月光が導く   作:メンシス学徒

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およそ五ヶ月ぶりの投稿…
赦してくれ…赦して…くれ…





11

 

 

 

 思えばその日は、最初から嫌な予感がしていたのだ。

 現地の警備責任者として勤務していた某大尉は、往時をそう回顧する。

 

「なに、竜船が?」

 

 もう戻ってきたと言うのである。

 にわかには信じ難い報告だった。離岸してから、まだ数刻と経っていない。事前の航行計画では、往路の途上に在る筈である。

 

「何かの間違いではないか。望楼の連中、この真昼間から酒でも喰らっていたのではあるまいな」

 

 諧謔を弄びつつも、彼の声色には、隠しきれない(ふる)えがあった。むしろそうであってくれ、と願っているかのようだった。

 さもありなん、馬車のように、忘れ物に気付いたからといってすぐに取って返せる乗り物ではないのである。

 船だ。

 それも皇帝陛下の御巡幸艦、城かと見紛う巨大船。おまけに本日、その船体は、雲の上のお歴々が寄り集まって鵜の目鷹の目を光らせる、一大交際場裡と化している。急病人への備えとして、船医だって増員された。余程のことでもない限り、進路の変更さえ有り得ぬだろう。

 

(が、もしも真実、戻ってきたとするならば――)

 

 それはつまり、「余程の事態」が発生した何よりの証拠ではなかろうか。

 

(碌でもない。絶対に碌でもない事態だ畜生め!)

 

 こんな状況に立たされて、それでも声の慄え程度で済むならば、むしろそいつは豪胆の評を受けていい。

 己が眼で状況を確かめるべく望楼へと向かった大尉は、その途中、何度も階段を踏み外しかけた。

 自分が登っているものが、ふと死刑台への十三階段に見えたのである。しかもそれは、あながち錯覚とも言い切れないのだ。

 

(帰りてえ)

 

 今すぐ此処を逃げ出して、安酒と、馴染みの娼婦に溺れたかった。あの細い腰に指を(うず)めて抱き寄せて、白い肉と熱い血を、思い切りむさぼり尽くしてしまいたかった。

 ところが現実の彼の手は、堅い遠眼鏡を掴んでいる。部下からもぎ取るように受け取ったそれを、血眼で覗き込んでいる。

 

「――――」

 

 雨にけぶる景色の向こう、映っていたのは絶望だった。

 獣めいた呻吟が、彼の喉奥から漏れた。

 不意に重力が消失する。かくんと膝が落ちかけた。

 

「大尉殿!?」

「鐘を鳴らせえええええッ!」

 

 警報の発令である。直ちに緊急対処体制が整えられた。

 竜船の巨体がゆっくり近付き、埠頭に横付けされるに及んで、兵卒の端々に至るまで、大尉の受けた衝撃が共有されるようになった。

 

(なんということだ)

 

 至るところ、傷だらけなのである。

 欄干などは八割方が吹き飛んでしまって影もない。甲板は割れ、船腹にも岸壁を擦ったような痕があり、全体的に風通しがよくなっている印象だ。

 あってはならない光景だった。

 帝国の権威が傷付けられたと物狂いしたように言い騒ぐ連中の姿が目に浮かぶ。その怒りの矛先は、下手人はむろんのことながら、犯行を阻止すべく配置されていた沿岸警備隊にも向けられるに相違ない。

 

(つまりは、俺達のことではないか)

 

 兵どもの顔色が、みるみるうちに蒼褪めた。

 無能と糾弾され、吊るし上げられる未来図に、世界の総てを呪わずにはいられないのだ。

 その只中に、竜船上から魔の如く飛来した影がある。

 

「あっ」

 

 大尉は、ふと妙な既視感に襲われた。この光景は、つい数刻前に一度見ている。その時降り立った人物は、そうだ、確かに――

 

「警察、長官――殿ッ……!」

「やあやあ、諸君。出迎えご苦労、私である」

 

