沈黙の降りた夜の雑木林にて、ウェイバー・ベルベットは鶏の血によって魔法陣を描き、呪文を唱えていた。
「告げる。汝の身は我が下に。我が命運は汝の剣に。聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うならば応えよ」
呪文を唱えるごとに、魔術回路に魔力が流れることで生じる激痛が増大していく。限界を超えた時、ウェイバーは死に至るであろう。だがその恐怖を押し殺し、彼は呪文を唱え続ける。
「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!!」
呪文が唱え終わると共に、魔法陣から旋風と雷光が弾け、吹き荒れる。思わず目を瞑ったウェイバーが、次に目を開けた時、魔法陣の中心に、一人の男が存在していた。
男は当初、立った姿で現れたが、ウェイバーの姿を目にすると同時に、恭しく膝をつき、
「ディルムッド・オディナ。ここにランサーのクラスとして参上いたしました。貴君が我がマスターにあらせられるか?」
癖のある長い黒髪を後ろに撫でつけた、紅顔皓歯の美青年。その左目の下には泣き黒子。厳格さと真面目さ、優しさと穏やかさを兼ねそろえ、どんな女性でも魅了できるであろう、見事な男だった。
ディルムッド・オディナ。
ケルト神話に登場する英雄である。
フィン・マックール率いるフィオナ騎士団の中でも最強と歌われた戦士。元より美しい男であったが、ある時、『青春』の化身である女性により『愛の黒子』をつけられ、それからその黒子を見た女性は、必ず彼の恋の虜となるという奇妙な呪いを受けた男。ゆえにその異名は『輝く貌』『恋のディルムッド』。
手にする武器は、養父であるドルイドのアンガスと、妖精王マナナーン・マック・リールより贈られた、2本の魔槍、大は
語られる武勲、逸話は、フィアナ騎士団の中でも最大最多。殺気も威圧も無く、こうしてかしこまっているだけの今でさえ、凄まじい存在感でウェイバーは後退りそうになる。だが、それを意地で踏みとどまり、彼は答えた。
「そ、そうだ、ぼ、僕、いや私が! お前を召喚したマスター、ウェイバー・ベルベットだっ!!」
あまり堂々としてはいない姿勢で、押し切るように宣言するウェイバーに、ディルムッド――ランサーはあくまで殊勝な態度を崩すことなく、
「ウェイバー・ベルベット殿……わかりました。ここに主従の契約は交わされました。ディルムッド・オディナ、この身と魂のすべてを賭して、貴方に聖杯を捧げましょう」
あまりに下手に出る態度に、ウェイバーは逆に調子を狂わせる。英霊といえば人間の最高峰に至り、人間を超越した存在。そんな彼が、いくらマスターとはいえ、ここまでこちらを立てるとは予想もしなかった。
「む、むう、いい心がけだ……まあお前も聖杯に望むことがあるんだろう。自分のためにも張りきってもらわなければな」
英雄が聖杯戦争の道具と成りに、わざわざ召喚されるのは、聖杯を手に入れて叶えたい願いがあるからだ。だから、ウェイバーとしては当然のことを言ったつもりだった。しかし、
「いいえ、私は聖杯など欲してはおりませぬ。叶える願いもありません。ただ騎士として主に仕え、忠誠を尽くし、名誉を全うできれば充分です」
「……何?」
ウェイバーは口を半開きにした、間の抜けた表情をさらしてしまう。一瞬、聞き違えたかと思った。だが間違いなく、このサーヴァントは、『聖杯など求めていない』と言ったのだ。
「い、いらないって、お前。じゃあ何のために召喚されたっていうんだ!?」
「先ほども言った通り、騎士としての面目を全うするためです」
「……お前の伝説は、一通り調べた。それを見る限り、叶えたい願いなんていくらでもできると思うが」
ディルムッド・オディナの悲劇の伝説。
フィン・マックールに仕え、主の危機を幾度も救った英雄であったディルムッドだったが、フィンとアイルランド大王の娘グラニアとの結婚式の時、グラニアに愛を告白され、主への裏切りと、仲間との別れを哀しみながらも、グラニアにかけられた『自分を連れて逃げろ』という
フィンからの追手と斬り結び、7年に渡る逃避行の後、仲間たちのとりなしで、ついにフィンと和睦を結び、グラニアと子供たちを連れ、領地へと帰還する。だが、フィンの憎悪は消えておらず、ディルムッドを猪狩りへと誘う。その猪こそは、ディルムッドの母と、執事の間に生まれ、ディルムッドの父ドンによって殺された、ディルムッドの片親違いの弟が化身した姿であった。耳と尾の無いこの猪は、ディルムッドを殺すと予言されていたのだ。
予言通り、ディルムッドは猪と相討ちになって瀕死の重傷を負った。それでもフィン・マックールの持つ、両手で掬った水を飲ませることで、あらゆる傷や病気を癒す力を持ってすれば、ディルムッドは命をとりとめたであろう。だが、フィンは水を与えなかった。
