もしもミューゼ・スネイプの人生が夢小説で言うところの“嫌われ”というジャンルに属するなら、私はアメリア先輩の取り巻きたちにいじめられて、肉体的な危害なんかも加えられていたのだろうけれど。
幸いにしてアメリア先輩は、教授に対して異様に執着している以外はかなりの常識人だったため、私は根も葉もない噂で孤立する以上の被害を受けることはなかった。
まあ、ふつうに考えて、教授を好きなことと教授の娘をいじめることって、ちょくせつ因果関係で結ばれてるようなことじゃないからね。
(だいたい私をいじめたのが自分だと知れたら教授に嫌われる確率の方が高い訳だから、むしろ仲良くなって懐柔する方に回るのが正解だと思う)
つまり、私に対する彼女の態度と発言は単なる腹いせというかその場限りの思いつきのようなもので、もともとなにか緻密な計画があってされたという訳ではなかったのだろう。
彼女を6年近くも見守ってきた教授ははっきり『悪い生徒ではない』と言ってたし、ミリーやテイジー、それにアスリンも彼女のことが好きで懐いてるのはよく判る。
私自身、ちょくせつ話をしたことはないけれど、大人の目線で見れば“ちょっと無理をしてるかもな”と思うくらいで、どちらかといえばかわいい女の子といった印象だ。
もしも教授が少しでも彼女を1人の女性として好ましく思ってるなら、自分の母親として迎えるのに反対する要素はなにもないと思えるのだけれど。
(私がおもしろくないと思ってるのは確かなんだよね)
老後の計画とかひとまず置いといたとしても、どうやら私は教授が再婚することに諸手を挙げて賛成するなんてことは気持ち的にできないらしいです。
イースター休暇ではいつも、教授は試験の準備などで忙しいらしく自宅に戻ることはなかったのだけれど。
相変わらず私は学校から追い出されて家で過ごすことになって、ようやく監禁生活ともおさらばかとほっとしていたら、帰宅した教授にレポートの山を手渡されました。
「休暇中の課題だ。見本は作ってあるから採点するように」
「……まさか全学年ですか?」
「できるところまででかまわん。4日後に引き取りにくる」
「……判りました」
期限4日で7学年分を採点とか、それだけならできないことではないかもしれないけれど、私には他の教科の宿題なんかもある訳で。
……って、やってやりましたよ、4日間で7学年分のレポートの採点を!
最後の方なんかもう、意識朦朧としてて自分がなにをやってるのか判らなくなってた自覚があったし。
もしかしたら私、この技術だけならホグワーツの先生方に引けを取らなくなってるんじゃないだろうか。
いやでも、教授は平日の1週間でこの量のレポート採点に加えて、1日6時間の授業と提出された魔法薬の採点、寮監の仕事や職員会議や夜間見回りなんかの雑務、今の時期は試験問題の作成なんかもこなしてるんだよね。
前世で会社員をやってた私に言わせれば、ホグワーツほど労働条件が劣悪な職場はないと思うよ。
ほんと、ホグワーツに労働組合があったら、ダンブルドア校長は間違いなく解任されてるんじゃないかと思う。
(教授に限っていうなら、この過酷な仕事量にある意味救われてきた部分はあるんだろうけどね)
どういういきさつで私が産まれたのかは知らないけど、きっとリリーが死んだ時の教授の気持ちのほとんどは彼女に注がれていたのだろうから。
教授が精神的にも社会的にも立ち直るためにはこの過酷さが必要だったんだろう。
教授がレポートを取りにくると言った日は疲れのためすっかり朝寝坊しちゃったんだけど、目が覚めて支度を始めた頃にやってきたメイミーが、教授が自室で私が採点したレポートを再採点してることを教えてくれた。
「ミューゼお嬢様にはお目覚めになられたら旦那様のお部屋へいらっしゃるようにおっしゃられましたのでございます」
どうやら今日1日はこちらで過ごすつもりらしい。
支度を終えると既に昼近かったのだけど、私は朝の挨拶をするために教授の部屋を訪れた。
「教授、ミューゼです」
「入りたまえ」
ドアの外から声をかけて、部屋に入ると教授は執務机でレポートの山に囲まれていた。
「おはようございます。遅くなってすみませんでした」
「ああ。……6、7年生はまだぶれるな」
「すみません。勉強不足です」
「いや、できない方がとうぜんの課題だ。おまえはよくやっている」
「恐縮です」
さすがにね、6年生以上は生徒の基礎知識量が違うし、たぶん私がまだ読めないような禁書なんかを読んでる生徒もいるみたいだし。
