本屋に舞い降りた天使に俺は恋をした   作:Kohya S.

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4. 出会いの方程式

 翌日、日曜日。俺は午後からバイトに入った。

 いつものようにレジに立っているだけだが――俺は筋肉痛に悩まされていた。ちょっとしたことが(つら)い。

 

 はあ、これじゃ、中浦に行くのは週に一度がやっとだな。もうすこし鍛えなくちゃ。

 

 淡い期待をこめ痛む体をおしてバイトを続けたが、残念なことに花丸は来なかった。まあ昨日の今日だ。仕方ないだろう。

 

 月曜日も放課後、部活を休んで店に出た。

 二階の売り場にひとりで立つ。今日もそれほど忙しくはなかった。

 

「ありがとうございました」

 

 レジで何人目かの客の相手を終える。

 

 お客さんも途切れたようだし……さてと、どうしようか。売り場を見ておくかな。

 

「よう、遼」

 

 そんなタイミングで、ふらりと北村が棚の向こうからあらわれた。

 あれ、こいつ、いつの間に売り場にいたんだ。

 

「なんだ、部活はいいのか?」

 

 ぶっきらぼうに相手をする。

 

「陸上部は休みにした。文芸部は部長と島崎だけだから、適当に切り上げてきた」

 

 ふーん。で、本屋に来たわけか。

 

 北村は続けた。

 

「それで、その浦の星の子は来てないのか?」

「……!」

 

 俺は危うくむせそうになる。もしかして……。

 

「わざわざ見に来たのか。北村も趣味が悪いな」

「いや、たまたまだ。たまたま本を買いたくなっただけだ」首を振る北村。「もし可能なら、ちょっとお顔を拝見したいと、そういうことだ」

 

 やはり趣味が悪いといわざるを得ない。

 

「……来てないよ。昨日も、今日も」

「そうか、残念だったな」

 

 一昨日がずいぶん遠く感じる。次に会えるのはいつになるかな……。

 

「……えーと、誰だっけ」

 

 ぼーっとしていた俺は反射的にこたえていた。

 

「花丸さん」

「花丸ちゃんか、ほう」

「ゴホッ!」

 

 今度こそ俺は思い切りむせていた。

 しまった。無警戒すぎた。

 

「いい名前じゃないか」にやりと笑う。「それじゃ、がんばれよな」

 

 そういって北村は手を振り、階段から下りていった。

 

 がんばれ、ってどういう意味だよ。って、まあ……花丸とのことだよな。いわれなくてもがんばるよ。

 

        ・

 

 そして金曜日。いよいよ明日から大型連休だ。

 月曜からあとはバイトに入っておらず、花丸にも会えていなかった。また部活では北村は花丸の話題を出すことはせず――店に来たのは本当にたまたまだったのかもしれない。それとも奴なりの気遣(きづか)いだろうか。

 

 その日、部活を終えてバイトのなかった俺は、めずらしく市内の図書館へ向かっていた。

 

 前回の新人賞での落選を受けて、ラノベばかりでなく少し別のジャンルの本でも読んでおこうかと、殊勝(しゅしょう)なことを考えたのだった。文芸部の原稿の参考になればという思いも、ないことはなかった。

 高校の図書室はそれなりに充実していたが、当然ながら高校生向けの本が多く、一般の文芸書はどうしても限られていた。

 

 それに加えて花丸の影響もあった。購入する本の傾向から見ると、彼女は日本の近代文学がお好みのようだが、海外ファンタジーや最近の一般小説なども読むようだ。ジャンルを限定せずなんでもというタイプらしい。

 

 そういえば、ラノベがないのが気になるな。もし、俺がなにか出版するとしても、彼女には読んでもらえないかもしれない……。いや、そんなことを考えるのは早いか。現実は厳しいし。

 きっと本屋の品揃えに、ラノベが乏しいせいだ。別のところで買ってるんだな。うん。

 

 ――そんな花丸が読むような本を手に取ってみるのも悪くない。そう思ったのだった。

 

 図書館まではすこし歩くが、いったん自宅に戻って自転車――ママチャリでもクロスバイクでもいいが――を取ってくるのは面倒だった。それに気候も快適だ。日没まではまだ少しあり、風も弱くて散歩には申し分なかった。

