窓から差し込む春の光が教室を暖かく照らしていた。俺は教室の窓際、うしろから二列目の席から眺める。約三分の一の生徒は頭を揺らしたり机に
初老を超えつつある現代文の
個人的に現代文の授業は嫌いじゃないんだけど……。午後一の授業っていうのが、始末に負えないな。この呪文に抵抗するのは、さすがになかなか難しいぞ。
とはいえ、いままで授業中に居眠りをしたことがない、というのがひそかな
たいして広くない校庭では体育の授業中だ。その先の左手には住宅街。反対にそこから視線を右に移していくと緑の公園が手前から奥へ帯状に伸びている。さらにその右には――青い海が広がっていた。
海が近いから
「……えー、つまりKは、ことここに至って、恋愛と今までの人生とが両立しない、と苦悩しているわけですね……」
「恋愛」という言葉が耳に飛び込んできて、突然、思い出す。昨日、出会った少女のことを。
・
沼津市街の中心部、ある書店。市内でも大きなほうの店で特に専門書と文芸書の品ぞろえには定評がある。代わりにラノベやコミックは申し訳程度で、高校生にはあまり人気がなかった。
俺は四月に入ってから、この書店でアルバイトを始めていた。
高校二年にもなると色々と物入りで、なにかいいバイトはないかと考えていたとき、たまたま立ち寄ったこの書店で募集を見つけた。もともと本は好きなほうだから興味をひかれて応募したところ、無事に採用されたのだった。
昨日の放課後も部活を早めに切り上げて、学校から直接、書店に出勤した。
二階のバックヤードに荷物を置いて更衣室で制服――といっても上着のシャツが支給されるだけでズボンはなんでもよいのだが――に着替えた。
「清潔感のある服装、髪型を心がけてください」と店長にいわれていたので、いちおう鏡で確認する。
鏡からはどこにでもいそうな男子高校生が見返していた。平均より少し高いくらいの背。太っても
はあ、我ながら眠そうな顔、してるな。
その昔、女子からは優しそうだ、といわれたこともあったが――まあ地味というのが正しいだろう。
もう少しなにか特徴があれば、彼女でもできるのかな。……いや、ないものねだりはやめておくか。
さて、シャツは……まあシワも目立たないし、こんなものかな。髪型も大丈夫、と。
やや
名札もOKで――そこには自分の手書きで「さとみ」とあった。仮名書きは
二階のフロアに出て、レジに入っていた社員の菊池さんに挨拶する。
「おはようございます、
菊池さんは中年に差しかかった痩せ形でメガネの男性だ。
「ああ、おはよう、里見君」
「一階に入りましょうか?」
まだバイトに慣れていない俺の作業はレジ打ちが中心だった。二階は専門書と文芸書が主なので客は少なく、レジはひとりいれば十分だ。
「いや、ここ、代わってくれるかな」と菊池さん。「ちょっと発注、かけてきたいから」
「わかりました」
俺はうなずいて菊池さんと交代した。
・
はっきりいって、平日夕方の専門書売り場は暇だった。一階は雑誌や参考書、多少のコミックがあるのでそれなりの混雑だが、二階はちらほらと客がいる程度だ。
ぼーっとしてても、仕方ないか。
レジに客が来ないあいだ、俺は棚を回って乱れた陳列を整えたり、ブックカバーをちまちまと折ったりする。こういう作業は実は嫌いではなかった。
そんな中、たまたま客が連続してやってきて俺はレジ打ちに追われた(そうでなければ彼女にはすぐ気づいただろう)。
「ありがとうございました」
客に礼をして見送る。
さて、しばらくレジは大丈夫そうだな。
もう一度、売り場を回っておくことにする。店長からは「売り場は整理整頓です」と口を酸っぱくいわれていた。
まずは理系、文系の専門書。あまり縁のない分野だ。
ハードカバーの文芸書。ときどき欲しくなる本もあるが、値段は高校生の財布にはきつい。
新書の棚。実用書が多いのでほとんど買ったことはない。ただビジネスマンには根強い人気があるらしい。平積みの山が乱れていたので直しておいた。
文庫。ここにはわりと馴染みがある。I書店のような硬めのレーベルが充実しているのはこの店らしかった。
文庫のなかには数少ないラノベもあり、俺は少しの感慨を持って棚を眺めた。
いつかここに、俺の本が並ぶことがあるのかな……。
そう、俺は恥ずかしながら中学のころから趣味で小説を書いていた。昨年あたりから新人賞に応募していたが、いまのところ一次審査を通ったのが一回だけ。あとは全滅だった。
個人的には商業作品とくらべてそれほど劣っているつもりはなかったが――もちろんうぬぼれだということは、わかっている――現実は厳しかった。
友人に見せて批評を乞うべきなのかもしれないが、なんというか恥ずかしさが先に立って、まだそこまでは踏み切れなかった。
・
いくつ目かの棚を曲がったところで、俺はゆっくりと動くカートに気づいた。カートには本が何冊も載っている。
あれ、棚補充中の先輩か、社員さんかな。菊池さんのほかにも、誰かいたんだ。
「あ、お疲れさまです」そう俺は声をかけた。
「ずらっ?」
ん、女の子?
