結局、文集はそれなりに売れて、残り五冊というところで文化祭は終わりになった。「まずまずね」とは泉の弁だ。
部活も平和になり、だらだらと本を読んでいても泉もうるさくいわなかった。とはいえ、部活があるのも期末試験の期間までで、あと一週間ほどだ。
また文集の作品が仕上がったことで、俺は新人賞のほうに本格的に取りかかっていた。まずはアイデアからプロットを練り始めたものの、まだまだ形にはならず前途多難だった。
次の金曜日はいつものように図書館へ行った。数日前に梅雨入りしていて、天気はあいにくの雨。しかし再会の期待で俺の心は軽かった。
約束はしていなかったが、幸運なことに花丸とは無事に落ちあうことができた。
棚を眺める彼女の制服は夏服にかわっていた。襟を飾るのはリボンからスカーフになり、冬服よりも一般のセーラー服に近い。
へえ、浦の星の夏服はノースリーブなんだ。ちょっと目に毒だよな……。
柔らかそうな白い腕がまぶしかった。
ちなみに俺のほうもしばらく前から半袖の開襟シャツだ。
気づかれる前に声をかける。
「こんにちは、花丸さん」
「あ、遼さん。こんにちは」
遼さん……。花丸に名前で呼んでもらって、俺は感動に震えた。
「……あの、遼さん?」
はっと我に返る。
「あ、ごめん」
花丸はくすっと笑った。
「あの、文集、読ませてもらいました。よかったら、感想をお伝えしたいんですけど」
き、来た。花丸がどんな評価を下すのだろうか……。気になる。
「それじゃ、帰り、喫茶店にでも行こうか」
「はい」
俺たちはそれぞれ借りる本を選び、いつもより少し早めに図書館を出た。傘を並べて通りを歩いていく。
同じ傘に入れれば、いいんだけど……。
どこか別の店にしようかと思うものの、心当たりはなく――結局、以前と同じ店に入った。
注文をすませてから、花丸に気になっていたことを話す。
「あの、花丸さん」
「はい?」
「名前で呼ぶことにしたし……よかったら、ですます、じゃなくてもいいけど」
人のことはいえないがすこし他人行儀な気もしなくもなかった。
「あ、そうですよね。……あれ? えっと、そうだよね。かな?」
花丸は、はあっとため息をついた。
「難しいずら。オラ、じゃなくて、マルもそのほうがいいのかなって思うんですけど。ほら、マル、ちょっと言葉遣いが変だから……」
目を落として恥ずかしそうにする。
そこも含めて可愛いんだと思うけど……。それに俺に対しても結構、オラとかずらとか、いってる気がするぞ。本人は気がついてないのかな。
「気をつけようって思うと、どうしてもこういう感じになってしまって……」
なるほど。
「でも、そうですよね。せっかく、遼さんがそういってくれたから」
花丸はぐっと右手を握る。
「それじゃ、えっと、この前の文集の話、なのだが。……あれ? 文集の話をしたいずら……じゃなくて……」
俺は吹き出しそうになるのをこらえる。
「文集の話したいんですずら。でもなくて、あわわ……」
花丸は目を白黒させた。
俺は助け舟を出す。
「友達に話すときと同じでいいよ」
「それだとなまっていて恥ずかしいずら……。あっ、また」
「俺は、気にしないけど……。それじゃ、いままで通りで」
花丸に笑いかける。
「それが嬉しい、です」彼女もほっとしたように微笑んだ。「それで、この前の文集の話ですけど――」
花丸が話しかけたところで店員が注文を持ってきた。
「先に、食べようか」
「はい、そうですね」
花丸は抹茶ミルクとコーヒーゼリーの盛りあわせ――白玉やあんこが添えられ和風になっている――俺はコーヒーとショートケーキだ。
「いただきます」
花丸は両手をあわせる。
花丸は上品にひとくちずつ丁寧に食べていた。
