Fate/XXI   作:荒風

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『TYPE-MOON総合板』の『型月とジョジョの奇妙な冒険』に投下したものと、ほぼ同じバージョンのものです。


エピローグ

 

   エピローグ1:Fate/ZERO

 

 

 頭部を完全にウイルスに喰い尽された言峰綺礼の胴体が、仰向けに倒れる。倒れ込んだ場所は、手榴弾の爆発で発生した炎の中だった。衣服に火が点き、肉体が徐々に燃えていく。

 吸血鬼として堕ちた神父は、このまま肉体さえも、完全に滅び去ることだろう。

 

「……ぐっ」

 

 綺礼の死を見届けた切嗣は、ついに膝を床につける。体内の血管が破れ、内出血が起こった。筋肉から内臓まで、あらゆる部位が傷つき、呼吸するだけで全身に激痛が走る。多くの骨に罅が入り、筋肉がちぎれている。四倍加速の負荷によるものだ。

 今にも気を失いそうだが、脳の血管が切れてしまったり、激痛のショックで心臓が止まったりしなかっただけ、運が良かったというところだろう。

 

「大丈夫ですか、切嗣」

 

 舞弥が駆け寄り、切嗣の体に億泰から引き抜いた【全て遠き理想郷(アヴァロン)】を差し込む。聖剣の鞘は切嗣の体を癒していくが、その力が先ほどまでより弱くなっていた。おそらく全快はできないだろう。

 元来の主であるセイバーが消滅したことで、鞘の効力も消えかけているのだろう。セイバーが消えた後でも鞘が使えたのは、本来の所有者であるセイバーが、直接に鞘を手にしていたことで、最高に活性化した鞘の力がまだかろうじて残っていたというだけだ。もうこれで完全に鞘は使えなくなるだろう。

 傷が癒えていく切嗣の様子を見ながら、形兆は次のことを思案する。

 

「何とか勝てたが……後は聖杯をどうするか」

 

【この世全ての悪】に蝕まれた聖杯。残しておくわけにもいかず、破壊しても何が起こるかわからない。

 

「っ……おいッ! あのババア!!」

 

 億泰が色を変えて叫ぶ。指差す先には、全身に弾痕を刻みながらも起き上った、キャスター・エンヤ婆の姿があった。

 

「ハァ、ハァ……おのれ……カスどもめが」

 

 彼女の手には、綺礼が被り、その身を魔物と変えた【石仮面】があった。切嗣たちは冷や汗を流す。もし、彼女が吸血鬼となれば、今の傷も治り、逆転も可能だ。

 しかし、エンヤ婆の顔には絶望と悲痛の影に染まっており、勝利への渇望は見えなかった。

 

「今……クッ……DIO様が消えた。DIO様の骨を通じて召喚されたわしには、それが伝わった……」

 

 その眼から涙が溢れ、滝のように皺だらけの頬を伝い、流れ落ちる。

 

「おのれ……おのれッ!! お、おの、れぇぇぇぇぇぇッ!! よくも! よくもぉッ!!」

 

 その場にしゃがみこむと、床に向かってガンガンと思い切り頭を叩きつける。かなり遠慮も躊躇も無く、叩きつけていると見え、床がだんだんへこんでいく。

 

「許さんっ! こうなれば、貴様らも皆、殺し尽くしてくれる……!!」

 

 エンヤ婆が【石仮面】を強く握る。やはり、それを使って吸血鬼になるつもりかと、阻止する方向で動こうとする形兆たち。

 しかし、エンヤ婆は予想外の行動をした。

 

「こうやってのぉ!!」

 

 妖婆はその【石仮面】を素早く、聖杯に目がけて投げたのだ。【石仮面】は回転しながらフリスビーのように飛び、聖杯に当たる。

 そして、

 

 ズガァァァァァアアンッ!!

 

 仮面が火を噴き、爆発した。天井まで昇る火柱が立ち、壇上を炎と熱風が舐めあげ、聖杯を呑み込む。

 

「キャハハハハハハ!!」

 

 炎が広がっていくコンサートホールに、エンヤ婆の笑い声が響く。

砕けた幻想(ブロークン・ファンタズム)』――元々はアサシンの宝具である【石仮面】。エンヤ婆が使用することなどできないが、アサシンがこの世からいなくなった今、魔力を注いでアサシンと共に消えることを防ぎ、己と縁を繋げて所有物としたうえで、暴発させる。仮にもキャスターのクラスにあるエンヤ婆であれば、できないことではない。

 

「フフヒヒヒヒヒ……もうおしまいさ。このわしもいずれ消えるが、貴様らもだ。少なくとも、この町は地獄になるじゃろう……DIO様以外の誰にも聖杯は渡さん。生きていることも、許さん……クヒャヒャヒャヒャ!!」

 

 狂気の笑いをあげ続けるエンヤ婆の言葉は、『空』で何が起こっているのか知らない切嗣たちにとっては意味不明だったが、危険が迫っていることは、その場の誰もが理解できた。

 

「くっ……とにかくここにいたら火に焼かれて死ぬ。外に避難するぞ!」

 

 形兆が言い、切嗣も頷く。舞弥が切嗣を、億泰が形兆を、フーゴがナランチャを、動ける人間が動けない人間をそれぞれ運び、コンサートホールから駆け出て行く。

 後には、ますます燃え盛る炎の中、エンヤ婆の笑いが響いていた。

 

   ◆

 

 一方、外ではウェイバーたちが青ざめた顔で、空を見上げていた。

 空にポッカリと開いた黒い孔。その奥から、いわく言い難い、冒涜的とも言えるおぞましさを内包した『泥』が湧き出てきているのがわかったのだ。わかりたくないのに、本能が『酷い何か』が湧き出てくることを訴えている。

 このままいけば、『泥』は地に落ち、辺り一帯を汚染するだろう。この場にいれば確実に呑み込まれる。

 

「どうするんだよ……あんなの」

 

 ウェイバーや雁夜はもちろん、霊核が傷ついたランサーも、『泥』の湧く『孔』をどうしようもできない。

 

「自動車で、逃げるか?」

 

 雁夜が提案するが、ウェイバーは力無く首を振る。今からでは逃げ切れるとは思えない。

 

「申し訳ありません、主よ……ここまで来て……」

 

 苦渋の表情のランサーが、絶望を滲ませた声を漏らす。

 三人が諦めることしかできない中、ガチャリと言う足音がたつ。

 

「ここは私にお任せください」

 

 涼しげな響きの声が、彼らの背後からかけられた。

 

「お前、バーサーカー……」

 

 振り返った雁夜が目を丸くする。

 常に妄執の悪鬼として、殺気を振り撒いていたバーサーカーは、物静かな、湖面に映し出される月を思わせる、憂いを帯びた美青年として立っていた。

 この姿が、かつてアーサー王の朋友、騎士の中の騎士として謳われた、サー・ランスロットなのだろう。とはいえ、その身は満身創痍、あと少し早く立ち上がっていたとしても、アサシンとの戦いには役立たないくらいに消耗していた。けれど、まだできることはあった。

 

「私ももう、消えゆく身ですが、それゆえか、理性がこの身に戻ったようです。あの『孔』は、私が断ち斬ります」

 

 右手に【無毀なる湖光(アロンダイト)】を掲げ、力強く言い放った。

 

「この身に残された全ての魔力を、爆発力に変えてあの『孔』に叩きつければ、きっと破壊できるでしょう」

「お前……自分の全てを使って『砕けた幻想(ブロークン・ファンタズム)』を行うつもりか」

 

 バーサーカー――サー・ランスロットはウェイバーに頷き、次に雁夜に対し、深く頭を下げた。

 

「申し訳ありません、雁夜……私の狂気に、貴方を巻き込んでしまった」

「え……いや、バーサーカーのクラスで呼んだのは俺なんだし、むしろバーサーカーにされたことを怒るのはそっちの方じゃないか?」

 

 今までの暴走状態とは逆の、礼儀正しい行動に、雁夜は現状の危うさも忘れて面食らう。

 