 果たして、影はやはりコジマであった。

 ただ、その風采は一変している。

 外套は赤黒い襤褸屑と化し、羽織っていると言うよりも、纏わりついているといった表現こそが相応しい。その下の軍服も無事ではなく、あちらこちらと切り裂かれ、白い肌が露になって、醸し出される艶めかしさは直視するのを躊躇うほどだ。

 が、それにも増して目を引いたのは、やはり右手にぶら下げられた物体であろう。

 

「ちょ、長官殿、それはいったい――」

「大尉、君は知っているはずだ。酒場で、街角で、城壁で、何度も目にしているだろう? ――手配済みのナイトレイド、その一人、『百人斬り』のブラートだ」

 

 そう言って、未だ血の滴る生首を、コジマはずいと掲げてみせた。

 

「す、すると、この有り様は」

「うむ、畏れ多くも皇帝陛下の竜船に不敬をはたらいた下手人である。――晒せ」

 

 沿岸警備隊に対する直接の命令権など、本来コジマは持っていない。

 海軍の管轄なのである。

 まずは船上に人を入れ、現場検証を行うことで、この発言が真か偽か、確認するのが道理であろう。コジマ・アーレルスマイヤーとてそれまでは、推定容疑者の一人の筈だ。事情聴取を名目に、尋問室へ連行しても文句は出せない立場である。

 ところが当の大尉の反応ときたらなんであろう。脊髄に電流を流し込まれたかのように姿勢を正し、頭を垂れて両手を差し伸べ、まるで王侯から栄爵を賜るさながらに、恭しくその物体を受け取っていた。

 

「それとな、大尉。運河沿いの両岸に、哨兵を派遣してくれたまえ。一人逃がした。手傷は負わせたが生きていよう。この雨だ、痕跡はあっという間に消えるだろうが、可能性は捨てたくない。対象の特徴はここに纏めてある」

 

 と、手を取り紙片を握らせて、

 

「頼んだぞ」

「はッ、直ちに!」

 

 完璧な敬礼で応えてみせた。

 それ以外の対応は、ちら(・・)とも脳裏をかすめなかった。

 事態の転がるあまりの速さに脳の機能が追い付かず、茫然と突っ立っている部下共へと喝を入れる。唾を飛ばして怒鳴ることで、彼は必死に自分が今見たものを忘れようと努めていた。

 

(笑っていた。――)

 

 雪すら嫉妬しかねない真白の頬を、ほんのり桜に色づかせ。

 コジマはずっと、蕩けるように微笑んでいた。

 その瞳孔はときに焦点を失い彷徨し、重度の熱病患者を連想せずにはいられない。

 熱。

 そう、熱だ。

 彼女の中で殺人の興奮、黒々としたその余燼がとぐろを巻いて、蛇体を軋らせもっともっとと哭いているのだ。

 

きんたま(・・・・)がずり落ちそうになったぞ、冗談じゃねえや、化物め)

 

 むろん大尉とて、そこは軍属の身の上だ。使命感に勇み立つ、紅顔初々しい新兵ばかりを相手にしてきたわけではない。

 時には明らかに娑婆で何人か殺していそうな、有り余る殺人欲求の捌け口として軍役を志願したとしか思えないような奴もいた。

 世に云うところの屑中の屑、戦争がなければ猟奇殺人者にでもなるより仕方のない手合いである。この種の輩には――誰も明言したがらないが――それ相応の扱い方が、軍には確と存在している。言葉に出せない彼らの密かな衝動を、どう任務という形に当て嵌めて満たしてやればよいものか。経験から、大尉は十分承知していた。

 対処法さえ掴んでしまえば、それはもう、化物でもなんでもない。単なる一個の消耗品だ。怯える必要がどこにあろうか。

 

(だが、違う)

 

 コジマ・アーレルスマイヤーは、その種の手合いと決定的に違うのだ。猟奇殺人者が真っ当な軍人の皮を被っているのでは断じてない。

 真っ当な軍人を、猟奇殺人者に変えてしまえる怪物なのだ。

 箍の外れた感化力。深淵に手を突っ込まれ、最も穢らわしい部分をこすり上げられるおぞましさと快楽を、一瞬にして味わわされた。

 

(南方の連中が狂うわけだ)

 

 ――(いま)だ産まれざる赤子から、(まさ)に死に逝かんとする老人まで。

 ――老若男女、貴賤上下の区別なく、一切合切平等に。

 ――構うものか、皆殺せ(・・・)。殺して殺して殺し尽くせ。この大地を連中の血で、寸土も余さず塗り潰せ。

 ――故郷を愛してやまない彼らのことだ、きっと涙を流して喜ぶだろうさ!

