呪術には不得手な我らでは、さすがに抵抗(レジスト)しきれなんだか」

「それに、かなり緻密な呪文で編まれておる。これでは魔力に任せた解呪(ディスペル)もできん」

 ルドラの呻きにアグニが続き、ようやくわたしは事態を把握する。

 直死の魔眼を持ち、ルドラの加護による機動戦を主体としていた式にとって、これは致命的なダメージに他ならない。なにせ目が見えないのでは死の線も視えないし、満足に身動きも取れない。まるで崖の淵で足を踏みそこなったかのように不安げに佇む様は、あまりにも式には似つかわしくなかった。

 式の戦力が大幅にダウンしたことを理解し、わたしは式を背後に庇ってアビスゴートと対峙する。

 山羊に連なるものは、余裕も露わに鼻を鳴らした。そこには勝者の優越感しかない。

「愚かナ、仲間を守ろうとするとハ……丁度いイ。二人まとめテ、あの世に送ってくれル!」

 アビスゴートは自らの正面に魔方陣を展開させ、そこに魔力を集束させていく。

 唸りを上げる架空の熱量、際限なく回転数を増していく魔力は、明らかに膨大なものだ。わたしの頬を冷や汗が伝い落ちる。

「まずいわね……」

 恐らくは魔力をレーザーのように一直線に放射する気なのだろう。だとしたら、攻撃判定は持続するので、ロイヤルガードによる防御は意味を成さない。身体を硬化させていられるのは一瞬の間でしかないからだ。

 そして、あれだけの魔力を用いた攻撃が、広範囲に及ばぬはずもない。動けぬ式を見捨てたところで、果たして逃げ切れるかどうか……

 防御も回避も不可能――ならば、わたしに取り得る手段は、相手を上回る攻撃で競り勝つより他はない。

 つまりはパワーで勝負、単純極まりない力比べってわけね。嫌いじゃないわ。

 しかし今一度、アビスゴートの練り上げる魔力量を見て、わたしは戦意を喪失しそうになる。

 やるしかない。だが、あれに打ち勝つことなどできるのか。

「逃げろ、鮮花」

 落ち着きはらった式の声が、こんな状況でもはっきりと耳に浸透した。

「オレを見捨てれば、おまえだけでも逃げ切れるかもしれない」

 目は見えなくとも、唸りを上げる魔力を肌で感じているのだろう。だからこそ式は、最も希望のある可能性を冷静に見出し、わたしに「逃げろ」と進言した。それが自分の存命を考慮しない選択であっても、だ。

 正直、式を見捨てるという選択が、ベストでなくともベターであることは、わたしも認めていた。式を諦めてアビスゴートの大技を誘発し、その隙を突いて反撃する。それが最も勝率のある手段である、と。

 だけど。

 だけど、だ。

 よりにもよって式にまでそれを言われると、わたしは無性に腹が立って式のほっぺをつねっていた。

「なっ! ななななな!? ☆◎#%&!!!」

 普段の式なら、こんな狼藉を絶対に許さないだろう。しかし今は呪術によって目が見えず、無防備な状態だ。それを良いことに、わたしがもう片方のほっぺもつねると、式は意味不明な声を漏らした。それが面白くて、わたしは餅のようにやわらかい式のほっぺを左右にひっぱる。みょーん。

「……みょーん」

 思わず声にも出してしまう程に、みょーんだった。

「何が、みょーんだ!? ふざけてる場合かよ!」

「ふざけてるのはあんたの方よ、式」

 わたしの手を振り払った式が声を荒げると、わたしは静かな怒りを含んだ声で言い返していた。

「このわたしに逃げろ、ですって? ふざけんじゃないわよ」

 わたしは決して大声で怒鳴ったわけじゃない。

 だが、完全に迫力負けした式は押し黙り、わたしは言葉を続ける。

「いいこと? わたしは、あんたが大っ嫌い。だから、あんたの言うことになんて絶対に従うものですか」

 大体、仲間を見捨てるなんて、わたしのスタイルじゃない。

 膨大な魔力を誇る黒山羊とパワーで勝負することに、未だ自信など持てないが、もう覚悟は決まっていた。言葉を失った式をよそに、わたしは背中のアグニに呼びかける。

「聞こえる、アグニ? あいつを火星までブッ飛ばすわ――できる?」

「造作も無い」

 少しの逡巡もなく、頼もしい返事が返ってくる。

「おぬしの魂は、あ奴に負けてなどおらん。自分を信じよ。勝つのは己だ、と。――さすれば現実は、そのようになる」

「――オーケー、やってやろうじゃない」

 アビスゴートの魔力は今なお集束を続け、その魔力が生み出す嵐のような風圧に髪を巻き上げられるが、わたしの口元には不敵な微笑みが浮かぶ。

 わたしは背中のアグニを抜き放った。わたしに剣術の心得はないが、棍棒代わりに振り回すことぐらいならできる。ただ一撃、思いっきりスウィングできればそれでいい。力比べに手数など必要ない。