「いいえ。私は望んで狂気に堕ちたのです。かつて我が王、アーサー王は、私の罪を許した。決して責めはしなかった。ですが、それが私にとっては苦痛でした。罰を与えられていれば、償うこともできましたが、そもそも許されてしまっては、私にできることは何も無くなってしまう……。深い罪の意識と懊悩の果て、私は狂気を求めました。狂ってさえしまえば、もう悩むことなく、存分に恥知らずに、王を恨むことができると」

 

 完璧な騎士と褒め称えられた男は、己の罪を告白する。己の身勝手な行為を告白する。

 彼の反逆は、理性なき獣であれたからできたのだ。理性の戻った今、残っているのはかつてを遥かに上回る、悔やんでも悔やみきれぬ罪の意識しかない。

 

「ええ、あのアサシンの言った通りです。全て私の望んだことです。王へと怒りをぶつけ、王を苦しめ、絶望に落としたいと、私は確かにそう望み……そして叶った。叶ってしまった」

 

 バーサーカーは嘆きを湛えた目で、今にも零れ落ちそうな『泥』を見上げる。

 

「憎悪を、怨嗟を、周囲を顧みず振り撒いて、今なお敬愛し続ける貴き主君の心を、この手で切り裂き……何をやっているのやら」

「バーサーカー………」

 

 自嘲するランスロットに、雁夜は胸を痛める。確かにランスロットの行為は愚かだったのだろうが、それでも絶望したまま終わってほしくは無かった。泣きながら消えて行ってほしくはなかった。

 バーサーカーは、雁夜のサーヴァントであり、パートナーであったのだから。

 

「最後の償い……にもならない、自己満足ですが、あの『孔』の始末はつけます」

「あ、あのな、バーサーカーがどう思っていようとだ」

 

 雁夜がおずおずと口を開く。この濃密な戦いの時間を共に過ごしながら、初めて言葉を交わす相手。深く理解しているわけではない。その苦悩を知るなどおこがましい。それでも、言うべきことがあった。言いたいことが、確かにあった。

 

「俺と一緒に戦ってくれたこと、感謝している。お前じゃなくちゃ、アサシンには勝てなかった。時臣の願いを、叶えられなかった。だから、その」

 

 自分の心を表せるような言葉が中々見つからず、もどかしく思いながらも、精一杯の想いを込めて、雁夜は口を開く。

 

「自分の全てを否定しないでくれ。お前は、俺の最強の騎士だった」

 

 その言葉を受け、バーサーカーは少し恥ずかしそうに、微かな微笑みを見せた。相変わらず影は背負っているが、僅かなりとも慰めにはなっただろうか。

 

「……では行きます。おさらばです、雁夜。世話になりました、ウェイバー殿、ディルムッド殿。大部分は焼き滅ぼせますでしょうが、多少の雫は燃え残り、落ちてくるでしょう。気をつけて」

 

 剣を抜く。強い力を込めるでなく、仰々しい構えをとるでもなく、あくまで自然体に軽く、【無毀なる湖光(アロンダイト)】を両手で握る。

 そして剣を頭上にまで振り上げ、剣先を天に向ける。腰を落とし、右足を前に踏み出し、左足を後ろに退く。

 

「……ハッ!!」

 

 呼気を一つ。大地を打つ音がしたかと思えば、バーサーカーの姿は既に、何十メートルの上空に昇っていた。もはや朽ちた体は、その跳躍に耐え切れずに脚が砕けたが、もう戦うことも無い身を、バーサーカーは気にかけない。

 

 オオオォォォォオオオォオォォォオオオオオ

 

 亡者の呻きの如き、不気味な唸りをあげ、『泥』がいよいよ溢れだそうとする。『孔』の縁から、『泥』がこぼれ始めた、まさにその瞬間、バーサーカーの剣が『孔』に届いた。

 サー・ランスロットは、誇り高き剣撃を今、振り下ろす。

 

「【無毀なる湖光(アロンダイト)】ッ!!」

 

 かつて、誰よりも偉大なる王と仰いだ人と共に、戦場を駆けた日々において、常にその手にあった存在の名を、高らかに叫ぶ。

 かつて幾多の騎士を屠り、幻想種の王たる龍をも切り裂いた、星が生み出せし神造兵器。

 その不滅の輝きは、ドス黒く濃縮された悪の塊を照らし、斬り滅ぼす。

 

 ズオォォォォオオッ!!

 

 雁夜たちの目には、黒い巨大な『孔』が、光の刃に両断された光景がはっきりと見えた。そして次の瞬間、『孔』の中心部で白い閃光がはじけ、『孔』を灼き裂いた。

 悪しき『泥』が、騎士の『光』に塗り潰される。やがて光が弱まり、消えた後には、空は星が瞬く、『孔』の無い本来の夜空へ戻っていた。

 

 しかし、バーサーカーの予想通り、『完全』に消滅させるとは、いかなかった。

 

 これがセイバーの【約束された勝利の剣(エクスカリバー)】であれば、『泥』全てを焼き払えただろう。あるいは消耗していないバーサーカーが全力を費やせば、【この世全ての悪】を斬り伏せることもできたかもしれない。

 

 だが結果として、『泥』は本来溢れ出る量と比べれば、ずっと微量ではあったが、確実に残存し、大地へと落下した。

 数は七つか八つ程度であったが、『泥』の雫は、落ちた場所で発火――否、炸裂した。

 落ちた場所が家屋であれば、内部の人間ごと、数秒で灼熱地獄に落とした。

 落ちた場所が道路であれば、アスファルトを熔解させ、運悪く走行中だった自動車へと、獲物へ喰らい付く蛇のように襲いかかった。

 その内の一つは真下の市民会館へと落ち、天井を焼き裂き、壁を侵食してボロボロと建物全体を倒壊させていく。

 

「た、大変だ! 中にはまだ、フーゴとナランチャが!」

「慌てるなよ。ここにいる」

 

 協力者たちの身を心配する雁夜だったが、ちょうどその時、ナランチャを担いだフーゴが姿を現した。

 

「フーゴ! 良かった、無事だったか」

「ああ、ナランチャも無事だ。そっちは、無事とは言い難いようだな……」

 

 フーゴは倒れたブチャラティとアバッキオの姿や、姿さえ見えないバーサーカーから、状況を察して表情を暗くする。

 

「ああ……」

 

 フーゴの背後で、絶望に染まった声があがった。

 衛宮切嗣が、町の様子をその眼で確認したのだ。

 

 夜の闇の中で立ち昇る炎の忌わしき輝きが、人々が眠りについた静寂の中で響く破壊音が、遠くからでもよくわかった。

 

「そんな……そんな!」

 

 いてもたってもいられなくなった切嗣が走り出す。もはや聖剣の鞘も効果は発揮されていないため、体に負ったダメージは残っている。それでも切嗣は肉体の苦痛を無視して走った。自分自身が死ぬとでも言うような、切羽詰まった顔だった。

 綺礼を討ち果たしたとき、終わったと思えたから、無事に全てを終わらせ、無為な犠牲を出さずに済んだと思えたから、結局そうできなかったことの衝撃は、切嗣を打ちのめしたのだろう。

 そんな切嗣の背中を、舞弥が追いかける。疲労も傷も顧みることなく、当然のようにそうした。

 

「あ、兄貴、俺たちは……」

「……しょうがねえ。追うぞ」

 

 とはいえ、聖杯は砕け散ってしまい、雇い主であるアインツベルン家の悲願は果たされなかった。この分では、報酬である魔術知識も与えてもらえるかどうか。下手をすれば失敗の責任をとらされる羽目になるかもしれない。

 

(始末される前に逃げた方がいいかもな……)

 

 今後の事に頭を悩ませながら、形兆たちもまた疲れた体を引きずるように、切嗣の後を追うのだった。

 

「…………」

 

 燃える町へ向かう彼らの背中を、ウェイバー・ベルベットは見つめていた。ほとんどの魔力を使い果たし、気を緩めると意識を失ってしまいそうなほど消耗した彼は、鈍い動きで水の入ったペットボトルをポケットから取り出し、中身を飲み干す。

