本屋に舞い降りた天使に俺は恋をした   作:Kohya S.

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2. 国木田花丸の災難

 六限の授業が終わり俺は旧棟の部室に向かった。

 

 城斉(じょうさい)高校の校舎は大きく二棟ある。築二十年以上の古びた旧棟と、数年前に建てられた新棟だ。一年から三年までの教室はすべて新棟にあり、旧棟には特別教室や職員室などがあった。

 

 もともとは資料室かなにかだったらしい旧棟三階の狭い部屋が、俺の所属する文芸部の部室だった。

 引き戸をガラガラと開ける。

 

 あれ、誰もいない。またみんな、遅れてるのか。それとも休みかな。

 

 あまり驚きは感じなかった。名簿上は十人ほど部員がいるらしいが、定期的に顔を出すのは俺を含めても数人だった。

 

 高校から文芸部に入ることにしたのは趣味の小説書きが理由だった。中学には似たような部活がなかったので目新しかった、というのもある。

 ただ部員たちには小説を書いていることは秘密にしていた。

 

 やっぱり恥ずかしいよな。いろいろ聞かれるだろうし。もう少し腕が上がったら、考えなくもないけど。

 

 部屋の中央には長机、その周りに数客の椅子がある。壁際のスチール製の棚には部の所有ということになっている本――先輩が置いていったもの――と過去の文集が並んでいた。古すぎて起動しないワープロ(というらしい)専用機も一台あった。また隅には数箱の段ボールが積み上げられている。

 ほこりっぽさに辟易(へきえき)しながらカーテンと窓を開けた。

 

 とりあえず窓際の椅子に座り、鞄からいま読んでいる本を取り出した。若干マイナーなシリーズのラノベの最新刊だ。文章はいまひとつだが設定に魅力がある。

 

 数ページ読み進めたところで、扉が開く音がして俺は顔を上げた。

 

「お、(りょう)しかいないのか」

「俺だけじゃ悪いか、北村(きたむら)

 

 俺はぶっきらぼうにこたえる。入ってきたのは隣のクラスの北村太一(たいち)だった。

 

「いやまあ、そんな気はしてたぞ」

 

 北村は適当な椅子に腰をかける。

 

「陸上部はいいのか?」と俺。

「今日は体育があったから、もういいよ」

 

 そういって北村は首を振った。

 北村は陸上部との兼部だった。そちらではそれなりに期待されているらしい。

 

 ただ、どうもあまり真面目にやる気、なさそうだよな。なにかあるとこっちに来てるし。

 

「遼はバイト、始めたんじゃなかったか」

「今日は休みだよ」

 

 学校もあるのでシフトは土日が中心で、平日はあまり入れていなかった。

 

「で、今日はなに読んでるんだ?」

砂村(すなむら)らったの『コリアンダー』シリーズの最新刊」

「ふーん、面白かったら貸してくれ」

 

 口調からすると、言葉に反してあまり興味はないようだ。

 

 うん、嫌味半分で今度、一巻から持ってきてやろうか。既刊十二冊全部。

 

 北村は長身をかがめて自分も鞄から本を取り出した。

 彼は背が高く引き締まった体をしている。俺から見てもわりとイケメンで、女子にはそれなりに人気らしい。

 北村とは中学時代からの友人だが、はっきりいってインドア派の俺と、運動会系の北村では、一般的には不思議な取りあわせだろう。

 

 でも、妙に気に入られてるんだよな。いつの間にか、下の名前で呼ばれてるし。本が好き、っていう共通点のせいか。

 

 彼は付きあってみるとさばさばとしていて、いい奴だった。示しあわせたわけではなくたまたま進学先の高校も同じで、クラスは違うながら文芸部で一緒になっていた。

 

「で、北村は?」

「今月はハインライン強化月間だから『月は無慈悲な夜の女王』だ」

「なるほど」

 

 海外SFか。どうも文章が硬いのが苦手で、あまり読まない分野だな。

 

 読書の傾向は北村とは多少異なっていたが、それもまた悪くなかった。

 

 ふたりとも本に顔を落とす。

 

