本屋に舞い降りた天使に俺は恋をした   作:Kohya S.

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10. 舟を手に入れろ (2)

「どうしたの、花丸さん?」

 

 なにか悪いことでなければいいけど。

 

「オラには無理ずら!」

「とりあえず落ち着いて……」

 

 悲痛な声に俺はなだめるようにいう。

 

 花丸は、はーっと大きく息をはいてから、続けた。

 

「……オラ、今日、スマートフォンのこと、じっちゃに話したんだぁ。そしたら、普通の電話ならともかく、そんなのはいらんって、いわれてしまったずら……」

 

 それは困ったことになったな。

 

「ネットにつながって便利だ、とか話したの?」

「話したずら! 知識の海ずら!」

 

 ふーむ。

 

「お値段も控えめって、オラ、いったんだけど、どれくらいだって聞かれて、答えられなかったずら」

「普通の携帯は買ってもらえそう、なのかな」

「それはたぶん。ばっちゃも、そろそろ必要だべ、っていってくれてるし」

 

 花丸はいったん言葉を切って、鼻をすすった。

 

「それで、マル、遼さんに助けてもらおうと思って、電話したんです」

 

 ということなら、具体的な話があれば、説得できるかな。

 

「そうか。じゃあ、ちょっと調べてみるよ。料金とか、買い方とか。明日、連絡すればいいかな」

「うん、お願いします」

 

 花丸はあきらかにほっとしたようすだった。頼られてるのかな、と嬉しくなる。

 

「明日、そうだなあ、できるだけ早いうちに、電話するから」

「ありがとうございます」

 

 もう少し話していたかったが今日の昼間、会ったばかりだ。早めに切り上げて早速行動したほうがいいだろう。

 

「それじゃ、おやすみ」

「おやすみなさい」

 

 花丸は電話を切った。

 

 よし、それじゃ、少しでも力になれるように、がんばるか。イエデンに電話するのは、ハードル高いけどな。

 

        ・

 

 調べてみるといわゆる格安スマートフォンというやつが該当するらしい。

 

 えーと、まず会社がいろいろあるのか。どこがいいか、評判を調べてみるか。

 データ量は……花丸ならあまり動画とかは見ないよな。ん、それともスクールアイドルの動画とか、見たりするのかな。となると少し多めで……。

 

 結局その日の夜には調べきれず、翌日の土曜日の朝までかかった。

 会社も機種も料金プランもたくさんあって頭が痛くなったが、なんとかよさそうな組みあわせをいくつか選んだ。幸い沼津市内の家電量販店でも購入できるようだ。

 

 ふーん、結構、料金が違うもんなんだな。

 下がったぶんの携帯料金が小遣いにしてもらえるなら、俺のスマートフォンもかえてもいいかもしれないぞ。

 さて。

 

 目の前には調べたことをメモした紙が山になっている。

 雨の音を聞きながらスマートフォンの連絡先から花丸を選び、発信ボタンをタップした。

 

 呼び出し音を聞きながら、花丸が出ますように、と祈るような気持ちで待つ。

 

「はい、光恩(こうおん)寺、国木田です」

 

 太い男性の声だった。ああ、賭けに敗れた。

 

「あ、あの、里見と申します。花丸さんはご在宅でしょうか」

 

 こんな挨拶をするのは恐ろしくひさしぶりだ。そのわりにはうまくいえたと思う。

 

「花丸は、外出しております。用件をお聞かせいただけますか」

 

 丁寧な言葉遣いだが有無をいわせぬ口調だった。

 

「えーと、昨日の件で、折り返しお電話をいただけますでしょうか、と」

「わかりました、伝えておきます」

「よろしくお願いいたします」

 

 俺は電話を切った。ふうっと息をはく。緊張していたらしい。

 

 あれが花丸のじっちゃ、だろうな。老人とは思えない、しっかりした声だったな。

 

 花丸からは昼前に電話が来た。

 

「すみません、遼さん。マル、アイドル部の練習に行ってたんです」

「いや、大丈夫だよ。練習は、楽しい?」

「はい、それはもう。毎日、よくなってるのが実感できるずら」

 

 花丸の声ははずんでいた。

 

「それで、昨日の件だけど、調べてみたよ」

「あ、ありがとうございます」

「えーと、メモを用意してもらえるかな」

「は、はい」

 

 俺はひとつずつ説明していった。

 