 

「う、ぐ、う、うぉぉぉぉぉ~」

 

 水を飲むとすぐに、ウェイバーの目から尋常ではない量の涙が溢れ、零れ落ちる。足元が水たまりになるほどの涙が流れた後では、朦朧としていたウェイバーの思考は澄み渡っていた。

 キリマンジャロの5万年前の雪解け水の効果である。

 

「ふう……」

 

 はっきりとした意識を取り戻し、一息ついたウェイバーは、ランサーへと振り向く。ウェイバーの目にしたランサーは、既に光へと転じて消え行こうとしていた。

 アサシンに砕かれた霊核で、ここまで良く保ったというべきだろう。だが、もうすぐランサーは消える。いや、もっとはっきり言えば――死ぬ。ここに存在しているディルムッド・オディナにはもう会えない。たとえ同じディルムッド・オディナを召喚できたとしても、それは別のディルムッド・オディナだ。

 

「ランサー……ディルムッド・オディナ」

 

 ウェイバーはここまで共に戦い続けてきた戦友と向き合う。忠義を捧げてくれた騎士へ、もう2度と会うことのできない相棒へ、告げるべき言葉を懸命に探す。

 

「主よ……申し訳ありません。貴方へ聖杯を捧げたかったのですが、それは果たせませんでした」

「何言ってんだよ馬鹿。あんな『孔』が開くようなことになってるんだ。聖杯なんていっても、まともなものであるか疑わしい。大体、僕が欲しかったのは、聖杯そのものじゃなく、友達に自慢できるような武勇譚だ。彼らと肩を並べられるような、英雄譚だ。それは手に入れられた。僕たちは最後まで戦い抜き、最後に勝ち残ることができた」

 

 ウェイバーは今まで張り続けた意地を、しばし忘れる。強がりを消し、ただ素直な心情を、口にする。

 

「お前の捧げてくれた勝利は、僕の一生の自慢になるだろう。お前の忠義も、お前の武勇も、教えてくれた詩の形式も、朝に卓を囲んで飲んだ茶の味も、僕はいつまでも憶えていよう。良くやった。本当に良くやってくれた……お前は僕の、自慢の騎士だ」

「有難き……有難き幸せ……」

 

 ランサーは感涙しそうなほどに心を震わせ、今生の主からの称賛を受け取った。彼の悲願は、生前の最後の心残りは、これで完全に果たされた。

 けれど、

 

「貴方と共に戦場を駆けた日々……私が望む全て、望む以上の多くを、与えてもらいました。だからこそ、悔しい。この幸せが終わってしまう。もっと、貴方に仕えていたかった。貴方の誇る友人たちにも、会ってみたかった。貴方の成長を見守りたかった。ふふ、全く自分がこれほど度し難い欲深とは、思いもしませんでした……生前の心残りが消えたと思ったら、また心残りができてしまった」

 

 言葉で自嘲しながらも、ランサーの顔はそんな自身を慈しむように笑っていた。

 もっと生きていたいと願うほど、良き時間を過ごせたということ。別れたくないと悲しめるほど、良き主人と巡り合えたということ。だから、この悔しさの痛みも、心残りの苦みも、きっと良いことなのだろう。

 

「けれどそれも仕方ない。せめて笑ってお別れとしましょう。それがケルトの騎士の流儀……ご壮健を願います。我が主よ」

「大儀だった、我が騎士。座で待っていろ。僕もいつか行ってやる。ああ、行ってやるとも!」

 

 高らかに言うウェイバーの手は、拳をつくって強く握られ、表情はやや硬く、引き締められている。そうやって力を入れていないと、先ほどあれだけ溢れ出させた涙が、まだ出てきてしまいそうだった

 ディルムッド・オディナは、『座に登録されるほどの英雄』になるという、ウェイバー・ベルベットの宣言を、欠片も否定することなく、真面目に受け取り、

 

「ええ、楽しみにしています」

 

 その言葉を最後に、ついに全身を光に転じさせて消え去った。

 

 それを見送るウェイバーの目は熱を帯びていたが、涙をこぼすのを堪え、少年は荷物を手にする。まだ自分は動くことができる。

 助けられる人もいるはずだ。自分でなければ助けられない人もいるだろう。それを見過ごしては、友人たちに、ランサーに、顔向けできない。

 

「『悲しみの歌をうたえ。勇士は地に倒れ伏して久しくなるが、また勇士の日が訪れるであろう』……僕は火事になっているところに行く。あんたたちは?」

 

 ランサーより教わった詩歌を口ずさむと、ウェイバーは雁夜たちに目を向けた。フーゴは既に自動車に傷ついたブチャラティたちを担ぎいれに行き、この場には見えない。

 

「……悪いが、俺たちはこの場を去らせてもらう。聖杯が手に入らなかった以上、俺に人助けをしていられる余裕はない」

 

 詳しい話は聞いていないが、雁夜には相当に重い事情があることはウェイバーにも予想できた。これから彼がどうするのかはわからないが、その切羽詰まった表情は、危ない橋を渡るつもりであると語っていた。

 

「……わかった。せめて武運を祈るよ」

「ありがとう。君とランサーのことは、死んでも忘れない」

 

 それが、彼らの交わした最後の言葉となった。二人は互いに背を向け、反対の方向へと歩き出す。

 かくて、最後の決戦が行われた地からは誰もいなくなり、聖杯は砕け、戦争は終わった。

 

 第4次聖杯戦争は、勝者のいない結末を迎えたのだ。

 

 

   ◆

 

 

   エピローグ2:間桐雁夜

 

 

 間桐雁夜は間桐の館へ足を踏み入れる。己が生家のはずなのに、そこで心安らいだことは一度も無く、己が住む場所と思えたことも無かった。

 むしろ敵地に向かう心地で、雁夜は足を進める。門を開き、階段を下り、蠢く蟲どもを振り払い踏み潰し、やがて表情の壊れてしまった少女のもとに辿り着く。

 

「桜ちゃん……助けに来たよ」

 

 少女の虚ろな目を覗きこみ、雁夜は悲願であった言葉を口にした。

 力無く、蟲どもに蝕まれるに任せている桜を立たせ、しっかりとその小さな手を握り、共に呪われた蟲蔵を出て行く。

 

「おじさん……どうして外に出るの? お爺様に怒られちゃうよ……?」

 

 首を傾げる幼女に、雁夜は柔らかに微笑みをつくり、首を振る。

 

「大丈夫。もうあいつの手の届かないところへ行くんだから」

 

 雁夜を見張る蟲はもういない。このまま町を出れば、臓硯とてそう簡単に足取りをつかむことはできないだろう。問題は、この冬木を出るまでにある。

 

(空港にさえ行ければいい。今の俺でも簡単な催眠程度なら使える。イタリア行きの飛行機に密航できれば、飛行機の速度についてこられる蟲などいない。逃げ切れる)

 

 雁夜は、ここに来る前にフーゴとかわした会話を思い出していた。

 

   ◆

 

『しかし、これからどうするつもりだ? 聖杯は手に入らず、臓硯との約定は果たせなかった。臓硯と戦おうにも、ブチャラティたちはこの傷……とても、戦力にはならない』

 

 自動車を運転しながら言うフーゴは、一見して冷静に見えたが、その顔色はいつもより血の気が引いていた。

 ナランチャは軽傷だが、ブチャラティとアバッキオは重傷。特にブチャラティは腹を貫かれ、今も生きているのが不思議なほどだ。リーダーが致命傷に陥り、心配でないわけがない。

 そんなフーゴに対し、それまで強く唇を結んで黙っていた雁夜は、ポケットから小さな一つの薬瓶を取り出した。

 

『それは……』

『アーチャーから貰った、【再生薬】だ。これを、ブチャラティたちに使ってくれ』

 

 それは、雁夜と桜のためにブチャラティが雁夜に渡したもの。それを譲るということは、雁夜の肉体を癒す手段は無くなるということ。

 

『いいのか?』

『……ブチャラティを死なせるわけにはいかない』

 