うん、こういうところにも育ちのよさが出てるな。
スイーツを食べているあいだ、花丸はときどき手を止めてスクールアイドル部のようすを楽しそうに話してくれた。
「ルビィちゃん、さすがなんです。振り付けにも、しっかりついていって。リズム感もいいし」
「へえ」
「それにくらべたら、マルは体力も動きも、まだまだだなぁ」
「これからトレーニング、していけばいいんじゃないかな」
「うん、マルもがんばります」
途中、フォークを置いて花丸が聞く。
「遼さんは、パソコン、持ってますか?」
「うん、うちにあるけど」
高校に入るときに兄のおさがりで専用のパソコンをもらった。原稿書きに使っている。
専用でなくても、たいてい一家に一台くらいはあるんじゃないかな。あ、でも、スマートフォンですべてすます、というのも最近はあるかもしれないけど。
「インターネット、というやつにも、つながってますか?」
「そうだね」
いまどきつながっていないほうが、めずらしいと思う。
「はーっ、うらやましいずら!」
花丸は
ん、花丸の自宅にはパソコンがないのかな。
俺の疑問に満ちた視線に気づいたのか花丸は続けた。
「マル、スクールアイドル部に入って、初めてパソコンをさわったんです」
「え、でも、中学の授業でやらなかった?」
「そのときは、同じ班の、パソコンが得意な子が、ぜんぶやっちゃったから……」
ああ、ありがちだ。
「それで、マル、感動したずら! インターネットは知識の海で、パソコンはそこに
花丸は右手をぐっと握りしめ、上を向いて宣言した。
うーん、詩的だ。しかし、よほど嬉しかったみたいだな……。
「それじゃ、家の人に買ってもらったら?」
「そんな高いもの、ダメだって、じっちゃが……」
一転してしょんぼりする花丸。かわいい。ただ、そんなに高いかな。
「いまならたぶん、数万円で買えるんじゃないかな」
「えっ、そうなんですか。マル、今度また説得してみます!」
「うん、それがいいよ」
花丸、あの本の量は、知識欲のあらわれなのか。パソコン、買ってもらえるといいな。
・
それから花丸はきれいに食べ終えると、ふたたび手をあわせた。
「ごちそうさまでした」
店員が空になった皿を下げていった。
「それで、この前の文集の話ですけど」
花丸はテーブルを軽くふき、鞄から文集を取り出して置いた。俺は居住まいを正した。
「どうだった?」
彼女は笑みをたたえる。
「遼さんのお話、面白かったです。もしかしたらこんなこともあるかも、って感じで、わくわくしました」
ふう、まずまず好評価のようだ。よかった。
「それに、マルが勧めた本、ちゃんと読んでくれたんですね」
「うん、結構、参考にさせてもらった」
花丸はうなずいた。
「しっかり吸収して、書いてたと思います。ただ……」
そういって、ためらうそぶりを見せる。
「なんでもいってくれたほうが、嬉しいな。正直、まだまだだって、思ってるし」
「そうですか。それじゃあ……」
花丸は思い出すように上を向きながら、言葉を選んで話し始めた。
「あの、登場人物が、無個性かなぁ。状況に流されてて、もうすこし、自分自身で動いてほしいずら」
ふむ。
「それと、人物の外見が、よくわからなかったずら。状況の説明も、もっとほしいかなぁ。どんな場所で、誰が、どんなふうに、イメージできるといいと思うずら」
たしかに。俺の頭の中にはあるのだが、それを説明する努力を放棄していたかも。
「雰囲気は悪くないずら。途中、女の子の話の理由がわかるところとかも、驚きがあったし。でも……」
そんな調子で花丸はしばらく続けた。
「はっ、マルったら長々と。ごめんなさい」
花丸は顔を赤らめて下を向いた。