 

 ……こんな号令をかけただけのことはある。

 又聞きのあやふやな噂であるものの、今や彼は、間違いないと確信していた。コジマなら言う、必ず言う。そして自分がもしもその場に居たのなら、やはりたちどころに欣喜雀躍、夢見るような恍惚に包まれ、その行為に邁進したであろうとも。

 

 

 

 

「あら、おかえりなさいませ、長官殿。それで、何枚お顔の皮を剥かれたんです?」

「そういじめてくれるなよ、政務秘書官」

 

 苦笑しながら、コジマは愛用の椅子に腰を下ろすと、そのまま背もたれに体重をかけた。臍の前あたりで手を組んで、ふーっと長い呼気を漏らす。

 

「ああ、やっと人心地がついた」

「ようございましたねえ。ご不在の間、手入れを怠らなかった甲斐があります。――本当に、些細なはずの御他行が随分と長引かれたことで」

 

 これ見よがしに、サヨは机の上から小冊子を取り上げた。

 

『号外。――竜船、ナイトレイドに襲撃さる!?』

『居合わせた警察長官、作為かはたまた偶然か』

『三獣士、殉職。その時、長官は何を。――疑惑の数十分間、鍵は直前の騒動にあり』

 

 見出しを拾うだけで頭痛がしてくる。

 散々な書き立てられようだった。

 どの方向に読者を誘導したいのか、記者の――ひいては、彼にカネを握らせた人物の――意図が丸見えになっている筆跡だった。

 

「ふむ。――査問会(・・・)の連中がわめいていたのと変わらんな」

「その澄まされよう。やはりもう何枚か、お顔の皮を剥いで差し上げようかしらん」

「よせ」

 

 いやに座りきったまなざしで、指を痙攣させるように動かしながら迫るのである。

 ただならぬサヨの気色ぶりに、コジマはぎょっと身を引いた。

 

「なんですよう。いいじゃないですか、玉ねぎやらっき(・・・)ょう(・・)、自然物とは異なって、人の面の皮だけは、いくら剥いても減らないどころかますます厚くなるものでしょう。それに出鱈目を混ぜて捏ね上げたなら、はい、新聞の出来上がりです。長官から新聞を刷り出して、対抗論陣を張るんです。逆撃の(とき)は今なのです。ぺしゃんこにするまでやりましょう、ぎゃふんと言わせなければ気がすみません」

「サヨ、君は疲れている」

 

 つとめて朗らかに、コジマは言った。 

 派閥内部の動揺、市民に広がる不安感。ここぞとばかりに噂をばら撒き、世評を回天させんと目論む敵陣営。

 その総てに対応せざるを得なかったのである。必然として、多忙を極めたサヨだった。

 如何に才気あふるるといえど、任官からの日の浅さが齎す不具合は排しきれない。彼女を軽んじる例の意向も手伝って、対処法を理解しながら現実に実行へ移せない――満足に耳を傾けてもらえない、動いてくれないこともあり、その都度煮え湯を飲まされた。

 これで憤懣が募らないほど、彼女は聖人ではないのである。

 

「随分と、血が鬱しているのだろう。餅の如く凝っているのだ」

 

 幸いコジマはあの船で、久方振りに思い切り酔う――それはもう、べろんべろんになるぐらい。やはり量より質である――ことが出来たため、その後に待ち受けていた数多の不快な手続きを経た今であっても、血の流れは清澄だった。

 