 

 明日は自転車日和かもしれないな。内浦まで行ってみようか。毎週乗っていれば、距離も、浦の星女学院の前の急坂も、楽になるかもしれないし……。

 

 あれ、と顔を上げる。いつの間にか、その浦の星の制服の女子生徒が前を歩いていた。

 茶色いセミロングの髪が歩調にあわせて揺れている。小柄な体。

 

 花丸だ。

 

 俺の心臓がどきりとはねる。

 たまたま街に出たタイミングで出会うとは、なんという偶然だろう。しかしこれはきっと、神に与えられたチャンスだ。無駄にはできない。

 

 俺はごくりと唾を飲み込むと彼女に近づいた。

 

 先週彼女に会って、自分の心境――想いとか、恋心とかいうのはこそばゆい――に気づいてから初めての出会いで、どうしても意識してしまう。

 なるべくさりげなく……。

 背中から声をかける。

 

「あれ、国木田さん?」

 

 へんにうわずってしまった。失敗だ。

 

「ずらっ?」

 

 あ、やっぱりそこは「ずらっ」なんだ、と一瞬思う。

 

 彼女は足を止め、くるりと振り向いた。それで「ずら」は、どうでもよくなった。すこしだけ疑問を浮かべた、穏やかな表情。

 

「里見さん。こんにちは」

 

 彼女はしっかりと頭を下げる。

 見とれていた俺はワンテンポ遅れて「どうも」と応じた。

 

「こんなところで会うなんて、すごい偶然ですね」と続ける。

 

 なんとか微笑もうとしたが、きっとぎこちなかったと思う。

 

「そうですね」

 

 彼女は自然な笑みを返してくれた。

 

 俺は身振りで花丸をうながして、一緒に歩き始めた。

 

「今日は、どこへ?」

「図書館です。沼津まで出たときには、ときどき、来てるんです」

「俺も図書館に行くところなんです。偶然って、あるんですね」

 

 わざとらしいが事実だから仕方がない。

 

「本当ですね」

 

 きっと俺の表情に説得力があったのだろう。彼女はうなずいた。

 

 俺たちはふたりで図書館まで歩いた。

 とくに会話はなかったが、ちっとも苦ではなかった。むしろ、あまりなれなれしくするのは得策とはいえないだろう。それに花丸も、積極的におしゃべりするタイプではないようだ。

 隣を歩けるだけで嬉しかった。

 

 そんな幸せをかみしめていると――。

 

「里見さん、今日はお休みですか? 本屋さんは、アルバイトですよね」

 

 途中、花丸がたずねた。

 

「はい、平日は、学校もあるのであまり出ないんです」

「なるほど、そうですよね」

 

 花丸はうなずいた。目を輝かせ小声で続ける。

 

「本屋さんでアルバイト……オラ、憧れるずら……」

 

 俺は苦笑する。

 

 たしかに、俺も似たようなことを考えてたけど……始めてみたら、別に本好きだからといって、特にメリットはないんだよな。読みたい本はいつでも発注できるけど、いまは通販もあるし。

 

「別に、バイト中に本が読めるわけじゃないですよ」

「ええっ、残念ずら」

 

 花丸は落胆の色を浮かべる。悲しそうな表情も、かわいかった。

 

 あ、そうだ。ひとつ利点があった。

 

「そういえば、社販(しゃはん)で、一割引きで本が買えますね」

「ああ、それは魅力的……ですね」

 

 うなずく花丸。

 

 あの量を買う彼女なら一割でも馬鹿にならないよな。代理で買ってあげようか。いや、それはたぶんダメなのだろうな。

 

「内浦に、本屋さんは……」

「内浦には、ないんです。あまり大きい町じゃないから……」

「でも、内浦からだと、沼津までバイトに通うのは、難しそうですね」

「そうですね。それに、じっちゃがアルバイトを許してくれるかどうか、わからないずら」

 

 花丸は、はあっとため息をついた。

 

 じっちゃ、か。おじいちゃん子、なのかな。それにしても……。

 

「国木田さん、本、好きなんですね」

「はい!」

 

 花丸は自信満々に答えた。

 

