「 ―― ちょっと考えれば騙されてることくらいすぐに判るじゃない! ほんと、どうしてあんなに考えなしに行動できるのかしら!?」
「ある程度は仕方ないと思うよ。基本的に男の子ってバカだから」
「そうよね! 本当に男ってバカ! 私、ミューゼと意見が合って嬉しいわ」
「ふふふ……」
図書館の隅の方で声をひそめながらも激昂するハーマイオニーをなだめつつ本を読む。
私がいつも薬学の棚の近くにいるのはけっこう知れ渡ってるみたいで。
ハーマイオニーはあまり同じ寮に友達がいないのか、ときどき来てはいろいろ私に話していくんだ。
聞けばどうやら無事三頭犬遭遇イベントは終わったらしい。
もっとも、フィルチから逃げてる途中に三頭犬と出会ったことは、私にも話してはくれなかったけれど。
漏らしていいことといけないことの区別はちゃんとついているのだろう。
「人間も、さかのぼれば生き物だから、生き物のオス同士で競い合うのは本能なの。それに社会秩序とかが絡んでくるから複雑になってるけど、原点に立ち返れば争い合う動機は単純だから、私達メスはあまり首を突っ込まない方がいいと思う」
「……なんか、そういう視点での話を聞くのは初めてだわ。すごく新鮮ね。でも、女にだって闘争心はあると思うわ。だって自分を他の人よりよく見せたくてお洒落したりお化粧したりするもの」
「もちろん、メスにだって闘争心はあるよ。いいと思ったオスを得るためにメス同士で争うこともする。でもそこに原因となったオスが介入したらおかしなことになるでしょ? だからオスはオス同士、メスはメス同士で勝手に争ってるのがいちばん平和なんだよ」
今度そういう場面に遭遇したら一歩引いた視点で見てた方がいいよ、とだけ忠告して、私は再び本に視線を落とした。
……まあ、元来おせっかい体質のハーマイオニーにはしょせん無理なことなんだと思うけど。
まだ幼い彼女には、オスがメスに対して優位に立ちたいと思うプライドとか、メスの前でかっこつけたいプライドとか、そういうものまでは察することはできないだろう。
そろそろホグワーツではハロウィンパーティーの日が近づいている。
スリザリン寮で浮かれてるような子はいないけれど、他の寮の、とくにグリフィンドールの双子の先輩たちなんかは大いにはしゃぎまわるのだろう。
私は念のため通販で大量の小分けチョコレートと飴を買って(もちろん今月の小遣いの残りほとんどをつぎ込む勢いでだ)、持ち切れそうにない分は同室のみんなにも分けてあげて当日を待った。
原作ではまだ誰も死なない。
主人公三人組は多少の擦り傷くらいで済むはずだし、教授だって命に別状があるような怪我はしない。
だから介入する気はまったくないんだけど……。
やっぱり、不安に思う気持ちはあるんだ。
もしもなにかが原作と狂ってしまったらどうしよう。
たとえばハリーがトロールに殴られて大けがをするとか、教授の足が三頭犬に噛みちぎられるとか。
私がいるせいで原作とは少し違った歴史を辿っているこのパラレルワールドが、主要の登場人物たちに修復不可能な運命を与えてしまうんじゃないか、って。
漠然とした不安を抱えたままハロウィン当日を迎えてしまった。
朝からさっそくいじわるそうな顔をして現われた双子にチョコレートと飴を手渡し、そのあともちらほらと声をかけてくる、たぶん教授の娘に公然といたずらできる日を逃したくない人たちに笑顔でお菓子を渡し続けて。
残るだろうと思っていたお菓子は、意外なことに足りなくなるかもしれないくらいに持っていかれてしまったので、途中からは私も相手に“トリック・オア・トリート”を言ってお菓子を補充する。
ほんとに足りなくなったらこれをリサイクルさせてもらうことにしよう。
「ミューゼったらすごい人気者ね」
「この日ばかりは父である薬学教授の人気のなさを恨むよ」