 だいたいのところ、部の活動は雑談をしながら本を読む――そしてたまに、文集向けの文章を書く、という感じで気楽なものだった。

 

        ・

 

 また少し読み進めて気づく。

 昨日のこと、北村なら知っているかもしれない。

 

「なあ」

「ん?」

 

 顔を上げずに返事をする北村。

 俺はすこし躊躇(ちゅうちょ)した。

 

 女の子のことなんて聞いたら、どう思われるかな。いや、まあこいつなら、へんに冷やかしたりすることはないか。

 

「ちょっと聞きたいんだけど」

 

 今度は顔を上げた北村に続ける。

 

「このへんで、女子がセーラー服っぽい制服の高校、どこかあったっけ?」

「うちじゃなくて、か?」

 

 城斉高校の冬服はたしかに形こそ似ているが、色は紺でシングルボタンだ。

 

「似てるんだけど、ベージュっぽくて、襟がグレーなんだ」

「ああ」北村はうなずく。「それ、(うら)(ほし)女学院だな」

 

 浦の星。名前だけは聞いたことがある。たしか、市内のはずれの私立だった気がする。

 

「……よく知ってるな」

 

 即答した北村に俺は驚いた。さすがだ。

 

「なにかへんなこと、考えてるんじゃないだろうな」と北村。

「いや、別に」

 

 どうもいろいろ顔にあらわれてしまうらしい。

 

「俺、家が近いから知ってるだけだぞ。浦の星は、俺んちより遠くて、内浦(うちうら)だな」

 

 北村の自宅までは何度か遊びに行ったことがあるが、市街地からはかなり離れていて、自転車で行くのがひと苦労で――たしか()(うら)というあたりだった。

 

 その先だと、かなり遠いな。内浦の、浦の星女学院か。

 

「でも、急に、どうしたんだ?」

「昨日、店で見かけて、めずらしい制服だなって思っただけだよ」

「ふーん」目を輝かせる北村。「可愛かったか?」

 

 にやけた顔が気に入らない。しかし、隠しても仕方ないだろう。

 

「……まあね」

「ふん、出会いがあるのはいいことだぜ」

 

 紹介しろ、とわないところが、こいつらしかった。

 

 しかし、あれが出会いといえるかな。

 花丸とは、たった一度、店員として会っただけだし。あ、でも菊池さんの話だと、ときどき来るっていってたから……もしかすると、今後には期待できるかも。そうしたら出会い、ってことか。

 

 俺の表情を見てなにか思ったのだろう。

 

「応援してるぞ」

 

 北村はそういってにやりと笑った。

 俺はばつが悪くなりなにもいわず本に目を戻した。

 

        ・

 

 いつの間にか窓から差し込む光がオレンジ色になっていた。風もすこし冷たい。

 

「んー」

 

 北村が伸びをした。

 

「結局、誰も来なかったな。島崎(しまざき)はともかく部長も来ないなんて、めずらしい」という。

 

 俺はうなずいて本を閉じる。

 

「きっと三年にもなると忙しいんだろ」

「そうだな。ま、部長が来ると、さっさと文集向けの作品、仕上げてこいってうるさいからな」

 

 北村は笑った。

 

 城斉高校の文化祭は六月で、それにあわせて文集を発行することになっていた。締め切りまで二か月を切っている。

 

 本当は今日も、少しでも進めておかなくちゃまずいんだけど。まあ、俺たちだけだと、こんな感じになるのは仕方ないよな。

 それにパソコンもない。さすがに原稿用紙を埋めてくって時代じゃないだろうし、スマートフォンで書くのは俺は苦手だしな。

 

「帰るか」と俺。

「おう」

 

 本を鞄にしまい窓とカーテンを閉める。部室には鍵はかけていない。

 

 昇降口まで一緒に行き、そこで自転車通学の北村と別れた。

 

        ・

 

 その週は平日にはバイトの予定がなかった。次は土曜日で――バイトの予定が楽しみなのは初めてかもしれない。もちろん花丸に会えることを期待して、だ。

 

 そしていよいよ土曜日。二階のレジで時計を眺めた。16:30。早くもあと三十分で勤務は終わりだ。

 

