3月のラプソディー 作:スズカサイレンス
◆◆◆◆
物心ついたころに、父は本格的に俺に将棋を教えてきた。
予備知識というか、ルールの概要みたいなものだけは知っているような状態の俺を父さんはやたらと上機嫌に褒めた。
『歩は飲み込みが早い』
その言葉を聞くたびに、そこはかとない罪悪感を覚えたものだ。
とはいえ、将棋自体はとても面白いものだった。
なんとなく、適当にすればいいと思っていた駒の動かし方が全然思いもよらなかった戦略で動かされる。しかもそれを懇切丁寧にプロの棋士が説明してくれるのだ。
ある程度の成熟度を持った男子が心躍らないわけもなかった。
だが、同時に。
無理だ。そう思ってしまった。
俺は多分。将棋を好きになることはできるだろう。
でも、でもだ。
目の前の父のように、将棋を指すことができるだろうか。
相手のすべてを読み切って、自分の思うように駒を運ぶことができるだろうかと。
俺は幸か不幸か知ってしまっている。
世の中というものは平等なんて夢物語で、人にはできる人とできない人がいることを。
それは何にしてもそうで…。
勉強ができる人、できない人。
料理ができる人、できない人。
スポーツができる人、できない人。
そして……。
将棋ができる人、できない人。
がいることを。
俺は知ってしまっているのだった。
◆◆◆◆
幸田家の朝は早い。
父が真面目な、厳格な性格のせいもあるのだろうが、母さんと俺も朝ごはんと弁当の支度をするために早起きをするためでもあった。
それと、割と幼い頃から料理に目覚めた(と、両親は思っている)俺と母さんにとって朝の時間は、最早少なくなってしまった家族の時間でもあるのだ。
「おはよう母さん」
「あら、今日も早いわね歩。昨日も遅くまで起きてたんじゃないの?」
「いやいや、昨日はお店が忙しくて疲れちゃってさ。帰ったらご飯食べてすぐに寝ちゃったよ」
「そうなの…?無理にバイトしなくても…、お小遣いが足りないのならもっとあげるけど…?」
「違うよ母さん。俺は好きであの店で働いてるんだ。まぁ、趣味みたいなもんだよ」
「なら、いいんだけど…」
それきり、特に会話もなくそれぞれの作業に移ってしまった。
俺は卵焼き用の卵を溶き母さんは焼き魚の具合をみる。
するとふと、母さんが訪ねてきた。
「昨日は、香子は…?」
「ああ、今日は帰ってるよ。でも多分、いつものだと思う」
「そう…。そうよね…」
それきりまた、会話はなくなってしまった。
カチャカチャと、調理の音だけがキッチンに響く。
「おはよう」
そこへ父さんがやってきた。
何ともいえない沈黙が破られ、時間が動き出したような感覚になる。
「おはよう父さん」
「ああ、おはよう歩」
朝、俺達が交わす言葉はほぼこれきりだ。
なんというか、俺と父さんはお互いの距離をまだ測りかねているのだ。
有体に言えばどう接しればいいか分からない、という感じだろうか。
棋士への道をいともたやすく諦めた俺を父さんは理解できないし、俺は俺で勝手な罪悪感を父さんに持ってしまっている。
どうしても噛みあわない歯車。それが今の俺達だった。
「ご馳走様」
母さんが作ってくれた朝食を食べ終えて部屋へと戻る。
その途中、通りがかった扉に向かって俺はノックをした。
「姉さん、起きてるんだろう?俺もう学校行くから。
弁当作っといたから、忘れず持ってってね?それじゃ」
家に帰ってきていても、香子はなるべく両親との接触を避けるように生活していた。
例えば今のような朝の時間。香子は決して一緒に朝食をとろうとはしない。
父さんが朝食を終え対局に行くか、部屋に篭って研究を開始するまで決して部屋から出てこないのだ。
最近はそれを察してか母さんもその時間にはキッチンとダイニングには近寄らないようになっていた。
「ま、待ちなさいよ…」
「やっぱり起きてた…」
開かずの扉から返事がした。気分はまるで天岩戸である。
「何?姉さん」
「そ、そのお弁当…」
「ん?弁当がどうしたの?…ああ、もしかして余計なお世話だった?」
世の中の女性はランチのために働いていると聞く。我が姉もそうなっていたのか。
「ち、違う!違うわよっ!え、えと…」
「いや俺、そろそろ時間なんだけど…」
いつまででも相手をしたい気持ちは山々だが人間とは時間に縛られて生きているのだ。
些細な小言なら、普段はちゃんと受け止めるが朝はそうもいかない。
「…悪いけど、もう行くよ?話は帰ってから聞くから。なんならメールでもいいし。
弁当はいらないならそのまま…」
「卵焼き!!」
「へっ!?」
「卵焼きが入ってるのかって聞いてるのよお弁当に!!」
「あ、あぁ。入ってるけど…」
「ならいいわよ!!いってらっしゃい!!」
「う、うん。いってきます…」
部屋へと行き制服へと着替え家を出る。
電車に揺られ、級友に声を掛けられ教室に着く。
自分の席へついて鞄を下ろす。
そして…。
「なんだったんだあれは…」
そう、呟いた。