「俺もですよ」

 

 これに関しては俺も自信があった。

 

 いったん会話が途切れた。

 道は歩道橋に差しかかる。そろそろ図書館だが、次につながる話だけは聞いておきたい。俺は考えをめぐらせた。うーん。

 

 階段で花丸の距離がすこしだけ近づいた。さきほど花丸のほうから話しかけてくれたことに勇気づけられて口を開く。

 

「……沼津にはよく来るんですか?」

「はい、買い物とか、以前からときどき。それに、四月になって……」

 

 花丸はすこしいいよどんだ。言葉を選ぶように続ける。

 

「ちょっと用事ができたんです」

「なるほど」

 

 ふむ、やはりよく沼津市街に来ているみたいだぞ。それならこの先の出会いにも期待できるかも。

 

 すこし見通しが明るくなった。

 

 用事というと、習い事とか、塾とかなのかな……。そういえば、前回会ったのも金曜日だった。とすると、毎週金曜日、かな?

 

 歩道橋で大きな交差点を渡ると、すぐ先が図書館だ。茶色い大きな建物で、ファサードの最上部の半円形の屋根が、まるで笑い顔のように見えるのがユーモラスだった。

 

「それでは、また」

 

 入口を通ったところで、花丸は両手をそろえて俺に挨拶した。

 

 ああ、やっぱり一緒に図書館を見て回る、というわけには行かないか……。花丸からしてみれば顔見知りに偶然、街中で会っただけだから、当然といえば当然だよな。

 

「はい、国木田さん」

 

 落胆を隠しながらこたえる。彼女はにこりと微笑んだ。

 

 書架の並んでいるほうへ歩いていく彼女の足取りは軽かった。

 

        ・

 

 翌日からの大型連休前半は、自転車で内浦に行くのは()めておいた。そんなに連続で会うのはさすがにわざとらしいだろう。いくら素直な――だと思う――花丸といっても、なにか気づくかもしれない。

 

 俺の連休の主要な行事は、バイトだった。大型連休ともなるとシフトが組みづらくなり、予定のない俺のような高校生は重宝されるらしかった。

 彼女でもいれば有意義な休みを過ごせたのだろう。残念だ。

 

 あとは図書館から借りてきた本を読んだり、執筆――というと偉そうだが、次の新人賞と文集に向けたものだ――をしたりと気ままに過ごした。いちおう、高校生らしくすこしの勉強も。

 

 翌週の月曜日。大型連休のはざまの、二日しかない平日の一日目で、城斉高校の生徒たちもどことなくざわついているようだった。

 

 放課後に部室へ行くと、先に来ていた北村がスマートフォンから顔を上げた。

 

「よう、元気か?」

「まあね」

 

 そうこたえながら、ちょうどノートパソコンの前にある椅子に座る。

 

 さて、仕方ない、続きを書くか。

 文集用の短編はプロットができあがり、連休中にすこしだけ自宅で本文を書き始めていた。USBメモリを鞄に入れてきたはずだ。

 

 ふたりの出会いは、まああんなものでいいかな。その後の展開は、もうすこし工夫したほうが、いいかもしれない……。

 

 鞄をごそごそしていると北村が口を開いた。

 

「なあ、遼」

「ん、なんだ」

 

 なんとなくだが嫌な予感がする。

 

「花丸ちゃん、かわいいな」

 

 見つかったUSBメモリを取り落としそうになる。

 

 どうしてこいつが花丸のことを知ってるんだ。

 

 俺はなにもいえず北村を見つめる。北村はにやりと笑った。

 

「金曜日、図書館に行っただろ」

「ああ」

 

 そうか、あのとき見られてたのか……。

 

「中央公園の前あたりで、ふたりで歩いてたな。うん、優しそうな子じゃないか」

 

 たしかに花丸はかわいくて、優しげな微笑みが魅力だけど……いや、いま問題なのはそこじゃない。

 そんなにじっくり観察するような距離とは。なんで俺のほうは気づかなかったんだろう。

 

「……どうして声をかけてくれなかったんだ」

「声をかけてほしかったか?」

 

 俺は押し黙る。いや、それは願い下げだ。

 

「まあ、そういうことだ」

 