そして、ディルムッドは死に、その後、当初は夫の死に憤っていたグラニアも、フィンが時をかけて熱心に口説いた末、フィンを許して、フィンと結婚してしまった。その時、ディルムッドを慕っていた騎士たちは、グラニアを嘲笑ったという。
押しつけられた愛。望まぬ逃避行。名誉の喪失。主君の裏切り。そしてみじめな死。
報われぬ愛と忠義の物語。およそ失われた物ばかり多く、あとに残ったものはない。このような甲斐の無い人生を送ったのならば、何かしら願いがあって当然であろうものだ。にもかかわらず、目の前の男は、願いなど無いという。
「貴方のおっしゃりたいことはわかります。しかし、私はかつての主にも妻にも、恨みはありません。かつての人生、そこに砂一粒たりとも不服はありません。ただ、私は最後まで忠義を尽くせなかった。理由はどうあれ、主人を裏切ったことに変わりは無い。ですから、今一度機会があるのならば、今度こそ最後まで騎士の道を……それだけが、私の望む全てなのです」
ただ騎士として、誇りを取り戻したい。ただ主人に仕え、存分に力を振るい、この身を役立てたい。そんな不釣り合いとしか思えない、精神的報酬のみが、ディルムッドの望みなのだ。
これが魔術師としての価値観しか持たぬ者であったら。
自分の考えしか信じ認めぬ、視野の狭い人間であったら。
ディルムッドの言葉を嘘と断じ、その態度を欺瞞と見るだろう。だが、ウェイバーは良くも悪くも、魔術師として以外の視野を持っていた。
他人から見たらつまらないと思える理由であっても、本人からしてみれば、人生の全てであることもある。ウェイバーは似たような者たちを知っていたから、それを受け入れることができた。
たとえば、ただ料理を美味しいと言ってもらうことを、料理を食べて健康になってもらうことを、最高の喜びとして、世界中を巡り、料理人として血のにじむような修業を続けるイタリア人を知っている。
たとえば、ただ読んでもらうことを求め、ただ面白いと思ってもらいたくて漫画を描き、よい漫画を描くためなら、どんな犠牲でもいとわず、命を賭けて『動く』日本人を知っている。
そんな奴らがいるのだ。ウェイバーはそれを知っている。そして、『彼の血筋』にもまた英国騎士の血が流れているがゆえに、母からその物語を聞いて育ったがゆえに、魔術師にしては、『騎士の誇り』といったものに理解はあった。
だから、彼はディルムッド・オディナの言葉を信じる。しかし同時にむかつきを覚えた。ウェイバーは今まで時計塔で蔑まれていたこともあって、侮られて見られるということに敏感で、かつ、我慢できる性質でもなかった。ゆえに、彼は言い放つ。
「言いたいことはわかった。嘘は無いとも思う。けどな、それって主人が誰でもいいってことだろ?」
「なっ…………!?」
ディルムッドが初めて、その生真面目で厳粛な表情を崩した。
「召喚したマスターに、忠誠を尽くしたいってのが望みなら、別に僕が主人でなくてもいいんだものな。そんな誰にでも誓うような安い忠誠、いらないよ」
「そんな、私は!」
「とは言っても、これから一緒に戦わなきゃいけないのには違いない。だから、忠誠ってのはしばらくとっておけ。この戦いで、僕が忠誠を誓うに値すると思ったら、改めて騎士の忠誠とやらを誓うんだ。僕が忠誠を誓うに値しないっていうんなら、それこそ聖杯に願いをかけて、望みの主人を見つけてもらえばいい。どうだ?」
ウェイバーの言葉に、ディルムッドはしばし瞠目する。自分の忠義を信じてもらえないというならまだしも、まさか、自分の忠誠を信じたうえで、それを拒否するとは思わなかったのだ。しかし、その理由はディルムッドにしてみても納得のいくものであった。
(確かに、相手のことを何も知らぬままに忠誠を誓うなど、主人を、自分の望みを満足させる道具としてしか、見ていないも同然! なんと不忠な。しかし、このマスターの誇り高さは本物だ。未熟な部分も多く見えるが、光るものも間違いなくある)
ディルムッドは、今のやり取りだけで、自分が忠義を尽くす甲斐のある主人であることを、ウェイバーに感じるが、今それを言っても信じてもらえないだろうと思い、黙した。
(やはりそう簡単に、望みは達成できぬ。ましてや騎士道を全うするなど、安易なものであるはずがなかった! しかし良かろう。このディルムッド・オディナの忠義を、必ずマスターにお認め頂いて見せる!)
己に誓い、ディルムッドは改めて言葉を紡ぐ。
「心得ました。このディルムッド・オディナの考え違い、猛省いたします。マスターを見極めて後、新たに忠誠を誓いましょう。しかし、たとえいまだ誓いを立てずとも、この槍は必ずや貴方を守り、我らが敵を討ち果たすことを約束いたします」
「わかった。その言葉は信じるよ」
平静を装いながら、ウェイバーの心中は大騒ぎだった。
(うわうわうわうわぁ~~~!! な、何言っちゃってんだ僕はぁ!? これでランサーが怒っていたら、聖杯戦争を始める前に終わっちまってたところだぞ!? 折角自分から献身を申し出てるってんだから、気にせずこき使えばいいものを、何偉そうなこと言ってるんだ馬鹿か!!?)
