鳳翔が妊娠した。
「まだお腹は大きくないんだね」
響は不思議そうに、鳳翔のお腹を撫でていた。
「お前もあと数か月で中等部へ上がるのだから、そろそろお姉ちゃんらしい事しないとな」
「お姉ちゃんらしいことって?」
「例えば……」
俺は膝の上から、響を降ろしてやった。
「ま、こういう事だな」
「むぅ……」
響はつまらなそうに、唇を尖らせた。
響の親が帰国してから数年。
俺たちは相変わらず、不器用な家族をしている。
変わったことといえば、鳳翔が自分の店を持つことが出来たことと、瑞鶴が鈴蘭寮に入った事くらいか。
「――にもかかわらずだ……」
響は相変わらず、俺にべったり甘えている。
体は大きくなったくせに、いつまでたっても甘えん坊で居たのだ。
「暁は反抗期が来たらしくて、親父の洗濯物を別にしろって言っているようだ」
「それは難儀だね」
「……お前も少しくらいは、俺を嫌ったらどうなんだ? いつまでもこうしている訳にもいかないだろ。お姉ちゃんになるんだし……」
そう言っても、響は引っ付くのをやめなかった。
「鳳翔、お前からも言ってやってくれよ」
「うぅん……。提督と響ちゃんは、普通の家族とは違いますからねぇ……」
「そうだよ。私と司令官は、特別なんだ。普通の家族基準で考えてもらっては困るよ」
「……なんで俺が悪いみたいな感じになっているんだ?」
まあ確かに、普通の家族とは違うから、それでもいいのかもしれないが……。
「…………」
いつかは、離れなくてはいけない時が来る。
そうなった時、果たして――。
「司令官?」
「ん……?」
「どうしたの……? そんな深刻そうな顔して……。そんなに迷惑だったかな……?」
「あぁ……いや……そういう訳じゃないんだ。ただ、これから色々と忙しくなるなってさ。鳳翔の分まで、俺たちが頑張らないとな」
「うん」
「鳳翔、店の方は、いつまで続けるつもりなんだ?」
「お医者さんと相談して決めようかと。始めたばかりですし、ギリギリまでは」
「そうか。あまり無理はするな。俺たちに出来ることがあったら、なんでも言ってくれ」
「ありがとうございます」
そう言うと、鳳翔もまた、俺に近づき、寄り添った。
「おいおい」
「いいじゃありませんか。お腹の子に、提督の声を聞かせてあげないと」
「お腹にいても、声って聞こえるものなの?」
「らしいぞ。まあ、鳳翔はまだ、その段階にはいっていないから、意味はないのだが……」
「じゃあ、甘えたいだけなんだね。鳳翔さんって、案外子供みたいなところあるよね」
「響ちゃんほどじゃないけれどもね」
鳳翔がそう言うと、響はムッとした表情を見せ、さらに俺に引っ付いて見せた。
こういう張り合いは、今も昔も変わらないな。
「――という訳なんだ。だから、私もついにお姉ちゃんになるんだ」
「へぇ、響がお姉ちゃん。なんだか変な感じね」
そう言うと、暁は缶コーヒーを一口飲んで、険しい表情を見せた。
「暁、缶コーヒーなんて飲んだっけ?」
「う、うん……。ちょっとね……」
そう言えば、昨日、かっこいい女性が缶コーヒーを飲んでいるコマーシャルが放送されていたな。
「でも響、これからはますます司令官に甘えられなくなるわね」
「え?」
「だって、そうじゃない。赤ちゃんが生まれたら、そっちの方に司令官を奪われちゃうでしょ? 響と過ごす時間も、減るはずだわ」
「まあ、そうかもしれないけれど、司令官だったら、きっと私との時間も大切にしてくれるはずだよ」
「どうかしら? パパとママ……じゃなかった……。お父さんとお母さんが言っていたのだけれど、やっぱり、自分の子供が一番だって。いくら司令官でも、自分の子供となると、そっちを優先しちゃうんじゃないかしら?」
「そうなのかな……」
「あと、お姉ちゃんだからーって言われて、我慢しなきゃいけないこともたくさんあるのよ?」
『いつまでもこうしている訳にもいかないだろ。お姉ちゃんになるんだし……』
確かに、司令官もそう言っていた。
あれは、自分の子供が出来るから、いつまでも構ってやれないって意味だったのかな……。
「司令官は……自分の子供が生まれたら、私の事……邪魔だって思っちゃうのかな……」
「そ、そこまでは思わないだろうけれど……。そんなに悲しい顔しないでよ……」
「…………」
きっと司令官は、そんなこと、思わないだろう。
でも……。
「ただいま」
家に帰ると、司令官が誰かと電話をしていた。
深刻そうな顔をしているけど、一体誰と話しているのだろう?
「もう永くないのですね……。確かに……それは、響には言えませんね……」
私には言えない事……。
私は、隠れて会話を聴くことにした。
「えぇ……。分かっています……。しかし……そうですか……。そんなに容態が悪いとは……。数か月前にお会いした時は、そんな様子には……」
数か月前……。
数か月前に会った人と言えば……。
「残された時間をどうか大切に……」
もう永くない……。
残された時間……。
数か月前に会った人……。
「そんな……お母さんが……?」
その時、動揺して、私は物音を立ててしまった。
「ん? 響か?」
私は心を落ち着かせてから、司令官の前に出た。
「た、ただいま……」
「おう。全然気が付かなかったぞ。今、お前のお母さんと電話しているんだ。あ、ちょっと待ってくださいね。今、響にかわります」
私は恐る恐る、電話を受け取り、耳にあてた。
「もしもし……お母さん……?」
私の呼びかけに、お母さんは大きく、何度も咳き込んだ。
「お母さん!?」
『あ……ごめんね……。最近、乾燥しているものだから……。久しぶりね、響。お母さんの事、覚えてる? なんちゃって』
お母さん……いつも以上に明るく振る舞っている……。
『急に電話してごめんね。どうしても、貴女の声が聴きたかったの。この前、会いに来てくれたばかりなのに、何だか寂しくなっちゃって……』
寂しく……。
『もうすぐお姉ちゃんになるのでしょう? なのに、司令官さんに甘えてばかりなんですって? もう中等部に上がるのだから、もっとちゃんとしないと――』
それから、お母さんと色々話をしたはずなのだけれど、何も覚えてはいなかった。
お風呂を出た後、居間へ向かうと――。
「そうだったのですね……」
「あぁ……。響には内緒にしてくれよ……。でないとあいつ、ロシアへ行く、なんて言い出しかねないからな……」
電話の事を話している……?