「……ということで、この会社のプランCがいいんじゃないかな。月三千円、かからないみたいだよ」

「む、難しいずら……」

 

 困惑した口調の花丸。

 

「うん、俺もそう思う」正直な感想だった。「でも、たぶん大きくは間違ってないと思うんだ」

「わかりました。マル、今日、もう一度話してみますね!」

「買いに行くときは、俺も付きあうから」

「ぜひお願いします」

 

 花丸は嬉しそうにいった。

 

「それじゃ、うまくいくように祈ってるね」

「ありがとうございました」

「どういたしまして」

 

 電話が切れる。

 さて、無事に説得できるといいんだけど……。

 

        ・

 

 きっと花丸のことだから、いずれにしても結果は電話してくれるだろう。昼過ぎから書店にバイトに行き、夕方に帰宅する。そのあいだ、彼女からの連絡はなかった。

 雨は夕方には上がった。

 

 夕食を食べて自室に戻ったとき、着信音が鳴った。

 どきどきしながら電話に出る。

 

「はい、里見ですけど」

「うぅ、オラ、説得できなかったずら……」

 

 花丸は開口一番、泣きそうな声でそういった。

 

「まずは携帯電話で十分だって……」

「そうか。残念だったね」

「オラのインターネットが……知識の海が……」

 

 鼻をすする花丸を俺はなぐさめる。

 

「まあ、携帯でもネットは見られるから」

「えっ、ほんとずら!」

「あ、でも、料金が結構、高くなっちゃうみたいなんだよね」

「それじゃダメずら……」

 

 一瞬、明るくなった花丸の声はすぐ元に戻った。

 

 花丸、かわいそうだな。スマートフォンくらい、いまは当たり前なのに。なにより花丸の知識欲が満たされないのは、世界の損失な気がする。

 うーん、じっちゃ、か。なかなか気が強そうな感じだったけど。ただ、それでも、な。

 

「花丸さん」

「ん?」

「よかったら、俺が説明しようか。その、家の人に」

 

 ちょっと差し出がましいかもしれないけど。

 

「えっ」花丸は息をのんだ。「そんな、遼さんに悪いずら……」

「でも、せっかくの機会だし、もったいないと思うんだ」

「うぅ、そういわれると心が動くずら……」

 

 花丸は悩んでいるようだ。

 

 俺はもうひと押ししてみる。

 

「花丸さんの、力になりたいんだけど」

「オラの……」

 

 花丸はしばらく黙り込んだ。

 

 俺はひやひやしながら彼女の反応を待った。

 

 やがて花丸は小さくつぶやいた。

 

「……ありがとうございます」

「それじゃあ……」

「はい、お願いします」

 

 今度はしっかりとした声でいった。

 

 その一言が俺の心に火をつけた。

 

「うん、説得できるかどうかわからないけど、やるだけやってみるよ」

「すみません、遼さん」

「いつごろ、行けばいいのかな。早いほうがいい?」

「そうですね。明日でも、大丈夫ですか」

「うん、大丈夫」

 

 おそらくバイトの時間は調整できるはずだ。

 

「それじゃ、午後四時くらいに、来てもらえるでしょうか。そのころなら、じっちゃも()いてると思うので」

 

 その時間なら、少し早めにバイトを抜けさせてもらえばよさそうだ。

 

「本堂の隣にマルの家があるので、呼び鈴を押してください」

「わかった」

 

 おやすみの挨拶をして電話を切った。

 

 よし、何とか説得してみるぞ。プレゼンテーションってことだな。花丸の……そして俺の将来のお付きあいのため、だもんな。

 

 俺はその夜、調べたメモを読み返して頭に入れ、じっちゃとの想定問答を繰り返した。

 

        ・

 

 翌日、バイトは早めに上がらせてもらった。いったん自宅まで帰り、自転車にまたがる。もしかしたら帰りのバスがなくなるかもしれない。ライトの電池もチェックしておいた。

 

 ペダルをリズミカルに踏んでいく。すでに何度も通った道だ。スピードが乗ってくると妙に頭がさえてくる気がした。

 一時間もかからずに内浦までついた。最初にくらべるとずいぶん体力がついたんじゃないだろうか。

 

 自転車を止めて参道を(のぼ)り、山門をくぐった。

 いままでに来たときにはあまり気に留めていなかったが、本堂の右手の奥にもうひとつ建物があった。やや古めかしい和風の住宅だ。

 玄関の引き戸の前に立つ。

 

