月光が導く   作:メンシス学徒

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救いがたい亀更新。
すみません、ただひたすらに、すみません……




12

 

 

 

 その夜の情景は、セリュー・ユビキタスにとって生涯忘れられぬ記憶となった。

 

 

 

 既に辞令は下りている。近く新設が予定される、帝具使いのみで構成された特殊部隊。帝国の各方面からこぞって集められ、名簿化されたその人員の只中に、セリュー・ユビキタスの文字列もまた、しっかり刻印されていたのだ。

 一昔前なら間違いなく過剰戦力のそしりを受けていたであろう編成。ましてや指揮棒を握るのが、難敵と目されていた北方異民族の争乱を草でも薙ぐような容易さで片付け、「帝国最強」の看板に曇りなしと見事証明してのけた、エスデス将軍その人ときては最早言葉もないではないか。

 

「今の帝国の風雲がどれだけ急か、露骨にあらわしているじゃあねえか」

 

 この人事異動の告知の最後に、オーガが付け加えた一言である。正しく乱世のみが存在を許容する部隊といっていいだろう。それを構成する連中が同質のキワモノ揃いになることも、ある面に於いては必然だったに違いない。その事はもうじき開かれる「顔合わせ」の場に於いて、如実に証明される筈だ。

 が、まだいくばくかの猶予はある。

 その僅かな日々を、セリューは常と変わらぬ勤務態度で貫いた。

 いつも通りいの一番に登庁し、自主鍛錬に精を出し、犯罪を未萌に防ぐべく、(まなこ)を光らせ相棒(コロ)と共に帝都の市街を駆け廻る。「栄転」に浮き立つ心はあるものの、だからといって浮かれるあまりつい有頂天外まで魂を飛ばし、粗忽な振舞いに及ぶという軽佻浮薄な習性は、彼女に限って有り得ない。この点だけに着目すれば、セリューはまったく模範的な公僕であった。

 ことほど左様に忠勤を励んでくれた部下である。ただ紙切れ一枚を投げつけて、向こうでもしっかりやれよと放り出すのはさしものオーガといえど後ろめたいものがあったらしい。慌ただしくも手配りを済ませ、どうにか期日ぎりぎりまでに壮行会の開催へとこぎ着けた。

 会場は、メインストリートから若干離れた、安普請の料亭である。急なだけあって出席者も多くなく、数名の同期とあとはオーガ自身といった、まことにささやかな宴に過ぎない。

 

「わた、私なんかに、こんなに手厚く……!」

 

 にも拘らずセリューの感激は甚深であり、目尻に涙を溜めてまでこの「温情」に感謝を示し、ために却って出席者の方が狼狽するほどだったという。

 

「かくなる上は見ていて下さい、向こうでも決して警備隊の名を汚すような真似はしませんとも。私達がどれほど正義の熱情に燃えて悪を誅滅して来たか、粉骨砕身働いて、しっかり証明して来ます!」

 

 尤もその狼狽も、間を措かずして苦笑いに変わったわけだが。

 

「お、おう。まあ、その、なんだ、頼もしいよ、とても。けれどもそんなに気負わなくてもいいからな? 人間無理なく頑張れば、それで充分なんだから」

 

 同期の一人が、あたりさわりのないことを言った。

 

「はい!」

 

 最高の笑顔が返って来た。

 日輪と見紛う輝きに満ちた表情は、どう考えても言葉の裏に秘められたる感情などは読み取っていない。その熱量で、気付く間もなく悉皆灼き尽くしてしまっている。 

 

(血の雨が降るなあ、これは)

 

 事後処理(あとかたづけ)に駆り出されるであろう未来を思えば、暗澹たる淵に沈まざるを得ない(ヒラ)隊士達の心情である。

 

(呑むに限る、先は忘れて)

 

 罪も報いも後の世も、忘れ果てて面白や。――…

 さる有名な謡曲の一節を思い浮かべて――口ずさみはしない。すれば、目の前の危険物質がどんな化学反応を示すか目に見えている。態々地雷を踏みに行く奇矯な趣味など、誰一人持ち合わせてはいないのだ――、一同ぐっと盃を干した。

