「比企谷。なんで呼ばれたのか分かっているな?」
放課後、八幡は国語担当の平塚教諭に捕まってしまった。なんで呼ばれたかと聞かれて、八幡は率直に「いいえ」と答えたのだが、平塚先生が一枚の作文用紙を見せたのであった。
「これを見てもまだ分からないか?」
平塚先生が出した作文用紙は本日提出したはずの宿題であった。お題は『高校生活を振り返って』と在り来たりな内容だったはず。
「なにか問題がありましたか?」
「問題だらけだ。なんだ、これは。これは作文ではなく行事の羅列を記しただけじゃないか」
「なにか間違っていましたか? 高校生活を振り返ってと言うお題目でしたので、ちゃんと日付も調べて記載したのですが」
「文章を書けと言っている。国語の課題でこんな事を書くやつがあるか! ったく、理系は素晴らしい成績を収めているのに、どうして文系の成績はからきしなんだ」
「理系は必要だから覚えただけです。それに英語は成績が良かったはずです」
「キミは優秀なのに本当に目と根性が腐っているな」
「腐った目の方が見えない戦場もよく見えるもので」
「屁理屈を言うな。これで総武高数少ないボーダー隊員とは……。少しは葉山を見習ったらどうだ?」
「あいつと俺とでは役目が違います。あいつはほとんど広報的な役割を担っていますので。……用件はそれだけでしょうか?」
「まだだ。課題は明日までに提出し直すこと。それと比企谷、これは一つ相談なのだが」
「――失礼しました」
平塚先生の言葉を聞くよりも早く、一礼して職員室から退室を図る。
けど、平塚先生も八幡の行動を読んでか立ち去るよりも早く彼の右肩を掴んだのである。
「なんですか。俺、こう見えても滅茶苦茶忙しいんですよ。厄介な後輩の指導をしないといけませんし」
「それはボーダー隊員の迅君って人から聞いている。けど、お前ほど適任の人間を私は知らないんだ」
ここまで迅悠一の暗躍の手が伸びている事に驚きつつ、掴まれた手を払って襟元を正す。
「……内容次第ですよ。なんだかんだ言って、平塚先生にはお世話になっていますので」
「そうか、済まない。実はな――」
***
平塚先生の事情を聴いた八幡は、渋々と彼女にとある部屋まで連れられてしまう。
場所は特別棟のとある一室。文系部などが部の活動を行う為に宛がわれることを主とした場所である事から、とある部の部室へ連れられたと八幡は推測する。
「入るぞ、雪ノ下」
何の断りも無くドアを開け、本を片手に紅茶を楽しんでいる少女に声かける。
「先生、いつもノックをしてくださいと仰っているのですが」
「キミはノックをしても返事をしないではないか」
「返事をするよりも早く先生が入ってくるだけです。それで、後ろにいる目つきの悪い人はどなたですか?」
「彼は比企谷だ。入部希望者でもある。こいつの腐った根性を叩き直して欲しい」
と、言う設定である。
「お断りします、そこの男の下卑た目を見ていると身の危険を感じます」
わざとらしく自分の胸を腕で覆い隠す仕草を見て、思わず八幡は鼻で笑ってしまう。
どう誇張しても雪ノ下の胸は男が欲情するほどの大きさではない。大きさが重要とは言わないが、人目もつかないほど寂しい胸の持主に欲情するほど飢えていないはず。飢えていたら、既にボーダーの美人隊員に手を出して牢屋にぶち込まれているはずだ。
「お前の貧相な胸に欲情する奴なんていない」
ボソッと呟いたはずなのだが、どうやら雪ノ下の耳にシッカリと届いてしまったようだ。
「平塚先生。女性の価値を胸だけで決めつける男と一緒に部活動など出来ません。警察にお世話になるような事になったら、総武校の皆さんにもご迷惑おかけする事になります」
「まあ、待て雪ノ下。この男は口ではそう言っているが、リスクリターンの計算が出来る悪党は悪党でも小悪党の類だ。雪ノ下を襲うとする甲斐性は持ち合わせていない」
「小悪党……。なるほど、そうですか」
そこで納得するのかよ、と胸中でツッコミを入れてしまう。
そんな八幡の心中など露知らず二人の会話は続いてく。