「それだけじゃないでしょう? ぜったいミューゼのお菓子が欲しくて声をかけてる人の方が多いわ」
「ないって。それよりもしもお菓子が足りなくなったら、悪いんだけど貸しておいて。あとで埋め合わせはするから」
「いいわよ。もともとミューゼがくれたお菓子なんだから気にしないで」
他の3人だってけっこうな人数に声をかけられてる。
明らかに私にいたずらできなかった腹いせだって判る人もいたけれど、やっぱりそれぞれに個性的でかわいいから、彼女たちの誰かが目当てで私はついで、って人も中にはいたのだろう。
あたりに漂う甘い匂いにはさすがに辟易してきていたので、放課後は図書館へも薬学教室へも行かず、他の3人と一緒に寮の部屋で宿題と向き合って。
ディナーの時刻が近づいて、私たちは少し早めに大広間へと行った。
トロールの騒ぎがいつ起きるのか判らないけど、そのあとは食べる間もなく寮に直行だからね。
(まあ、たぶん寮の談話室でご馳走の続きは食べられるだろうけど)
ある程度は腹に入れておきたいから、私は“まだ早すぎるんじゃない?”といぶかる3人をせかしてハロウィン仕様の大広間のテーブルに席を取った。
さすがにまだ早すぎたけれど、あちこち置かれたり空中を漂ってたりするジャック・オ・ランタンの灯りと飛び回る蝙蝠たちが織りなす幻想的な光景は、私たちを飽きさせることはなかった。
続々と生徒たちが集まり、やがてパーティーが始まると、私はいつもよりも速いペースで食事をかき込んだ。
得体の知れない不安はずっと抱えたままだ。
知らず知らずのうちに視線は教員席へと向いて、黙々と食べ続ける教授と、その隣にある空席を視界に入れながら、私はその時が来るのを待ち続けた。
やがて、大広間に現われたクィレル先生が、ダンブルドア校長に向かってなにかを呟いてばたっと倒れた。
声が聞こえたのだろう近くの席の生徒たちから悲鳴が上がり、一気にパニックが伝染していく。
その騒ぎを校長先生が一瞬で納めて、私たちは監督生に連れられて寮に戻ることになった。
見ればすでに教授は大広間から消えていた。
教授はこれから三頭犬に足を噛まれてしまう。
物語としては教授が噛まれるのは必要な出来事なんだと思う。
だからこそハリー達は教授を疑って、最後まで犯人を取り違えたままではあったけれど、徐々に真相へと近づいていくんだ。
その流れを私は邪魔する訳にはいかない。
だいたい私が行ったところで教授を助けられるとは限らない。
もしかしたら、私が現われたことで気を散らしたり、私を守ろうとしたりして、教授の怪我がより深くなってしまう可能性だってあるんだ。
「ミューゼ、大丈夫?」
「なんか意外ね。ミューゼがここまでおびえるなんて」
「ミューゼ、しっかりして。大丈夫、トロールがここまで来ることはないわ」
「クィレル先生がトロールを見たのは地下だって話だけどね。もしかしたらここも ―― 」
「「テイジー!!」」
よけいなことを言ったテイジーをミリーとアスリンが制して。
そのあと代わる代わる私を慰めてくれる3人に、私は力ない笑みを返すことしかできなかった。
その夜はなかなか寝付けないまま明けて。
翌日の金曜日、朝食の席にはちゃんとふだんと変わらない教授がいて、私はその場で大きく安堵のため息をついてしまった。
もちろんその日の魔法薬学の授業も通常通りに行われた。
教授は教室に入ってくる時もとくに足をかばう様子はなく、教卓からときどき黒板に移動するときもいつものままだった。
ただ、静まり返る教室に響く教授の、左右の足音の違いに、私は気付いてしまったんだ。
たぶん私ほど教授に注目していなければ気付かなかっただろうほどの、ごく小さな違いだった。
(やっぱり、怪我をしてる。でも痛みがあるようには見えない)