私は再び隠れて、二人の会話を聴いた。
「病気の事が判明して、寂しくなってしまって、電話をかけて来たらしい。響には、永く生きて欲しいと……」
「寂しくもなるはずですよね……。あれだけ可愛がっていたのですから……」
やっぱりそうなんだ……。
お母さんは……もう……永くないんだ……。
「とにかく、そういう事だ。母親の為にも、俺たちがしっかりしなければならない。響は大丈夫だとな」
「えぇ、そうですね」
お母さん……。
カフェに着くと、瑞鶴は気が付いたようで、大きく手を振って場所を知らせてくれた。
「待たせたか」
「うん、すっごく待った。これは奢って貰わないと割に合わないかな~」
「……約束の時間には間に合っているが」
「でも、待たせたでしょ?」
「……分かったよ」
瑞鶴は、にひひと、はにかんで見せると、店員を呼んで、好き放題注文を始めた。
「して、どうだ? 鈴蘭寮での調子は」
「うん、いい感じよ。この前、合コンに参加してきた」
「合コンって……。何やってんだよ……」
「いやね? 私ももういい歳だし、そろそろ相手を見つけないとーって。そうじゃないと、提督さんに貰ってもらわないといけなくなるし?」
「いい歳って……。まだ二十歳を過ぎたばかりの子供だろうに」
「二十歳を過ぎたらもう大人よ? お酒だって飲めるんだから」
「でも、相変わらず、居酒屋では年齢確認をされるんだろ?」
図星なのか、瑞鶴はつまらなそうな表情のまま、ケーキを口に運んだ。
「そうやって……提督さんも子ども扱いするのね……。合コンでもそうだった……」
「無理に大人を演じようとするから、却って子供っぽくなるんだ。瑞鶴は瑞鶴のままでいれば、きっと魅力的に思ってくれる人が現れる。だから、無理しない方がいいよ」
「そうなのかな……」
こうやって悩んでいるところも、子供っぽいよな。
本人には言えないが。
「して、今日はどうした? 急に呼び出して」
「ん! そうだった! これを渡そうと思って!」
そう言うと、瑞鶴は鞄から、赤ちゃん用のおもちゃをいくつか取り出した。
「……なんだこれ?」
「赤ちゃん生まれるんでしょ? 山城さんから色々貰って来たの! ほら、あの人、子供が大きくなったから、もういらないって!」
そう言えば、山城は結婚して、子供もいたんだっけか。
「ありがとう……って、あまりにも気が早くないか? まだ妊娠が発覚した段階だぞ?」
「そんなことないわよ! 急に生まれるものだって、山城さんも言っていたし」
それにしたって早すぎるというか……。
「……まあ、いいか。悪いな。山城にも、よろしく言っておいてくれ」
「うん。けど、提督さんと鳳翔さんの赤ちゃんかぁ……。これで、提督さんが離婚して、私と結ばれる未来はなくなったかぁ~」
「そんな未来を想定していたのか……」
「無くはないでしょ? まあ、赤ちゃんが生まれたら、響ちゃんの面倒は私に任せて!」
「響の面倒? 赤ちゃんではなく?」
「だって、赤ちゃんが出来たら、響ちゃんに構っている暇なんてなくなるはずよ? それでも、やっぱり響ちゃんのことだから、提督さんに構ってもらおうとするはずでしょ? 響ちゃんのフラストレーションを定期的に発散させてあげないと」
「それをお前が買って出てくれると?」
「そっ! だから、奢ってもらっているの。先行投資、先行投資!」
瑞鶴はコーヒーをズイッと飲み干すと、店員に追加注文を始めた。
奢ってもらえるのなら、なんだって理由が出てくるな……。
「…………」
しかし、そうだよな……。
赤ちゃんが出来る事、響はどう思っているのだろうか……。
瑞鶴の言う通り、時間をとれなくなるはずだし、何よりも、甘えるなと躾をしているから、薄々感づいているのだろうが……。
公園で一人、ブランコに乗りながら、考え事をしていた。
「…………」
お母さんは……もう永くない……。
お母さんがそれを私に隠そうとしている理由は、一つしかない。
「私が……司令官を選んでしまったからだ……」
あの時――。
『やっぱり辛いよ……ずっと……一緒に居たいよ……』
『やだよ……。離れたくないよ……。いい子にするから……。お小遣いもいらない……たくさんお手伝いもする……わがままも言わない……裕福じゃなくたっていいから……だから……』
お母さんは、司令官を選んだことに納得していたようだったけれど、相当ショックだったに違いないんだ……。
きっとお母さんは、自分が永くないと言ってしまったら、ロシアに帰る帰らないで私が悩んでしまう事を懸念しているから、隠しているんだ……。
「お母さん……」
司令官だって、きっと、帰った方がいいと思っているに違いない。
優しいから、お母さんとの約束が破れないだけで……。
それに――……。
「…………」
生まれてくる赤ちゃんを想えば――私なんていない方が――。
瑞鶴と別れ、家へ向かっていると……。
「ん……」
公園のブランコで、一人遊んでいる響を見かけた。
「響」
声をかけてやると、響は一瞬、嬉しそうな表情を見せた後、何やら寂しそうに俯いてしまった。
「どうした? 一人なのか?」
「うん……。まあね……」
「……そろそろ夕方だ。一緒に帰るか」
「うん……」
響はブランコを降りると、そのまま歩き始めた。
いつもなら、手を繋げと騒ぐくせに、今日に限っては大人しかった。
夕日が、俺たちの前に長い影をつくった。
「どうした? なんだか元気がないように見えるが……」
「別に……なんでもないよ……」
何でもないようには見えないがな……。