 雁夜の声と表情に決意を見たか、フーゴは真摯に頷いて受け取り、ただ一言、

 

『感謝するよ』

 

 とだけ、言った。それ以上のものも、それ以外のものもお互いに必要なかった。

 自動車をいったん交通量の少ない小道の脇に停め、ブチャラティたちに薬を塗る。その効果は劇的で、ブチャラティの腹に開いた穴は埋まり、アバッキオの骨折も繋がる。しかし、彼らが目を開けることはなかった。

 

『致命傷は脱したが、もう少なくなっていた薬を3人で分けて使ったせいか、完全には治りきらなかったようだ。擦り傷や打撲のような細かい傷はそのままだし、体力も戻っていない。すぐには動けないだろう』

 

 フーゴはブチャラティたちの様態を診て、そう判断した。雁夜はフーゴの見解を聞くと、静かに覚悟を決めて、【再生薬】とは別の薬瓶を取り出す。

 桜のつらい記憶を消すために、ブチャラティが雁夜に渡した薬。

 

『【忘却薬】だ。これを使って、ブチャラティたち3人から、この戦いの記憶を消してくれ』

『…………!!』

 

 フーゴは【再生薬】を渡された時よりも長い時間、無言で驚愕した後、

 

『一人で行くというのか?』

 

 あの臓硯を相手に、桜を助けに、一人で行くと。ブチャラティたちがいても、どうなるかわからない未知数の相手に、一人で行くと。

 

『ブチャラティたちが目を覚ますのを待っている時間はない。俺の体にはもう蟲がいないから、見つかることもない。臓硯を出し抜くには、この戦争終結直後のゴタゴタだけがチャンスなんだ』

『…………』

 

 フーゴは何も言い返さない。頭のいい少年は、雁夜の言うことに理があるとわかっているのだ。桜を救い出すには、今この時が最大のチャンスであり、今この時にブチャラティたちは動くことができない――ゆえに雁夜一人で行くしかない。

 無論、フーゴだけならついていけるが、意識不明のブチャラティたちを残して、雁夜についていくという選択肢は、フーゴにはない。冷静に、冷酷に、人間と状況を天秤にかけて、正解を導くのがフーゴの役割であり、ブチャラティのチームのためには雁夜はここで切り捨てることが最善なのだ。唯一の問題であるブチャラティの感情は、【忘却剤】を飲ませれば解決する。

 一人分しかない【忘却剤】だが、3人に使った上で、雁夜の魔術で偽の記憶を植え付ければ、まず完璧に記憶を改竄できるだろう。

 

『ただ……【忘却剤】を渡す代わりと言ってはなんだが、無事に桜ちゃんを助け出せたら、イタリアに渡る。そうなったらかくまってほしい』

『なるほど……そういう取引か。【忘却剤】なしであんたを見捨てたら、僕とブチャラティは気まずくなる。そうなりたくなかったら、救出成功後の生活の面倒を見てほしいと。いいだろう。まだ自分の損得も考えられる程度には冷静なようで、少し安心した』

 

 話がまとまると、雁夜は眠れるブチャラティたちに【忘却剤】を使い、できる限り日本に来た後の記憶を消去した。そして雁夜と出会った記憶などは消し、敵スタンド使いと戦って始末し、任務を果たしたと、記憶のすり替えを行った。目覚めるまで確認はできないが、手応えとしては成功だろうと雁夜は踏んだ。

 記憶改竄が終わると、フーゴは雁夜に連絡先の一つを教える。雁夜はメモをとったりはせず、しっかりとその連絡先を頭に叩き込んだ。

 

『連絡先を臓硯にばらしたりするなよ?』

『ああ。もっとも、臓硯はそこまでそちらに執着はしないだろうが』

 

 多少特異な能力を持っていても、魔術とは関わりの無い人間が、尻尾を巻いて逃げて行くのを、敢えて追いかけてまで始末しようとは思わないだろう。慈悲ではなく、傲慢と無関心という意味で、臓硯はブチャラティたちを見逃すというのが、雁夜の推測だった。

 

『……ほんの数日しか付き合いの無い間柄、そこまで親身になる義理は無いが、なるべくなら生きていられるよう祈ってやるよ』

『うん……ブチャラティには伝えられないかもしれないが、感謝してる。本当に』

 

 フーゴの冷徹さが、今の雁夜にはありがたかった。

 

   ◆

 

 フーゴは、今頃はイタリア行きの便のある港なり、空港なりに向かっているだろう。雁夜は内心で自嘲する。

 

(中途半端だな)

 

 ブチャラティたちと別れたわけは、確かに今の彼らでは戦力にならないというのもあるが、やはり彼らをこれ以上付き合わせたくなかったからだ。桜のためなら、自分の命も捨てるし、他人の命も生贄にすると誓った身でありながら、自分に味方してくれる者を犠牲にする覚悟は、どうしても決まらなかった。

 もしブチャラティという人間の人となりを深く知らずにいたなら、彼らを捨て石にすることもできたのだろうが、今となってはそれはあまりに罪悪感をもたらす行為となっていた。人間の温もり、優しさを思い出してしまったがゆえに。

 

(けれど……)

 

 自分の至らなさを嘆くことをやめ、より重要なことに意識を集中させる。まずはタクシーを拾うか、適当に道行く自動車の運転手を催眠で操ってでも『足』を手に入れなければならない。

 住宅地を歩み、もう一区画を抜ければ、この深夜でも多くの自動車が走る、大きな車道に出られるというところまで来た。だがその時、

 

 ぐぉん

 

 夜の闇で何かが捻じれた。

 

「どこに行く気かえ? 雁夜よ」

 

 それはごく普通の老人の声であるはずだ。だが雁夜にとっては、聞いているだけで神経を掻き毟るような、不快感を催す、蟲の羽音や足音のような声。

 

「……臓硯」

 

 答える雁夜の声は、意外にも静かなものだった。戦意や敵意はあっても、恐怖は無い。

 そのことに臓硯も気付いたようだった。

 

(小癪な……)

 

 臓硯の感情が凶暴さを増す。元よりこの老怪の機嫌は非常に悪い。この老魔術師の当初の目的は、達せられているというのに。

 

(元より、様子見に徹するつもりであった聖杯戦争。雁夜ごときに期待はしていない。目的としていた、聖杯の欠片は手に入った。次回の戦争では、これを上手く使えばアインツベルンを出しぬける。万事はわしの都合のいい展開……だが!!)

 

 腹の底から、臓硯自身も制御できぬ、熱く黒い塊のような感情が溜まっていく。

 アサシンの敗北と言う結果が、臓硯に想像以上の怒りをもたらしていた。久しく感じぬ失意と悲嘆。自分の認めた『悪』が、取るに足らない『正義』に倒されるという、彼にとっての理不尽な運命への憤怒。

 

「よもや貴様ごときが生き残るとはのぉ……あのアサシンを打ち破るなど……奇跡をどれだけ積み重ねたのやら」

 

 臓硯の憎悪を反映するかのように、周囲の空を無数の魔蟲が羽ばたく。一匹を相手にしても、雁夜ではあっさりと殺されるだろう。

 

「しかしそのような奇跡も、もはや打ち止め……聖杯を取れなかった貴様に、報酬を得る権利は無い。にもかかわらず、桜を連れて行こうとしたのだから………罰を受けてもらう」

 

 臓硯の右腕が上がり、蟲たちがいななく。聞く者の耳を痛める、甲高い声に、桜が身をすくませる。けれど、雁夜はそんな桜をかばって、前に立つ。

 

「へえ、臓硯。あんた、あのアサシンを随分買っていたみたいだな。それなのに俺たちがアサシンに勝っちまって、怒り心頭ってところか?」

「ッ……黙れいッ!!」

 

 魔蟲が牙を剥いて飛びかかる。臓硯にしては直情的な、厭らしい工夫の無い攻撃だった。雁夜相手であれば、正攻法でも充分であるのは確かであるが、何より雁夜に見透かされたという屈辱感が、臓硯を更に怒らせ、単純な行動を取らせたのだろう。

 

「燃え尽きろ……ッ!」

 

 対する雁夜は冷静に、ポケットから一粒の赤い宝石を取り出し、投げつけた。時臣より譲り受けた、宝石の一つ。最後の戦いでほとんどを使ってしまったが、片手で数えられる程度の数は、残っていた。

 

 ゴオオォオオオォォォォッ!!