「が、しかしそこをいくと君はなあ。すまない、配慮が足りないのは私であった。捌け口もなしによくぞ耐え、我が留守を大過なく乗り切ってくれたものだよ」

「いえ、平気です。こんなのなんでもありません。サヨはまだまだやれますとも。やれと命ぜられたなら、呪いと膿と死臭に満ちた神の墓だって今すぐにでも暴いてきます」

「それだよ、自分のことを名前呼びなんていつから始めた。平衡を欠いている何よりの証拠じゃあないか。――いいから近くに寄りたまえ、ねぎらってやる。素晴らしいものを君にやろう」

 

 胡乱げな顔をしながらも、サヨはその通りにした。

 棚からコジマが取り出した物を見て、その表情はたちどころに一変する。

 

「これは――」

「匂い立つ血の酒。貴重品だぜ、それも実家から持ち込んだ、三十年物の逸品だ」

「ひどい人です、長官は」

 

 瞳が、七色に輝いている。

 なめらかな咽喉が、はしたなくもごくりと鳴った。

 

「こんなものを見せつけて、私に何をしろと言うんです? 狗みたく舌を出してねだれとでも? それとも腹を出して寝転がる、猫の作法がお望みかしら? むごい、あまりにむごい辱め。ああでも、なんて官能的な、誘うような赤でしょう。いけないわ、この馨しい深紅のためなら、わたし、何でもしてしまいそう――」

「おいやめろ、不用心だぞ、軽々にそんな台詞を口にするなよ。困った娘だ、やる(・・)と言ったじゃあないか」

 

 言いながら、コルクを無造作に引き抜いた。

 針金を幾重にも巻き付けて、厳重に封をしていたはずが、まるでこより(・・・)のように引き千切られた。

 匂い立つ、の名に恥じず。信じられないほど濃厚な香りが、たちどころに噴き出した。

 部屋全体が、赤っぽいヴェールに包まれてしまったようだった。サヨが自らの体を掻い抱いたのは、そうでもせねばこの矮躯は統御を失い、勝手に跳ね飛び、遮二無二むしゃぶりつきにかかると分かったからだ。

 やがて、福音が来た。

 酒をなみなみと注いだグラスが、上司の手から渡される。

 サヨは、勢いよくそれをあおった。少女の中で、歓喜が爆ぜた。どこか耳の奥底で、潮騒が鳴り響いていた。なにも不思議なことではない。生命は陸へ上がるに際して、自らの裡に海を閉じ込めたのだから。すべてを受け入れ、そしてすべてがやってくる、暗い暗い、あの海を。

 視界の端で、オウムガイが踊っている。アンモナイトを嘲笑(わら)いながら、触手をくねらせ揺蕩っている。最後の一滴まで、名残惜し気にすすり上げるサヨだった。

 

「ああ…すごく、おいしい」

「それは重畳。いや本当に、見ていて気持ちよくなる呑みっぷりだよ。そら、もう一杯」

 

 コジマは、瓶を傾けた。その動作があまりに自然で、ついサヨも、つられてグラスを出してしまった。

 

「今度はもっと、落ち着いて呑んでみるといい。肴に私の、査問会での屈辱を添えよう。丹念に舌でころがし、味わいたまえよ」

 

 

 

 

「いったいどう責任を取るおつもりか!」

「…………」

 

 戦争が物理的・直接的な戦闘行動――いわゆる干戈の沙汰だけで完結する、そんな単純至極なものならば、どんなにか世は幸福であろう。

 退(しりぞ)くべからず、(とど)まるべからず、道はただ一つ、勝つか負けるか。なんと判り易く美しい。

 

(が、そうはいかぬ。いかないのが現実だ)

 

 戦場に於ける勝利の果実を手にしても、それだけでは不完全。そこから栄養たっぷりの美味い汁を吸い上げるには、もう二手間も三手間もかかる。

 そもそも得られる果実の形からして戦争によりまちまち(・・・・)だ。堅い殻に包まれているものもあれば、棘だらけのものもあるし、毒袋を含んでいるもの、刺激臭を放つものと千差万別。どの道具を使い、どんな手順で調理するか、細心の注意が要求される。