 山海の珍味を交えて酒の量は増えて行き、順次空気もほぐれ出す。

 一同、雑談に花を咲かせた。

 つり上がる物価によって圧迫される生活への愚痴から出発し、御政道の風向き加減、殉職した同僚の思い出話、果ては色恋沙汰に至るまで。

 話の種は次から次へと湧き出して、紅燈の下酒宴はいよいよにぎわった。

 丁度、そんな時である。玄関から異様なざわめきが聴こえてきたのは――。

 

 

 

 

(すわ、押し込み強盗でも入ったか)

 

 こうなると職業が職業である。一同、途端にしん(・・)として、座った眼になり火急の事態の備えを固めた。

 が、注意深く障子戸越しに気配を探るとどうもそうではないらしい。店側にとって思わぬ事態が発生したのは確かなようだが、それは別段、命の危険が伴うものでもないようだ。察するに、予約もなく高貴な誰かが来訪したか。

 

(なんだ)

 

 ほっと気が抜け、抜けた後の空白地帯に、すぐさま憤りが流れ込む。

 

(どこのどいつか知らねえが、人騒がせな)

 

 だいたい従業員共の、この無様さときたらどうであろう。玄関で大騒ぎを演じただけでは飽き足らず、先ほどからどたどたと、無遠慮に板敷を踏み鳴らして廊下を往来する様は、自分達元々の客の存在を忘却したとしか思えない。

 

「ちっ」

 

 一座の中で最も背丈の低い者が鋭く舌を打ち鳴らし、その勢いを駆って立ち上がる。

 

「よせ」

「静かにするよう注意してくるだけですよ。このままじゃ雰囲気もへったくれもありゃしない」

 

 オーガが諌めるのも聞かず、彼はぐわらり(・・・・)と障子戸を開け、腕まくりして出て行った。

 次に、思いもかけぬことが起こった。たった今出て行ったばかりのその彼が、巨人にでも突き飛ばされたような勢いで、部屋の中に転がり込んできたのである。

 

 ――どうした。

 

 とは、問う必要がなかった。すっと障子に映り込んだ影法師を一瞥しただけで、全員がその理由を頓悟する。同時に彼らの姿勢が、背中に定規でも突っ込まれたかのように正された。そう、仮にも帝都警備隊に籍を置く者である以上、この輪郭を見紛うことなど有り得ない。

 

「いい夜だな、諸君」

 

 人とは思えぬ白磁の肌。

 底に果てなき埋み火を隠した灰銀の瞳。

 警察長官、コジマ・アーレルスマイヤーが、供も連れずにたった一人で部屋の中へと身を入れた。

 

「宴もたけなわといったところか? ちと邪魔するよ、空けてくれ」

「はっ、直ちに」

 

 嘗てなく迅速なオーガの手配りによって、たちまち新たな席が設けられた。

 膳部が置かれ、取り上げた盃にやはりオーガが酒器をあてがう。なみなみと注がれたその透明な液体を、ぐっと一息であけてしまうと、コジマは改めて一座を眺め、

 

「楽にしたまえ。私も所詮、この会の目的に共鳴して誘引された一分子に過ぎん。余計な気兼ねは無用である。呑み、騒ぎ、謡い、景気よく我らが朋友を送り出してやろうじゃあないか」

 

 無礼講の宣言である。

 が、如何に立場忘却の建前をぶち上げられても、社長と同席させられて、その通りの振舞いに及べる社員はいまい。自ずから雰囲気は別物となる。

 

(その程度のことが、判らぬ方ではないはずなのだが)

 

 だからこそ、彼らにとってコジマの料簡は一層不明瞭なものとなり、漠然とした不安感が付き纏う。

 

(ましてや景気よく送り出してやろう、とは――)

 

 今回の人事がどういう性質のものであるかは、全員が全員、つと(・・)に承知しているところである。

 まず間違いなく、三獣士を見殺し(・・・)にしたコジマに対する、オネスト・エスデス一派による報復と見ていいだろう。長官のはらわたは煮えいるに相違なく、だからこそ目の前にあるこの陽気さが理解(わか)らないのだ。