 

 火のついた魔力の塊は、爆炎となって迸り、殺到する蟲どもを焼き飛ばしながら、臓硯へと真っ直ぐに襲いかかる。

 

「こっ――!?」

 

 避ける暇も、護る猶予もなく、濃密な炎によって造られた破城槌により、臓硯の矮躯は灰も残さず焼き潰された。炎の到達点である大地のアスファルトまで焼き熔かす、極上の熱量による、当然の結果だ。

 

「桜ちゃん!」

 

 だがその結果を見ていてなお、雁夜は安堵することなく、桜の手を取り、弱った足で走り出そうとする。その行動は、間違ってはいない。けれど、無意味であった。

 

「逃さんわ」

 

 ズガッ!!

 

 雁夜の右足が、脛の半ばから断ち斬られた。

 

「ッ! ガ、アアアアアアッ!!」

 

 支えを失った男の体が、アスファルトに倒れる。そのままショック死してしまいそうな激痛に、必死で耐えながら雁夜は身を起こし、周囲を見た。

 すると、先ほど炎を放ったのとは逆の方向に、先ほど炎に呑み込まれて消えたはずの、間桐臓硯の姿があった。その肩には、今、雁夜の足を噛みちぎったであろう、血に濡れた鋭い牙を持った蟲がとまっている。

 

「さて、あと幾つ宝石を持っている? まあ何十個持っていたところで、このわしには無意味じゃがのぉ」

「そうだろうな……ッ……どうせ、今そこにいる貴様も、本体じゃないんだろう?」

 

 雁夜は上半身を起こし、立ち上がることのできなくなった体で、それでも腕をかざして、桜をかばう。桜は雁夜が倒れた時に共に転び、臓硯からの威圧を受けて、震えてしゃがみこんでいた。

 

「貴様の体は、既にただの傀儡だ……。本体はどこか別にいる」

「……ほう?」

 

 臓硯は、少し本気で感心した声をあげる。彼の体は、確かに既に操り人形に成り変わっている。永く生きるために、人間の肉体を捨てて、魂を蟲に移し替えたのが、今の臓硯だ。だがそれを家族にさえ話してはいない秘密である。

 雁夜が知っている道理は無い。

 

(やはり、ナランチャが言ったとおりだったか)

 

 どうして雁夜が臓硯の秘密を見抜いたのかといえば、それはナランチャの【エアロスミス】によるものだった。

 二酸化炭素を探知する能力を持つ【エアロスミス】によって、ナランチャは臓硯の体が人間としての正常な呼吸を行っておらず、その身は既に生きているとは言えないと見抜いたのだ。

 

(とはいえ、普段の奴が、実は操り人形であるということだけしかわからない。本体がどこにいるのかは、わからないが……)

 

 それでも多少は推察できる。まず、本体はおそらく、もはや人間ではない。いくら魔術師といえど、人間のままに数百年の時を生きるのは困難だ。人間は不老不死ではないし、不老不死となったものは、もはや人間とは呼べない。永い時を生きるには、人間をやめるしかない。故に多くの魔術師は死徒化の研究を行うのだ。

 次の推測は、本体そのものには大した力は無い。物語の吸血鬼のような、強い力を持っているのなら、偽の体など使わず、堂々と本体のまま姿を現していたらいい。それをせず、操り人形を使っているということは、本体がばれれば危険になるということ。

 人ではなく、弱い。その二つから、更に『蟲使い』と呼ばれる間桐の、マキリの業をかんがみれば、

 

「本体は、どこぞの蟲の一匹か」

 

 そう呟いた雁夜に対し、臓硯は何も言わない。ただ、不愉快さに拍車がかかったという、空気が感じ取れた。

 

「……笑い飛ばしたりしないところを見ると、当たったらしいな」

「当たったから……なんだというのじゃ? 真なる儂がどこにいるのか、見つけ出す方法まではあるまい? あったとして、そこに辿り着く力も、貴様には無い。所詮、貴様は何もなせず、誰も救えず、無様に死ぬ運命よ」

 

 悪意に満ちた声音で、言葉で雁夜を蹴りつけ、痛めつけようというように、臓硯は言い放つ。

 

「惚れた女を抱くこともできなかった貴様に、何ができる? その女が他の男との間につくった小娘を救えば、あの女の愛をものにできるとでも思うたか? お笑いよなぁ?」

「饒舌じゃないか。臓硯」

 

 けれど、雁夜は全然怖いとは思わなかった。

 代わりに、怯えて震えている桜の頭を、優しく撫でる。

 

「怖くないよ、桜ちゃん。あんなクソジジイ、恐いもんか。弱いものいじめしかできない奴だ。自分より強い奴を相手にだって立ち向かう、本当の勇気を持った人たちに比べれば、なんてことない」

 

 そして、残った宝石の二つの内の一つを、桜の小さな手に握らせる。美しい桜色が輝く、ピンクトルマリン。

 

「宝石言葉は、忍耐、努力、そして幸福。強い出会いを呼ぶ、『恋の石』でもあるそうだよ。あいつが、遠坂時臣が、君のお父さんが、桜ちゃんを助けるために、俺にくれた宝石だ。俺が弱いせいで、君を助けることはできなかったけど、君を愛している人はいた。これからもきっといる。それを忘れないで……つらくても、耐えて、そして幸せになるんだ」

 

 雁夜は言う。ブチャラティが、自分と桜に言ってくれた言葉を。

 

「君は、独りじゃない」

 

 雁夜が言い終えると、ピンクトルマリンは淡い光を放ちはじめる。光は桜を祝福するかのように包み込んで、蟲たちも近づくことのできない防御壁となる。その防御が完成した時には、宝石もまた崩れて無くなっていたが、桜は、自分はまだその宝石をどこかに持っているような気がしていた。恐怖がやわらぎ、やすらいだ胸の奥辺りにある、どこかに。

 

「……さあて、最後の勝負だ。臓硯」

「何を馬鹿な。貴様ごときと勝負にさえなると、思っているのか?」

「まあそうだな。俺はお前に殺されるだろう」

 

 けれど、と、雁夜は不敵な笑みを浮かべ、最後に残った、濃い赤をしたルビーを掲げる。

 

「俺は……お前の予想を上回った。ここまで生きて、桜ちゃんを連れ出し、お前の正体まで暴いた。なあ、俺でさえ、そこまでのことができたんだぜ? ろくすっぽ魔術も身についていない、半死人の俺でさえ……お前の考えを、上回ったんだ」

 

 老人は指揮者のように腕を振るう。どこからともなく現れた魔蟲の群れが、再び雁夜に向かって襲いかかる。

 

「お前は、そんなに大した奴じゃぁ、ないのさ」

 

 片足を失い、立ち上がることもできず、ただ一個の宝石しか武器はなく、獅子の群れに囲まれた子羊のように、か弱い存在でしかないはずの雁夜は、臓硯を正面から嘲笑った。

 

「死ねぇッ!!」

「もう一回言うぞ。こんな俺ごときが、お前を上回ったんだ」

 

 多くの蟲が、一度に雁夜の体に喰らい付き、皮を破り、骨を砕く。血しぶきが飛び散り、肉片が落ち、それでも、雁夜は笑みを浮かべていた。

 

「今のお前は馬鹿丸出しだッ! あの世でお前が来るのを楽しみに待っててやるぞッ!!」

「雁夜ァァァァァッ!!」

 

 ついに臓硯の表情に明確な怒りが現れ、感情が叫びとなって溢れ出す。その激情を聞きながら、雁夜は手の中の宝石を発動させた。

 

 ボウンッ!!