 よしんば上手くさばけたところで、横合いから飛び出してきた盗っ人に、まんまと皿ごと掻っ攫われることとてあるのだ。干戈の沙汰に劣らない、熾烈な争いといっていい。

 

(血の流れぬゆえ、世人の興味はそそられにくい――否、それどころか、詐欺漢と同一視さえされかねないが。こうした交渉術の巧者とて、十分以上に英傑よな)

「長官、答えていただきたい、長官!」

 

 さて、そろそろあの生き物の鳴き声が耳を聾せんばかりに高まってきた。

 浮世を戯画化し弄び、現実逃避に耽る遊びも、ここらで切り上げなければならない。そう思うと、コジマは無性にこめかみを揉みほぐしたくなるのである。

 

(が、出来ぬ)

 

 その程度の所作ですら、「不謹慎」として糾弾の槍玉に挙げられるのが査問会。実際の名目にはもっと長ったらしい看板を用いているものの、内実は査問会(それ)に他ならなかった。

 どうにも小児めいてはいるが、ここに列席している連中からして、頭の禿げた幼稚園児も同然の輩揃いなのである。むべなるかな、というものだろう。が、しかしそれだけに、どんな馬鹿げたことでも本気で言い出しかねないこわさがあるのだ。

 

(いまに見ていろ。此処をいつまでも、貴様らの養老院にしておくものか)

 

 いずれ必ず、台閣から一掃してくれる。コジマは敵意を滾らせた。

 喧嘩をする気なのである。まずは気を大きく持たねばどうにもならない。

 

「三獣士とナイトレイドが交戦する只中に居合わせながら、その間、貴方はいったい何をなさっていたというのか! 納得のいく説明をお聞かせ願いたい!」

「お手元の報告書をご確認あれ」

 

 冷厳たる口調で、コジマは答えた。

 

「そこに詳述した通りであります。見物(・・)していた」

「け、けんぶっ……!?」

「左様で。あの(・・)エスデス将軍の腹心たる部下ならば、まさか数で劣る叛徒ふぜいに遅れは取るまいと信頼(・・)したゆえ、無用の手出しは控えたまでです。私が首を突っ込むまでもなく、ただ余波による人命の損失を防いでいれば、彼らが事を収めてくれるに違いない、と」

 

 異様といっていい。信じられぬほどの傲岸さだった。御伽噺の奸物そのものの振舞いである。通常、このような場に召喚されれば、もうひたすらに恐れ入り、米搗きバッタの霊にでも憑依されたかの如く、ただただ頭を上下させ続けるのが道理であろう。

 それが処世術というものであった。

 そうであってこそ可愛気も感ぜられ、人としての情も湧き、多少は手心を加える気にもなるのではないか。

 だというのに、この女ときたらどうであろう。

 

(なんたる生意気、面憎さ。――)

 

 列席者の毛穴から、悪感情が黒煙のように噴き出した。

 

「ところが意外にも私の信頼は裏切られ、三獣士の全滅と相成ったゆえ、急遽後を引き継ぎナイトレイドとの交戦を開始。世に『百人斬り』の名で知られる離反者ブラートめを討ち果たした次第であります」

 

 無能共の尻拭いをしてやったにも拘らず、こんな処へ呼びつけられるのは不満だと、暗に言わんばかりであった。

 

 ――落ち首拾いだ。

 ――弱りきった相手を斃して、そんなに自慢か。恥を知れ。

 

 たちどころに野次が飛ぶ。

 十の鼎が、一斉に沸いたようだった。そのやかましさが質問者の神経をささくれ立たせ、彼の逆上をいよいよ駆り立て、抜き差しならぬ高みへ導き、口角泡を噴き上げさせる。

 

「はぐらかさないでいただきたいッ!」

「なにをおっしゃる」

「何故、最初から三獣士に加勢して、一致団結、ナイトレイドの撃破に臨まなかったのか! どう考えてもそれこそ被害を最小化ならしめる道である! そうしておけば、帝具インクルシオを持ち去られることとてなかった筈だ! 長官、貴方の個人的(・・・)な感情(・・・)面の確(・・・)()こそが、斯くも明白な戦理に従うのを拒んだのではないのかね!」