 理解不能なものへの恐れは人間の本能に立脚している。暗雲はいよいよ厚みを増して、彼らの肩にのしかかった。

 

「聞いたぞセリュー、君、近頃随分と調子いいみたいじゃないか。鍛錬とは言えこいつ(オーガ)相手に立合って三本に二本は堅いとは、いやさ実際、大したものだよ」

「なっ、何故そのことを!? あっ、サヨですか、サヨですね!? うー、まったくもう」

「照れる必要ァねえだろう、本当のことだ。ったく、あっさり追い抜いて往きやがって、腹立たしいくらい鼻が高いぜ、ほんとによ」

 

 例外は、オーガとセリュー位のものだろう。

 前者は今ここで首を切り落とされようと、それがコジマの手によるものなら恍惚として受け入れる魂の譲渡者に他ならず、後者に至っては二十歳(はたち)にもなって本音と社交辞令の区別もつかない、空気を読む能力から決定的に見離された女ときている。

 苦労するのはいつだって常識人だということが、えげつないほど明確に証明された場であった。

 

「――そう、この程度で面映ゆがってはいられない。君はこれから、オーガに、帝都警備隊隊長に、命を仰ぐ(・・)のではなく下す(・・)側に廻るのだから」

「えっ?」

「ん? なんだ、知らなかったのか? 今回新設される特殊部隊だがな、アレは命令系統上、帝都警備隊の上に位置する。疑いようもなく、明確にな。その権限は帝国全土に及ぶと既に議決された以上、所轄に煩わされることもない。帝都の何処で起きた事件であろうとも、君は直ちに現場の警備隊士から指揮権を取り上げ、事件解決を主導することが可能になるのだ」

「おお、そん時ァひとつ、せいぜいお手柔らかに頼むぜえ」

「えっ、えっ、えっ」

 

 おどけて敬礼の真似事までしてみせるオーガに対し、セリューはただただ、目を白黒させるより他にない。彼女の想像力では、自分が師匠の上に立つなど――あまつさえ指先一つでこき使っている情景なんぞは夢寐にも描けなかったに違いないのだ。

 が、コジマは容赦しなかった。セリューに付与されるであろう超法規的特権の数々を、ここぞとばかりにつるべ打ちに浴びせにかかる。

 

(まずは自覚だ。それなくしては話にならぬ)

 

 こういうことをやらせると、コジマの右に出る者はいない。令状なしの強制的な家宅捜索権、裁判所を介することなく即座に容疑者を逮捕、投獄、処刑する許可、他にも他にも――こうした硬質な文字の羅列が彼女の唇を介するや、たちどころに経口補水液より吸収効率の高い生温い粘液に変化して、脳髄の中枢まで滲み透ってしまうのだから玄妙と評する以外ない。

 一座の者は不安も忘れて聞き入って、やがて揃って理解した。これはとんでもないことだ。

 

(それほどまでの強権を、こんな狂犬めいた女に渡すのか)

 

 血の雨が降る、どころの騒ぎでは済まされない。おれたちの予想はまだまだ全然甘かったのだと、彼らは顔を青ざめさせる。

 類例を地球史に求めるならば、丁度旧ソ連に於けるチェーカーが相応しいと言えるだろう。レーニンという独裁者に実質直属していたあたり、いよいよ近い。反革命分子・人民の敵という至極便利なレッテルを何処へでも好きなだけ張ることを許されたこの集団が当時のロシアで如何に凄愴酸鼻な赤色テロルの旋風を巻き起こしたかは、地獄の邏卒も兜を脱がんばかりであった。

 なにせ、初代長官の就任演説からしてもう既に、「私には裁判など必要ない。必要なことは、反革命と徹底的に闘うことだ。反革命を皆殺しにしてやる」と怒号するわ、「我々の指導者一人の命が奪われれば、人質一〇〇人の頭を吹き飛ばせ」と非常に景気のいい戦術を週報に載せるわ、挙句の果てには外国人に道を教えただけの市民をスパイと決めつけ処刑するわと、誰が聞いても開いた口が塞がらなくなる滅茶苦茶を、しかし正気で罷り通らせた機関である。