「……司令官」
「ん、なんだ?」
「司令官は……どうして私と居てくれるの……?」
「え……?」
「私のお母さんは見つかったし……一緒にいる理由がないよね……? なのに……どうして一緒に居ようとしてくれるの……?」
そう問う響に、俺は悲しさを覚えた。
「なんでってお前……。前にも同じような事を訊かれたように思うが……俺たちは家族だろ……? 家族であることに、理由なんかないだろ……。どうして急に、そんな寂しい事を訊くんだよ……?」
司令官が寂しそうな表情を見せた。
分かっていた……。
そう答えてくれるって……。
でも……その答えが……私にとっては……。
「でも……理由が出来たら……?」
「え……?」
「赤ちゃんが出来たら……嫌でも考えるはずだよ……。司令官と鳳翔さんは、結婚したから家族って言える……。生まれてくる赤ちゃんも、そう言える……。でも、私は……? 私は……何も関係ない……。家族であると言ってくれるだけで……私には……何もないんだよ……?」
響がどうして、急にこんなことを言い出したのか、なんとなく理由は分かっていた。
「何もないことはないだろ……。お前がどうしてそんな事を言いだしたのかは、あえて言葉にしないよ……。ただ……そう考えさせてしまう様な事をたくさん言って来たし、お前も、今言った理由で反論できなかったんだろ……? 苦しめてしまったな……。ごめんな……響……」
そうじゃない……。
そうじゃないんだ……。
自分で言って、気が付いてしまった。
そう……。
私には、何もない……。
司令官と一緒に居る資格が、何もないんだ……。
それなのにどうして、私はいつまでも、司令官に甘えているのだろう……。
どうして我が儘が言えるんだろう……。
どうして赤ちゃんに対して――お母さんに対して――。
私……私は……。
「司令官……」
私は……。
「私……ロシアに帰ろうと思うんだ……」
私は……司令官と居ない方がいいんだ……。
いる資格が……ないんだ……。
「ロシアに帰るって……何を言い出すんだお前!?」
冗談なんかではなく、響は真剣な表情であった。
「いや……お前の言いたいことは分かるよ……。でも、家族はそんなドライなものじゃないだろ!? もっと違うものだって、確かめ合って過ごしてきたじゃないか!?」
「……確かにそうだね。でも……理由はそれだけじゃないんだ……」
「え……?」
「昨日……。司令官がお母さんと電話している内容を……聞いちゃったんだ……」
昨日のあれか……。
どこまで知っているのかは分からないが、おそらくは――。
「もう……永くないんでしょ……?」
やはりそうか……。
「……あぁ。隠してしまって悪かった……。お前のお母さんから、口止めされていてな……」
「それもあって……ずっと考えていたんだ……。私は……ロシアに帰った方がいいのかもって……」
俺は反論しようとしたが、やめた。
ここで反論しては、響の大切にしている気持ちを踏みにじることになると思ったからだ。
「それに、司令官だって、私の事が疎ましくなるはずだよ……。赤ちゃんが生まれたら、私は……」
これには、しっかりと反論が出来た。
「そんなことはない! 家族が一人増えるだけで、お前を想う気持ちは変わらない! 確かに、甘えるなと言っては来たが、それは赤ちゃんが生まれるからではなく、一人の――娘の成長を想って言っているんだ!」
司令官は優しいから、そう言わざるを得ないよね……。
でも、それを言ったら、きっと――。
「司令官、ありがとう。でも、もういいんだ。もう決めたことだから。色々言ったけど……やっぱり私は、ロシアに帰ろうと思う。急にこんなこと言って、迷惑かもしれないけど……。何も言わず……私を育ててくれて……ありがとう……」
これでいい。
これでいいんだ……。
司令官……。
私は、司令官が大好きだよ……。
だからこそ……私は……。
響の決意に、俺は言葉を失ってしまった。
確かに、赤ちゃんの事も分かるし、電話の事も分かる。
ただ、一時の感情で――こう言っては何だが、そんな小さなことで――。
「……言いたいことは分かった。だが、お前も一度は落ち着いた方がいい。一晩経って、本当にロシアに帰るかどうかを考えてから、もう一度決意を聞かせてくれ……」
「……分かった」
「とりあえず……鳳翔には内緒にしておいてほしい……。あまり負担をかけたくないんだ……」
響は頷くと、先を歩き始めた。
その背中は、どこか――。
家に帰り、飯を食った後、自室で悩んだ。
「…………」
『お前もあと数か月で中等部へ上がるのだから、そろそろお姉ちゃんらしい事しないとな』
『……お前も少しくらいは、俺を嫌ったらどうなんだ? いつまでもこうしている訳にもいかないだろ。お姉ちゃんになるんだし……』
『それに、司令官だって、私の事が疎ましくなるはずだよ……。赤ちゃんが生まれたら、私は……』
電話の事もあるだろうが、真相はやはり、そこにあるよな……。
俺があまりにもお姉ちゃんおねえちゃん言うものだから……。
『提督と響ちゃんは、普通の家族とは違いますからねぇ……』
出来るだけ、娘と父親を演じて来たつもりだが、それでは駄目であったか……。
けど……そうだよな……。
俺と響は、本当の親子ではないし、家族という言葉で繋がっているだけの関係だもんな……。
「……だとしても、ショックだ」
あそこまでハッキリ言われるとな……。
もしかして、本当は俺の事が嫌いだったのだろうか……。