 得意そうにうなずく北村がなぜか憎らしくなる。

 

「……彼女が花丸さんとは限らないだろ」

「お前に浦の星の女子と会う機会が、そうそうあるとは思えんな」

 

 ぐうの音も出なかった。

 また黙り込んだ俺に北村はますます得意そうな顔をした。

 

「まあ、お似合いっぽくてよかったよ。もっとこう、部長みたいな……」

 

 ガラガラと音を立てて部室の扉が開いた。泉だった。

 

「私がどうかしたの? 北村君」

「いえ、その……」

 

 北村がへんなことをいう前に口をはさむ。

 

「部長のように、しっかり原稿を書け、って叱られてたんです」

「そうね、里見君。今度はちゃんと余裕をもって出しなさいよ。前回も、もう少し推敲すれば多少マシになったと思うわ」

「はい」

 

 神妙にうなずいておく。

 

「そろそろプロット、書けてるでしょ。見せてみなさい」

「ええと、その……」

「いいからいいから」

 

 無理やり席を交代させられた俺は、泉の頭上で北村と視線を交わした。北村はすまなそうな顔をしてみせた。

 

 いや、あれは絶対、内心では面白がってるな……。はあ、奴のせいでとんでもないことになりそうだ。

 しかし、北村がいっていたこと。

 お似合い、か。喜んでいいのだろうか。いや、こいつのいうことだ、どこまで信用できるんだろう……。

 

 しかし、嘘をつくようなやつではないことは、よく知っていた。

 

「なあに、これ」

 

 考えごとに泉の声がわりこんできた。

 

「これでプロットっていえるの? 出会いのところなんて、一行しか書いてないじゃない」

「あー、プロットなんてなくてもいいって、ある小説家がいってて……」

「それはプロだからよ。あなたみたいな初心者は、まず基礎からしっかりやらないと」

「頭のなかでは、ちゃんとディテールまでできてるんですよ」

 

 俺は弁明に追われた。

 

        ・

 

 翌日、火曜日はなにごともなく過ぎて、大型連休は後半に突入した。

 俺は後半もバイト以外はこれといった予定はなかった。家族で一緒に出かけたのも中学までだ。まったく寂しい連休だが――ああ、北村と会う予定だけはあった。

 

 連休の初日、水曜日。俺は自転車を整備しておくことにした。兄に教わったのと、ネットで調べたのとで、パンクの修理くらいはできるようになっている。タイヤに空気を入れて、チェーンに注油しておいた。

 

 うん、これでいつでも内浦に行けるな。

 

 花丸は金曜日には本屋に来るかな? 金曜日はシフトが入っているので、ちょうどいいんだけど。もし会えなかったら……土曜日にでも内浦に行ってみよう。

 

 翌日の木曜日。北村と沼津市街で落ちあった。

 インドア派でひとりが苦にならない俺だが、たまに奴に誘われて休日に遊びに行くことがあった。

 俺よりも社交的な北村は別の友人を連れてきたりして、それはそれで楽しかったが――今日はなにもいっていなかったので、ひとりのはずだ。

 

 待ちあわせ場所はバイト先ではない別の本屋で、俺は立ち読みをして待つ。ここはラノベが潤沢だった。

 

 そういえば北村は彼女はいないのかな。中学時代はいたような気もするけど、ここしばらくは……どうだったかな。うーん、そもそも気にしたことがないや。

 

「よう、またラノベか」

 

 ポケットに手を入れて北村があらわれた。

 

「余計なお世話だよ」

「もうすこしいろいろ、読んだほうがいいぜ。仮にも物を書くわけだからな」

 

 俺はどきりとする。北村がいっているのは文集のことだろうが……。

 

「……まあね、それはそんな気もしてるんだ」

 

 棚に本を戻す。残念ながら、買うほどではなかった。

 

「ほう、殊勝じゃないか」

 

 北村はうんうんとうなずいた。

 

 一緒に店を出たところで、北村が思い出したように話した。

 

「あ、そうだ。一昨日(おととい)の部活が終わった帰り、花丸ちゃん見かけたぞ」

「えっ。どこで?」

 

 沼津市街で、だろうか。

 

