「 ―― リナベイト」
その声に導かれて、急激に意識が戻ってきた。
目の前にいるのは闇の魔術に対する防衛術のクィレル先生。
そして、私がいるのはどうやら隠し扉の向こう、賢者の石が隠されたみぞの鏡がある部屋みたいだった。
……なんだろうこの夢小説的な展開は。
「目が覚めたな」
「はい、おかげさまで」
「寝ぼけてるのか? それとも私を馬鹿にしてるのか!?」
「寝ぼけてはいません。先生を馬鹿にするなんて、そんな恐ろしいこともしていません」
どうやら身体は縛られていて、上半身を起こすくらいのことはできそうだけれど、自力で立ち上がるのは無理みたいだった。
とりあえず身体を起こしてみて、腕をうしろに拘束しているロープと、足をひとまとめにしているロープの2本を確認した。
「Ms.スネイプ、君はずっとそうだった。私を見てたいていの生徒は気味悪がったり、馬鹿にしたりしていたのに。君はいつも私を警戒していた。まるで、この頭のうしろにあるものがなにかを知っているかのように」
……そうだったんだ。
言われるまで気付かなかったけど、私はどうやらクィレル先生にとってそうとう目立つ生徒だったらしい。
いや、実は前世の頃から私はポーカーとかぜんぜんダメなタイプだったんだけど。
「あの、出口で友達が待ってたはずなんですけど」
「ああ、いたね。でも、君が30分も前に試験を終えて出て行ったと教えてあげたら、素直に帰って行ったよ。今頃は大広間で夕食を食べているんじゃないかな」
「そうですか、ありがとうございます」
できればそうであってくれることを願おう。
下手に騒がれでもしたら、そのあと教授がどんな行動に出るか判らないし。
「聞きたいことはそれだけか?」
「ではもうひとつだけ。私、どうしてこんなところにいるんですか?」
「私が連れてきたからだが?」
「いや、そうじゃなくて。……ここって、行き止まりの部屋ですよね。ここまできてしまえば、父に対して人質とか必要ないと思うんですけど」
「……君は、賢いのか馬鹿なのか」
あ、教授と同じこと言われたし。
でも、ここまでくる過程で例えば、扉の仕掛けを教えなければ殺すぞ、みたいに脅すための人質なら判るけど。
私だけ単独で連れてきてもあんまり意味はないんじゃないかと思うんだけど?
「君は餌だよ。セブルスをおびき寄せるための」
「……それは困りました」
「なぜだね?」
「下手したら父が死ぬじゃないですか。私、この年で天涯孤独になるのはいやです」
「もちろん死なずにすむ方法もある。セブルスが私の側につくと誓えばいい」
「そっちの方がもっと嫌です。教授にはぜひ長生きしてもらいたいんですから」
「闇の帝王に従えば長生きくらいできるさ。賢者の石が手に入ればなおさらね」
「……たぶん手に入れるのは無理だと思いますけど」
クィレル先生はおもむろに私の足のロープを解いて、私を立たせてくれた。
視線の先にみぞの鏡がある。
「君を起こしたのはある仕事をしてもらうためだ。……鏡の前へ行きなさい」
あれか、私を使って鏡の中から石を取り出すってヤツ。
あれって確か、石を使いたい人では取り出せないんだったよね?
私は鏡の前まで歩いていって、目の前の光景を見た。
鏡の中には喉元に怪我をした教授と、賢者の石らしきものを手にした自分の姿。
私が石をかざすと教授の怪我がみるみるふさがっていく。
私が自然に笑顔を浮かべたのを見て、クィレルが私に訊ねた。
「なにが見えたか言え!」
「死にかけていた教授の傷が癒えました。私が石を使って、教授の傷を治したんです」
「それで! 石はどこにある!」
「もちろん、鏡の中の私が握りしめています」
クィレル先生、完全に人選を間違えたよ。
私みたいな欲にまみれた人間が、純粋な気持ちで賢者の石を取り出すなんて無理に決まってるじゃん!