暁も反抗期に入っているし、或いは――。
「提督、お風呂あがりました……って、どうされたのです?」
「鳳翔……。俺は……響の父親になれないのかな……」
「どうしたのです? 急に……。何かあったのですか?」
思わず鳳翔に言ってしまいそうになった。
一人で抱えるには……ちょっとな……。
「いや……。ちょっと……思うところがあってな……」
「しっかりしてください。提督はこれから、二人のお父さんになるのですから」
そう言うと、鳳翔は自分のお腹をさすって見せた。
二人のお父さん……か……。
「鳳翔……。家族って……なんなんだろうな……」
「家族ですか。ふふ」
「何かおかしいか?」
「いえ。ちょっと、昔の事を思い出して……。私が、恋人ではなく、提督の家族になりたいって言った時の事ですよ」
俺たちが三人家族になった時の事か。
そういや、あの時と状況が似ているな……。
「家族なんて、ただの関係性を証明する言葉でしかないです。でも、私たちの持つ『家族』の意味は、ちょっと特別じゃないですか。だから、その質問に答えるのは、ちょっと難しいかもしれませんね」
そう言うと、鳳翔は微笑んで見せた。
まるで、全て分かっているとでもいうように。
「特別……か……。そうだよな……」
俺は起き上がり、写真立てに目を向けた。
そこには、まぎれもない、三人の家族が写っていた。
「ありがとう、鳳翔。ちょっと、行ってくるよ」
響の部屋へと向かう俺を、鳳翔は優しく見送ってくれた。
「響」
部屋の扉越しに、響へ呼びかけた。
「ちょっといいか?」
少し間があった後、響は小さく「うん」と返事をした。
「明日……ちょっと二人で出かけないか? 最近、そういうの、出来てなかったからさ」
返事はない。
悩んでいるのか、それとも――。
「……嫌ならいいんだ。悪かったな……」
そうじゃないだろ……。
もっと言うべきことがあるはずだ……。
「いいよ……」
「え?」
「明日……予定は空いているから……」
「そ、そうか! なら、良かった。じゃあ、明日、朝食を食べた後に出かけよう」
「うん……」
それっきり、響が返事をすることも、部屋を出てくることもなかった。
翌日。
朝食を摂った後、部屋で出かける準備をしていると、鳳翔がやって来た。
「鳳翔、どうした?」
「響ちゃんとのお出かけ、私も同行したかったなと思いまして」
「お前は仕事だろうに」
「いえ、そうなのですが……。そういう事ではなく……」
鳳翔は頬を膨らませた。
怒っている、というサインであった。
「何をそんなに怒っているんだ?」
そう言って、俺は鳳翔の頬を突いた。
「私だけ、のけものですか……?」
「え?」
「私だって、家族なんですけど……?」
あぁ、なるほど。
そういう事か。
「あぁ、分かっているさ。ただ、お前にはその証明があっても、あいつにはそれが無い」
そう言って、俺は鳳翔の左手に自分の左手を重ねた。
「教えてやらなくちゃいけないんだ。あいつにも、これと同じものがあるって」
それを聞いた鳳翔は、満足気に頷いた。
その言葉を待っていたのだ、とでも言うように。
「夕方、店を予約したいのだが」
「えぇ、何名様ですか?」
「もちろん、三人……。いや……」
「?」
「四人、だな」
そう言ってやると、鳳翔は微笑んで、俺にキスをした。
「……では、貸し切りにしておきますね」
「あぁ、頼んだ」
司令官と二人っきりでのお出かけは、本当に久しぶりだった。
「よし、行こうか」
「うん……」
誘われた時、気を遣われているのだと、すぐに分かった。
だから、断ってしまおうとしたのだけれど……。
「少し、遠くへ行こうと思っているのだが……。平気か?」
「うん、平気だよ……」
それが出来なかったのは、これが最後だと思ったから……。
……いや、多分、違う。
そう出来なかったのは、きっと――。
電車は相変わらず、貸し切りのようであった。
「本当はさ、初めて二人で出かけた場所の――遊園地に行こうと思ったのだが、もうそういうので喜ぶような歳でもないだろう」
――と、言いつつも、――遊園地を避けたのは、他に理由がある。
あそこへの道には、ペットショップが多くあるのだ。
今の響には辛いだろうし、すぐにでもロシアに帰るだなんて言い出されたら……。
「だから、二番目に行ったところにしようと思ってな」
「二番目……」
響は思い出そうとしているのか、俯き、黙り込んでしまった。
「ははは、思い出せないか? まあ、着いてからのお楽しみにしておこうか」
中々思い出してくれないのは悲しいが、今はそうやって別の事を考えてくれていた方が、こっちとしてもありがたい。
二番目どころか、司令官と一緒に行った所なら、日付も、曜日だって覚えていた。
悩んだのは、どうして司令官がそこへ行こうと思ったのか、分からないためだった。
「…………」
別に、――遊園地でも良かったんだけどな……。
むしろ、そっちの方が――。
「じゃあ、俺はこっちだから」
「うん……」
「ゆっくり浸かっていけよ。じゃあ」
そう言って、司令官は男湯へと入っていった。
当然と言うか……まあ、こうなるよね……。
てっきり、二人っきりで話でもするのかと思ったのだけれど……。
「司令官は……どうしてここを選んだのだろう……」
「クソ……ミスった……」
誰もいない男湯で、俺は一人後悔していた。
「前に来た時はあったのに……」
山奥にあるこの温泉は、混浴が出来る貸し切りの温泉があったはずなのだ。
話し合いの場として、それを利用しようと目論んでいたのだが……。