顔を上げた姿があまりにも予想外だったので、俺はしばらく固まった。「ずら」もこのときは気にならなかった。
首を
形のよい丸顔に、やや目尻の垂れた、それでもぱっちりとした瞳。その瞳は光の加減か金色めいて輝いていた。
ふわりと背中まで伸びた栗色の長髪はわずかにウェーブを帯びている。
あれ、このセーラー服風の襟の制服は……どこの高校だっけ?
どこかで見た記憶はあったが、彼女が黄色いカーディガンを羽織っているせいもあって思い出せなかった。もしかしたら市外の高校かも知れない。短めのスカートからのぞく黒タイツの足がまぶしい。
そして彼女は可愛いだけではなくて、優しそうな雰囲気をただよわせていた。
うん、こっちまで穏やかになるな……。いやいや、ちょっと待て。そもそもなんで女の子がカートを押してるんだ。
雰囲気に
固まっていたのはほんの短い間だったと思う。
「す、すみません、お客さま」
俺はしどろもどろに、なんとかそう答えた。
彼女はにっこりと微笑み――俺の胸はどきりと鳴った。
「おかげさまで、台車を貸していただいて、助かってます」
やや低めの、それでいて透き通った声。カートから手を離し、両手を揃えてぺこりと頭を下げる彼女。俺よりもかなり背は低く――女子高生としても小柄なほうだろう。
「あ、いえ、どうぞ」
カートを貸し出すサービスなんて、聞いてないけど……いや、それよりも接客だ。
俺はバイトとしての責務を思い出した。
「えーと、なにかお探しの本や、お困りのことはありませんか?」
そういってみたけど、直感だと……きっと彼女は、俺よりも売り場には詳しいんだろうな。
意外なことに彼女は少し困ったような顔をした。
「あの、欲しい本があるんですが……」
「はい、なにをお探しでしょうか?」
彼女が知らない本が俺に見つかるだろうか。
「……手が届かないずら」
ずら? そういえばさっきもいってたかも。
お客さんの中にもそういういい方をする人はいるが、年配の人――というか老人ばかりで、若い人からは聞いたことがない。
まあ俺くらいの年齢からすると、一般的には「ダサい」、ってことになるよな。
彼女はあわてたように口に手を当てていた。かすかに顔が赤い。
うん、彼女も気にしてるみたいだ。
なんとか表情を変えずに――むしろ俺なりの微笑みを浮かべて答える。
「どちらでしょうか」
フロアの棚は高さが抑えられているものの、壁の棚は天井まである。売り場にはキャスター付きのスツールがいくつか置かれているが、女性だとやはり怖いと感じるかもしれない。
「こっち……です」
彼女は心なしかホッとしたようすでカートを押していく。思った通り壁際の棚の前で止まった。
「ここの、一番上の段。
「かしこまりました」
えーと、あれか。
背伸びをしてオレンジの背表紙の一冊を手に取った。両手で彼女に差し出す。
「ありがとうございます」
彼女も両手で受け取り、またぺこりと頭を下げる。つられて俺も礼をする。
顔を上げた彼女は、はにかむように笑った。もう一度、胸が鳴った。
彼女は丁寧に新しい本をカートの山に追加した。俺はちらっと眺める。ハードカバーより文庫が多く、日本の近代文学が中心で、あとは翻訳ものや新書などが混ざっていた。
うん、この選択なら、うちの店に来るしかないな。
「
彼女――花丸というらしい――のうしろから、もうひとりの少女が棚をまわってあらわれた。赤毛の髪を頭の左右でふたつに
「あ、ルビィちゃん」花丸は振り返る。「うん、だいたいそろったずら」
こちらの女の子も小柄で、くりっとした目がかわいかった。制服はベージュ系でダブルボタンだ。
俺に気づいたルビィは、目があうとなぜかびくりと体を震わせて目をそらした。
そんなに怖がられるような外見かなあ。
少しだけ傷ついた。
とはいえ、とりあえずそれ以上、用はなさそうだったので俺はふたりに目礼した。花丸はもう一度、頭を下げてくれた。