 うーん、ばあちゃんち、建て替える前はこんな感じだったな。花丸が出てくれればいいけど、いきなりじっちゃとかだったら、どうしよう。

 

 俺は落ち着かない気分で呼び鈴を押した。遠くでピンポンと鳴る音がして――「はーい」という声と、ぱたぱたという足音が聞こえた。よかった、花丸だ。

 

 ガラガラと扉がひらき、顔を出す花丸。

 

「あ、遼さん。お待ちしていました」

 

 にこっと花丸は微笑んだ。

 花丸はいつかと同じく、タンクトップに猫の肉球柄のシャツだった。

 

 俺は玄関からなかに通される。

 

「どうぞ、上がってください」

「おじゃまします」

 

 いちおう脱いだ靴を揃えてから花丸についていった。

 

 花丸の家は外見にそぐわず昭和な雰囲気だった。なんとなく線香の香りもする。

 

「まだじっちゃは帰ってないので、マルの部屋へどうぞ」

 

 おお、いきなり女の子の部屋へご招待だ。先に待つものを考えると緊張するが、花丸の部屋に入れるのは素直に嬉しい。

 

 片側に障子の並ぶ廊下を通り、急な階段を上がって二階へ。

 

「ちらかってて恥ずかしいですけど」

 

 花丸はふすまを開けた。

 

 花丸の部屋は八畳ほどの和室だった。

 正面に窓、左手に押入れがあり、勉強机とベッド、衣装箪笥(だんす)が置かれていた。それに二本の大きな本棚が目立つ。また、中央にはオレンジのラグが敷かれ、数枚の座布団が並んでいる。パステルカラーの色使い、ところどころに飾られた小物などが、女の子の部屋らしかった。

 

「きれいに片づいてるね」

 

 俺は本音を口にする。

 

「そんなことないずら。あ、どうぞ、適当に座ってください」

「どうも」

 

 俺は座布団のひとつに座る。

 

「いま、お茶を用意しますから」

 

 花丸はそういって部屋を出て行き、俺は手持ち無沙汰で待った。

 

 ふと気になって膝立ちで本棚まで近づく。

 並んでいる本の傾向は花丸が書店で買うのと同じだった。ただ、あれだけ本を買っているなら、ここに収まるわけもない。ここにあるのは本当のお気に入りで――別の場所にさらにあるのかもしれない。

 

「お待たせしたずら」

 

 声がして俺はあわててふすまを開く。

 お盆を持った花丸がにこっと笑った。

 

 花丸はお盆を床に置いた。座布団に正座して花丸と向きあう。

 

「お寺って聞いてたから、どんな感じかと思ったんだけど、家は普通だね」

「それは、そうですよ。どんなのを想像してたんですか」

 

 花丸はおかしそうに笑う。

 

 それは、なんか、こう、お堂? のようなところなのかと……。とはいえ、そんなことは、口に出せないよな。

 

「ルビィちゃんとかも、ときどき遊びに来ますよ」

 

 ふーん、そうなのか。

 

 花丸のいれてくれたお茶をいただく。濃くておいしかった。

 

「ところで、遼さん」

 

 花丸は居住まいを正す。

 

「遠いところ、わざわざありがとうございます」

 

 両手をついて頭を下げた。

 

「あ、いや、たいしたことないよ」

 

 手を振って否定する。いろいろ下心があるのは黙っておこう。

 

「じっちゃには、お友達が来るって、話してあります」

 

 俺はうなずく。

 

「もうすこししたら、帰ってくると思います。そうしたら、よろしくお願いします」

「わかった」

 

 じっちゃ、か。そういえば父母はどうしたんだろう。まさか……。

 

「花丸さんは、おじいさんとおばあさんと、暮らしてるんだね」

「はい」

「その、ご両親は……」

「ああ」花丸は微笑む。「いま、ほかのお寺に行ってるずら。住職さんがお亡くなりになったお寺があって……あとつぎの方が灌頂(かんじょう)を受けるまで、手伝っているずら」

 

 なるほど、一時的に代理の住職をしている、ということだろう。灌頂は……なんだろ。あとで調べよう。

 

「ほら、マルのところはじっちゃもいるから」

「そうなんだ」

 

 俺はほっとしてうなずいた。とりあえず、もう会えない、とかいう事態でなくてよかった。

 

 しばらくして階下から物音が聞こえた。

 

「あ、帰ってきたみたいです。呼びに来ますから、ちょっと待っててくださいね」

 