 

 今や彼は、顔じゅうを口にしてわめいていた。……

 

 

 …………

 ……

 …

 

 

「で、最終的にはどう決着をつけたんです?」

「セリューを取られた」

「えっ」

「返す返すもあの少年、タツミを逃がしたのが痛恨だったよ。私の勝利は画竜点睛を欠いていたのだ。であるが以上、どう粘ってもこれ以上の落としどころは見つからなかった。彼女はエスデスの新設する特殊部隊に編入される」

「……まずいですよね」

「最悪極まる」

 

 苦虫を噛み潰したような表情で、コジマはそう吐き捨てた。

 サヨとセリューの縁は薄くない。記憶には残っていないものの、瀕死であったサヨを見出し、いの一番に救い上げたのはセリューなのだ。サヨは、忘恩の徒にあらず。実験棟から無事「退院」したその足で、当時の礼をするべく彼女の元を訪れている。

 

 ――よかった……本ッ当に、よかったぁ……!

 

 外聞も憚らず、思い切り抱きしめられたという。

 たちまち目尻に涙が溜まり、瞬く間に決壊した。むろん、セリューの、である。いったいどちらが救われた側かと、サヨはちょっと混乱した。気が付くと、肩口がびしょびしょになっていた。ふしぎと不快さは感じなかった。

 以来、休日になるとよく連れ添って、街をぶらつく仲である。

 

「君から見て、セリューはどうだ?」

「危ういですね。とてもとても、危ういです」

「だろうな、思想即行動の娘だ。ゆえにこそ興味深くもある」

 

 コジマの語るところに依れば、人とはもっと、引っ込み思案なものだという。彼らは何らかの志を抱いても、いざ実行の段階に移ると、途端に自己分析を開始する。

 

「自分とはいったい何であろう、ただいっぴきの男に過ぎない、或はただいっぴきの女に過ぎない。――ひとりで何が成せるものか。我よりずっと先に生まれたずっと大きいこの社会を、後からのこのこやって来た小さな我が、どうして思い通りに動かせようぞ、とね。自分で自分を卑しめて、力が足りないと手前勝手に定めてしまって。それがまた、気持ち良いのだ。死にたくなるほど安らかなのだ」

 

 ひどく実感の籠った口ぶりだった。

 

「しかし、セリュー・ユビキタスは違う。自己分析など決してやらず、即座に行動へと移す。よしんば力が足りないと嘆くことがあったとしても、それは玉砕した後だろう。勝敗も優劣も度外視して、まず噛み付くに違いない」

「問題は、彼女の思想骨格が『正義』であるということです」

 

 ずけりとサヨが切り込んだ。

 

「貧者窮民に対する同情心がないわけではないんです。むしろあふれんばかりに持っている。自分も早くに父親を亡くした影響でしょう、決して楽な生い立ちではなかったはずだ。私と街を歩いていても、ふと路地の奥にそうした人々がたむろしているのを見かけると、苦しそうに眉を歪めておりました」

「ふむ。しかし、ひとたび彼らが悪事を犯すと」

「ええ、事前にあった同情心の総てが消える」

「焼き尽くされる、と言ったほうが相応しかろう」

「確かに、ゼロどころかマイナス方面に突き抜けているような観さえあります。よくも私を裏切ってくれたな許さない――と。生きながら地獄に堕ちる典型ですね」

 

 貧は罪の母、渇えて死ぬより盗泉の水を口にしてでも生き延びんと欲すのは、人間性に則った、当然の行為といっていい。それすら許容不能となればそれはもう、アレルギーの領域だ。至極端的に病んで(・・・)いる(・・)

 

「だからこそ、なんでしょうか。辟易しつつもその一方でなんとなく、愛着のようなものを感じるのは。どうにも放っておけなくて、ついつい世話を焼きたくなるのは」

「わかるよ、病み人は愛しいものだよな。だからこそ、地獄の釜の底を貫くところまで、あの娘の狂気を純化して、濃縮して昇華させてやりたかったが。――よりにもよって、エスデスが」

 