そういう内容が出てきたときには私もちゃんと調べられればいいんだけど、今回はそこまでの時間がなかったから、想像でてきとうに採点した分は基準にぶれがあったらしい。
教授はテーブルに私の分も紅茶を淹れてくれて、少し休憩にするみたいだった。
「宿題は進んでいるのか?」
「はい。課題の内容は休暇前の授業で渡されていましたから、空き時間におおむね済ませました」
「そうか」
「はい。なのでもしもお手伝いできることがあればなんでも言ってください」
「……」
「私では、かえって教授のお仕事を増やす結果になりかねないので、そうならなければ、ですけど」
「……」
カップを手にしていた教授の動きが止まったので、慌てて付け加えておく。
やがて教授は静かにカップを置いて答えた。
「……いや、おまえには助けられた。このレポートもだ」
「それならよかったです。私への課題が教授のご負担になってるんじゃないかって、それだけが気がかりだったので」
「……馬鹿者。おまえは我輩に学生がする必要のないことをやらされたのだ。むしろ怒ってとうぜんだ。なのになぜおまえは怒らん」
「……教授が、噂から私を守ってくださったからです。だから私は教授に感謝こそすれ、怒ることはできませんでした」
けっきょくそういうことだったんだよね。
私に変な噂がついて、時期を同じくして身体の成長なんかがあって。
放課後孤立してた私は、勘違いした一部の生徒に万が一にも性的ないたずらをされちゃったりする危険があったんだ。
噂を聞いた教授が私を監禁したのはたぶん、その危険から私を守るためだったんだ、って。
じっさいなにか起こるような可能性はわずかだったと思うけど、ほかの同じ年ごろの生徒と比べたら確率はいくらか高かった。
そんなわずかな危険でも教授は放置しないでいてくれた。
だから私は、教授がどんなに理不尽な課題を出したとしても、なんとか頑張ってこれたんだ。
「……おまえは、馬鹿なのか聡明なのか」
「どちらかと言われれば馬鹿な方だと思いますけど」
「大人の基準を当てはめれば確かに馬鹿な方だが、子供ならもっと馬鹿でもいい。おまえは子供にしては聡明すぎる」
「……褒められてませんね」
「ああ。褒めてはおらん。……今日1日でレポートの採点を終わらせる。おまえは成績を記録しろ」
「はい、よろこんで」
ちょうどメイミーの昼食が出来上がったから、私と教授は一緒に食事をして。
食後は教授が採点し終わったレポートを私が成績表に記録して、夕方までに山とあったレポートはなんとかさばくことができた。
教授は夕食までは家にいてくれるようで、その後はすぐにホグワーツに帰ってしまうということだったので、メイミーの夕食ができるまでの間私は教授の肩を揉むことにした。
「ほかの先生方が、おまえのレポートをほめていた。1年生とは思えないと」
「教授のおかげです。レポートの見本をたくさん見せていただいたので、書き方の勉強になりました」
「薬草学は苦手なのか?」
「はい。……薬草が、ということではなくて、生き物全般が苦手です。自分で手をかけてやらなければならないので」
前世では貧乏な母子家庭だった私は、とうぜん集合住宅住まいで犬も猫も飼えなかった。
それでも小中学生くらいの時にセキセイインコを飼ったことがあるんだけど、3羽飼ったうち2羽を死なせちゃったんだよね。
(ちなみに残り一羽は逃げられました)
それ以来どうも苦手意識があるというのか、たぶんもともと私自身ペットの世話というのに向いてなかったんだと思うけど。
私が子供を育てられないと思ったのも、原因の一端はこのあたりにもあったような気がする。
「そういうことか。……魔法の実技はどうだ」
「平均的にはできてると思います。もっと上をご希望でしたら努力します」
「いや。努力は必要だが、我輩が強要することではない」
「はい」
ちょっと気をまわしすぎたか。
娘の成績が悪ければ職員室での教授の立場にも影響するかと思って言ってみたけれど、教授はそんな些事に頓着する人間じゃなかったようだ。
「ならば、魔法薬学はどうだ」
「……え?」
魔法薬学、って。
私は幼い頃から教授の本棚の本を読みあさったり、調合を見せてもらったり、実際に自分で調合をさせてもらったりしてて。
たくさんの時間を費やして勉強してきたから、今ではレポートの採点までできるようになってるんだ。
私が魔法薬学をどの程度できるかなんて、教授がいちばん知ってることじゃないのか?