「いや、ありがとう。すごく、参考になったよ」
俺の言葉に花丸は顔を上げる。
「じっくり読んでくれて、嬉しいな」
「それなら、よかったかなぁ」
花丸は照れくさそうに微笑んだ。
彼女は文集をぱらぱらとめくる。
「ほかの部員さんの作品も読みました。泉さんのお話、どきどきしたし、北村さんの詩も素敵でした」
俺はうなずく。
「どの作品もみんな、生き生きしてて……。マル、すこしあこがれたずら」
部員たちにそう伝えれば、きっと喜ぶだろう。
俺は素直な気持ちを口にする。
「花丸さんも、なにか書いてみたら?」
「マ、マルには無理だよ。いままで書いたこともないし……」
「でも、スクールアイドルよりは、よっぽど現実的だと思うけど」
「そっか……。ん、そうかもしれないずら」
彼女はくすりと笑った。
なんとなくふたりとも黙り込む。俺は
カップごしに花丸を見つめる。抹茶ミルクを飲む、緊張を解いたようすの彼女は穏やかな表情で、こちらまで心が
それは花丸の優しさのあらわれのようで、あらためて彼女を可愛いと思う。
カップを置いて考える。
花丸、さすがたくさん読んでるだけあるよな。俺のもしっかり読み込んで、いいところも悪いところも的確に挙げてくれて。きっと、思いを言葉にする才能があるんだな。
……花丸が書いた小説、読んでみたいな。
俺が見ているのに気づいたのか花丸は目を上げた。視線があうと、花丸はにこっと微笑んだ。
・
「あ、そうだ。大事なことをいい忘れていました」と花丸。
「ん、なに?」
なんだろう。まったく心当たりがないぞ。
「マル、金曜日の用事がなくなったので、毎週、沼津に出てくるのは今日が最後なんです」
「そうか、残念だなあ」
俺は思わずもらす。花丸もため息をついた。
「オラも残念ずら」
ん、それは俺に会えなくなって、ということだろうか。
「本屋さんとか図書館に、来られなくなってしまうずら」
違うらしい。落胆しかけるが次の言葉で救われる。
「あ、でも、沼津まではときどき来るつもりなんです。そのときは、遼さんにも連絡しますね」
「そうしてもらえると、嬉しいな」
花丸は笑みを浮かべてうなずいた。
「それで、遼さんの電話番号なんだけど」
「あ、そうか」
そういえば花丸の自宅の電話は教えてもらったが、こちらからは教えてなかった気がする。
俺は自分のスマートフォンを出して番号を読み上げた。花丸はそれを自分のメモ帳に書いた。
花丸は興味深そうに俺の手元を見つめる。
「それ、携帯電話ですか?」
「そうだね」厳密にはスマートフォンだけど。「携帯も、家の人に買ってもらえないの?」
「携帯電話は、現在交渉中ずら!」
たしかに年頃の女の子が携帯も持っていないと、いろいろ不安だよな。そのへんが説得材料になりそうだけど。
「買ってもらえるといいね」
「はい!」
あ、そうだ。
「この際だから、スマホを買ってもらったら?」
「スマホ? スマートフォンのことかな?」
俺はうなずく。
「携帯電話とは、どこが違うんですか?」
うーん、あらためてそう聞かれるとなかなか難しいな。
「そうだなあ、携帯電話でできるのは通話とメールくらいだけど、スマホはネットが見られたり、アプリが使えたり、かな。それと、だいたい携帯は二つ折りの形だね」
こんなとこでどうだろうか。
あ、ネットはいちおう、携帯でも見られるか。でもやっぱり画面も狭いしな。
「はぁ、となると、ルビィちゃんも善子ちゃんも、みんなスマートフォンってやつみたいだなぁ。うらやましいずら」
うんうんとうなずく。
「それなら、花丸さんもどうかな」
「うーん、マル、スマートフォンは使いこなせそうにないかなぁ」
どうだろう、知らないだけで意外に使いこなせそうな気がするぞ。それに、さっき花丸がパソコンに見せたこだわりは……。