「まさか、廃止になっているとは……」
しかし……まあ……そうだよな……。
このご時世だしな……。
そもそも、響もあの歳だし、一緒に入ろうだなんて言ったら、流石に引かれたかもしれないよな……。
「何をやっているのだ、俺は……」
とりあえず、風呂に入ってもらったが……これからどうしようか……。
どうすれば、響に分かってもらえるだろうか……。
温泉には、誰もいなかった。
以前もそうだったっけ。
「はぁ……」
司令官、何を考えているんだろう……。
ミステリアスな人だって、鎮守府では言われていたけれど、長年一緒に居る私ですら、時々分からないことがある。
「もしかして……最後を覚悟で、思い出作りをしてくれているのかな……」
だとしたら、私がロシアへ帰ることに賛成って事なのかな……。
それは……なんだか……。
「……そうじゃない」
自分に、そう言い聞かせる。
そうさ……。
司令官がそう覚悟してくれたのなら、それでいいじゃないか。
私だって、喧嘩というか、モヤモヤした気持ちで帰りたくはない。
司令官がそう来るのなら、私も応えなきゃいけないよ。
別に、司令官が嫌いになった訳でもないんだし。
「今は……素直に楽しもう……」
口にしてはみたものの、水面にうつる表情は――。
先に風呂を出たのは、俺のようであった。
「ふぅ……」
休憩室にも、誰もいない。
よく成り立っているよな、この温泉……。
「ん……」
ふと、棚に目を向けると、寄せ書きノートが置かれているのに気が付いた。
「こんなのあったな」
そういえば、以前来た時、響が何か書いていたな。
何を書いたのか、見せてはくれなかったが……。
「お、過去の分のノートもある」
確か、あれは……。
「あった。どれ……」
ノートをめくってゆく。
下手な落書きの隅っこに、響が書いたであろうものがあった。
そこには――。
「……!」
そこには、『お母さんに会いたい』と、書かれていた。
「…………」
俺はノートを閉じ、棚へと戻した。
「そりゃ、見せられない訳だよな……」
『私のお母さんは見つかったし……一緒にいる理由がないよね……? なのに……どうして一緒に居ようとしてくれるの……?』
思えば、俺は『家族』なんて言葉で、響を縛っていたのかもしれないな……。
あの時は俺を選んでくれたけど、今は――。
それに、あいつの意見を尊重していてもらったのもあるし、あいつが帰りたいというのなら、今度はそれを尊重するのが正しいのだろうか……。
「…………」
帰すべきなんだろうか……。
いずれは別れることになるだろうし、だったら今からでも――。
大分長風呂をしてしまったせいか、司令官は休憩室で眠っていた。
「司令官……お仕事で疲れていたもんね……」
起きようとはしていたのか、缶コーヒーが傍に置かれていた。
「…………」
私はじっと、司令官の顔を見つめた。
もうずっと、こうして寝顔をじっと見る事なんて、無かったように思う。
司令官はいつも、私が眠るまで、自分が眠くても起きてくれていた。
『司令官、私が眠るまで、ポンポンしていてほしい』
『分かったよ。けど、これが最後だぞ?』
最後だ、なんて言うけれど、次の日も、その次の日も、司令官の最後は続く。
優しい司令官。
私は、そんな司令官が――。
『こら! 響!』
『おーい、響』
『どうした、響?』
『響』
「――……っ」
胸がしめつけられる。
顔が熱くなってきて、やがてぽろぽろと涙が零れ始めた。
「司令官……」
もう、本当の本当に最後なんだ……。
次は、もうないんだ……。
そう思うと、涙が止まらなかった。
「ん……」
司令官が目を覚ました。
私はとっさに、タオルで涙を拭いた。
「響……? ん……悪い……寝てしまっていたようだ……」
「う、うん……。疲れていただろうしね……。もっと、寝ていても良かったんだよ……?」
「いや……そういう訳にはいかないだろ……。時間も、限られているんだし」
限られた……時間……。
その言葉に、私は――。
思わずそっぽを向いた。
けど――。
響はそっぽを向いた。
その刹那に見えたのは――。
「お前……泣いているのか……?」
「ち、違うよ……。ただ……私も……眠くなっただけで……」
嘘であると、すぐに分かった。
響は嘘をつくとき、必ずと言っていいほど、口元を触る癖があるのだ。
嘘……か……。
「どうして……泣いているんだ……?」
響は答えない。
泣いているのを否定することも、しなかった。
「……響」
「……なに?」
「そろそろ……本音で話し合わないか……? 俺も、本音でぶつかるからさ……」
本音……。
私の……本音……。
「……私はずっと本音だよ。司令官は、そうじゃないというのかい……?」
それがお前の本音なら、どうしてそんなに悲しい顔をするのだ……。
「……分かったよ。じゃあ、俺から話そう」
「…………」
きっと、本音を言ったら、響は傷つくだろう。
でも、本音で話さなければ、意味がないんだ。
俺たちは、家族だ。
赤の他人の様に、気を遣う方が間違っていたんだ。
そうさ。
何も、こんなところに来なくたって、初めからこうすれば良かったのだ。
これが最後でもいい……。
これで最後だからこそ、本音でぶつかり合おうぜ、響。
「俺はな、響……。お前がロシアに帰らんとするその理由が、本っっっっっ当に! くだらないと思っている」
司令官の言葉に、思わず唖然とした。
くだらない……?
くだらないって……お母さんの事を言っているの……?