それなのにどうして教授は私にそれを訊いたりするんだ?
それとも教授が訊きたいのは、ホグワーツでいろいろ授業を受けてきて、私の中で魔法薬学への印象が変わったかどうか、とか?
今まで私が好きで勉強してきたように見えてたけど、ほかの授業を受けたらそちらの方が好きになったように、教授には見えた……?
「馬鹿者。なぜそこで言い淀む。我輩の言葉の裏を読んで、我輩が気に入る答えを探そうとなどするな」
「……!」
「おまえは我輩の所有物ではない。……違うか?」
教授の言葉はあたらずとも遠からずといったところで。
私が衝撃を受けたと感じたということは、少なくともこの件に関して私は教授を見くびっていたということなのだろう。
私は教授に気に入られたいし、教授に嫌われたくないし、教授が思う娘像から外れたくないと思ってる。
教授が思い描く娘じゃなくなったとき、私は教授に嫌われるかもしれないと、無意識に思ってる。
教授はそんな私の心情を見抜いていて、私にそう言ってくれた。
それはつまり、これから先私が教授が思い描くミューゼ・スネイプにならなかったとしても、変わらずに愛してくれるということだ。
その覚悟があると、教授は言ってくれた。
私は、教授にそんな覚悟があるなんて、思っていなかったのに。
「……すみませんでした」
「自分がなにについて謝っているのか自覚はあるのかね」
「はい。私は自分の父親を侮り、見下し、傷つけました。……申し訳ありませんでした」
「……」
……って、自分で訊いておいてなぜ腹を立てるかセブルス・スネイプ!
顔は見えなくても背中が緊張するからすぐに判るんだよ!
さっき言外に『遠慮するな』って言ったのは自分だろうに。
半分やけになったのか、私にはもう遠慮する気持ちはさっぱり消え去っていてその勢いのままさっきの教授の質問に答えた。
「魔法薬学についてですが。私が幼い頃に勉強を始めたきっかけは、教授の部屋にある本を理解できれば、教授と会話ができると思ったからです。その後、継続して勉強してきたのも動機は同じです。なので、私は魔法薬学という学問を、教授の存在抜きで考えることはできません」
「……」
「ただ、ここまで続けてこられたのはもちろん楽しかったからです。今後も継続して勉強していきたいと思っています。……才能があるかどうかは判りませんが」
「……」
「とりあえずこれが今の私の嘘偽りない答えです」
言い終えて、いつの間にか止まっていた肩を揉む作業を再開すると、教授はしばらくの間黙ったままで。
もしかしたら本気で距離を置かれるのかと思い始めた頃、教授はやっと口を開いた。
「才能など、努力の前には塵の一粒のようなものだ」
「そう言ってくださる教授の気持ちだけはありがたく受け取ります」
「嘘ではない。努力できるということも立派な才能だと言っている」
「……はい」
その言い方から察するに、教授自身もたぶん、自分に薬学の才能があると実感したことはないんだろうな。
なんだか意外だったけれど、そうと判れば教授の教師みたいな ―― 教師なんだけど ―― 言葉も素直に受け取れるような気がした。
「今後も放課後のレポート採点は続けられるか?」
「はい。1年生のうちは授業数も少ないので問題ないと思います」
「では月曜から木曜までの放課後は我輩の部屋へ来たまえ。学年は2年生から7年生。調合をする必要はない」
「……私には、6年生以上のレポートについて、知識不足を補う手段がありません」
「そうか。……では、参考資料を用意しておく。持ち出しは許可できないが」
「ありがとうございます。頑張ってみます」
どうやら教授自ら図書館から禁書を借りて部屋に置いてくれるらしい。
期待に胸が高鳴るのを感じられたってことは、私はやっぱり魔法薬学が好きなんだろう。
もしも教授が魔法薬学の教師じゃなかったら、きっとこんなに勉強したいとは思わなかっただろうけれど。
私にとってはやっぱり教授がいちばんで、教授の自慢の娘でありたいと思うこの気持ちは、ずっと一生変わらないんじゃないかと思う。