 花丸は緊張した面持ちで部屋を出ていった。

 俺はもう一度、説明することを整理しておくことにした。

 

        ・

 

 頭のなかでの問答はどうも悪い方向に進みがちだった。なにしろ相手は、お坊さんだからなあ。こういうの、お手のものだろうし……。

 

 緊張しながら待つうちに、足音がして花丸が顔を出した。

 

「あの、お願いするずら」

 

 期待と不安に満ちた表情だ。

 

 花丸のあとについて一階へ。花丸が廊下から障子を開けると、そこが居間だった。

 

「お友達を連れてきたずら」と花丸。

 

 彼女にうながされてなかに入る。

 

 十畳ほどの大きな部屋で、廊下の反対側も障子になっていた。おそらく縁側だろう。奥はふすまで次の間に続いているらしい。

 部屋の中央に四角い大きなちゃぶ台があり、その向こうに男性が正座していた。白髪の老人で、小柄だががっしりしている。じっちゃに違いない。

 その男性は俺をじろりと見て、かすかに驚きを浮かべたようだった。鋭い眼光に俺はひるみそうになるが、なんとかまっすぐに見返して目礼した。

 

「どうぞ」という花丸にしたがい、座布団に正座する。すぐ近くに彼女も腰を下ろした。

 

「こちら、オラのじっちゃずら。そしてこちらが、友達の里見さん」

「花丸の祖父の隆照(りゅうしょう)と申します。よろしく」

 

 祖父は深く頭を下げた。仕事がら、といっていいのか、彼の声は太くてよく通った。

 

「あの、里見です。よろしくお願いします」

 

 俺も彼にならって礼を返した。

 

「……花丸が、世話になっているようですな」

「僕のほうこそ、本を紹介してもらったり、いろいろ助言してもらったり、花丸さんには学ぶことが多いです」

「うちの孫は、そこまで出来た子ではない」

「いえ、花丸さんの博識なところには、頭が下がります」

 

 ふむ、というように彼は軽くうなずいた。

 

 むむむ、こういうの、苦手なんだけど。いまのところなんとかなってる……のか?

 

「失礼いたします」

 

 そのとき障子が開いて、ひとりの女性が入ってきた。花丸の祖母だろう。すこし腰が曲がり、やはり白髪交じりだ。

 祖母は俺たちのまえに茶碗を置いていく。

 そして彼女はそのまま祖父の隣、花丸の向かいあたりに座った。

 

 祖父は続ける。

 

「それで……花丸とはどういう理由で、知りあったんだね?」

 

 ああ、やっぱり聞かれたか……。花丸は説明してないんだな。そりゃまあ、気になるよな。

 

「僕が沼津の書店でアルバイトをしていて、そこに花丸さんが来たんです」

「オラ、本を運ぶのを手伝ってもらったずら」

 

 花丸がわきから言葉をそえる。俺はうなずいた。

 

「そのあと、たまたま図書館で出会って挨拶して……お勧めの本を聞いたりして、だんだんと親しくなりました」

 

「親しく」というところで、祖父の眉がぴくりと動いた気がした。まずい。

 

「黒澤さんにも紹介してもらったり、友達としてお付きあいさせてもらってます」

「ふむ」

 

 彼は茶碗からお茶を飲んだ。

 

「あの、今日は、スマートフォンのことずら」

 

 花丸がしびれを切らしたのか口をはさむ。

 

 祖父は花丸をちらりと見てから、俺に向けて話した。

 

「それで今回、花丸が君に相談した、ということだね」

「そうです」

「私も、花丸の父がここを離れてから、携帯電話を使っている。とても便利だね」

 

 失礼ながら、俺には意外だった。

 

「はい」とうなずく。

「だからこそ、私は携帯電話で十分だと思っておるのです。たしかに、年頃の女の子に緊急時の連絡手段は必要……ただ、逆にいえばそれ以上は不要」

「あの、すでに花丸さんからお聞きかと思いますが、料金はそれほど変わりません。だとしたら、スマートフォンにしておくのが、いいと思います」

「私の携帯電話と大きくは変わらないようだね。しかし、お金の問題ではない」

 

 彼は首を振った。

 

 うーん、やっぱりそうか。さて、どうやって説得しよう。

 

「あの、スマートフォンならネットにつながります。花丸さんには、とても便利だと思います」

 

 横で花丸がこくこくとうなずいた。

 