「たかだか小さな命の為に、これまでの関係を簡単に手放すのかよ? 俺たちは家族だろ? それに、子供が出来ようが出来まいが、元々お前は甘えすぎなんだよ。少しは慎めって、子供が出来る前から言っていたよな?」
畳みかけてくる司令官。
なんの配慮も無い司令官に驚きつつも、沸々と怒りがわいてくる。
「たかだか小さな命って……! 司令官! いくら本音だからって、言っていい事と駄目なことくらい分からないのかい!?」
「そりゃ、お前にとっては大事な命だろう。だが、それは俺たちの関係よりも大事なのかよ? きっと、鳳翔も同じことを思うはずだぜ」
「鳳翔さんはそんな酷いこと言わない! 司令官……どうしちゃったの……!? そんなこと言う人じゃなかったでしょ!?」
「いや、俺はそういう人間だ。お前の中の俺がどんな聖人なのかは知らないが、これが俺なんだ」
司令官の表情は、真剣そのものだった。
嘘偽りなく、まっすぐな言葉だと分かる。
いつもなら、間違った事を言ってしまったと、すぐに引き返すのに……。
こうなった司令官は、もう前にしか進まないんだ。
『これで最後だぞ』
……覚悟しているんだね。
その上で、言っているんだね……。
「分かったよ……。よく分かったよ司令官……」
なら、私だって……!
「じゃあ、司令官はずっと私に嘘をついていたんだね? 酷いよ……! 口では家族だなんて言って……本当は嫌われない様に気ばっか遣っていたんだ! 何が特別な家族だ……! この嘘つき!」
「あぁ、そうだよ。俺は嘘つきだ。お前に嘘ばっかついてきた。お前に嫌われないように、いい父親になろうと、ずっと嘘をついてきたさ。へらへら笑って、お前の望むようにやって来たが、それは間違いだったようだ。もっと、こうして本音でぶつかるべきだった。そうしなかったから、お前はそんな甘ったれな事しか言えなくなったんだ」
「最低だよ司令官……! 司令官がそんな人だと知っていたら、私は……!」
その先を、何故か私は言えなかった。
言えなかったことに、司令官も気が付いていたようだった。
「……嘘つき。どうして……どうして私に……嘘なんかついたんだ……。どうして……私なんかを引き取ったんだ……。どうして……私の家族になったんだ……。どうして……」
今までの思い出が、再び私の胸を締め付けた。
今までの思い出が、全て偽りであった事を悲しんでいるのではない。
今までの思い出が、全て本物であったと知っていたから――。
「響……」
お前も分かっているんだろ……?
今までの全てが、嘘ではないことを。
嘘というものが、悪意のあるものだけではないことを。
嘘というものが、『偽り』という訳ではないことを――。
「……嘘ばっか言って来たけれど、これだけは信じて欲しい」
「…………」
「俺は、お前を想わない日は無かった。どんな嘘をついてでも、お前と一緒に居たいと思っていたし、嘘で家族を続けることが出来るのなら、それでいいと思っていた」
響の瞳から、ぽろぽろと涙が零れる。
その涙は失望からか、それとも――。
「ロシアになんて帰るな……。もっと、お前と一緒に居たいんだ……! お前を悲しませたり、嘘をついたり、これからもたくさん、そういう事が起きるかもしれない。でも、お前を想う気持だけは、いつまでも本物だって約束する……! だから……!」
視界が歪む。
そうさ……。
これが、俺の本音なんだ。
「だから、『ぼるしち』ではなく、俺たちを選んでくれよ……!」
『ぼるしち』
『ボルシチ』
『Борщ』
「……え?」
「ん……?」
数秒間、私たちは固まってしまった。
『ぼるしち』……。
『ぼるしち』って……もしかして……。
「え……確認だけど……。永くないって……お母さんのこと……だよね……?」
そう訊く私に、司令官はポカンとした顔を見せた。
そして、何かに気が付いたかのように目を大きくさせた。
「もしかして……永くないのって……」
俺は全てを理解した。
小さな命にどうしてそこまでこだわるのか、どうしてそこまで激怒するのか――。
「……そういう事かよ」
俺は思わず、倒れ込んでしまった。
「そうだよ……。永くないのは、ハムスターの『ぼるしち』だ。お前のお母さんじゃないよ……」
それを聞いた響もまた、へたりと座り込んでしまった。
「じゃ、じゃあ……お母さんはどうして……」
「あぁ……。電話をかけて来たのは、ハムスターの『ぼるしち』が永くないと聞いて、お前の事も心配になってしまったらしい。お母さんにとって、『ぼるしち』は家族同然に可愛がっていただろう? だから、お前と重ねてしまったんだと……」
確かに、お母さんは『ぼるしち』をすごく可愛がっていたけど……。
「私は、ハムスターと同じ立ち位置なんだね……」
それには思わず、司令官も笑ってしまっていた。
「そっか……。『ぼるしち』の事だったのか……」
ホッとする反面、いくら小さな命とは言え、そんな風に思っちゃいけないと、私は表情を戻した。
「しかし……そうか……。お母さんの事だと思っていたのか……」
「うん……。だから……司令官があんなこと言った時、本当に失望したよ……」
「いや……。そりゃそうだよな……。そもそも、ハムスターだろうが、そんな事を言ったらだめだよな……」
いつの間にか、いつもの司令官に戻っていた。
嘘をつく司令官に。
「……それで? 勘違いだって気が付いた今、お前はどうするんだ?」
「え……?」
「ロシア……帰るのか……?」
司令官は、そっぽを向きながら、そう訊いた。
そうだ……。
お母さんの事が勘違いだったとしても、まだ……。
「お前の本音……聞かせてくれ……」
私の……本音……。