まさかと思いつつはっと気づいた。
たぶん教授、足の痛覚を麻痺させて、怪我を誰にも悟らせないようにしてるんだ。
その方法がいろいろあることも私は知ってる。
麻酔薬なんかもあるし、魔術の中にも身体の一部だけ石化させるような呪文があった。
でも、どんな方法であれ、元の傷を治さず痛みだけ麻痺させれば状態が悪化してしまうのは必至だ。
授業が終わると、私は真っ先に教授のもとへと駆け寄った。
「教授、いくつか質問をしたいんですが」
「……我輩は今忙しい。あとにしたまえ」
「……判りました。今日は1日ですので夕食後に伺います」
近づいてみて初めて判ったけれど、教授の額にはうっすらと汗がにじんでいた。
魔法薬なのか魔術なのか、いずれにしても2時間続けての授業時間内が効果の限界だったんだろう。
大広間で私が昼食を食べている間に教授がくることはなく。
そのあと、部屋で宿題や小遣い帳を片付けて早めに夕食へ行ったけれど、やはり教授に遭遇することはなかった。
昨日から私の様子がおかしいのはとうぜんルームメイトの3人は気付いていて、朝いくらか浮上したものの薬学の授業でさらに深刻化したのが判ったのだろう。
私が夕食がテーブルに並ぶ時刻よりもかなり早く大広間へ行くと言った時も、一口二口食べてすぐに教授のところへ行くと言った時も、黙って私のしたいようにさせてくれた。
「教授! ミューゼ・スネイプです。質問に来ました」
「……ああ」
「入ります!」
ドアを開けると、教授はいつもとは違って、三人掛けソファの方に腰かけていた。
もしかしたら直前まで足の治療をしてたのかもしれない。
入ってきた私を少し驚いたように見上げたけれど、それは私が深刻な顔で飛び込んできたのが理由のようだった。
「どうした」
「あの、……見せてくれとも、詳しい話を聞かせて欲しいとも言いません。ただ、言える範囲で教えてください。……足を、どうされたんですか?」
「……」
私のその言い方で、教授は私が言わんとしていることを察してくれたらしかった。
私は教授の足の怪我に気づいていて、教授がそれを誰にも言っていないこと、誰にも知られたくないこと、気付かれないために痛みを消していることも判っているのだと。
「……獣に噛まれた」
「 ―― !」
その瞬間、私の目から一気に涙があふれて、滝のように頬を流れ落ちた。
自分でも驚いたけどかまわなかった。
私の中にある感情、幼いミューゼも、45歳までの前世の私も、今まで7年余り教授と過ごしてきた私も。
すべての私の感情が同じことを思っていたんだ。
―― 教授を失いたくない。
―― 父親を亡くしたくない。
―― 独りになりたくない。
喉が詰まって、しゃくりあげていて、声にならなかった。
三頭犬に噛まれて、教授はもしかしたら命さえ落としていたかもしれないのだ。
その可能性もあった過去の出来事に対して、私の中にあるすべての私は今初めて恐怖を覚えていた。
「教……授……っ! ……いや、だ……!」
とつぜんガタガタ震えながら泣きだした私に、教授は心底驚いたのだろう。
もう視界はまったく利かなかったのだけど、教授が立ち上がろうとしたのが判って、私は教授の腰辺りにしがみついて制した。
2人一緒にソファに倒れ込んでしまう。
私はそのまま教授にしがみついて、ただただ泣き続けていた。
「 ―― 慌てるな。死ぬような怪我ではない。おまえがそんなに心配するほどのことはない」
私はしゃくりあげながら断片的な言葉をいくつも並べたてて。
教授はそれにいちいち答えながら、私を安心させてくれようとしたのだろう。
でも、私は教授の言葉とぬくもりを持ってしても、今はただひたすら恐怖の方が勝っていたようで。
やがて泣き疲れて眠ってしまうまで、私はずっと教授にしがみついて、胸に顔をうずめていたんだ。