本屋に舞い降りた天使に俺は恋をした   作:Kohya S.

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6. 第三種接近遭遇

 五月中旬、うちの高校は一学期の中間試験の期間に入った。試験前の一週間ほどは部活は休みになる。

 

 金曜日、俺は図書館に向かった。花丸に勧められた本は読み終えている。

 花丸と約束をしたわけではないが、先週、彼女は来る予定だと話していた。きっと会えるだろう。俺の胸は期待に高鳴った。

 

 部活がないので下校はいつもよりも早い。あまり早く行って花丸がいなくても困るので、駅に近い、バイト先とは別の書店に立ち寄ってラノベの新刊を買った。たたでさえ重い鞄がさらに重くなったが、まあ仕方ない。

 

 そのまま駅のほうへ歩いていく。

 ちょうど下校の時間で、駅前ではさまざまな制服の高校生が歩いたり、おしゃべりしたりしているのが見えた。

 そのまま通り過ぎようとしたとき。

 

「ライブやりまーす!」

 

 女の子の元気のよい声が耳に飛び込んできた。そちらを見ると、声の主は浦の星女学院の制服姿だった。浦の星の生徒は手前のその子に加えて、遠くにもうふたりいるようだ。

 

 足を止めた俺に気づいたのか、彼女はこちらに近寄ってきた。淡い褐色の髪をショートにしている。

 

 この制服はもう見慣れたけど……。ん、リボンの色が違うってことは、花丸とは学年が違うのかな。

 

 彼女はにこりと笑ってビラを差し出す。

 

「どうぞ。今度の日曜日です。ぜひ来てくださいね」

 

 俺はうなずいて受け取った。彼女はもう一度微笑むと、次のターゲットに向かって走っていった。

 

 ビラには「ライブやります!!」と大きく書かれていた。その下には女の子三人の可愛いイラスト。右側がさきほどの子だろう。

 

 ふーん、スクールアイドル、ってやつみたいだな。浦の星にもいるんだ。花丸ならなにか知ってるよな、きっと。

 

 ビラを鞄にしまい、聞いてみようと俺は心に()めた。

 

        ・

 

 図書館についてまずは返却手続きをした。

 

 一階をざっと見てまわったが花丸はいないようだった。すこし残念に思いながら、一冊、適当な本を手に取って、入口に近い閲覧席で待つことにした。

 

 適当に選んだわりにはその本は面白かった。

 しばらく夢中になっていると、入口のカウンターのほうから聞き覚えのある声がした。花丸だ。

 俺はいそいそと立ち上がり、いったん本を戻してから、棚を眺めるふりをして花丸が来るのをさりげなく待った。

 

「あ、里見さん、こんにちは」

 

 嬉しいことに花丸から話しかけてくれた。俺は向きなおる。

 

「こんにちは、国木田さん」

 

 ささっと誰かが花丸のうしろに隠れた。

 ん、花丸はひとりじゃないのか。ちょっと残念だけど……。あれ、この子は。

 

「ルビィちゃん、大丈夫だよ。ほら、この前の、本屋さんの店員さんだよ」

 

 そういう花丸は風呂敷を背負っていた。本屋からこちらに回ってきたのだろう。

 

「で、でも……」

「すみません、ルビィちゃん、すごい人見知りで……」俺にそういってから背後に続ける。「ほら、ルビィちゃん、挨拶して」

 

 花丸のうしろからルビィが顔だけを出した。

 

「こ、こんにちは。……黒澤(くろさわ)ルビィです」

「里見遼です」

 

 俺がいうとルビィはこくっとうなずいて、また引っ込んだ。

 

 人見知りっていうことは、嫌われてるわけじゃないのかな……。

 

 花丸はにこっと笑うと、少し体を前のめりにして、俺の顔をのぞき込むように聞いた。

 

「里見さん、この前の本、どうでしたか」

「あ、ありがとうございました。面白かったです」

 

 あの、胸元が開いて、気になります、そのポーズ。

 

「そっかぁ、それはよかったずら」

 

 花丸は体を起こして顔を輝かせた。ふう。

 