「……さっきも言ったけど、私はずっと、本音で話していたよ」
「それは、迷惑がかかるとか、理由がないとか、邪魔になるだとか、そういうことか……?」
「……うん」
永い沈黙が続く。
「私は……本当の家族にはなれない……」
本当の家族……か……。
「……鳳翔にさ、言われたんだ。家族ってのは……ただの関係性を表す言葉でしかないって」
「…………」
「確かに、そうかもしれないと思った。でも後になって、それで済んだら苦労しないとも思った。鳳翔は、まぎれもない俺の家族だ。結婚もしているし。お腹の赤ちゃんだって、その子供だから、家族だ。でも、お前は――……。けど、そうだよな……。普通、そう思うよな。それなのに、『お前も家族』なんて言われても、納得いかないよな……」
響は何も言わず、ただ俯いていた。
「だからさ、今一度、お前との関係を考えてみたんだ。……と言っても、今、結論が出たばかりなんだが」
俺は起き上がり、響の目を真っすぐ見つめた。
「俺にとってお前は、『特別』なんだよ」
特別……。
「友達とか、恋人とか、家族とか、妹とか――関係性を挙げれば、色々言うことは出来る。でも、どれも違うと言うか……。そうでないといけない関係って感じがして、なんか嫌だよな」
司令官は微笑むと、私の手を取った。
温かく、大きな手だった。
「お前は、『特別』だ。家族なんて言葉で縛ってしまったが、『特別』に、そんな縛りはない。ただただ、『特別』なだけなんだ」
『そうだよ。私と司令官は、特別なんだ。普通の家族基準で考えてもらっては困るよ』
なんだ……。
最初から、自分で言っていた事じゃないか……。
分かっていた事じゃないか……。
なのに……どうして私は……。
「お前はどうだ……? 響……」
私は……。
響は、涙をこぼした。
拳はぎゅっと握られていて、小さく震えていた。
「嬉しいよ……司令官……。でも……尚更ダメだよ……。司令官にとって特別な私が、司令官の家族と一緒に居たら……きっと……邪魔しちゃうよ……」
鳳翔や赤ちゃんの事を言っているのだと、すぐに分かった。
「鳳翔にとっても、お前は特別だ。おなかの赤ちゃんにとっても、それは同じだろう」
「そんなこと……分からないじゃないか……」
「分かるさ。だってあいつは、お前と同じだったんだから」
「同じ……?」
「あぁ……。あいつも、俺の家に来る時、同じように悩んだはずだ。俺たちの邪魔は出来ないと……。鳳翔が俺たちの関係を特別だと思っているのは、その為だろう……」
『私たちの持つ『家族』の意味は、ちょっと特別じゃないですか』
『私だって、家族なんですけど……?』
「あいつは、お前の言う家族とは違う意味の『家族』だと、自分たちの関係を語っていた。俺にとってお前が特別なのと同じように、鳳翔もまた、特別なんだ。そして、その鳳翔にとっても、今の『家族』は、特別なものなんだ」
『特別』と『家族』という言葉が、ゲシュタルト崩壊してきた。
「まあつまり……お前が考えているようなことは、無いって事だ。だからこそ、今まで上手くやって来れたんじゃないか。俺たちは、『家族』の意味を間違えながら、ここまで来たはずだ。そうだろう?」
なんだか、いいように言いくるめられているように思った。
でも――。
「……本当にそれでいいのかな?」
「あぁ。逆に、駄目なことあるか?」
私は何も言えなかった。
「俺がそれでいいって言っているんだ。まだ文句があるか?」
「……鳳翔さんと、お腹の赤ちゃんにも訊きたい」
「……分かった。この後、鳳翔の店を予約しておいた。その時、訊けばいいさ。お腹の赤ちゃんには……訊けるまでには、まだ――……」
俺は、ハッとした。
それが、響の答えだと、分かってしまったのだ。
だかこそ、俺は泣きそうになった。
「――まだ、かかりそうだが……。訊けるようになるまでさ……もうちょっとだけ……一緒に……家族として……居てはくれないか……?」
響が小さく頷くと、俺はたまらず抱きしめてしまった。
「響……!」
「司令……官……。うぅぅ……司令官……司令官……!」
「馬鹿野郎……! この……! ロシアに帰るなんて……! 勝手に……言ってんじゃねーよ……!」
「ごめん……ごめんね……司令官……。私……うぅぅ……」
「あぁ……もういいよ……。俺の方こそ……悪かったよ……。不安にさせて……ごめんな……」
「司令官……」
そうさ。
所詮、この程度の事だったんだ。
この程度で済むことだったんだ。
初めから、分かっていた。
俺たちは、不器用な家族なんかじゃない。
何にも知らない、ただ家族を名乗っているだけの、特別な存在同士だっただけだ。
何も知らない癖に、いっちょ前に家族を語って、悩んで、悲しんで――そんな事は、普通の家族に任せておけばいいはずなのに――。
俺たちは、本当に――。
「司令官……」
「なんだ……?」
「その……見られている……」
「え?」
顔を上げると、いつから入って来たのか、客が俺たちをじっと見ていた。
「も、もう出ようよ……。人も集まって来たし……」
「あ、あぁ……そうだな……」
皆に変な目で見られながら、俺たちは温泉施設を出ていった。
帰りの電車は出てしまったばかりのようで、次の電車が来るまで、近くにあった待合室で待つことにした。
中には石油ストーブが一台あるだけで、他に誰もいなかった。
「うわ、雪が降り始めたぞ……」
「本当だね……」
家の方で見る雪とは違って、ゆらりゆらりと、まるで鳥の羽のように降る雪。
薄らと、駅のホームに積もりつつあった。
「少し、冷えて来たな……」
「うん……」
司令官は何故か、上着を脱ぎだした。
「司令官……?」