クィレル先生は舌打ちして、再び私の両足をロープで縛りあげたから。
私はまたその場に倒れ込んでしまった。
鏡の中の教授は穏やかな表情で私を抱きしめていて、私は目に涙を浮かべながら、でも笑顔で教授の胸に寄り添っていた。
人の心の望みを映す、とても罪深い魔法のかかったみぞの鏡は。
それから先もずっと、私の望む光景を映し続けた。
いつも穏やかな表情をした教授と、笑顔でそばに寄り添っている私。
季節は巡り、私はさらさらした黒髪の美女に成長して、教授のために料理を作り、ソファでくつろぐ教授の肩を揉む。
木陰で一緒に本を読んで、かと思えば鍋を囲んで難しい魔法薬に挑戦して。
寄り添って、笑みをかわして、キスをして ――
―― いやそれはさすがにまずいだろうと思った瞬間鏡から視線を外して我に返る。
ちょっと待て、いや、私は確かに教授がお相手の夢小説を読んでニマニマしてた過去がある中年女だけどさ。
今はちゃんとした教授の娘なんだから、そんな未来を望むのはかなり間違ってるだろ!!
……なんか、ミューゼちゃんごめんなさい。
まるでミューゼちゃんのお父さんと不倫した気分だよ。
いや、前世でも不倫とかしたことはないんだけどさ。
でもなんか、そのくらいの背徳感でいっぱいいっぱいになってます自分。
気を取り直して周囲を見れば、さほど時間が経ってた訳ではないのか、クィレル先生が鏡の前でああだこうだと思案している姿が目に入った。
「鏡を壊せば……いや、それでは石を取り出せないかもしれない。壊すのは最後の手段にしなければ ―― 」
いったいなにをもたもたしてるんだろう。
取り出し方が判らないなら、鏡を持ってさっさとトンズラすればいいのに。
……って、私はこの鏡が鍵だって知ってるけど、クィレルからすれば本当に鏡の中に石があるのかどうかは判らないのか。
鏡は囮で、実は本物の賢者の石が部屋のどこかに埋まってるとか、そういう可能性もある訳だから。
クィレルは鏡を覗き込んだり、周囲のあらゆる場所にときどき杖を振ったりして、必死で賢者の石を探しているようだった。
そうこうしているうちにクィレルが思ってた以上の時間が経ってたんだろう。
ふと、どこかで扉が開くような音がして、ほどなくしてハリー少年が姿を現したんだ。
「まさか、クィレル先生が。僕、スネイプだとばかり」
そのあと、鏡の傍に転がった私の姿も目に入ったらしい。
「ミューゼ! どうして君が……!」
「……私としてはくる予定じゃなかったんだけど」
「セブルスがあちこち飛び回って邪魔をしてくれたのでね。見せしめにさらってやったんだよ」
オイオイさっきの話とぜんぜん違うじゃないですか。
ハリーが時間稼ぎなのだろう、クィレルにいろいろ質問をし始めたから、私は芋虫みたいに少しずつ動きながらハリーが入ってきたあたりを目指していった。
いちばん困るのは、クィレルがハリーに倒される前に、教授がこの部屋にきてしまうことだ。
きっと教授はクィレルからハリーを守ろうとして、悪くすれば大怪我、最悪なら命を落としてしまうことにもなりかねないから。
だからせめて教授が部屋に入ってきたとき、いちばん最初に目に入るのが私であるように。
縛られた私が目の前にいたら、きっと私を放ってまでハリーの前に立ちはだかったりはしないだろうから。
でも、本当に教授がハリーよりも私を選んでくれるのか、自信なんてものはひとかけらもないのだけれど。
「Ms.スネイプ、逃げられるとでも思ってるのか?」
「少しでもあなたの傍から離れたいんです。怖いので」
「本当に君は、賢いのか馬鹿なのか」
「……!」
「ミューゼ!」
次の瞬間、私を縛るロープが3本に増えて。
増えた1本が私の首に絡みついた。
そのままゆっくりと締めあげていく。
既に息は止まっていて、苦しさの中しだいに意識が薄れていくのが判った。
賢いか、馬鹿かって言われたらさ。
やっぱり私は、馬鹿な方だと思うよ。
そのまま気を失った私は、意識が途切れる直前、教授が自分を呼ぶ声を聞いたような気がした。
再び目が覚めた時にはすべてが終わっていて。
私は保健室のベッドの上にいて、なんか白くてふわふわしたものに顔を覗きこまれていた。
「目が覚めたようじゃの」
「あ、はい。おはようございます」
ダンブルドア校長先生でした。
生徒よりいつも一段高いところにいるのを目にしたことはあるけれど、こうして同じ場所で話をするのは初めてのことだった。