 ふたりを身振りで閲覧席のほうへうながす。

 

「ルビィちゃん、ちょっとお話ししてもいいかな」と花丸。

 

 ルビィがまたうなずくのが見えた。

 

 俺、花丸、ルビィという順で席に座った。

 

「さっきもいいましたけど、一気に読みました。どれも楽しめました」

「うんうん、マルの思った通りだなぁ」

 

 どこか誇らしそうにする花丸。可愛い。

 

「『夜は短し歩けよ乙女』は、雰囲気がよくて文章も軽妙で、いい感じですね」

 

 それと、恋愛小説なんだよな。登場人物が俺と花丸に似てる気がするんだが。気のせいだよな。

 

「はい。森見(もりみ)先生は、いつもそんな感じずら」

加納(かのう)さんの本は、なにより温かい感じですよね……」

 

 そんな調子で花丸は、俺の話す感想にときにはうなずき、ときには鋭い指摘を返した。趣味のあう人との気のおけない会話。その感じは北村や泉と同じで楽しかった。

 

 ただ、あまり長くなるとルビィが退屈してしまうだろう。適当なところで切り上げた。

 

 そういえばと思い出す。

 

「これ、駅前で配ってたんですけど」

 

 鞄からビラを出してふたりに見せる。

 

「あ、マルももらったずら」

「ル、ルビィも」

 

 予想通りルビィが体を乗り出してきた。

 

「浦の星にもスクールアイドル、あったんですね」と聞く。

 

 その言葉への反応は予想外だった。

 

「ルビィ、今日、初めて知ったの」

 

 ふるふると首を振るルビィ。

 

「オラも」

 

 へえ、つい最近、できたのかな。この三人で? 俺はもう一度、ビラを見直した。……あれ?

 

「なんていう、グループなんでしょうね?」

「まだ決まってない、みたいずら」

 

 たしかにタイトルを決めるのは小説でも難しいが、それでいいのだろうか。

 花丸も苦笑しているようだった。

 

「ふたりとも、ライブには行くんですか?」

「ルビィ、行きたいな。ねえ、花丸ちゃん」

「うん、ルビィちゃんが行くなら、マルもついていくよ」

「やったぁ」

 

 花丸がうなずくとルビィは顔をほころばせた。

 

 俺はどうするかな。スクールアイドルにあまり興味はないけど、ふたりが行くなら行ってみてもいいかもしれないな。

 

 さて、花丸と話せないのは残念だが、あまりふたりの邪魔をしては悪いだろう。

 

「俺はそろそろ行きます」

 

 席を立とうとした俺に花丸がたずねる。

 

「あ、里見さん、小説は進んでますか?」

 

 やはり気になるか。喜んでいいんだろうけど、なかなかのプレッシャーだぞ。

 

「えーと、はい。文集を六月下旬の文化祭で出すので、そのときまでには」

「わかりました」

 

 花丸はにこりと笑った。

 

「それじゃ、国木田さん、また来週」

「はい」

 

 花丸は頭を下げる。最後に目があったルビィも、おずおずという感じで笑みを浮かべた。

 

 よし、来週も会えそうだぞ。俺は内心で深く喜びながら、次の本を借りるために日本文学のコーナーに向かった。

 

        ・

 

 中間試験はそれなりにできたと思う。

 俺の成績は現代文や古文、漢文はいいほう、英語はぼちぼち、理数系科目はいまひとつ――概念は理解してると思うのだが、公式やらなにやらを覚えるのが苦手だ――で、トータルで見ればだいたい真ん中あたり、だろうか。

 

 試験の全日程が終わり、俺はひさしぶりに部室に行った。

 

 誰もいなかった。窓とカーテンを開ける。今日の風はさわやかだが、あと二か月もすればエアコンのないこの部室は恐ろしく暑くなるだろう。そのときは図書室に避難だろうか。

 図書館で借りた本を広げて読み始めた。

 

 扉の開く音に顔を上げる。

 

「あら、里見君だけ?」

 

 泉だった。

 

「どうも、部長」

 