「ちょっと待ってください、平塚先生。俺、課題のペナルティで連れてこられたはずです。部活動に所属しろなんて話、聞いていませんよ」
「指導室でも言ったはずだ、比企谷。異論反論は許さない、と」
勿論、これも指導室で平塚先生と事前に決めた設定の内である。
「聞いての通り、中々根性が腐っているだろ? そのせいでいつも孤独な憐れむべき奴だ。ボーダーに所属していてこれは非常に重要な問題なはずだ。彼の捻くれた孤独体質の更生が私の依頼だ」
「ちょっと平塚先生――」
それは事前の打ち合わせに入っていませんでしたよ、と続けて口にしようとするが先生の視線による牽制によって阻止されてしまう。
「それなら、先生がお得意の暴力で解決なさればいいじゃないですか。えっとなんでしたっけ? 抹殺の云々ってやつで」
「そうしたいのは山々であるが、教師がそんな事をしたら大問題になるだろ」
「先ほども仰いましたが、お断りいたします。ボーダーであるなら、なおさら私の身の危険性が高くなるじゃないですか」
「仮にもA級を担うボーダーがそんな事をするはずあるまい。それとも流石の雪ノ下でも無理であったか?」
酷い言われようであった。流石の平塚先生のお願いでも謂れのない侮辱の言葉の数々に物申そうとするのだが、先生の説得が功を奏してしまったのか知らないが意外にも雪ノ下は了承の意を示してしまう。
「まぁ、先生からの依頼では無碍には出来ませんね。承りました、結果は期待しないでください」
本当に嫌そうな顔で言う雪ノ下に、平塚先生は満足気な表情で言う。
「そうか。なら、あとの事は頼むぞ」
くるっと踵を返し、先生はさっさと退室してしまう。
八幡の横を素通りする時「頼んだぞ」と呟いて。
盛大にため息の一つもつきたい所であるが、現状がそれを許さない。ぽつんと取り残された八幡はこの後、どのような行動をして良いのか正直分かりかねていた。
ボーダー隊員である事を省けば八幡は総武校の中ではボッチを貫いている。友人と呼べるような親しい奴も存在しない故、見知らぬ他人と取り残された現状をどう対処していいのか分からない。
「(雪ノ下を救ってやれ、と頼まれてもどうすればいいんだよ)」
ホント、厄介な依頼を受けてしまったと今更になって後悔する。
「そんな所で突っ立っていないで、座ったら?」
「あ、あぁ。わりぃ」
座る様に促された八幡は、空いている椅子に腰かける。
それ以降、雪ノ下は興味を失せたのか再び読んでいた文庫本を開いて読書を初めてしまう。
「(えー)」
流石にこれには八幡も驚きを隠せなかった。
まだ、この部が何部なのかも知らない事になっている。普通ならば、部長の立ち位置にいる雪ノ下が簡単でも良いから説明してくれる流れになるはず、と思っていた。
普段ならば、沈黙を厭わない八幡であるが悪戯に時間を浪費するのは好ましくない。仕方がなく、本当に仕方がなくであるが八幡は彼女に問う事にした。
「……で、俺は一体何をすればいいんだ?」
「何が?」
読書を邪魔されたせいか、八幡と会話したくないからか知らないが、不快気に眉根を寄せて見返される。
「いや、だって訳分からずに俺はここに連れて込まれたんだ。俺はここで一体何をすればいいんだ?」
不機嫌さを隠さないまま、文庫本を閉じる。短いため息を一ついて言葉を発した。
「それでは、ゲームをしましょう?」
「は? ゲーム?」
「そう。ここが何部か当てるゲーム。さて、ここは何部でしょ?」
「いや、そう言うのは要らないから。俺は質問の回答を要求しているんだが」
自身の提案を却下された事に、ますます雪ノ下の不機嫌さが増す。
「比企谷君。女子と話したのは何年振り?」
「……は? なにそれ? それは俺の疑問を解消する答えになっていないぞ」
「良いから答えなさい」
「一昨日、ボーダーの仕事中だが?」
「質問が悪かったわね。プライベートで、と言う意味よ」
質問の意図が分からなかったが、近日中の出来事を思い出していると――彼女としてはプライベートに八幡と話しをする女性はいないと踏んでいたのであろう。高らかに己の部活動の信念を高らかに宣言したのであった。