 うーん、今日は会えそうにないな。

 

 あきらめかけたとき、奇跡――というのは大げさだろうか――は起きた。

 階段を上がってくる小柄な人影に気づく。花丸だった。前回と同じく浦の星女学院の制服にカーディガンだ。俺はあわてて目をそらした。

 花丸は例によってカートを押しはじめた。

 

 俺はレジを続けながらも、彼女のことと時計とが、気になって仕方がなかった。こういうときにかぎって客が五月雨式(さみだれしき)に来て、レジから離れられないのが皮肉だった。

 

 16:55。うん、彼女は絶対に本屋に、長居するタイプだな。

 

 はあっとため息をついた。

 

「すみません、お願いします」

 

 俺はその声に顔を上げた。花丸の笑顔がそこにあった。

 

「は、はい」

 

 彼女はうきうきとしたようすで本をカウンターに上げていく。

 俺は金額を読み上げながらバーコードリーダーを当てていった。やはり日本文学が多いが、海外のファンタジーもあった。北村なら読んでいるかもしれない。

 

「二十九点、17,890円です」

 

 前回よりはすこし多いな。

 

「カバーはご不要で、紙袋にお入れすればよろしいでしょうか」

「はい、それでお願いします」

 

 彼女はにこやかに微笑んだ。

 

 俺が紙袋に本を詰め終わると、花丸は風呂敷に包んで背中に背負った。「よいしょっ!」というかけ声とともに。

 うん、やっぱりかわいいな。

 

「か、カートは戻しておきます」

 

 顔がにやけそうになるのを抑えて、なんとかそう彼女に声をかけた。

 

「ありがとうございます」

 

 彼女は俺に向けて微笑み、ぺこりと頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

 

 花丸の背中にそう声を掛けると、いつの間にか菊池さんがレジに入っていた。

 

「里見君、お疲れさま。今日は上がっていいよ」

「わかりました。あと、よろしくお願いします」

 

 菊池さんはうなずいた。

 眼鏡の奥の目が細められているのが気になった。はあっ。俺は(なか)ばやけになって口にする。

 

「彼女、可愛いですね」

「そうだね」

 

 菊池さんはますます笑みを深くした。

 

        ・

 

 カートと一緒にバックヤードに戻り私服に着替えた。

 

 店が入っているビルの裏口から外に出る。

 四月も半分ほどすぎるとだいぶ日は伸びて、空には日の光がまだ残っていた。風は冷たかったが花丸に会えたことで俺の心は温かかった。現金なものだ。

 

 ふと通りの左に目をやると――俺の家とは反対側だ――緑の包みを背負った小柄な人影が見えた。

 

 あれ、花丸だ。

 タイミング的にはずいぶん遅いけど、一階で立ち読みでもしてたのかな。

 

 俺は思わずそちらに足を踏み出していた。別に、あとをつけようとしたわけではない。ただもうちょっとだけ彼女のことを見ていたかった。

 

 駐輪された自転車で狭くなっている歩道を彼女はゆっくりと歩いていく。

 

 少し進んだとき、うしろからカツカツというヒールの音がした。すぐにスマートフォンを耳にあてた二十代くらいの女性が、急ぎ足で俺の横を追い抜いていった。

 

 その女性はそのまま花丸の右側を通ろうとした。運が悪かったのだろう、ちょうど同時に花丸は路上に置かれていた看板をよけて、歩道の中央に寄り――女性の左肩が花丸の包みにぶつかった。

 

 危ない、と思う間もなく「きゃっ」という花丸の声が聞こえた。花丸はよろけて、路上に背中の包みから、しりもちをつくような形で倒れこんだ。

「あら、ごめんなさい」と女性がいうのが聞こえたが、彼女は足を止めずにそのまま歩いていく。

 

 俺はあわてて花丸に駆けよった。

 

「大丈夫ですか?」

 

 花丸をのぞき込むように声をかける。

 

「はあ、びっくりしたずら」

 

 花丸は閉じていた目をぱちりと開けた。彼女の顔が意外なほど近くにあった。

 

「あ、店員さん」

 