 俄かには現実と信じられぬ話ばかりだが、何よりも受け入れ難いのは、彼らチェキストどもをしてこれほどまでの凶行に走らせた原動力が、揺るぎなき信念と正義の熱情に他ならないという一点だ。

 まこと、「正義」ほど手に負えない、厄介な代物も珍しい。

 のち、この組織はGPU(ゲーペーウー)と改名し、やがてKGBへと続く。

 その名を聞いては泣く子も黙る、地上に並ぶもの無き神の如(・・・)き権勢(・・・)が、まさに今、この帝国にも誕生しようとしているのだ。

 

「――そう、だからこそ、君には神の如(・・・)き聡明(・・・)()が要求される」

「……!」

 

 なんのことはない、権利と義務の原則論だよ、と。

 そうコジマに告げられるや、セリューはとうとう、雷にでも打たれたような顔をした。

 

「不安かね」

「恥ずかしながら、あまり自信が持てません。熱誠にかけては誰にも譲る気はないんですけど、聡明さとなると、ちょっとその。昔から机の上で勉強するより、外に出て身体を動かす方が好きでしたから」

「入隊試験にもろに出てたな、その傾向。筆記は壊滅的だったくせに、実技で図抜けて面接の好印象でどうにか合格。変わってねえなあ、お前はよ」

「今回だって、引継ぎの書類作成に大苦労していましたねえ。頭を抱えて真っ白な紙面と向き合って、しかもぴくりとも動かないから、てっきり念写に挑戦しているのかと思ったよ」

「最終的には半べそかいて俺らに泣きついて来たっけか。忘れんなよ、貸し一つだぜ」

「わー! わー!」

 

 セリューの弱気の告白に、オーガが突っ込み、隊士達が便乗する。尊敬するコジマに知られたくない数々の失態を暴露され、セリューは羞恥で真っ赤になった。

 

「もう、みんなひどいです」

「くくく、そうむくれるな。不足を知るは『足る』への一歩だ。現段階で及ばないと分かっているなら、これから鍛えればいいだけの話。鉄とて百錬すれば鉄をも断ち切る刃と化すぞ、ましてや人間においてをや、だ」

「長官……」

 

 潤んだ瞳でコジマを見上げるセリューの姿に、男どもがなにやら艶かしい雰囲気を感じ、特定の部位に血を昇らせた。やむを得ざる悲しきサガといっていい。コジマが登場して以来、張り詰めっぱなしだった空気が初めて緩んだ瞬間である。

 

「いいかねセリュー、安心したまえ。私は何も君に向かって、責任の重さに怖じけるあまり、何者をも裁けぬ腑抜けになれと言ってるわけじゃあないんだよ。良心に従うことが常に最善の判断とは限らぬように、聡明さと寛大さとは必ずしも一致するわけではないからね。惨刑を下すに相応しい状況というのは必ずあるし、そういう場合に躊躇するのは愚だろうさ。どんどんやるよう期待する」

「あ、それなら得意です!」

 

 ところが続くやり取りが、色っぽい空気をものの見事にぶち壊しにしてくれた。途端に部屋が血腥くなったような気さえする。

 

「結構、いい返事だ。ああ、しかしな、これだけは篤と弁えておけよ? ――他を裁くに急なる者は、往々にして自らを裁くに緩となる。返り血に染まり過ぎるのあまり、自分自身を見失うようなことにはなるな。それもまた、愚かさへの転落に変わりはない」

「勿論です」

「本当か? そんな不用意に即答して、本当にいいのか? 人間誰しも自分の事は自分が一番分かっているとのたまうけれどね、これがどうして、見当外れな場合が多いぞ」

「そんな、嘘です。だってこの、自分ですよ? 長官は私をからかっておいでだ」

「しかしながら、自分の顔を直接自分の目で見た奴はいないだろう? 背中や、尻の穴とて同様だ。存外、見落としがちなものだよ、自分自身と云うやつは。――ゆえ、絶えず油断なく見張らねばならん」