「身体の具合はどうじゃ?」
「少し、喉が痛いです。あと喉が渇いてます」
「そうか」
私が答えると、校長は杖を振って、私の目の前にゴブレットを出してくれた。
お礼を言って口をつけると、オレンジのちょっと酸っぱい果汁が喉をうるおしてくれた。
「それでの、ミューゼ。なにがあったのかを話して欲しいんじゃが」
「闇の魔術に対する防衛術の実技試験で、たぶん失神呪文だと思います、赤い光を浴びました。そのあと起こされて、鏡の前に立たされて。縛られて転がったところにハリーが来ました。そのあと、首を絞められました」
「なぜ、クィレルの名前を出さなんだね?」
「やっぱりクィレル先生だったんですか。かなり印象が違っていたので、別の人が変装しているのかと思いました」
「……生徒にとってはあまりにもショックな出来事じゃったな」
校長は慈しむような視線を向けて、私の頭をなでた。
どうやらそれだけで私の尋問は終わりらしい。
あたりは暗く夜だということは判ったけれど、私は今がいつなのか、あれからなにが起こったのか、まだなにも知らないままだった。
「もう少し眠りなさい。夜明けまでまだしばらくある」
「……父は、どうしていますか?」
「傍におるよ。のォ、セブルス」
呼びかけに答えるように、校長先生の背後から黒い影がぬーっと現われた。
視線は強くて明らかに私を怒ってる。
……確かに、この教授が傍にいたら、私が緊張して話せないだろうと校長が配慮して遠ざけたのも判るよ。
実際のところ私は慣れてるからそれほどでもないんだけど。
校長先生が去ると、教授は校長が座っていた椅子を引き寄せて私の枕元に腰掛けていた。
「教授、お怪我はありませんか?」
「馬鹿者。自分が殺されかけておいてなんだその言い草は」
「殺すつもりではなかったと思いますが」
「どちらでも同じことだ。おまえの生死は一時期あの男にゆだねられた。そんなことを我輩が許すとでも思うのかね」
えっと、さっきの話を聞いてたんだろうか、教授は。
今回に限っていえば、私に落ち度はなかったと思うんだけど。
「すみませんでした」
「理由も判らず謝るな」
「はい、すみません」
「……もういい。首を見せろ」
私が両手で髪を上げると、教授は薬瓶から液体を少し取って、私の首に塗りつけ始めた。
丁寧に前から横、うしろへと薬を塗り込んでくれる。
教授の手が触れたところからしだいに温かくなって、それまでの喉の痛みがスーッと引いていったんだ。
ふと目に入った手首に縄の形のあざがついているのを見て、もしかしたら私の首に同じものがあったのかと思って、ちょっとだけぞっとした。
だって、首に縄のあとがくっきりとか、まるで絞首刑か首吊り自殺したゴーストみたいじゃん。
首が終わると教授は手首と足首にも同じ薬を塗ってくれて、塗ったところからあざが消えていくのを見ていくぶん気持ちがほっとしたけど。
「痛みが引きました。ありがとうございました」
「ああ」
「それで、ハリーとクィレル先生は……」
「ポッターはまだ目覚めん。クィレルは……死んだ」
「……そうですか。教えてくださってありがとうございます」
「……おまえは、クィレルとなにを話した」
なにを、っていうほどの会話はしなかった気がするけど。
私はあの時の会話を思い出して、教授に話し始めた。
「私がクィレル先生を警戒してたことに気づいていたと言われました。それと、私を誘拐した理由は、教授をおびき寄せるための餌だと」
「……」
「ただ、ハリーに対しては、教授が今まで邪魔をしてきたことの見せしめに私をさらったと言っていました。ですから、どちらかが嘘なのかもしれませんし、もしかしたら両方嘘なのかもしれません」
「おまえはどちらだと思った」
「両方嘘だと思いました。……ただの印象ですけど」
「……おまえは、クィレルの背後にいたものとは話したのか?」
「いいえ」
「そうか。……もう休め」
「はい」
私が横になると、教授は布団をかけてくれて。
目を閉じたあと、静かにベッドを離れたのが判った。
教授はけっきょくなにも話してはくれなかった。
私がいないと判ったときどう思ったのか、私が鏡の部屋で見つかったとき、いったいなにをしていたのか。
あの時意識を失う直前、教授がきてくれたような気がしたんだけど。
それが本当なら嬉しいと思う反面、できれば本当じゃなければいいという気持ちも、私の中にはあったんだ。