 どうやら覚えられていたらしい。俺はどきまぎしながら続けた。

 

「怪我とか、ありませんか?」

 

 手を貸したほうがいいのだろうか。一瞬、悩む。そのあいだに彼女は地面に手を当てて「よいしょ」と立ち上がった。

 

 彼女は、ぱたぱたと体のあちこちをさわってみせる。

 

「ん……とりあえず、平気みたいです」

 

 ふう、よかった。

 

 俺は胸をなでおろす。気づいて振り返るが、ぶつかった女性の姿はすでに見えなくなっていた。まったく、ひどいな。

 

「ああ、オラの本が……」

 

 花丸の声に目を向ける。緑の包みは無残に変形していた。ただ、その包みが花丸を守ってくれたのかもしれない。南無三(なむさん)

 花丸は風呂敷の結び目をといて中身を確認していく。俺は横から見守った。

 

「はぁ、よかった。本は無事みたいずら」

 

 俺もホッとする。もし傷ついていたら、花丸を守るために犠牲になったとしても、彼女と同じ本好きとして心が痛んだだろう。

 ただ、紙袋は破れてしまっているようだ。風呂敷にもダメージがあるように見える。

 

「うーん、どうしよう……」

 

 途方に暮れたように花丸は本の山を見つめた。

 なにか俺にできることは……。

 

「あの、少し待っててもらえますか」

 

 俺はそう声をかけた。

 

「ずら?」

 

 それ以上説明せずに小走りで道を戻った。店に入り、菊池さんや他の店員に顔をあわせたくなかったので、バックヤードのストックから紙袋を何枚かいただいた。

 ふたたび花丸の元へ。

 

 立ちつくしている花丸に紙袋を見せる。

 

「あの、これに詰め替えましょう」

「あ、ありがとうございます」

 

 花丸の顔がぱっと輝いた。

 

 俺は彼女と手分けをして、ふたつの紙袋に本を入れていった。いちいち「よいしょ」とか「んっ」というのが可愛かった。破れた紙袋は回収しておいた。

 花丸は風呂敷を自分のポシェットにしまった。

 紙袋を彼女に手渡そうとして、ずしりと重いことに気づく。彼女も自分の詰めたほうを持ちにくそうにしている。

 

 ん、これは、どうするべきかな。

 

 俺はすばやく思考をめぐらせた。いつになく頭の回転が速かった自分を()めてあげたい。

 

「あの、よかったら、俺が持ちましょうか。その、切りのいいところまで」

 

 下心がなかったといったら嘘になる。花丸の家がどこにあるのかは知らないが――もしかしたら市街から浦の星に通っているのかもしれない――このとき俺はたとえ内浦でも、行く覚悟を決めていた。

 

「え、そんな、悪いです」

 

 花丸は明らかに迷っていた。

 

 まあ突然の申し出だし無理はないよな。でも見ず知らずの人がいうよりは、望みがあるかも。

 

 俺は続ける。

 

「うちの店、宅配とかもやってるんで」

 

 これはまあ、嘘じゃない。ただ、俺の担当ではまったくないし、配達範囲は沼津市街だけだけど。

 

「そうなんですか。……それじゃ、バス停までお願いしてもいいでしょうか」

「わかりました」

 

 俺は精一杯の笑顔を見せた。彼女も微笑み返してくれた。

 

        ・

 

 両方持つという申し出を花丸は必死に断った。それ以上、無理はいわないことにした。

 

 一緒に歩き始めると花丸は頭を下げた。

 

「ありがとうございます、里見さん」

 

 おお、しっかり名前まで覚えてくれてたんだ。感動だ。

 

「いえ、どういたしまして……」

 

 思わせぶりに間をあけると彼女はしっかり察してくれた。

 

「あ、私、国木田(くにきだ)です」

「国木田さん」

 

 俺は繰り返した。なぜかその苗字は彼女にぴったりな気がした。

 

 彼女に警戒されないように店員モードをつらぬくことにする。

 

「いつもうちの店を使ってもらって、ありがとうございます」

「いいえ、品ぞろえがよくて、助かってます」

 