「ネットといえば、いろいろな有害なものもあふれているのだろう。花丸にそれが必要かね」

「それはごく一部です。いろいろ有益なものもあります」

「学校にパソコンがあるだろう。そこでみんなと一緒に、見せてもらえば十分だし、安全じゃないのか」

 

 俺はいったん言葉に詰まる。花丸はすっかり肩を落としていた。

 

「スマートフォンとやらに夢中になり、勉学がおろそかになる、という話も聞く。私は花丸が心配なのだよ」

 

 そういって彼は花丸を見る。その目は厳しいながらも、優しさが隠れている気がした。

 

「オラ、そんなことはないずら! 本と同じずら! 最近は徹夜してないずら!」

 

 花丸は顔を赤くして反論した。

 

 あー、やっぱり徹夜とかするんだ、花丸。親近感がわくな。

 

「まあ、最近はそのようだな」

 

 祖父は苦笑する。俺も笑みが浮かぶのを抑えられなかった。花丸は口をとがらせて横を向いた

 

 すこしだけ雰囲気が(ゆる)んだ気がして、俺は続けた。

 

「失礼ですが、花丸さんが本を買うお金は、隆照さんがお出しになっているのですか?」

「だから、お金の問題ではない」

「でも、それは、花丸さんに学んでほしい、知識を得てほしい、ということですよね」

「もちろん。花丸は本が好きなようだ。これからのために、見識を広めてほしいと思っている」

「それなら……ぜひ、花丸さんをネットにふれられるように、してあげてください。いまのネットは、知識にあふれています。日本語だけじゃなくて、英語も、ほかの言語も」

 

 俺は彼をじっと見つめた。彼はなにもいわずに見返す。

 

 俺は心を奮い起こして続けた。

 

「それに、花丸さんは、有害な情報なんかに、影響されることはないと思います。そんなに、彼女は弱くありません」

 

 花丸が顔を引き締めてうなずいた。

 

「しかし、ネットなどに頼らなくても、本だけで十分だろう。花丸でも読み切れないほどの本が、世の中にはあふれている」

 

 彼は話は終わりだというように、茶碗からお茶を飲んだ。

 

 ああ、ダメか。どうしようか。俺は必死に頭をめぐらせた。

 しかし、なにも思いつかないまま、時間だけが過ぎていく。花丸も言葉を持たないようだった。

 

 あきらめかけたとき、援軍は思わぬところからやってきた。

 

「おじいさん、いいんじゃありませんか」

 

 初めて祖母が口を開いた。

 

「ばあさん、なにを聞いていたんだ。ネットなど有害無益だろう……」

 

 やれやれというように祖母は頭を振った。

 

「私たちの花丸は、そんなに馬鹿な子じゃありませんよ」

「でもな……」

「ぜいたくをいわない花丸が、たまに欲しいものができた。それなら(こた)えてあげましょうよ」

 

 俺は花丸と視線を交わす。花丸の目に希望が宿っている。

 

 祖父は、はあっと息をはいた。

 

「里見君。君はネットには詳しいのかね?」

「はい、あの、人並みには」

「……それなら花丸に、基本のところを教えてやってくれ。危ないところに近づかないように」

「じっちゃ、それじゃあ……」とはずんだ声の花丸。

「ああ、スマートフォンでもなんでも、買うがいい」

「ありがとう、じっちゃ!」

 

 そういって花丸は祖父に抱きついた。彼の顔はまんざらでもなさそうだったが、俺は見て見ぬふりをした。

 

「……ただし、一日一時間。料金も控え目にな。そのぶん、本のほうから、減らすから」

「わかったずら!」

 

 俺は祖母に目をやった。目があうと彼女は優しそうに、にこりと笑った。俺は感謝の気持ちを込めて頭を下げた。

 彼女の微笑みは、花丸によく似ていた。

 

        ・

 

 ちなみに灌頂とは僧侶になるための儀式らしかった。

 

 その週に一度、花丸と電話をして、料金プランと機種をしっかりと決めた。祖父の説得に力を貸してくれたことを、花丸にはあらためて感謝された。

 

 そして次の土曜日、晴れてスマートフォンを買いに行くことになった。うむ、これは買い物デートに違いない。

 家電量販店は郊外、沼津の中心部をはさんで内浦とは反対のほうにあるので、バスで行くことになる。花丸の家からだと沼津駅で乗り換えだ。駅前のバス停で待ちあわせた。

 

