長野壱業wiki一部抜粋
逸話。
海軍軍縮会議が行われている時分、東郷平八郎に軍縮反対派末次信正に連れられ他数人と共に面会している。
その際、兵科と機関科の処遇格差の是正(海軍機関科問題※リンク)についても改善案について相談を受けた東郷は「罐焚きどもが、まだそんなことを言っているか!」と反発し、それを聞いていた長野は「機関科は船の心臓を扱う者達であり、それを見下すは船乗りの器に非ず」と言い放ち、東郷を大変激怒させたという。
東郷が殴り掛かるも長野は何度も避けるので諦め、碁で勝負することになった。
碁で敗北した東郷は「好きにしろ」と言い放って部屋に閉じ籠ってしまった。
1938年に機関科の処遇格差は改正されたが、この出来事が海軍機関科問題を解決に導くきっかけになったかは真偽の程は不明である。
ドゥーリトル空襲(北西太平洋海戦)での活躍。
当時、連合艦隊司令部附だった長野は米機動艦隊が空母に陸軍爆撃機を乗せてやって来ると進言するも誰も取り合わなかった。
山本五十六連合艦隊司令長官に直談判し、もし米機動部隊が来なかったなら腹を切る所存と一歩も引かず出撃許可をもぎ取る。
詳細はドゥーリトル空襲(北西太平洋海戦)参照。
敵機動部隊発見の報を受けた連合艦隊司令部は騒然としたという記録が残っている。
自ら艦載機に乗り、特設監視艇「第二十三日東丸」が敵発見の無線発信とほぼ同時刻に敵艦隊を発見し位置情報を送り続けた。
F4Fワイルドキャット戦闘機数機(アメリカ軍記録では8機)に追い掛け回されながらも一機撃墜している。
ミッドウェー海戦における長野の活躍。
ミッドウェー海戦に猛反対していた長野は第四艦隊に異動となる。
その後、海戦が始まると第六水雷戦隊の臨時司令としてミッドウェー海戦に参戦している。
この時、第四艦隊に任命の電文が送られているが本国からは誰もその様なものは送っていないとなり物議を呼んだ。
ミッドウェーまでの航行途中で潜水艦を一隻撃沈している。
その際に乗艦していた夕張の碇を潜水艦に絡ませて釣り上げたという説があるが、記録では天龍の砲撃となっている。
駆逐艦の爆雷が至近弾となり浮上してきた潜水艦に天龍の砲撃が命中したと考えるのが自然である。
一部、夕張が撃沈したという証言も残っているものの、当時夕張には爆雷は装備されていない。
後に長野が指揮して数々の潜水艦を撃沈したことから生まれた戦場神話である可能性が高い。
海域に到着したころ空母赤城と蒼龍は被弾炎上し退艦命令が出ており、沈みゆく蒼龍と共にしようとした艦長、柳本柳作。
部下が説得を試みるも頑なに拒み燃え盛る艦橋に飛び込んでいった。数分後に長野が現れ、柳本を追うように艦橋に飛び込んでいった。
その後、柳本を担いで長野が出てきたという。長野とは海兵学校同期(海軍兵学校第44期)にあたる。
飛龍で第二航空戦隊司令山口多聞を説得し撤退する方針を纏めた。
撤退を巡り激しく殴り合ったとされる説もあるが、記録では指揮困難な程の体調不良に陥り撤退を承認なされたとあり、
柳本との出来事と混合した結果に生まれた後世の創作である。
名付け下手。
海軍航空本部勤務時代、長野が設計開発に携わった汎用戦闘機「雷電」の命名の折、「文鳥」や「やんばるくいな」と名付けようとして止められている。また冥王エンジンと名付けられた発動機も「八兵衛」や「十兵衛」と名付けようとして止められている。
この時、当時の部下の手記には大層不満そうであったと残っている。
艦政本部勤務時代にも仮称第119号艦のちの夕雲型駆逐艦4番艦 長波 と仮称348号艦 妙風 において平波と名付けようとし、書類をすり替えて艦政本部部長に怒られているというエピソードを持っている。
一部、波平と付けようとした説もあるがこれは当時、右から左に読むものを現代の左から読んだものが転じたものであり、国民的アニメの影響もあって広がったもの。
長野造船で作られたタンカーは平波丸である事からしても波平と名付けようとした説は根拠に乏しい。
そこまで平波と名付けようとしていた理由は現在も謎のままである。
この他にも陸奥爆破未遂事件(※リンク)をはじめ逸話には事欠かない人物であることは確かである。
感想にちらほらありましたから、ちょっとだけお応えして。