 そんな話をしながら駅前の大通りに出る。信号を渡りすこし歩くとバス停だった。

 さて、ここからが正念場だぞ。

 

 ふたつある椅子の片方に俺たちは紙袋を乗せた。

 

「どうもありがとうございました」

 

 花丸は丁寧に両手を揃えて礼をした。

 

「いえ、たいしたことないです」

 

 俺はそういってから、なるべくさりげなく聞く。

 

「俺も、ここからバスに乗るんです。国木田さんは、どこまで行くんですか?」

「マルは、内浦の三津(みと)っていうところまで」

 

 俺は驚いてみせる。

 

「へえ、奇遇ですね。俺も同じです。ちょっと用事があって」

 

 さすがにわざとらしいかな……。

 

 どきどきしながらバス停の時刻表を見るふりをした。

 

「そうなんですね」花丸はちらっと左手の腕時計に目をやった。「バス、もうすぐ来ますよ」

 

 あ、信じてくれたんだ。そんなに素直で、大丈夫かな。俺にとってはありがたいけど。

 

 その幸運に乗ることにする。

 

「それじゃ、このまま持ってますね」

「あ、はい。すみません」

 

 彼女はにこりと微笑んだ。

 

        ・

 

 オレンジ色の車体に黄色の帯のバスが止まった。花丸が迷いなく乗り込むところをみるとこの系統で間違いないらしい。

 彼女に続いて整理券を取る。

 

 車内は空席が目立った。

 彼女は左右に目をやってから一番うしろの席へ向かった。さすがに隣り合わせで座るのは気になったらしい。俺もそのほうが気が楽だった。

 

 紙袋をあいだにはさんで座ると、ブザー音とともにドアが閉まり、バスは走り出した。

 

 花丸は俺に目礼すると、紙袋から一冊の文庫本を手に取り、読み始めた。俺の鞄にも本は入っていたがバスや車で読むと酔うたちなのでやめておいた。

 俺は窓の外や花丸の横顔を見ながらバスに揺られた。

 

 花丸は目を輝かせて本に没頭していた。ときに笑みを浮かべ、ときに眉をひそめ、表情豊かだった。ずっと見ていても飽きなかった。

 

 うん、こんなに楽しそうに本を読む人、初めて見たかも。

 

 バスは二十分ほど走っただろうか。右側の車窓にちらほらと海が見えてきた。傾いた日が水面にきらきらと輝いていた。

 花丸は顔を上げて海を眺めた。

 

 このときの彼女の横顔が、その日一番、美しかったかもしれない。

 

 花丸は俺の視線に気づいたのかこちらを向いて微笑む。俺はどきりとして、

 

「えーと、あと、どのくらいですか」

 

 そんな馬鹿らしい質問をしてしまう。

 

「あと十五分くらいず……です」

「意外に近いんですね」

 

 中学時代は江の浦の北村の家まで、自転車で一時間近くはかかったと思う。

 

「なにを読んでるんですか?」

「いまは、三浦(みうら)しをん先生の『舟を編む』です」

 

 あ、俺は読んでないけど、話は聞いたことがあるぞ。たしか、数年前の作品で、最近文庫になって……アニメ化もされるんだっけ。

 

「ああ、辞書を作る話ですね」

「はい。里見さんはお読みですか?」

「いえ、まだなんです」

「今のところ、すごく面白いずら」

 

 花丸は嬉しそうに笑った。

 

 バスは北村の家のあたりを通過していった。

 

 それから俺たちはぽつりぽつりと会話を交わした。

 花丸が浦の星女学院に通っていることは本人から確認できた。最近、生徒数が減って大変らしい。俺が知らなかったのも無理はなさそうだ。彼女は一年生だった。

 また俺も城斉高校で二年生だと紹介しておいた。

 

 彼女は普段は気を(つか)っているようだが、すこし夢中になると「ずら」や「オラ」が出てくるようだった。

 

 でも、どうしてだろう、花丸から聞くと、ダサいというより、可愛い、なんだよな。

 

『……おつりは出ませんので、おつりのないよう、先に両替をお願いいたします』

 