 

 局所的ながらも、足元のアスファルトを引き剥がす、強力な爆発が起こった。雁夜の肉体は爆炎によって一瞬で焼失し、放たれた炎は枝分かれして、蛇のように踊り、周囲の虫たちを絡め取って焼き尽くしていく。

 そして一際大きな炎の塊が、臓硯へと突進していく。炎は再び臓硯の形をした蟲の群体を焼き尽くして、消えて行く。

 

「……フン、蟲を多少殺しただけの、無意味な行為よ。最後の雄叫びをあげ、華々しく散ろうということか? 馬鹿めが」

 

 そしてまた、桜の背後の闇から滲み出るように現れた臓硯は、言葉を尽くして雁夜を見下す。しかし、その声の響きには、苦い敗北感が滲んでいた。結局、雁夜は最後まで臓硯を恐れることは無く、屈することもなかった。

 自爆的な魔術も、自棄ゆえの暴走ではなく、無様な死体を蟲に喰われなどしてやらないという、雁夜の覚悟と抵抗であると、感じられた。

 

「おじさん……」

 

 桜が呟く。その声に、このごろは全く無くなっていた感情の熱が混ざっているのを聞きつけ、臓硯の心は、更に苦々しくなる。桜はただ次世代の胎盤であるべきで、感情など無い方がいい。都合のいい操り人形であるように、『教育』してきたというのに。

 

「蟲蔵に戻れ、桜。雁夜は失敗した。次の聖杯は確実にとるため、貴様には良き子を孕んでもらわねばならぬ。体をもっと馴染ませねばならぬでなぁ」

 

 その命令に、桜は従う。唯々諾々と、彼女は受け入れる。既にピンクトルマリンの防御壁も消えて、残されたのは無力な少女一人。けれど、彼女に何も残っていないわけではなかった。

 

(おじさんは、どうして戦い続けたのだろう)

 

 雁夜は弱かった。初めから、恐ろしい臓硯に敵うべくもなかった。

 それでもなお、戦った。怯まなかった。抗い、挑んだ。

 

(馬鹿な人……)

 

 愚かと言いきっていい。間桐の支配者である臓硯に抗った男。桜も、鶴野も、間桐の人間であれば、決してしない、無意味な道を選んだ男。

 けれど、

 

(なのになんで、綺麗だったんだろう……)

 

 その死を見届けた桜は、その在り様を、美しいと思っていた。

 

 一人の男が、死を賭して見せた勇気が、一人の少女に何をもたらしたか、今はまだ、誰もわかりはしなかった。

 

   ◆

 

 それは、聖杯戦争が終わってから半年後のことであった。

 

 雨の降る日、遠坂の一族による葬儀が行われた。先代・遠坂時臣を送る葬儀は、まずつつがなく行われ、静かに終わった。弔問客が帰っていく中、墓地に残ったのはただ二人――次代の遠坂家当主となる少女と、その母親。

 

 遠坂凛と、遠坂葵。

 

 いまだ幼き少女である凛は、それでも涙一つこぼすことなく、父親の墓前に立つ。

 

「お父様……凛は、遠坂の魔術師になります」

 

 その眼には、悲しみよりも強い決意と覚悟が輝いていた。

 少女の背後で見守っていた葵は、年齢と比べてあまりに強過ぎるその心に、母として喜びながらも、悲しみを抱く。もう、凛は子供ではない。早過ぎる親離れをしていく娘に、寂しさを感じ、娘のこれからの苦難の道を想うと、手助けもろくにできないだろう自分に情けなさを覚える。

 

「お父様のできなかったことは、私が受け継ぎます。どうか、安心してください」

 

 その手には、一振りの短剣が、鞘に納められた姿で、握られていた。

 その短剣――『アゾット剣』が、遠坂家に郵送されてきたのは、聖杯戦争が終わって、一月ほど経ってからのことだ。

 

 送り主の名前のみが記された小包だったが、その名前は凛も葵も知っていた。

 

 間桐雁夜。

 第四次聖杯戦争にも参加していたと思われる、彼女たちの顔なじみだった。

 

 聖杯戦争の結果について、協会も教会も、完全な情報は無く、最終的な結果はおろか、時臣を殺したのが何者かもわかっていない状況だった。

 だが、不安と期待が半ばした心境で小包を開けてみると、そこにはアゾット剣と、雁夜からの手紙が入っていた。

 

 そこには、この荷物が送られているということは、自分もまた生きてはいないだろうということを前置きに、聖杯戦争で起こった事柄が綴られていた。

 時臣を殺したのが、時臣を裏切った言峰綺礼とアサシンであったことや、そのアサシンも敗れ去り、綺礼も死に勝者なしで聖杯戦争が終わったこと。そして、死ぬ間際に、時臣が雁夜に、アゾット剣を託し、凛に渡すように申し伝えたことも。

 アゾット剣――それ自体は、おそらく時臣が礼装の一つとして持っていただけのものであろうが、師から弟子へと与えられる、魔術修行の卒業の証としても扱われる。それを渡されたという事象を、凛はもう、自分は見習いではいられない。一人前と同等であらねばならないということだと、受け取った。

 同時に凛は、雁夜が手紙の結びに書かれた言葉を心に刻みつけた。

 

『葵さん、どうか時臣の分まで、凛ちゃんと一緒に幸せになってください。凛ちゃん、どうか、立派な大人になってください』

 

 魔術師の道に背を向けた雁夜は、立派な魔術師になるようにとは、書かなかった。だが、凛はその言葉から決意する。ただ魔術師としての大成ではなく、人間として、全てにおいて、高みにあろうと。

 できないとは思わない。

 

「お父様。どうか、雁夜おじさんと共に、私を見守っていてください」

 

 二人の先達から、期待され、託されたのだから。

 

 

   ◆

 

 

   エピローグ3:ウェイバー・ベルベット

 

 

 ウェイバー・ベルベットがマッケンジー家に帰還したのは、夜が白々と明ける頃だった。夜中奔走した結果、死ぬところを助けられた人間は5人。死んだ人間は、自分の知る限りで20人。救えなかった無力を嘆きながらも、それでも助かった命は祝福されるべきだろう。少なくともウェイバーは精一杯やったと、見切りをつける。見知らぬ人の死を引きずれるほど、少年は聖人でもない。

 

「さすがにだるいな……」

 

 老人は朝が早いというが、幾らなんでもマッケンジー夫妻が起きていることはないだろう。いくらトニオの水を飲んだとはいえ、全く寝ないでいるというのも調子が狂う。そっと家に入ってベッドに潜り、少し眠ろうと考えていた。

 けれど、予想外にも帰ってきた彼にかかる声があった。

 

「おかえり、ウェイバー」

 

 頭上からの声。見上げると屋根の上に座る、グレン・マッケンジーの姿があった。

 

「お、おじいさん? どうしたのさ、そんなところで」

 

 慌てるウェイバーに、グレンは穏やかな声と表情で答えた。

 

「何、明け方に目が覚めてみたら、まだお前が帰っていないと解ってな。久々に空の星でも眺めながら、孫の朝帰りを待ってみようか、とな」

 

 この夜にどれほどの惨劇が起こったのか知らないだろう老人に、ウェイバーは内心呆れる。同時に、惨劇を知らなくて良かったとも思った。この善良な老人の心がかき乱されるのは、あまり愉快なことではない。

 

「そうかい。けど眠らずにそんなところにいたら危ないし、風邪をひくかもしれない。早く中に入った方がいいよ」

「はは、優しいなウェイバー……お前が本当に、わしらの孫だったらいいのになぁ」

 

 ウェイバーの動きが固まり、心が凍る。驚愕に見開かれた目を見返すグレンは、変わらぬ優しい微笑みを浮かべていた。

 

「なんでわしもマーサも、お前さんのことを孫だと思い込んでいたのか不思議だが……お前さん、わしの孫にしちゃ、日頃から優し過ぎたわなぁ」

 

 人生の酸いも甘いも体験した老人は、異常事態を柔らかく受け入れているようだった。

 一方、ウェイバーはそれどころではない。別に恐怖を抱いたというわけではない。相手はただのお人好しの老人で、たとえ警官を呼ばれたとしても、逃げるくらいなら可能だ。これまで色々なトラブルに巻き込まれた経験上、逃げ足には自信があった。