 剣を構え、腰を落とし、わたしは目が見えなくて不安げな式を一瞥する。悔しいけど、こいつの協力がなければアビスゴートには勝てない。だからこそ、わたしは誠意ある言葉で式にお願いすることにした。

「そこの蚊に食われた跡みたいな胸のお嬢さん。目が見えなくても一度だけ剣を振り回すことぐらいはできるでしょ? なら、そうしてよ。あとはわたしが、どんくさいあんたに合わせてあげるから」

 カッチーン、という愉快な音が、式のこめかみ辺りから聞こえた。

 不安げで弱々しい姿はなりを潜め、つるぺた女は毅然とした態度を取り戻す。

「何をしようとしてるか判らないけどな、上っ面だけの女が無茶をすると後が怖いぞ? おまえの胸の中のシリコン、今にも破裂しそうじゃないか」

 目が見えないくせに、ムカつくほどピンポイントでわたしの胸を指差しながら、もう片方の手でルドラを構える式に一言、物申さなければならない。これは天然ものよっ!

「HAHAHAHAッ! 何を話していル? さては末期の祈りカ!?」

 まだ集束を続ける魔力の制御に全身を震わせながら、アビスゴートが哄笑を上げる。

 本当、耳障りな声……わたしと式は悪魔に対する敵意を共有し、腰溜めに構えた剣に力を込める。

「愚かな人間どもヨ、滅びるがいイッ!」

 その叫びと同時に、ついに魔方陣から一気に光の帯が放たれる。

 膨大な熱を伴った光を前に、わたしと式は慌てることなく、ただ静かに……力を集中する。

 わたしたちが何か仕掛けようとしているのを察してか、アビスゴートは胡乱に目を細める。間合いは随分開いている。剣を振り回したって当たるような距離じゃない。近づこうにも、その前に巨大な光の帯に身を焼かれるのがオチだ。

 だがそれに構わず、わたしと式は力の高まりが最大限(マキシマム)にまで達した瞬間、大きく一歩踏み出して剣を一閃した。

「「吹っ飛べッ!」」

 式の斬撃に合わせる格好で、わたしはアグニを振り下ろす。

 X字を描いたふたつの斬撃の軌跡に、アグニの炎とルドラの剣風とが絡み合い、巨大な衝撃波を形成する。

 それは真っ向からアビスゴートの攻撃と激突し、巨大な光の帯を切り開きながら、なおも前へ前へと突き進んでいった。

「なニ……ッ!?」

 山羊に連なるものは紅い双眸を見開く。

 たかが人間の攻撃、最後の悪あがきに過ぎぬ、と侮る気持ちがあったことは否定できない。

 ありったけの魔力を込めた一撃が負けるはずもない、という絶対の自信があったのかもしれない。

 だが、それらはすべて、突き崩されようとしていた。ゆっくりとではあるが、炎と剣風の融合したエネルギーの塊は、確実にアビスゴートの領域を侵略している。あと一押し、それでこの山羊がうっかり進化してしまったような化け物に、お引き取り願える。

「ぐゥゥゥッ……いい気になるなヨ、人間めガ……!」

 その言葉も強がりとしか思えない。アビスゴートにできるのはもはや必死で光の帯を射出しつづけ、少しでも永く生き永らえる事だけだ。

「――ねえ、式。知ってる? こういう時に、ぴったりな決め台詞があるんだけれど」

「?」

 不思議そうに首を傾げる式に耳打ちすると、

「そういうものなのか……」

 むむ、と眉をひそめて呟く。……もしかすると、和風びいきなこいつは、英語というものがまったくダメなのかもしれない。いま教えたのが簡単な英単語だっただけに、ちょっと意外だった。

 そうしている間にも、わたしと式が撃ち出した衝撃波は光の帯を食い破り、今にもアビスゴートへと到達しようとしている。

「お、お、オ……ッ!」

 両足のひづめで踏ん張り、かろうじて吹き飛ばされるのを堪えているアビスゴートの形相に、恐怖が浮かぶ。 

 そしてついに巨大な衝撃波がアビスゴートを包み込んだ瞬間、強烈な光が爆発のように炸裂した。部屋中を白く染め上げる閃光。

「ばかナアアアアアアアアアアッ!?」

 断末魔の叫びを上げるアビスゴートの身体が、その光に飲み込まれ、あるべき場所へと押しやられていく。

 光が収まった後にはもう、見る者を屈服させる黒山羊の巨体は、どこにもない。

 あれだけ無尽蔵に湧いていた悪魔たちも、今は気配さえ感じられない。強大な主を倒されたことに恐れをなし、闇は闇へと還ったのだろうか。

「終わったみたいね……」

 闘争の空気が残っていないことを確認し、わたしは疲れたように大きく嘆息すると、ぺたんと座り込んだ。

 そのわたしの肩に、いきなり上着がかけられる。

「いつまでそんな格好してるつもりだ、このヘンタイ」

 アビスゴートを倒したことで呪いが解け、視力を取り戻した式が、わたしにジャンパーを寄越したのだった。

「なによ、異常者のくせに」

 憎まれ口を返し、わたしは血のような色の赤いジャンパーに袖を通す。式の服なんて着たくもないが、いまわたしは通報されたら即、逮捕されるレベルで裸なのだ。背に腹は代えられない。このままでは幹也にもらってもらうしかなくなる。