 

「尻の穴」でおもいきりむせた阿呆がいたが、コジマは無視した。ここだ、と、澱みなく語を継いでゆく。

 

「正にこれこそ、聡明と愚かさ、人と獣を分かつのだ。自分で自分を見張ること、それはすなわち、自覚と反省の繰り返しに他ならない。この繰り返しこそが、意識界に於ける折り返し(・・・・)である。この鍛造工程を踏むことで、人間性に厚みと強度、柔軟性が加えられ、夜にありて迷わず、血に塗れて酔わぬ強き個我が出来上がる」

 

 

 

 ――…だから君、論理を超越する神秘に憧憬(あこが)れ、利害を無視する純情に生き、仄白い霧の彼方まで踏み入らんと欲する者よ。まずは内なる獣を直視したまえ。

 

 

 

 ぐじゅり、と。

 側頭葉が泡立つようにざわめいた。悪夢の底から拾い上げ、脳裏に刻み込んだ警句の数々――ついに果たされなかったその一つを、意識するや否やこれである。

 

(おちおち追憶にすら耽れんとはな)

 

 まったく閉口の限りではないか。無遠慮に、何かがこじ開けられているようだ。不快だが、勝手知ったる感覚でもある。

 そうだ、見なければ、知らなければ支配することも叶わない。視覚が生命に及ぼす力は、他のどの感覚にも増し激甚たるべきものがある。なにしろ遥か太古の昔、生命を海から陸へと導いたのは、発達した眼球だったというのだから。

 

 ――ああ、ひょっとしてそれなのか? 古き探究者どもがこぞって超越的思索獲得の鍵たる器官を「思考の瞳」と名付けた理由はそこにあるのか? 「見る」という行為はときに進化を誘発する。そのことを、あの冒涜的殺戮者たちも知っていたのか?

 

 つくづく以って、獣の病は恐ろしい。瞳孔の蕩けた目玉では何も見えない。自らの獣化にさえ気付けぬままに、粗末な武器を手に取って、獣狩りに立ち上がる愚さえ容易に犯す。やがて本物の狩人がやって来て、彼らに死を叩き込む、その瞬間に至るまで、憐れで惨めで、そして何より滑稽で滑稽で仕方ない自家撞着を繰り返すのみだ。何処へ辿り着くことも無いだろう。それはそうだ、本人は進んでいるつもりでも、その実一箇所をぐるぐる廻っているに過ぎないのだから。

 

 おぞましきかな獣の軛、悦ばしきかな上位者の智慧。

 

 智性こそ人の持ち得る究極兵器とコジマ・アーレルスマイヤーは信じている。本能ではない。何となれば智性を以って本能を忖度することは可能だが、本能を以って智識を解釈することは、これは絶対に叶わぬ相談なのだから。

 そうだ、成長の過程に於いて人間は、どうしても叡智の焼刃で自らの本能(獣性)をかっさばいてやらねばならぬ。

 手を突っ込み、直接触れて取り出すのだ。セリュー・ユビキタス、この可憐なる病み人も、そろそろ己が本能(アレルギー)たる悪への憎悪に刃先ぐらいはぶち込んでいい頃合いだ。

 

「絶えず自らを解剖台の上に乗せ、無慈悲なメスを加えたまえよ。腑分けして、凝視するのだ。苦痛を厭うてそれを避ければ、君の裁きはやがて必ず平衡を失う。自分一個の愉しみのため、快楽のため、復讐心を満足させるために殺し続けるようになる。それの何処に美があるか、正義があるか。私達は公僕だ。刑罰もまた公務の一環であることに変わりはなく、その目指すところは私利にあらずして公益である。にも拘らず、一罰百戒の効も望めず、将来の利益も念頭に置かない刑罰を敢えて下すようならば、所詮他人を傷付け勝ち誇り、得意がる破落戸(ゴロツキ)どもと何ら変わりはしないだろう。自律なき自由は必ずそんな放恣に至る。そうはなって欲しくはない。そんなものは見たくないんだ」