「でも、スマホなら、パソコンと同じようにネットにつながるよ」
「ほ、ほんとずらっ!」
花丸は腰を浮かす。椅子が動いて、ガタンと音を立てた。
「あっ」
花丸はあわてて座り直した。
「失礼したずら……」
小さくなる花丸。俺は思わず、くすっと笑ってしまう。
「ふう」
彼女は一口、抹茶ミルクを飲んで少し落ち着いたようだった。
「それで、詳しく聞かせてほしいんですけど」
「詳しくもなにも、インターネットが見られる、ってことだけど。たとえば……なにか見たいもの、ある?」
「こ、弘法大師空海の情報を……」
操作する俺の手元を花丸は身を乗り出してのぞきこんだ。あの、ひらいた胸元から、中が見えそうなんですけど……。
気を散らされながらも、とりあえずウィキペディアを表示して花丸に手渡す。
「はぁ、パソコンと同じずら……未来ずら……」
花丸は目を輝かせ、両手で押しいただくようにしてしばらくスマートフォンを見つめていた。
「オラも欲しいずら」
きらきらした目を俺に向ける。すごく買ってあげたくなるけど、俺にいわれてもちょっと困る。
「うん、買ってもらったらどうかな」
「交渉してみます! あ、でも……きっと、高いんですよね」
「うーん、俺もあまり詳しくないけど、最近は安いのもあるみたいだよ」
「それなら、大丈夫かなぁ」
彼女はうなずいた。
スクロールと、リンクのタップの方法を教えると、花丸はしばらくスマートフォンに夢中になっていた。
あ、パソコンだけ買っても、ネットの回線も引かなきゃなのか。となるとやっぱりスマートフォンがよさそうだ。
花丸が無事にスマートフォンを買えたら、連絡とかもいろいろと便利になるしな。無事に買えるように祈っておこう。それに、どんな機種があるか、とか、すこし調べておくか。
俺は花丸からスマートフォンを受け取り、思い出して次に貸すラノベを一冊、渡した。
「読ませてもらいますね。楽しみです」
花丸はにこりと笑った。
今日は伝票は花丸が持っていき――「前回の約束です」とゆずらなかった――俺はごちそうになった。
バス停まで傘をさし、ふたりで歩きながら、そういえば花丸に定期的に会えなくなるのか、と寂しさがこみあげてきた。
縁がこれきり、とは思いたくないけど……。
傘をさしているので会話がしにくいのが、もどかしかった。
待合所の屋根の下に入り傘をたたむ。
「内浦に行ったら、お寺に顔を出しますね。明日は、この天気じゃ無理みたいだけど」と俺。
「はい、そうしてください。あ、でも……」
ん?
「アイドル部の練習が始まったら、毎朝の歌の練習は、どうなるかわからないかなぁ。部活の朝練に行ってるかもしれません」
うーん、そうか。
俺の落胆を感じたのか、花丸はいう。
「大丈夫、仏さまはいつも、おわしますずら」
そうかもしれないけどさ……。
「うん、わかった」
そういうしかなかった。
花丸はお辞儀をしてからバスに乗り込んでいった。俺はバスが見えなくなるまで見送った。
はあ、ほんと、花丸に携帯電話でもスマートフォンでも買ってもらわないと、前途多難だな。
・
雨はまだ降り続いていて、やはり明日は無理そうだと考えていた、その日の夜。俺のスマートフォンがめずらしく着信音を立てた。
表示された通話相手は花丸(ただしイエデン)で――俺はあわてて受話ボタンをタップした。
「はい、里見ですけど」
下の名前で名乗るのはまだ恥ずかしい。
「花丸ずら。いま、お話しして大丈夫かなぁ」
花丸の声は日中とは一変して暗かった。胸騒ぎがする。
「うん、平気だけど」
「あの、オラ、助けてほしいずら……」
花丸の言葉に、俺の胸はどきりと鳴った。