 問題は、ただのお人好しの老人に、魔術による暗示を破られたことだ。どうしようもない恥だった。穴があったら入りたい。真っ赤になっているであろう顔を、手で押さえながら、それでも聞くべきことを問う。

 

「……怒って、ないんですか?」

「ハハ……確かに怒って当然のところかもしれんがな、マーサのやつ、ここ最近は本当に楽しそうによく笑うようになったからなぁ。その辺はむしろ、お前さんがたに感謝したいくらいでな。とても不思議で、奇妙なことが起こっているとは思うが、その辺りは大したことじゃない。見たところ、お前さん、わし等に悪さをしようと思って、この家に棲みついているわけでもなさそうだし、お前さんも、ランサーという若者も悪い人間じゃなさそうだ。ならまあ、それで、いいんじゃないか、とな」

 

 魔術師としての、いや、もっと一般的な常識に照らし合わせても、グレン老人の考えはあまりに甘過ぎるというものだろう。ウェイバーは他人ごとながら、この老人が詐欺などに引っ掛からないか、酷く心配になる。だが、今はそこを気にする状況じゃない。

 

「むしろな、わしとしてはもうしばらく、お前さんたちに、この家に住んでいてほしいんだ。マーサはまだ気付く様子はないし、もう少し、孫たちと共に過ごす幸せな夢を見せていては、くれんかね?」

「…………」

 

 自ら騙されることを望むような甘い老人にさえ、催眠暗示を破られたことを、魔術師として傷つき打ちのめされながらも、ウェイバーはその恥に耐える。今は自分のことではなく、グレン老の心からのお願いに、答えることの方に想いを向けるべきなのだ。

 

「ランサーは、もう、いません」

 

 ウェイバーの言葉に、グレンは哀しそうな眼差しを向ける。グレンほどの歳にもなれば、平凡ながらもそれなり以上の経験を積んできたことだろう。その経験によってか、ランサーがどうなってしまったか、ウェイバーたちがなぜここにいたのかを、おぼろげながら察することができた。

 

「命がけだったのじゃな……」

「ええ……もう終わってしまいましたが」

 

 今後、何をするかはまだ決めていない。もともとついカッとなって参加した聖杯戦争だ。結果として時計塔を飛び出してしまった身で、帰ってもどうしたらいいのやら。将来の目標というものを、ウェイバーは持っていない。

 

(ランサーの教えてくれた詩歌について、もっと学ぶのもいいが……)

 

 何をするにせよ、必要なのは先立つものだ。とかく社会は世知辛い。

 

(何か仕事を探して……金が貯まるまでは、この家に厄介になるのも、いい話しかな)

 

 それに、別れを体験してすぐのウェイバーは、正直、人の温もりを感じていたかった。共にいたいのは、マッケンジー夫妻ばかりではない。

 

「ちゃんとした次の目標が定まるまで……もう少し、ここにいさせてもらってもいいですか?」

 

 グレン老はウェイバーの悲哀を受け止めるように、感謝と共に頷いてくれた。

 かくて、ウェイバー・ベルベットはもうしばらくの間、日本にとどまることになる。

 

 

 この後、ウェイバーはケイネスの遺体と魔術刻印を、エルメロイ家へと送り出し、託された役目を果たした。役目を行ったことにより、更なる縁が繋がることになるが、それは別の機会に語るとしよう。

 更にその後では、魔少年が結果を聞きに来訪したり、とあるゲームと人形集めが趣味なスタンド使いと知り合い、命を賭けたギャンブルに巻き込まれたり、色々ないざこざがあったのだが……ひとまずウェイバーが時計塔に帰った時には、両手でも抱えきれないほどのテレビゲームのハードやソフトを持っていたそうである。

 

 

   ◆

 

 

   エピローグ4:衛宮切嗣

 

 

 

 冬木市民病院の待合室に、一人の男が座っている。

 

 衛宮切嗣――夢破れた男。

 

 全てを犠牲にして叶えようとした夢が、悪夢となって、より多くの犠牲を出した。

 彼自身の罪の中から、ようやく救い出せた少年が、この病院にはいた。彼がもたらした地獄から、どうにか救い出せた一人。呪いの中心から燃え広がった火事からは、もう十数人は救助できたが、呪いの泥を直接浴びた家にいて助かったのは、その少年だけだった。

 

「まだ目覚めないのか? その……士郎とかいうガキは」

 

 いつの間にか、虹村形兆が、切嗣の隣に立っていた。それに気がつかないくらい、今の切嗣は消耗しているようだ。

 

「ああ……【全て遠き理想郷(アヴァロン)】を解体して体内に入れたから、死ぬことはもうないだろうけれど」

「現存する宝具とやらを、贅沢に使ったものだな。まあセイバーがもういない以上、使い捨てなきゃ効果を発揮しない物だそうだから、仕方ないが」

 

 形兆は、影の濃い切嗣の顔を見て、辛気臭いと舌打ちする。

 

「別に大したことはね~だろう? 毎年、飛行機や列車は事故を起こし、地震や台風は発生してる。それよりは軽く済んだろうさ」

 

 形兆の言葉は、慰めでも何でもない、彼の本音なのだろう。彼はそう割り切れる男だ。悪を恐れず、善にも頼らない、強靭な精神を持っている。

 でも、切嗣はそんなふうに納得できはしない。キャスターの暴走から、【この世全ての悪】の放出まで、何百人の死者が出たのか。それだけの戦争をしながら、全て無駄だった。その責任を感じずにいることなど、できなかった。

 

「フン……まあこれからのお前のことなんざ、関係ないことだがな。俺たちはもうこの町からは出て行くぜ。アインツベルンがどうしてくるか、わからないからな」

 

 それが、切嗣が聞いた、形兆最後の言葉であった。それ以降、切嗣が形兆と会うことはなかった。

 

   ◆

 

 それからのことを、簡単に述べていこう。

 

 その後、切嗣が助けることができた士郎という少年は、切嗣の養子となり、衛宮士郎となった。

 虹村兄弟が去った後、切嗣は士郎、舞弥と共に、聖杯戦争の拠点として購入した日本家屋に住むこととした。

 一人も血の繋がるものの無い家族であったが、それでもなんとなく、上手くいっていた。

 

 切嗣は何度か舞弥を連れてアインツベルンの城のあった場所へ行き、侵入とイリヤスフィールの救出を試みたが、アインツベルンの結界やトラップの前に阻まれた、全て失敗に終わった。聖杯戦争での負担により、幾らか弱体化してしまった切嗣では、アインツベルンの堅牢な防御を突破するには、少し足りなかったのだ。

 結果、救出劇は切嗣の心身を傷つけるだけに終わり、彼の寿命は削れていった。

 

 やがて、切嗣は己の死期を悟ることとなる。

 自分がいなくなった後の心配は、あまりしていなかった。士郎は幼いながらも、しっかりと逞しく育っているし、舞弥は自分より強く、優しく、この町での生活にも馴染むことができている。藤村大河や雷画たちと共に、幸せに生きていけるだろう。2年ほど前、形兆の死という知らせと共に顔を出し、それからも何度も会いにやってくる億泰も、力になってくれるだろう。

 

 しかし、それは切嗣の手柄ではない。彼らは、彼らの力で幸せになる。切嗣は、何の手助けもしてやれなかった。何も遺してやれずに、死んでいく。それが悲しく、寂しい。

 

(いや……もともと生きたまま死んでいただけか)

 

 月を見上げながら、自分と良く似た、一人の青年の姿を思い返す。

 あの後、一度だけ、ブチャラティの仲間だった男と再会した。綺礼との戦いで共闘した、殺人ウイルスのスタンド使い。出会ったことは何の含みもない偶然であったが、切嗣は彼に、ブチャラティがどうしているかを聞いた。

 切嗣の態度、雰囲気に何か思うことがあったのか、相手は答えてくれた。

 

『ブチャラティは、黄金のような夢を見つけました』

 