「――」

 

 長い御講釈だった。

 が、奇妙にも、こうしたことに付き物である疲弊感がまるでない。

 それどころか、躰の奥から激しく洶湧(きょうよう)して来るものがある。火のように熱いその何か(・・)が血に溶けて、肉を甘く疼かせるのだ。後日、一座の多くが、この時わけもなく大声で叫びたくなったと述懐している。

 やがて、セリューが口を開いた。

 

「……重ね重ねの御厚情、心より感謝致します。そして、ああ、どうか御安堵くださいますよう。私、これでも耐え忍ぶのにはちょっと自信あるんです。長官の仰った数々の義務、痛みを受け止め、必ず成し遂げてみせること、ここで父の名に誓います」

 

 厳かに掲げられた両の手は、しかし血が通わなくなって久しいものだ。

 最初こそ骨肉を削いで銃を仕込んだだけであったが、あの変態(ドクター)が次から次へと新たな機構を思いつき、その度に改造を繰り返したため今となっては二の腕以下が完全に無機物と入れ替わってしまっている。

 これから先の人生ずっと、誰と手を繋ごうが、どんなに指を絡めても、ぬくもりを分かち合えることは二度とない。

 それを承知で、彼女は施術に同意した。

 毎回、一秒だって逡巡せずに。話を持ちかけられるや否や、

 

 ――やります、是非ともお願いします。

 

 と快諾してきた。 

 いずれは乳房に子宮――およそ女たるの証明さえも取っ払い、自決用の爆弾やらジェネレーターやら仕込むことさえしかねない。セリューには、そんな凄味が確かにある。

 

「そうか、そうだな、そうだった。正しいと信じる目的の為なら限界はない、自らの四肢とて躊躇を交えず切り落とす、そうであってこその君だった。――よかろう、セリュー、信じるぞ(・・・・)

「っ、はい!」

 

 未だ完成には程遠い、粗削りもいいところ。

 けれどもしかし、その言葉の重みが読み取れぬほど、もはや幼くはないのである。それがセリュー・ユビキタスの、現下に於ける位置だった。

 

 斯くて思惑は成就する。

 

 他に影響を及ぼさずにはいられない、重力場めいた強烈な個我の持ち主へと送りつけるに先駆けて、コジマとサヨが描いた絵図。この危なっかしくも愛おしい病み人の真ん中に、楔を一本、深々と打ち込んでおくことが。

 

(この手応えならば、いいだろう)

 

 野暮な真似をした甲斐があった、と、コジマは心中深く満足した。

 これで安心して、日々の雑務に勤しめるというものである。コジマはまた、書類の山に埋没する習慣へと還っていった。すべては終わった。

 

 

 

 が、終われなかった。

 

 

 

 彼女の首根っこを引っ掴み、紙の山から引き摺り出す者が居たのである。帝国広しといえども、そんな乱暴が可能な相手はただ一人しか有り得ない。

 

 順を追って説明しよう。件の夜から五日後の、穏やかな昼下がりのことだった。執務室にて机に向かい、黙々と、張り巡らせたスパイ網から上がって来た諜報の束を整理して、歴とした報告書の形式に仕上げ直していたコジマの指が、急に停止したのである。

 

「長官?」

 

 この程度の異変とて、見逃すサヨでは有り得ない。彼女もまた作業の手を止め、視線をやると、コジマの態度はいよいよ妙だ。

 

「――」

 

 サヨの呼びかけにも答えない、どころかそも、気付いたけぶりさえもない。目つきも鋭く、扉の向こうを凝視している。ただ事ではないと悟って、サヨが身構えた瞬間だった。

 

(……足音)

 

 こつ、こつ、こつと、ぶれることなく一定の間隔を保ちながら、床を踏み鳴らす音がする。真っ直ぐに、この執務室へと近付いている。

 やがて扉の前まで差し掛かると、今までならば次の足音が聞こえていたタイミングで、ばきゃあん、と、留め具が甲高い断末魔の悲鳴を上げて、勢いよく蹴り開かれた。風圧で、カーテンの裾が僅かに揺れた。