 座ったまま頭を下げる。

 

 泉はパソコンの前に腰を下ろした。パソコンを立ち上げながら聞く。

 

「執筆しなくていいの? 結構、細かく変える気なんでしょ」

「まあ、ぼちぼち進めてますよ。いまも参考になりそうな本、借りてきたんで」

 

 俺は本をかかげてみせた。

 

「ふーん、たしかにめずらしく、ラノベじゃなさそうね。感心感心」

 

 本に目を戻そうとすると、泉がパソコンを操作しながら続けた。

 

「でもね、里見君。小説、読むだけじゃなくて、ほかにもいろいろ見なさいよ。映画とか、漫画とか。表現の幅が広がるわよ」

「そんなもんですかね」

「そうよ。ま、手塚(てづか)先生の受け売りだけどね。実際、大事だと思うわ」

 

 ふーん、手塚治虫(おさむ)はそんなことをいってたのか。

 

「それに、ふだんの生活だって、考え方しだいで参考になるわよ。いろいろ経験しないとね。……さてと」

 泉はなにかアプリを立ち上げてキーボードに向き直った。

 

 思いついて俺はいう。

 

「あ、書きあがったら、読ませてくださいよね」

「まあ、仕方ないわね。批評、頼むわ」

 

 泉はこちらに向かずにうなずいた。

 

 経験か。たった一年しか違わないのに、泉の言葉は妙に重い気がした。

 

 すぐに北村がやってきた。俺たちはいつものように挨拶を交わした。

 

 椅子に座った北村にたずねる。

 

「なあ、うちの学校のスクールアイドル、文化祭でステージやるよな」

「ああ、たぶん。でも、急にどうした?」

「この前、浦の星の子から、ライブをやるってビラをもらって、うちはどうなのかなって思っただけだよ」

「ほう、俺ももらったぞ。駅前で」

 

 ふーん、かなり熱心に配ってるみたいだな。

 

 北村は続けた。

 

「花丸ちゃんに、なにか関係あるのか?」

 

 俺はあわてて泉のほうをうかがった。執筆に夢中でなにも気づいていないようだ。小声で答える。

 

「関係ないよ。同じ制服だったから、気になっただけで」

「そうか」

 

 幸い北村はそれ以上、追及しなかった。

 

 ふむ、うちの文化祭でライブがあるなら、花丸とルビィに声をかけてもいいかもしれないな。すくなくとも話のネタにはなるだろうし。

 

        ・

 

 次の金曜日、俺は早めに部室を出て、例のように図書館に向かった。

 

 花丸は――日本文学のコーナーにいた。いつものように制服姿で今日はひとりのようだ。

 

「こんにちは、国木田さん」

「あ、こんにちは」

 

 花丸はぺこりと頭を下げる。

 

「毎週、熱心ですね」

「ちょうど用事があるので、ついでずら」

 

 そういえばそうだったな。

 

 花丸は何冊か本を抱えていた。

 

「国木田さんは、もうだいたい選んだんですか?」

「はい、このくらいにしておこうかなぁ、って」

「あの、よかったら、前回の続きで、なにかお勧めありますか?」

「うーん、オラ、あまり読まないんだけどなぁ」

 

 たぶんそれは花丸基準で、世の中一般的にはすごく読んでるほうだろう。

 

 その証拠に花丸はすこし悩んだだけで話し始めた。

 

「文庫のほうになるけど、筒井(つつい)康隆(やすたか)先生の『時をかける少女』とか、どうかなぁ」

 

 あ、アニメは見たぞ。

 

 花丸は文庫のコーナーに向けて歩きながら続ける。

 

「もう古典といっていい、名作ずら。初めて読んだとき、ラベンダーの香りってどんなのだろう、ってどきどきしたなぁ」

 

 迷わずに棚のひとつに近づいて一冊を手に取る。

 

「はいっ」

 

 そういって差し出す花丸の笑顔は、本当に素敵だった。

 

「ありがとう」

 

 神妙に受け取った。

 

 花丸はさらに数冊、紹介してくれた。

 