なんかしら覚悟があって言ったわけではなく、つい思わず、もののはずみで自分の立場を揺るがしかねない発言をしてしまったことに、ウェイバーは内心ビビりまくっていた。色々と経験はしていても、まだまだ基本的には思慮の浅いヘタレである彼は、何とかことが収められたことに、心の底からホッとしていた。
「うん、まあ、とにかくだ。まずはそう……戦いの方針についてだ。まずは偵察だろうな」
マスターとしての眼力は、ランサーの持つステータスを正確に見定めることができた。ランサーの能力は、敏捷さ以外にそれほど圧倒的なものはない。
スキルは、大魔術をも無効化する『対魔力』、戦況を見極めて活路を見出す『心眼(真)』、女性を虜にする『愛の黒子』の三つ。
宝具はランサーのクラスであるためか、伝説に描かれたモラルタとベガルタは所有しておらず、魔力を打ち消す【
弱いとは思わない。山をも崩す破壊力とかいうような、わかりやすい強さではないが、魔術による攻撃や防御は打ち消し、消せぬ傷で少しずつ敵を弱体化させていくという、長い目で見れば恐ろしい力の持ち主だ。どんな敵相手でも、勝利の可能性があるサーヴァントだ。
しかし、積極的に真正面から打って出るほど、自信の持てるサーヴァントとも言い難い。
だからしばらくは様子を見て、周囲が動くのに合わせてこちらもうごくのがいいと、ウェイバーは判断した。
「使い魔を放っておく。動きがあるまでは、そうだな。町の探索でもしてもらうか。聖杯から送られた知識がどの程度のものか知らないが、やはり肌で実感しておくのとでは差異があるだろうからな」
地の利を得るため、多少、冬木の町について見ておくことにする。だがその前に、
「こいつを試す」
「……これは、化粧道具、ですか?」
ウェイバーが荷物から取り出したのは、木製の化粧箱だった。中には様々な色のクリームや粉末、液体、筆などが入っている。ウェイバーはその中のクリームを幾つか、筆で取って混ぜ合わせ、
「……こんなもんかな。ランサー、顔を向けろ」
「は……」
意図を掴めないままに、ランサーはウェイバーに向かって顔を突き出す。その顔の、黒子の部分に、ウェイバーはクリームを塗りつける。
「これはただの化粧道具じゃない。魔術とも違う特殊な力、『スタンド能力』によって造られている」
それはウェイバーの知人であり、優れたエステシャンとして、世界各国の賞を総なめにする『優しい魔法使い』を目指す女性スタンド使いから買った物だ。
あまり魔術関係について、詳しいことを教えるわけにはいかないので、説明には大変苦労したのだが、それでもウェイバーが悪用することはないだろうと信用してくれて、この化粧道具をくれたのだ。
交換条件は色々あったが、ウェイバー自身の名誉のために割愛する。
「……う~ん。いまいちだな。ランクはCから下がったけれど、スキルの項目自体は消えていない。クリームを上から塗れば『顔の相』を変えて、『愛の黒子』を封じられると思ったが」
『愛の黒子』は、大して役立ちはしないスキルだ。対魔力のある者、多少の魔術知識を持つ者なら、容易に効果を打ち消せる。聖杯戦争で敵対する者が、魔術の知識を持たないなんてまず考えられないし、効果があったとしても、それで恋の虜にしたところで、別に支配できるようになるというわけでもないのだ。
むしろ伝説に語られるグラニアが、フィン・マックールとの結婚を破棄して、ディルムッドに主人を裏切らせてまで自分との逃避行を強要したように、マスターであるウェイバーからランサーを奪おうとするかもしれない。
それらのことを考えると、予想外の混乱を引き起こしかねない、いっそ無い方がいいスキルだ。よって、ウェイバーは最初から『愛の黒子』を封印するつもりでいたのだが、結局成功しなかった。ランクは下がり、既に伴侶のいる相手や、歳の差がありすぎる相手には効果を発揮しなくなったとはいえ、根本的に消すことはできなかった。
「本来の使い手である彼女であれば、きっと上手くいったんだがな」
「お気になさいますな……それよりマスター、私の生前よりの悩みの種を解決するために、手を考えてくださり、本当に感謝いたします。この恩は、必ず勝利によって返しましょう」
やはりどこまでも真面目にランサーは頭を下げる。
「だから、そんなにかしこまんなくったっていいんだよ。結局失敗したし、こっちの都合でもあるんだからな。まあ今日のところは家に帰ろう。いつまでも雑木林にいてもはじまらない」
そしてランサーは霊体化し、ウェイバーについてマッケンジー家へと足を進める。
これが、魔術師ウェイバーと、槍騎士ディルムッドの始まりであった。
……To Be Continued