 ここでアレのミームを浴びようものなら、何もかもが元の木阿弥になりかねない。

 少なくともコジマはそう観測していた。頑な、といってもいいほどに。

 

「どうにか、なりませんか」

「ふむん、ちょっと考えてみるとしよう。この状況下で私に何か、打てる手が残っているとするならば――」

「壮行会などは」

「容喙するかね」

「はい。長官が出席する以上、周囲の者は憚って、無礼講とはいかなくなってしまいましょうが」

「この際それもやむを得ん、か。――ああ、本当に、祟ってくれるぜ。三獣士の連中は、つくづく余計なことをしてくれた」

「と、申されますと?」

「あのカイゼル髭の元将軍。あれだけ派手に決裂したにも拘らず、最後の最後でより(・・)を戻して見せやがった」

 

 ――今だブラート、小僧を逃がせぇ! こいつに完勝させるなアアァ――ッ!

 ――……ッ、くそったれがああああああああああッッ!

 

「片目を失い、脚を付け根からもぎ取られ、はらわたが露出してもなお私に挑み続けた。もはや勝てぬと知りながら、ただ数十秒、この足を止めるためだけに。あんなものを目の当たりにすれば、そりゃあ死人だろうと起き上がろうさ。漢ならば尚更だ。で、『百人斬り』は奴の言葉に従って、連れの少年に帝具を託し、無事竜船から落とした、と」

 

 カバーストーリーをひっぺがした裏地には、そんな一幕があったのである。

 

「少年。――タツミ、ですか」

「然り然り。流石は君の幼馴染みだよ、いい目をしていた。今回私が刻んでやった敗北にも、きっと折れまい。必ずバネにして立ち上がってくる、そんな目だ。――どうだ、逢ってみたいかね」

「…………」

 

 サヨは即答を避けた。ちょっと俯き、内心で、

 

(タツミ、タツミ、タツミ、かぁ)

 

 その名を三度繰り返す。

 石や燐寸を投ずることで、縦穴の様子を探ろうとする行為に似ていた。もしも自分の内側に嘗ての少女(サヨ)が遺っているなら、それがどんなにわずかであろうと、必ず反響があるだろう。

 が、むなしかった。

 びっくり(・・・・)するほど(・・・・)何もない(・・・・)。彼女の中の暗闇は漣ひとつ立てることなく、ただ暗闇であり続けた。

 

(実際に顔を合わせてみれば、また何か違うのかしらん? でも、そこまでするのは、ちょっとねえ)

 

 あまりに過去に囚われすぎた振舞いだろう。もっと未来志向で進みたい、というのが偽らざる本音であった。

 ところがコジマ・アーレルスマイヤーという人物は、己の過去があまりにきらびやかであったためか、他人の過去までいやに尊重しすぎるきらいがある。

 

(……べつに、逢いたいとも思わないのだけれども)

 

 サヨは利口な娘であった。そう明言することで、相手が自分にどんな印象を抱くかよく知っていた。

 

(微笑うに限るわ。何も言わずに、困ったように、曖昧に)

 

 そのように表情筋を動かした。

 実際、困っているのは本当である。

 

(気をまわしすぎですよ、長官。ありがたいのは山々ですけど、そこまで行くとありがた迷惑に抵触します。まあ、そんな貴女だからこそ、信じてついて行く気にもなるわけですが)

 

 意図は、齟齬なく伝わったらしい。満足そうに頷いて、コジマはまたも――都合何度目になるだろう――、サヨに酒瓶を向けてきた。

 それを今度はグラスではなく、直接鷲掴みにしてしまう。目を丸くするコジマをよそに、サヨは残っていた血の酒を、一気に胃の腑へ叩き込んだ。未だ膝を屈さないでいる素面の自分を、圧殺してしまうような呑み方だった。

 果たして、期待通りの結果となった。波に揺れる海藻よろしく、上体を右に左に泳がせたあと、ぱったり横倒しになって、すぐに穏やかな寝息が聞こえ始めた。コジマだけが取り残された格好である。やがてコジマの口元から、くつくつと忍び笑いが這い出した。

 

 

 


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