「今日もいっぱいだね」
「ルビィちゃんは欲しかった本、買えた?」
うん、いまのうちにブックカバーの準備、しておこう。
会話をするふたりをそのままに俺はレジに戻った。
・
花丸はすぐにレジへやってきた。ルビィはすこし離れた柱の陰から見守っている。
「さきほどはありがとうございました」
そういって花丸は本をカウンターに次々と上げる。
彼女はすごく嬉しそうだった。その感じは俺にもわかる。大量の本を買うことには一種の快感があると思う。そういえば最近、大人買いしてないかもしれない。
「二十三点、15,780円です。カバーはおかけしますか?」
「あ、そのままで結構ず……です」
ず、に引っかかるが、とりあえず手間が
「えーと、
「お願いします」
紙袋は二重にしておく。かなり重そうだが、彼女に持てるだろうか。
「下までお持ちしましょうか?」
「大丈夫ずら。オラ、ここで包んでいって、いいかな」
オラ? 包む?
包むって、マイラッピング……そんな言葉があるのかどうか知らないけど……かなにかかな?
俺が固まっていると花丸は鞄から緑色の布を取り出した。カウンターに大きく四角く広げる。彼女は紙袋を布に乗せると、布の角を寄せて
そうか、これは風呂敷だ。
誰かが実際に使うところを見るのは、ひさしぶりかもしれない。
花丸は慣れた手つきでもう一度、対角を結ぶ。
「よいしょっ!」
かわいらしいかけ声とともに風呂敷を背中に背負った。
「どうも、お世話さまでした」
花丸はぺこり。
「……あ、ありがとうございました」
かろうじて挨拶を思い出し、頭を下げた。
彼女は勝手知ったるようすでカートを定位置――バックヤードの入口前に戻した。うん、ありがとう、花丸さん。
「ルビィちゃん、かえろ」
呼びかけられたルビィは、ちょこちょこと花丸に駆け寄ると、俺のほうをちらっと見てから一緒に階段をおりていった。
ふたりの姿が見えなくなって、俺はふうっとため息をついた。
・
「ああ、うちの店では有名な子だよ」
しばらくレジを続けてから、戻ってきた菊池さんに彼女について話すと彼はそう答えた。
「びっくりしただろ。ときどき来て、大量に買っていくんだ。いまどきめずらしいよね」
たしかにネット通販もある時代だ。
「カートも貸してるんですか?」
「ああ、見るに見かねてね。いまでは毎回だよ」
「そうですか」
ますますめずらしい子だ。
考え込んだ俺に菊池さんは眼鏡の奥の目を光らせた。
「……里見君、可愛い子だから、気になったかい?」
どうやらバレバレだったらしい。しかし、まいった。これではどこの高校か聞けない。
仕方なく俺は知らんぷりをする。
「いや、別に……本が好きなんだな、って思っただけです」
菊池さんはなにもいわず、にこりと笑った。
・
「
「はい」
窪田先生に隣の女子生徒が当てられて我に返った。次は俺かもしれない。
一瞬、教科書に集中したが想いはすぐに彼女のことに流れていった。
花丸って、呼ばれてたっけ。
なんというか……意外性のかたまりのような女の子だったな。カートとか、ずらとか、風呂敷とか。ただ、言葉
それに……。
彼女はいわゆる美人ではないものの、可愛かった。美少女で通るだろう。
体のほうも――まあ俺も人並みには気になる――ルビィという子とは違って、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいた。
そして、あの笑顔。とても優しそうな雰囲気で、
いつのまにか俺は唇の端を
「恋愛」か。彼女のことを思い出したってことは……。
そう思ってからぶるぶるっと首を振る。まさか一度、店で会っただけでそんなこともないはずだ。
いま教科書に載っている話のように、恋はゆっくりと育てていくものだろう。突然始まるなんて、そんな都合のいいことがあるわけがない。俺はそう思おうとした。