そして、その上着をそっと、私に羽織らせた。
「少しはましになると思う」
そう言って、司令官はストーブに手をあてた。
司令官だって、寒いはずなのに……。
「ん……」
響は立ち上がると、上着を俺に返した。
「いらなかったか?」
それとも、クサかったのだろうか……。
俺が上着を羽織りなおすと、響は膝の上に座り、体をそっと寄せた。
「こっちの方が……温かいよ……?」
そういう響の表情は、どこか不安そうであった。
その意味が、俺にはよく分かっていた。
「……これで最後だぞ」
そう言って、俺は響を抱きしめてやった。
響は微笑むと、そのまま目を瞑り、眠ってしまった。
安心したような表情で――まるで、何も知らない赤子の様に――。
「はぁ……はぁ……!」
学校が終わり、いつもの部室も寄る事無く、私は学校を飛び出した。
「ちょ、ちょっと響! 部活は!?」
「今はそれどころじゃないんだ! また明日!」
「ちょっと! せめて部長に挨拶くらいしていきなさいよ! 怒られるのは暁なんだからねー!?」
暁の声が遠くなっていく。
ごめんね暁。
今日だけは、どうしても駄目なんだ。
信号待ちをしていると、遠くからバイクやってきて、私の前で停まった。
「響ちゃん!」
バイクの主は、瑞鶴だった。
「瑞鶴」
「提督さんから連絡を貰ったの! もうすぐ生まれるんだって?」
「そうなんだ! だから、急いでいるんだけど……」
「知ってる! だから、迎えに来たの!」
そう言うと、瑞鶴はヘルメットを渡した。
「私の運転、ちょっと荒いわよ。それでもいいかしら?」
「……法律だけは守って」
「私の知っている限りなら」
私は不安を抱えながら、ヘルメットをかぶった。
瑞鶴の運転は、確かに荒くはあるけど、ちゃんとルールは守っていた。
「もうすぐ着くよ!」
病院の入口にバイクを停めると、瑞鶴は私を降ろし、背中を押してくれた。
「私も後で行くわ。早く行ってあげなさい」
「うん! ありがとう、瑞鶴!」
「にひひ、頑張れ、お姉ちゃん」
案内された病室を開けると――。
「お、来たか」
目を真っ赤にさせた司令官がいた。
ベッドに居るのは鳳翔さんで、その手に抱かれているのは――。
「お前の事が待ちきれなくて、出てきてしまったようだ」
私は恐る恐る、鳳翔さんに近づいた。
「響ちゃん……」
鳳翔さんはどこか、疲れているようだった。
「鳳翔さん……大丈夫……?」
「えぇ。それよりも、ほら」
鳳翔さんは、私に赤ちゃんを見せてくれた。
「わぁ……!」
想像以上に小さい命だった。
「こんなに小さいんだね……」
「な。俺もびっくりしたよ。でも、産むのはすごく大変だったんだ……。本当……俺はもう……見ているのが辛くて辛くて……。鳳翔……よく頑張ったな……。ありがとう……うぅぅ……」
「もう……泣かないでください。この子が心配しちゃいます。しっかりしてくださいよ、お父さん」
「うぅ……そうだよなぁ……。しっかりしなくちゃなぁ……」
涙でぐしゃぐしゃになった司令官を見て、私は逆に冷静になった。
「響ちゃんも、この子のお姉ちゃんになったのよ?」
「お姉ちゃん……」
お姉ちゃんか……。
本当に、私がお姉ちゃんでいいのかな……。
この子にとって、私は――。
その時だった。
「あら?」
赤ちゃんが、泣きだした。
何かを探す様に、手を動かしている。
「よしよし、お母さんですよ~」
そう言って宥めても、赤ちゃんは泣き止まなかった。
「あらあら……困ったわ……」
私は、赤ちゃんに手を差し伸べていた。
どうしてそうしたのかは分からない。
けど――。
「あら、泣き止んだ」
私の指を掴むと、赤ちゃんは泣き止んだ。
その瞬間、私は――。
「響ちゃん……」
「響……」
とても小さく、とても力強い手だった。
「お前の事をお姉ちゃんと認めてくれたようだな……」
「……うん」
いつまでも私の指を掴む赤ちゃんは、これからの事なんて何も気にしていないかのように、安心しきった表情をしていた。
「生まれてきてくれて……ありがとう……」
私は今日、この子のお姉ちゃんになった。
鳳翔さんと赤ちゃんを残し、私たちは家に帰った。
「はぁ~……泣いた泣いた……」
「泣き過ぎだよ司令官。目、真っ赤になってる」
「いやぁ……あれは泣くだろ……。今思い出しても……くぅぅ……」
「もう……」
ふと、司令官の携帯電話が光っていることに気が付いた。
「司令官、携帯光ってるよ」
「ん? あぁ、本当だ。メールか。誰からだろう……」
メールを開いてみると、どうやらお母さんからの様だった。
「お前のお母さんからだ。お祝いのメッセージが書いてある」
「本当だ」
メッセージはとても長かった。
感動しただとか、子供の写真を送って欲しいだとか、たくさん書いてある。
「あれ。もう一通来たぞ」
「長くて入りきらなかったのかな?」
メッセージを読んでみると――。
『追伸
私たちも日本に住むことにしました。だって、寂しいんだもん!』
そのメッセージを見て、私と司令官は顔を見合わせ、それはもう大きな声で笑った。
「はははは! そうだよな。寂しいなら、こっちに住んでしまえばいいんだ」
「本当だね」
ひとしきり笑った後、私は司令官をじっと見つめた。
「これでもう、ロシアに帰る理由もなくなったな」
先に、司令官がそう言った。
そして、手を差し伸べると、まるで誓いの言葉の様に、司令官は言った。
「これからも、よろしくな、響」
「――うん! よろしく、司令官」
私は今日、お姉ちゃんになった。
そして、家族という名の、特別な存在になれた。
私の特別な人たちの、特別な存在に――。
――終わり
ご愛読、ありがとうございました。