 ファスナーを上げ、前合わせを閉じて立ち上がったわたしは、式と顔を見合わせた。

 お互い、素直な性分じゃない。こんなことをするのはガラじゃないことも判っている。

 だがそれでも、わたしと式は少し逡巡した後、ハイタッチを交わしていた。

「「ジャックポット!」」

 

 

 

 

「――で、質問に戻るが」

 美貌に似合わぬ渋い表情で煙草に火を点けながら、橙子師は壁に立てかけられている兄弟剣に詰め寄る。

「二千年以上は存在している概念が、どうして? 一体何があって? タダも同然の値段で市場に出回ったというのだ?」

 いつになく不機嫌な口調で問い詰める橙子師の髪は、まるでドーナツ作りに失敗でもしたかのように煤まみれで、ボサボサに乱れていた。見れば、橙子師の傍らに黒焦げの人型が転がっている。それが見覚えのある黒ぶちの眼鏡をかけているので、どうやら橙子師の戦いは、わたしの敬愛する兄を巻き込むほどに熾烈を極めたらしい、と容易に察する事ができた。

 窓が吹き飛んだり、壁紙が焼け落ちたりして見るも無残に荒れ果てた事務所の中、兄弟剣は呑気に質問に答える。

「どうして、と言われてもなあ、弟よ?」

「うむ。元の主人に『勝手に喋ってうるさいから』という理由で売り払われて以来、似たような経緯で各地を転々とし、気つけばここにいた。それだけの話じゃ」

「まったく失礼な話よな、弟よ?」

「うむ。最近、我らの扱いが軽んじられておる。これでも高位悪魔の端くれじゃぞ」

 アグニとルドラの話を聞いている内に、わたしは軽い眩暈を堪えながら、そんなことだろうと一人納得していた。時として過ぎた力とは、いても厄介なだけの存在になる。ましてそれが、ぺらぺらと喋って喧しいともなれば尚更だ。

「――ハシクレ? ハシクレとは何じゃ、弟よ?」

「ハシクレというのは――」

 ほら、こんな具合に。

 タダなのに金銭的な被害を被り、この中で最も割りを食って苛立ちもひとしおな橙子師が、うるさいアグニとルドラに吐き捨てる。

「いちいち癇に障る奴らだ。頼むからNo talking(喋るな)、いまいましい悪魔め」

「なんと!? ひどい言い草とは思わないか、弟よ」

「兄者の言う通りじゃ。おぬしこそ、人と話すときはNo smoking(煙草を吸うな)と母君から習わなかったのか、魔術師よ」

「余計なお世話だっ! 大体、貴様らは人間じゃないだろう!?」

 鬼のような形相で橙子師が歯軋りをすると、その拍子に煙草がちぎれて床に落ちた。……これはまずいわね。橙子師のサーモスタットは赤になる寸前だ。そのことに、そろそろアグニとルドラには気づいてほしいところだった。

「いい歳をした人間の女が、何をそんなに憤っておる? 皺が増えるぞ」

「――シワ? シワとは何じゃ、弟よ?」

「シワというのは――」

 ブッチィ、という破滅的な音が、橙子師のこめかみ辺りから聞こえた。どうやら手遅れだったらしい。

 わたしと式は、とばっちりを受ける前に戦術的撤退を済ませる。幹也を連れていくという選択肢はなかった。なぜなら怒声を上げる橙子師は、よりによって幹也だった人型を振り回してアグニとルドラに殴りかかっていたからだ。いまは巻き込まれ体質の兄の無事を祈るより他はない。

 ……まったく、あの兄弟剣ときたら、とんだ地雷を踏んでくれたものだ。

 だって、そうでしょう?

 橙子師のような年頃の女性に『シワ』だなんて、そんなの『行き遅れ』や『三十路女』とかと同じ位、言っちゃいけない言葉なんだから。

 

 

 後日。

 アグニとルドラは、橙子師によって強制的に返品されたそうな。

 

 




 こないだロシア人系列のおっパプに行ったのですが、ついた女の子がイタリア語とスペイン語を話せるブラジル人だったことに絶望を禁じ得なかったユート・リアクトです。ロシア要素ゼロじゃん(死
 さてさて、久しぶりの更新、本編の最終話でございます。如何でしたでしょうか? 思えば『小説家になろう』時代からの着想を経て、これを読みたいという声を頂いてから優先的に執筆をし、ようやく完結にまでこぎつけました。たった三話だけど(ぉぉ
 次回、という言い方もおかしいでしょうが、蛇足的に橙子とダンテの出会いを描いた番外編を投稿する所存ではございます。この際、ダンテは教会の代行者と協会の執行者とを同時に相手取る、という設定ではありますが……
 皆さんは、代行者と執行者の揃い踏みと聞いて、誰と誰を想像しますでしょうか?
 その期待に応えられたらいいと思っております。またお会いしましょう。感想や苦情は随時、受け付けております。
 でわでわ。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。