「持つ者が持たざる者に慈悲の心を持って与える。人はそれをボランティアと呼ぶの。途上国にはODAを、ホームレスには炊き出しを、モテない男子には女子との会話を。困っている人に救いの手を差し伸べる。それがこの部の活動よ」
考えている最中に雪ノ下は立ち上がったのであろう。それゆえ、視線は八幡を見下ろす形となっていた。事実、彼女としては見下していたのかも知れない。
「ようこそ、奉仕部へ。歓迎するわ」
聞く限り、歓迎されているように聞こえなかった。
「……ノブレス・オブリージュとでも言いたいのか?」
「あら、随分と高尚な言葉を知っているのね。意外だわ」
「お生憎だが、国語の成績は良くないが理系の教科は学年三位だ。顔だっていい方だと思うし、ボーダーでは戦友と呼べる者達だっている。彼女がいない事を除けば基本高スペックのはずだ」
「最後に致命的な欠陥が聞こえたのだけれど……。けど、貴方みたいな人がボーダー隊員、しかもA級隊員なんて耳を疑うわ。あなた、どんなコネを使ったの?」
「失礼だな、お前。確かに実力で入ったと言い難いが、こんな所で意気揚々とノブレス・オブリージュだと宣言できる変な女に言われたくない」
「ふうん。私が見た限り、どうやらあなたのその捻くれた性格は、腐った根性と感性が原因みたいね。そうね、まずは居場所を作ってあげましょう。知っている? 居場所があるだけで、星となって燃え尽きるような悲惨な最期を迎えずに済むのよ」
「いまどき、宮沢賢治を知る学生なんて少ねえよ!」
「……意外だわ。『よだかの星』を普通以下の男子高校生が読むと思わなかったわ」
「……だったら、何だ?」
正確には言うと八幡は『よだかの星』を読んだ事はない。ボーダーの中で好きな奴がいたので、たまたま内容を知っていただけである。だが、それを雪ノ下に告げると付け上がりそうなので、絶対に言わないが。
「普通以下の男子高校生と思っていたのよ」
「今、明らかに劣等扱いしたよな」
「ごめんなさい、普通未満と言うのが正しいよね」
「過剰評価したとでも言いたいのか! 理系三位と言ったよな」
「三位程度でいい気にならないでくれる。ちなみに私は学年一位よ、全教科ね」
どや顔で言う雪ノ下。八幡もまさか万年二位の葉山の上を行く勉学の変態が雪ノ下である事を知ると、居た堪れなくなってしまい「あっそう」と目線を逸らしてしまう。
「『よだかの星』は貴方にとってお似合いよね、よだかの容姿とか」
「……どう言う意味だよ」
「そんな残酷なこと言えないわ。真実は時に人を傷付けるから」
「ほぼ言っているじぇねぇかよ!」
「真実から目を背けてはいけないわ。鏡を見て現実を知りなさい」
「大きなお世話だ。……おい、この会話のどこにお前が自信満々言ったノブレス・オブリージュが関係している。お前がやっている事は、間違いなくトラウマを植え付けるだけの行為だぞ」
話しを思い返して見ても、優れた人間に慈悲の心を持って与える行為とは程遠い会話内容であったはず。下手をすると並大抵の精神力しか持たない男子高校生は今の一連の会話で心をぽっきりと折られてしまうかもしれない。高貴さを強制する、の強制が罵倒すると言う意味とはき違えられているのでは? とすら考えてしまう始末だ。
「さて、これで人との会話シュミレーションは完了ね。私の様な女の子と会話できたら、たいていの人間とは会話出来るはずよ」
まるで任務達成と言わんばかりに満ち溢れた表情で髪を撫でつける。
「……何となく、平塚先生が言った意味分かったぞ」
八幡が平塚先生に頼まれた要件は、雪ノ下の解決方針の改善の手助けであった。過去数件ほど雪ノ下に相談しに行った生徒がいたらしいが、その解決方針は一言で例えると強行突破ただ一つ。
やれ、生徒会長の威厳がなく生徒会がまとまりないと相談されると、一人で仕事を熟せるだけの能力を養えるようにとマニュアル書を渡して手本を見せるとか。