 内浦方面からのバスが到着して花丸が下りてくる。花丸は制服ではなく私服姿だった。クリーム色の半袖シャツの裾を前結びにして、グリーンのフレアスカートとあわせている。

 制服とはまた違った可愛さに、俺の胸は高鳴った。

 

 花丸は振り返り、誰かに手を貸す。続いておりてきたのは花丸の祖母だった。

 

 そうだ、俺たちは未成年だから携帯電話を買うには保護者の許可が必要で――祖母が一緒でなければ困る。うん、すっかり忘れていた。

 

「おはよう、花丸さん」

「おはようございます、遼さん」

「今日は、お世話になります」

 

 俺の挨拶にふたりは似たような感じで頭を下げた。

 

 薄緑色のバスに十分ほど揺られ、バイパスのバス停でおりる。家電量販店までは歩いてすぐだった。

 

「えーと、このへんのやつから選べばいいみたい」

 

 俺はふたりを売り場まで案内した。大手の携帯電話会社にはおよばないが、格安スマートフォンも機種が充実してきているらしかった。

 

「いろいろあって、迷いますね」

 

 花丸は並んでいるスマートフォンを嬉しそうにさわっていた。

 

「これは、色が素敵です。大きくて見やすいし」

 

 花丸がひとつを手に取る。

 

「うん、性能もいいみたい。でも……すこし予算オーバーかな」

「そっかぁ」

 

 花丸は残念そうに元に戻した。

 

 そのとき、ずっと黙っていた祖母が声をかけた。

 

「花丸、気に入ったのを買えばいいずら」

「えっ、でも……」

「おじいさんには、どうせばれないずら」

 

 祖母は花丸と俺に、にっこりと微笑んだ。

 

「まあ、そう思います。毎月の料金は、同じですし」と俺はうなずく。

「ほら、大丈夫ずら」

「……ありがとう、ばっちゃ!」

 

 花丸は祖母に両手で抱きついた。

 

 うーん、花丸、愛されてるな……。花丸の性格は、この祖父母と、両親あってこそ、なんだろうな。

 

 土曜日とあってすこし待たされたが、一時間ほどあとには、花丸は無事にスマートフォンを手にしていた。

 

「こ、これが知識の海につながっているずら……! 未来ずら!」

 

 目を輝かせる花丸に、俺と祖母は顔を見あわせて笑みを交わした。

 

 それから沼津駅まで戻り、駅近く店で昼食を食べながら――祖母にありがたくごちそうになった――花丸に基本的なことを教えた。

 

「はっ、遼さんからメールが届いたずら!」

「ルビィちゃん、返信が速すぎずら!」

「弘法大師のご尊顔が出たずら!」

 

 いちいち感動する花丸はたいへんに微笑ましく、可愛かった。

「危険な情報」の話は、次にあったときにさらに詳しく教えることにしよう。とりあえずいまは、なにかあったら連絡してほしい――または友達に相談すること――と話しておいた。

 

 ほんと、買えてよかった。一時は、どうなることかと思ったけど。これで花丸と連絡が取りやすくなるな。彼女との関係も進展する、はず。

 いや、それよりも……いつでもネットを使えるようになって、花丸が嬉しそうでよかった。彼女の知識欲に、インターネットの海原が解き放たれて……きっと彼女のためになるんじゃないかな。

 

 食事を終えて駅前まで三人、一緒に歩く。

 

 バスターミナルに止まっている始発のバスの前で、花丸はあらためて頭を下げた。

 

「今日はありがとうございました」

「いや、たいしたことしてないよ」

「でも、じっちゃのこととか、本当に世話になったずら」

「それは……花丸さんの助けに、なりたかったから」

 

 そういってから少し恥ずかしくなって、俺はなんとなく視線を外した。もろもろの下心は永遠に黙っておこう。

 

「ん、ありがとうずら。……マル、しっかり使いこなすよう、がんばりますね」

 

 花丸はそういってスマートフォンを握りしめた。

 

 バスの車内アナウンスが聞こえてきた。そろそろ出発らしい。

 

「それじゃ、また連絡します」

「うん、メールでもなんでも」

 

 花丸と祖母がバスに乗ると、すぐにバスは発車した。

 

 それを見送って俺は自宅に向けて歩き出した。いったん帰ってからバイトだ。今日のバイトは、いつもより前向きに取り組めそうな気がした。

 




 お寺と祖父の名前は独自設定になります。

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