 バスの車内アナウンスが流れた。

 

「そろそろですよ、里見さん。お金、用意してますか」

 

 花丸は俺がバスに不慣れなことを見て取ったのだろう。そういってくれた。

 

「あ、いくらだろ」

「740円ずら」

 

 俺は財布を確認する。幸いぴったりの小銭があった。

 

 花丸、よく気がつくんだな。感謝だ。

 

『次は三津(みと)、三津でございます。伊豆長岡駅方面にお越しのお客さまは、こちらでお降りください』

 

「よいしょっ!」

 

 花丸は腰を上げて降車ボタンを押した。

 

        ・

 

 バスは『漁業協同組合』と書かれた建物の向かいに止まった。俺たちは料金を払い――花丸も定期券ではないらしい――バスを降りた。潮の香が鼻に入ってきた。

 

 よし、もうひと押ししよう。

 

 花丸になにかいわれる前に機先を制す。

 

「あの、よかったら自宅まで持っていきますよ」

「さ、さすがに悪いずら」

 

 彼女はぶんぶんと首を振った。

 

「でも、ここまで来たし……近くですよね?」

「三分くらい……」

「それじゃ、行きましょう」

「重ね重ね、すみません」

 

 花丸は一礼してから先に立って歩き出した。海と山にはさまれた住宅街を進んでいく。

 何度か角を曲がると、道はそのまま階段になっていた。どうやらこの先らしい。

 階段と平地を繰り返して、合計で数十段は登っただろうか、

 

「ここずら!」

 

 花丸は山門(さんもん)の前で振り返り、なぜか誇らしそうに胸を張った。

 

 山門……?

 

 どうみてもそこはお寺だった。

 

 お寺に住んでる……うん、まあ、そういうこともあるよな。そうか、お寺の子なのか。なにかいろいろと、納得できる気がするな。彼女の意外性にもうひとつ、追加だ。

 

 さすがにここまでにしておいたほうがよさそうだ。俺はなにをいっていいか悩んで――。

 

「どうも……」

 

 結局、間の抜けた台詞と一緒に花丸に紙袋を手渡した。

 

「あの、最後までありがとうございました」

 

 花丸は両手に紙袋を持ちながら、ぺこりと頭を下げた。俺はすこし芝居がかって答える。

 

「またのご利用を、お待ちしております」

 

 彼女は例の穏やかな微笑みを浮かべた。

 

 俺は振り返り、来た道を戻る。山門の前からは住宅街と海、その海に浮かぶ三角形の島が見えた。ちょうど夕日が水平線に落ちていくところだった。

 

        ・

 

 バス停に戻って確認すると、ありがたいことに沼津の市街地に戻るバスは、あと一本だけ残っていた。バスがなかったときのことは考えたくもない。

 俺は近くにあったコンビニで缶コーヒーを買い小銭を作り、あたりを散歩しながらバスを待った。

 

 道路沿いに旅館や料理屋などが並んでいたが、静かだった。県道を通る車の音と、波の音しかしない。そして海のにおい。

 俺は結局、最後の二十分ほどを海を眺めてすごした。赤から青へとゆっくりとかわっていくようすは美しかった。

 

 ようやくやってきたバスに乗る。車内には沼津へ戻るのだろう観光客が何組かいる程度だった。海が見える窓際の席に座る。

 

 しかし、無茶したよな。

 

 今日一日を振り返ってそう思った。

 

 偶然もあったけど、花丸に声をかけて、それだけじゃなくて荷物も持って、さらに自宅まで行っちゃったんだもんな。一歩間違えれば、自分でいうのもなんだけど、ストーカーだよ。花丸が素直な子で、本当によかった。

 でも、その甲斐はあったかな。

 

 彼女のことをずっとずっと知ることができた。それは大きな収穫だった。

 

 うーん、いままで女の子相手に、我ながらここまで大胆になったことないんだけど。花丸が相手だと自然に体が動くのは、どうしてだろう。

 

 自分でもまだよくわからなかった。

 今日のバス代は高校生には決して安くはなかったが、少なくともそれを後悔する気持ちは、まったくなかった。

 


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