やれ、ボーダー隊員の彼氏を危険だからやめさせたいと頼まれた時も、その人物と直接会って数時間かけて説得したとか。
「言っておくが、お前のそれは何も解決していない。てか、斜め上過ぎだろ」
「そうね、それだと先生の依頼を解決できていない……」
「しなくていい、そんな依頼。本人の俺が問題視していないんだから」
「……何を言っているの? 貴方は変わらないと社会的にまずいレベルよ?」
「既に社会に出ている俺に言う台詞じゃないと思うがな。変わるとしても、それは俺が必要になった場合だ。大体人に言われただけで変わってしまう自分は『自分』とは呼べない。そんなのは本物じゃねえよ、ただの偽物だ」
「言いたい事は何となく分かるけど、あなたのそれは自分を客観視できない、いわゆる逃げよ。変わらなければ前に進めないわ」
「逃げる事も勇気と言う名言を知らないのか。第一、変われ変われとアホの一つ覚えみたいに言いやがって。温暖化が激しいから二酸化炭素は分解して勝手に酸素と炭素に分裂しろ、と言うつもりか」
「意味が分からないわ。論点をずらさないでちょうだい。それに二酸化炭素は回収する事が困難なのよ。現在のところ植物の機能を使う以外の方法がないと言われているわ。そんなことすら知らないの?」
「たとえに決まっているだろうが。詭弁と言うなら、お前も同じことだ。変わると言う事は変わる前の自分を否定しているって事だろうが。今の自分と向き合わず、変わることで現実から逃げてしまう。本当に逃げずに戦えと言うならば、今の自分と確り向き合って、自分や自分の過去を肯定しやり、それを糧にして成長しないといけないんじゃないか」
「……それじゃあ悩みは解決しないし、誰も救われないじゃない」
救われない。
その言葉を言った雪ノ下は随分と鬼気迫るものを感じた。死線を潜り抜けた八幡でさえ、その表情に思わず体を強張らせてしまったほどに。
なにが彼女をそこまで駆り立てているのか知らないが、一介の高校生が口にしていい言葉ではないはず。
「――二人とも、少し落ち着きたまえ」
険悪なムードが立ち込める空気を和らげたのは、またもやノックもせずに勝手に入室した平塚先生であった。二人の様子が心配でずっと教室の外から様子を見守っていた事を知る八幡からしてみれば随分と遅い登場ですね、と悪態つきたい所であった。
「随分と面白い事になっているようだな。わたし好みの展開だ。少年漫画っぽくて大変宜しい」
妙に平塚先生の篆書運河上がっている。まるで新しいおもちゃを手にした少年の様に目を輝かせている。
「古来より、お互いの正義がぶつかった時は勝負で決着をつけるのが王道だ」
「マンガと一緒にしないでください」
と、反論した所で全く聞く耳持っていないご様子。高らかに笑い声をあげると、信じられない言葉を言ったのである。
「では、こうしよう。これから君たちの下に悩める子羊を導こう。キミたちなりに救って、己の言い分を証明したまえ。どちらか人に奉仕できるか。バトル――」
「――嫌です」
「――無理でしょ」
最後まで聞く事無く、雪ノ下と八幡が言い放つ。
「先生。年甲斐もなくはしゃぐのは止めてください。みっともないです」
「そうですよ、先生。だから未だに彼氏の一人も見つからないんですよ」
心臓を穿つ死の槍が二本、平塚先生の身体を貫く。雪ノ下と八幡のあまりの言葉に一気にテンションダウンした平塚先生は――
「と、とにかくっ! 勝負あるのみだ。君たちに拒否権はない」
横暴にもほどがあるような身勝手な発言を言い放ち、さっさとのその場から去ってしまう。気配が遠ざかる事から、今回は本当に去ってしまったようである。
「……なぁ、もう帰っていいか?」
「好きにしたら」
一応、雪ノ下に許可をもらい帰り支度を済ませた八幡はさっさと教室から立ち去る。
さっさと学校から立ち去り、玉狛支部に向かいたい所であるがまだ帰る事は出来ない。
「……ほんと、俺が社畜人生なんて間違っている。残業手当を請求したいぐらいだぞ」
向かうは、突拍子もなく厄介ごとを押し付けた疫病神の平塚先生がいる職員室であった。