 

「久しいな、少佐(・・)

 

 美麗でありながらどこか背筋を寒からしめる、おそろしいものを秘めた声。

 豊穣なる起伏に富んだ肉体は、袖の先まで機能美に貫かれた軍服によって包まれて、一種凛然たる凄気を帯びる。

 腰どころか、実に膝まで流れて余りある髪ときたらどうであろう。雪の溶けざる遥かな極地で何世紀もの時を噛み、形成されるに至った氷河――その中でも特に純度の高い氷河のみから滲み出す、蒼古たる青色(グレイシャーブルー)としか、これは形容しようがないではないか。

 

(ああ、この人が――)

 

 理解する。

 この女性こそ「帝国最強」、おそるべき氷の魔人、エスデス将軍に違いない。

 

(大丈夫かしら)

 

 サヨの心に、不安が募った。巷の風聞を信じるならば、この二人の関係は――。

 

「ノックぐらいしたまえよ、仮にも文明社会に属すなら。その軍服は飾りかね?」

「ふん、変わらんな、お前は。相も変わらず、格好つけの気取り屋め。今日も自分の美辞麗句に酔っぱらっているらしい」

「風雅を解する心も持たんか、これだから野蛮人は度し難い」

「軟弱化を文明的と取り違えている馬鹿の口から言われたところで、痛し痒しとも思わんな」

「あ?」

「ん?」

「どうどう。長官、殿中です、殿中ですから」

 

 何もかも風聞通りだった。

 内心盛大に嘆きつつ、決死の覚悟で両者の間に割って入るサヨである。

 前門の虎、後門の狼――どころではない。気分はさしずめ、デーモン・コアを組み込んだ二つのベリリウムの半球に、マイナスドライバーを突っ込んでいる科学者のそれ。手が滑り、ドライバーが外れ、半球同士が完全にくっついてしまったが最後、即座に臨界が訪れる。その上輪をかけて悲劇的であることは、サヨはルイス・スローティンと異なって、こんな所業に及んでまで名を揚げたいと逸る心も持ち合わせてはいないのだ。

 

「……お前、変わった匂いがするな」

 

 が、サヨの受難はまだ終わらない。

 運命を呪いながらもなんとか「事故」を防ぐべく力を尽くす、そんな健気さが興味を惹いてしまったのか。薄い瞼をすっと細めて、獲物を見付けた蛇のような表情で、エスデスが顔を寄せてきたのである。

 

「ふむ、ふむ。なんだ少佐、随分と面白そうなやつを見つけたじゃないか。何処から掘り出したんだ、これ」

「手を出したら微塵切りにしてやるぞ。既にセリューを持って行った分際で、貴様というやつは、いやらしい」

「おっ、それは誘い受けというやつか? お前が相手をしてくれるなら、その気がなくとも思わず手を出したくなるじゃあないか、ええ? 少佐」

「その呼び方はよせ。今の私は警察長官だよ、ばかたれ。いつまでも上官風を吹かせてもらっては困る」

「私は一向に困らん」

「なんだと貴様」

「長官、抑えて下さい。後生ですから、長官、長官ぁん!」

 

 後でまた、匂い立つ血の酒を強請ってやろう、絶対そうする。

 そうでもしなけりゃ到底この苦労に見合わない――と、密かに誓うサヨだった。

 

 

 

 暫くして場が鎮まると、改めてコジマは問い直す。いったい何の用件だ。

 

「ああ、それはな、是非ともお前に協力して欲しいことがあってだな」

「なに、協力? 協力だと? 貴様が私に協力を求めるだと?」

「その通り。――それ、受け取れよ」

 

 軽やかな言葉と共に飛んできたのは、紐綴じにされた書類だった。

 

(礼儀知らずめ)

 

 まるで手裏剣の如く高速回転するそれを、コジマは危なげなく掴み取り、早速ぱらぱらめくりだす。

 

「……都民武芸試合開催の計画書、か」

「そうだ、適格者の居ない帝具が手元に三つもあるからな」

 