 ふたりでカウンターに行き、貸し出し手続きをした。待ちながらちらりと壁の時計に目をやる。バスまではもうすこしありそうだ。

 

 一緒に図書館を出た。

 俺は先日、連絡先を聞けたことに勇気づけられて、一歩先に進むべく意を決する。

 

「あの、国木田さん。よかったら少し、話してから帰りませんか」

 

 彼女はびっくりしたように目を見開いた。むむ。タイミングを誤ったか。

 

 俺はしどろもどろに続ける。

 

「その、えーと、本の話とか」

 

 なんだそれは。自分でも突っ込みを入れたくなるくらい抽象的だが、これが精一杯だった。

 

 花丸はふっと表情を(やわ)らげた。

 

「はい、そうですね」

 

 よしっ。もうこれはデートといっていいだろう。にやけそうになる頬を、俺は必死に抑えた。

 

 先に立って歩き出す。

 

「あの、おごりますから」

「えへへ、ごちそうになるずら」

 

 花丸はいたずらっぽく笑った。

 

        ・

 

 さて、どこに行こうか。花丸とぽつぽつ話しながら、必死で考えた。

 

 ファミレスやファストフードは味気(あじけ)ないかな。バイト先の書店のほうにもよさそうな喫茶店はあるけど、遠すぎるし。北村とかなら場所はどこでもいいんだけど。

 

「ここでいいですか」

 

 結局、以前、一度だけ来たことのある駅近くのカフェにした。雑居ビルの一階にあり、入口には赤いオーニングがかかっている。

 

「はい」とうなずく花丸。

 

 店内は落ち着いた雰囲気だった。白い壁に木目の床、テーブル。白や薄緑の布張りの椅子が洒落(しゃれ)ていた。

 席についてふたりでメニューを眺め、それぞれ注文した。

 

 お冷を飲んでおしぼりを使い、すこし落ち着いたところで花丸が話し始めた。

 

「オラ、こういうの初めてで、びっくりしたずら」

「ん、喫茶店がですか?」

「ううん、違います」

 

 さすがにそこまで世間知らずではないらしい。

 

「男の人に誘われて、カフェに行くなくて、恋愛小説みたいだなぁって」

 

 顔をほころばせる花丸。

 

 花丸のその言葉と表情に、俺の胸はどきりと鳴った。

 たぶん花丸の言葉は単なる事実と感想で、深い意味はないのだろうが――いくらでも深読みすることができた。

 

「俺も、初めてです」

 

 小声で答えておいた。女の子を誘うのが、と面と向かっていうのはさすがに恥ずかしかった。

 

 少しのあいだ、沈黙が流れた。

 幸い店員が持ってきたドリンクとスイーツが、その沈黙を破ってくれた。花丸は抹茶ミルクとパフェのセットを、俺はコーヒーとケーキを頼んでいた。

 

「いただきます」

 

 手をあわせる花丸に俺も(なら)った。

 

 スイーツを食べながら花丸と話す。

 

「筒井先生は、最近もいろいろ書いていて、すごいと思うずら」

「SF作家ですよね。もう、大家(たいか)、といっていいような」

「はい、それでも、いろいろ新しいことに挑戦されてて、変な話をお書きになるんです……」

 

 花丸の話題は尽きなかった。こと本の話となると、縦横無尽に広がっていった。そうかと思うと女子高校生らしい話も入るのが面白かった。

 

「学園ものの制服、セーラー服が多いですよね」と俺。

「そうですね。時代背景もあるけど、記号としての制服、って面もあると思うずら」

「なるほど。そういえば浦の星も……」

「はい、制服が可愛くて、マルも気に入ってるずら。二年生になるとリボンの色が、三年生になるとリボンの形も、変わるんですよ」

 

 やがてスイーツが空になり、俺は時間の経過を意識した。やや唐突だがスクールアイドルの話を切り出す。

 

「あの、スクールアイドルの話、前回、しましたよね」

「はい。ルビィちゃん、スクールアイドルの大ファンなんです」

 

 ルビィのことになると花丸は優しそうな表情になる。

 