 俺の食いつきぶりが面白かったのか、北村はにやりと笑う。

 

「駅前の通りを南にすこし行ったところ。あれだな、図書館か本屋にでも、行ったんじゃないか」

 

 一昨日というと、火曜日か。金曜日でなく? まあ週に一、二度は沼津まで来ているようだし、ありえないことじゃないか。とはいえ、残念だ。シフトを入れておけば……。

 

 考え込んだ俺に北村は苦笑した。

 

「まったく、見てられないな。さっさと連絡先でも、聞いておけよ」

「うーん、でもな……」

 

 女子に本気になるのは初めてなので、距離感がつかめないんだよな。とはいえ、普通はそんなものなのかな。

 

「何度か会って、話もしてるんだろ。意識しすぎだぜ。案外気楽に、教えてくれるって」

「そうかな」

「大丈夫、大丈夫。保証するよ」

 

 うん、こいつ、また面白がっているな。

 

 ただ、もうすこし積極的に――というかストーカーっぽくなく、普通に声をかけたほうがいいのかもしれない。それを気づかせてくれた点は、北村に感謝するべきだろうか。

 俺はあいまいにうなずいておいた。

 

        ・

 

 北村とひさしぶりに遊んだのは、それなりに楽しかった。

 金曜日はバイトに入ったが、案の定、花丸は来なかった。用事は火曜日に済んでしまったのかもしれない。図書館にも行ったがそちらも空振りだった。

 

 土曜日。わざわざ内浦に行くのはどうかと思ったが……。北村の話もあって、俺は早朝から自転車にまたがった。これはあくまでも運動不足の解消だ。そういいきかせて。

 

 今回は軽くおなかにものを入れた。最初からスポーツドリンクを用意し、ペース配分にも気を使うことにする。

 やはり行きは順調だった。前回より疲れていない気がするのは、水分補給の効果か、それとも体力がついたのか。いや、たった一度だけで、それはないだろう。

 

 花丸の自宅の寺、参道の入口に自転車を止めた。前回とほぼ同じ時刻のはずだが――前回、時計を見ておかなかったのが悔やまれる――花丸はいるだろうか。

 

 階段をのぼり、山門をくぐる。

 

 境内はひんやりとした朝の空気と静謐(せいひつ)に満たされていた。誰もいない。そうか、そうだよな……。

 

 参拝をすませ帰ろうとして、俺は立ちどまった。

 山門の先に三津(みと)の街並みと海、それに三角形の島――淡島(あわしま)というらしい――が見えた。海が背中からの日光できらきらと輝く。

 

 写真、撮っておくか。

 俺はスマートフォンを取り出した。時刻を覚えてから、何枚かシャッターを切った。

 

「あれ、里見さん?」

 

 ここの雰囲気のように落ち着いた声に、俺は振り返る。

 

「は……国木田さん。おはようございます」

「おはようございます」

 

 ぎくしゃくとした俺の会釈に、花丸は丁寧なお辞儀でこたえた。

 

「お勤めご苦労さまです。お早いですね。今日もサイクリングですか?」

「はい」

 

 彼女は前回と同じトレーナー姿だった。

 

 えーと、なにかいわないと。連絡先を聞く……のはあまりにも不自然だよな。

 

「……ここからの景色、すごくきれいですね」

 

 結局、無難なところに落ち着いたと思う。

 

「はい、マルも気に入ってます」

 

 花丸は俺の隣まで来て、海を眺めた。風が吹いてふわりと花丸の髪が揺れ、花を思わせる、さわやかでどこか懐かしい香りがした。

 

「夕方もいいんですよ。また光の加減が違って」

 

 花丸がこちらを向いた。

 

「また今度、見に来ます」と俺。

「そうしてください」

 

 そういって彼女はにこりと笑った。

 

 きっと花丸は歌いに来たんだろうな。前回、彼女は恥ずかしがってたし、帰ったほうがよさそうだ。彼女の歌声が聞けないのは残念だけど……。

 

「それじゃ、失礼します」

「はい、またどうぞ」

 

 俺はゆっくりと参道を下りる。いつの間にか、胸に温かいものが宿っていた。うしろから彼女の歌声が、かすかに聞こえた。

 


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