 ブローノ・ブチャラティは死んだという。けれど、彼の想いは、受け継がれているのだ。

 なのに、自分のこの様はどうだと、切嗣は自嘲する。

 

 そしてもう一度、月を見る。

 隣には、切嗣と5年の時を過ごした少年が座っていた。切嗣は、ふと、言葉を口にする。

 

「……子供の頃、僕は正義の味方に憧れていた」

 

 

 

 衛宮切嗣の想いは受け継がれる。それが幸福な結果をもたらすかは、誰にもわからない。

 

 人は皆、『運命(フェイト)』の奴隷なのだ。

 

 ただせめて祈るとしよう。

 

 彼らが、『眠れる奴隷』であることを。

 

 目覚めることで、意味あることを切り拓き、未来の何かに繋がっていく――『眠れる奴隷』で、あることを。

 

 

   ◆

 

 

   エピローグ5:――プロローグ

 

 

 

 第4次聖杯戦争が終わってから数年後。災厄の降りかかった冬木の町は、急ピッチで復興され、表向きは普通の町のように見えた。しかし事情を知る者には、残された爪痕が見える。

【この世全ての悪】が落下し、浸み込んだ大地は、人が住むには不向きなようで、市民会館があった場所は公園にされ、同じように焼かれた場所は今でも空き地になっている。

 

「ファック……」

 

 市民会館跡の公園のベンチに、背の高い、黒い長髪の男がうなだれていた。

 重要な霊地であるこの町は、時計塔からもそれなりに注視されている。この男が監査にやってくる程度には。

 

「日本の夏はなんでこう蒸し暑いんだ……」

 

 溢れ出てくる汗を、鬱陶しげに拭った後、男はポケットを探る。指で葉巻をつまみ出したところで、公園内が禁煙だということを思い出し、舌打ちして喫煙を諦める。

 

「霊地の管理に問題は無し。他に魔術師としての問題も無し。十代になったばかりの子供が……良くやる」

 

 時計塔のお偉方の中には、幼い遠坂の当主の不手際を理由として、霊地を取り上げる工作を仕掛けるのを狙っている輩もいるようだが、この分だと手を出す隙はないだろう。

 むしろ彼にとって問題となったのは、冬木に来る前に通った町でのひと悶着である。ある『モノ』を巡る一週間ほどの時の間に繰り広げられた事件――この件に関して、敢えて記すことはしないが、最終的に『モノ』は今、男の手に在る。

 

「まったく日本というのは……ここといい、三咲町といい、杜王町といい、どうしてこうろくでもないことばかりなのか」

 

 男は血のにじんだ包帯の巻かれた腕と、胸ポケットの内側に忍ばせた、『モノ』とに目をやり、またも舌打ちする。

 

「どうしてこう私はいつもいつも、トラブルに巻き込まれることになるんだ。こんな仕事はさっさと終わらせて、アイルランドで新しく発見されたケルト遺跡でも見に行きたいところ……ん?」

 

 一人、愚痴を言っていると、別の人間の声が聞こえた。話し声ではない。文章を朗読しているようだった。それだけなら男は気にせず、聞き流すだけだろう。だが、その文章は男が慣れしたんだもの――すなわち『呪文』であるようだった。

 

「『御身の手のうちに、御国と、力と、栄えあり』」

 

 耳をすませながら、声の出所を探ると、公園の隅の、背の低い木や草が生えているため、周囲からは見えなくなっている場所があった。木々の隙間から覗き見ると、まだ中学生くらいの年齢と見受けられる少年が、古めかしい書物を広げて、口を動かしていた。

 

「『永遠に、尽きることなく、かくあれかし』」

 

 その少年の容貌は中々整っていて、やや癖のある髪が特徴的であった。

 その顔つきはまじめそのもので、遊びで呪文を唱えているわけではなさそうだった。しかし、呪文によって何か異常な現象が起こるわけでもなく、ただ声だけが響いていた。

 けれど、覗き見ていた男には、少年の持つ書物が、間違いなく正真正銘の魔道書であることがわかっていた。

 

(微かながら魔力を宿している……)

 

 それほど強力なものではないが、ただの本ではない。それを持っている少年もまた、ただの少年ではないはずだが、少年が行おうとしている魔術は、全く成功の兆しを見せなかった。

 

「クソッ! 何で駄目なんだよッ! クソックソッ!!」

 

 やがて何の効果も無いことにいきりたった少年は、魔道書を地面に投げつけ、怒りのままに叫ぶ。

 男はここでほうっておいてもよかった。男が見たところ、少年が行った呪文や技法に落ち度は無い。魔術師であれば、たとえ子供であっても魔術を成功させているはずだった。それが成功しなかったのは、そもそも少年から魔力が放たれていないためだ。

 

(おそらく、あいつには魔術回路が備わっていない)

 

 ならば、何をどうしようと無駄だ。魔術回路がなければ魔力を生み出すことはできない。魔力が無ければ、魔術は使えない。これは当り前のことだ。ガソリンが無ければ、自動車は動かない。

 だから声をかけても何の意味も無い。時間の無駄だ。

 

 けれど、男のポケットの中にある『モノ』が動いた。

 

「……ファック。これも、引かれ合う運命(フェイト)か」

 

 少年がここで魔術の練習をしていた。

 男がこの町に来ていた。

 男がこの町に来る前に『モノ』を手に入れていた。

 

 出会った相手が、この少年であり、この男だった。

 

 多くの偶然が、命によって運ばれて、一つにまとまり運命になる。

 

「おい、そこの小僧」

 

 急に背後から声をかけられ、少年は小鼠のように驚き怯えた様子で振り向き、あとずさる。

 

「な、なんなん……ッ!」

「落ち着け。別に危害を加えようというわけでは……いや、加えるのかな」

 

 男はゆっくりとした足取りで歩み寄り、少年は歩み寄られた分だけあとずさる。男は埋まらない距離を気にする素振りも無く、先ほど地面に叩きつけられた魔道書を拾い上げた。

 

「ユダヤ神秘思想……カバラ系統の魔術か」

「!! あ、あんた、わかるのか?」

「これでも時計塔の講師でな。だがお前……魔術、使えないだろう?」

 

 少年が酷く傷ついた顔をする。自分でも理解しているらしい。

 無言で唇を噛み締め、涙目でうつむく。

 

「やはりな……小僧」

 

 男は、自ら微かに動きながら、先端を少年へと向けようとしている『モノ』を手にとって、少年の目の前にかざす。

 

「命を賭けるつもりはあるか? 魔術師は、己の信念を、魂の在り方を、命そのものよりも優先する。お前は魔術師としての精神を持っているか?」

 

 その『モノ』とは、鉱石を削り出して造られた、一つの『矢』であった。

 

「もしも、お前が魔術師という在り方を求め、その生命を賭けるなら、あるいは選択をしてみるといい。魔術師とは、魔術を使う者ではなく、探求の手段として魔術を選んだ者だ。たとえ魔術が使えなくても、その精神が魔術師であるなら、異なる探求の道を開くこともできる。死の試練を乗り越えれば、魔術とは異なる超常の力を、その身に宿せる……かも、な」

 

 男は言葉を連ねながら、こんなものものしい、面倒な喋りは自分の流儀ではないと、内心気恥ずかしくなる。だが、それを聞く少年の方は、真剣な表情だった。

 少年は、選択をする前に、男へ別の問いを投げかけた。

 

「質問に質問で返すことになるが……教えてくれ。僕は間桐慎二……あんた、一体誰だ?」

「フン………魔術師がそう簡単に名を明かすものではないぞ。まあ……エルメロイ……いや、『教授』と、そう呼んでおけ」

 

 そして時は流れ、新たな世代へと、物語は託されていく。

 

 誰もが何かを求め、より貴いものを得ようとし、そんな想いをまた誰かが受け継いでいく。

 それが人の営み。命が運び、受け継がれていく、血と心と、勇気と正義の物語。

 

 

 

 

 

 

   『Fate/XXI』―――完

 

 

 

 

 

 ……To Be Continued?

 

 




 これで、『Fate/XXI』は完結となります。
 今まで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございました。

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