「うちの高校にも、グループがあって、文化祭でライブをやるそうですよ。俺、よく知らないんですけど」

「へえ、そうなんですね。文化祭は、いつですか?」

「来月の二十四日、土曜日が、一般公開日です」

「ルビィちゃんに伝えておくずら。……もしかして、里見さんの文集も?」

「はい。あの、あとでお持ちします」

「期待しているずら!」

 

 あのとき花丸は、ひとりでスクールアイドルの雑誌を読んでいたっけ。それに自宅、お寺でのあの声。張りのある、聞き()れてしまうような……。

 

「国木田さんは、スクールアイドルは、やらないんですか?」

 

 思わず俺はそう聞いていた。

 

「えっ、マルが?」

 

 花丸は驚きの表情になる。俺は続けた。

 

「国木田さん、歌、すごく上手だし、可愛いし、向いていると思うんですけど」

 

 彼女は一瞬、顔を曇らせてから、困ったような笑みを浮かべた。視線を落としてつぶやくように話す。

 

「マルは、運動神経もにぶいし、言葉遣いも変だし、こんなにちんちくりんだし……。絶対無理ずら……」

 

 そこまでいって、花丸はなにかに気づいたように顔を上げる。

 

「あ、ルビィちゃんは、すごく向いてると思うずら!」

 

 俺はあいまいにうなずいた。

 たしかにその通りだが、俺としては花丸のアイドル姿が――スクールアイドルについてよく知らないので抽象的なイメージだが――脳裏にちらついて離れなかった。

 

 俺は時間のことを思い出す。

 

「そろそろ、バスの時間ですか」

「あっ、そうですね」

 

 左手の時計に目をやり花丸は言った。

 

 俺は伝票を手に取った。

 会計をすませて店の外に出ると、先に出ていた花丸は深々と礼をした。

 

「ごちそうさまでした」

「いいえ、とんでもないです」

 

 俺も同じように深く礼を返した。

 

        ・

 

 バス停まで歩いていく途中、花丸が聞いた。

 

「そういえば、里見さんのお勧めの本、なにかありますか」

「えーと、俺が読むの、ラノベとかが中心なんだよね」

 

 なんとなくだが、恥ずかしい気がする。

 

「ラノベ……。えーと、ジュヴナイルとか、そういうやつかなぁ」

「そうですね」

「マルは、あまり読まない分野かなぁ。今度、貸してもらえると嬉しいずら」

「はい、喜んで」

 

 きっと彼女が気に入る作品もあるよな。蔵書の中からがんばって探そう。またひとつ、楽しみができたぞ。

 

「そういえば、最近はサイクリングはどうですか?」

 

 む、花丸と定期的に会えるようになって、内浦まで行ってないな。

 

「……試験期間中なので、ちょっと休んでたんです。もう終わったので、そろそろ再開しますよ」

「なるほど、ずら」

 

 こっちもがんばるか。そうだよな、あの歌声、また聞きたいし。

 

 誰もいないバス停に着いてバスを待つ。今日はバスが来るまで、一緒にいてもいい気がした。

 

 突然、花丸がくるっと俺のほうを向いた。

 

「里見さん、今日は誘ってくれてありがとう。お菓子もおいしかったし、楽しかった、です」

 

 うん、それならよかった。あらためてそういわれて心が温かくなる。

 

「俺も、すごく楽しかったです」

「いい経験になりました」

 

 彼女はうなずいた。

 

 バスが来た。彼女はもう一度、会釈をする。手すりを握りバスのステップに足をかけて、彼女はいった。

 

「あの、アイドルに向いてるっていってくれて、嬉しかったずら」

 

 にこっと微笑んだ彼女の笑顔を残して、バスの扉が閉まった。

 

 俺はバスが車列にまぎれて見えなくなるまで、そのまま見送った。

 自宅に向けて歩き出す。

 

 俺のまぶたには花丸の最後の笑顔が焼き付いていた。彼女はなにを思っていたのだろう。

 それに、経験、か。経験になったのは、むしろ俺のほうだ。それは間違いなかった。

 


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