 むろん、「水龍憑依」ブラックマリン、「軍楽夢想」スクリーム、「二挺大斧」ベルヴァークのことである。殉職した三獣士が揮っていたこれらの帝具はコジマによって回収され、その後めぐりまわって今はエスデスの手元にあるらしい。

 

「いつまでも遊ばせていては大臣に持って行かれてしまうし、何より勿体ないからな。ひとつ私が直々に、相応しい持ち手を鑑定してやろうというわけだ」

「そうか、まあ趣旨は概ね理解した。まずまず妥当な提案だろう。……だが、お前、模範試合(エキシビジョン)だと? これは正気の沙汰事か?」

「何を不思議がることがある? 生ぬるい試合ばかり演ぜられては迷惑だ、思わず殺したくなりかねん。うっかり手が滑って槍でも投げ込んだら事だろう。だから劈頭一番、手本を見せて、参加者どもに気合を叩き込んでやる。どうだ、理に適っているではないか」

「その為に、たかがカンフル剤の用を果たす為だけに、私と貴様を動員するのか。いやはや、なんとも豪気なことだな」

 

 傍に控えていたサヨの顎が、すとんと落ちた。

 

「しかも後は私の同意さえあれば済むところまで手筈を整えてきやがって。帝具の使用はなし、武器も同様、持ち込んでいいのはただ己の五体のみ、ねえ。よく大臣が通したなあ、こんなもの」

「私の恋人探しが難航しているからな。どれもこれも、飼うにも足りないクズばかり揃えおって。その埋め合わせにと迫ったら、案外あっさり頷いたぞ」

「ああ、あれも耳を疑う提案だったが。――もしや貴様、最初からこう生かすことを考えて?」

「ふっ」

「……では、ないな。改めて周囲を見回してみたら、偶々利用出来そうだと気付いただけか」

「どうでもいいだろう、そんなこと。じれったくなってきたぞ、いい加減。今、お前が頭を使うべきは、やるか、逃げるかの選択だけだ。――来いよコジマ、怖いのか?」

(あっ)

 

 その瞬間、サヨは確かに、チェレンコフ光(・・・・・・・)の放射(・・・)を目の当たりにした。

 椅子を蹴り飛ばしながら立ち上がり、ペン立てから愛用の万年筆をむしり取るように引き抜くと、目にも止まらぬ勢いで同意書の上を滑らせる。

 瞬息裡にて署名を済ませ、書類をエスデスに突き返したコジマは、笑っていた。

 積年の恋がようやく容れられた乙女のような、幸福そのものの笑みだった。

 

「いいさ、いいとも、いいだろう、私も偶には羽目を外そう。――遊ぼうか、エスデス。お望み通り、根限(こんかぎ)り。どちらかの息が絶えるまで」

「うん、遊ぼう」

 

 童女の如き素直さである。

 勘弁して欲しかった。あたまがおかしくなりそうだ。なぜ、この嗜虐趣味で名高い将軍までもが邪気のない、安らかな微笑を浮かべているのか。これではまるで婚姻前夜の光景だ。

 サヨですら、あまりにそぐわぬ両者の態度に錯乱しかけているのである。まして亡き三獣士がもしもこの場に居たのなら、彼らの中のエスデス像とあまりにかけ離れたこの口吻に、自我崩壊程度軽く起こしたに違いない。

 

「嬉しいな、ああ、本当に嬉しい。ここに来るまで、ごねるお前をねじ伏せ無理矢理、というのも素敵とばかり考えてたが、こう、思いが通じるのも悪くないなあ。――よし、やろう、根限り」

 

 

 

 斯くて合意は果たされた。あらゆる障害は取り除かれて、後は突き進むのみである。ついにコジマとエスデスが、帝国の誇る二大巨頭が、超級危険種も裸足で逃げ出す怪物二匹が、正面切って殺し合う。

 帝都に身を置く総ての命が、心底恐怖しながらも、同時に待ち望んだ大衝突(Giant Impact)――その実現は今ここに。

 天も地も、息を殺して見守るだろう。頂点捕食者を決定づける、月光と氷河の闘争を――。

 

 

 

 


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