インフィニット・ストラトス 〜プラスワン〜 作:アルバトロス
◇ ◇ ◇
織斑千冬にとって、恩田海斗とは初めて現れた壁であり、越えなければならない目標であり、そして信頼できる友である。
最初の出会いは千冬が小学校3年生の時。一年の途中で篠ノ之道場へ入ってきた新入り、それが海斗だった。
それまでもクラスメイトとして知ってはいたが、はっきりと海斗を認識したのはそれが最初だった。
当時、千冬は既に同門の者どころか近隣の子供達も集まる大会に出ても他を寄せ付けぬほどの強さだった。
勝負になるのは小学校高学年以上の者が相手の時だけであり、それでも中学生でもなければ大抵は千冬に軍配が上がる。
当時はそんなことは全く思っていなかったが、今にして思えば少し天狗になっていたところはあった。
そんな彼女の高い鼻を完膚なきまでに折ったのが、新入りの海斗である。
彼が入門して一月。基本の技は一通り教え、あとはそれを磨いていくのみ――その前に目指すべきところを見せておこうと考えた柳韻によって組まれた試合で、千冬は動きを完璧に読まれて負けた。
剣を握るようになってから初めての、同年代への敗北。それも、入門して一月の新入りにである。
普通ならば高かった鼻とプライドごと心を折られ、剣を捨ててもおかしくないところ――しかし、千冬はこの負けで奮起した。
自分の剣を見つめ直し、基本に立ち返って剣を磨いた。
そうしてもう一度海斗に挑み――再び負けた。
その後はもう、意地である。絶対に負かしてやると心に決めた千冬は剣を振っては海斗に挑むことを繰り返し、いつしか二人はライバルとでも呼ぶべき仲になっていった。
千冬から見ると海斗の剣は実に不思議で、素振りを見ていると別段速くも鋭くもないのに、いざ向かい合うと気が付いたら打ち込まれていることが多い。
尊敬する師の柳韻によると
「彼の剣は正しい剣ではない」
そうであり、剣の道を歩む上ではあまり真似するべきものではないらしい。
「今まで通りに剣に励めば、千冬君ならば近いうちに彼に勝てるようになるよ」
そんな師の言葉に力を貰い、千冬は最初の壁にして倒すべき目標を見据えて剣を振った。
◇ ◇ ◇
剣道から離れると、海斗はますます不思議な人間だった。
勉強は出来て、運動も並以上には出来る。コミュニケーションが取れないわけでもない。
それなのに、何故だか誰とも共に行動せずいつも一人でいた。
一度千冬が理由を聞くと、
「ここで友達を作っても、大人になる頃にはその殆どと縁が切れてるだろう?だったら、わざわざ『友達を作ろうとする』なんて面倒なことをする必要はないかなと思ってな。一人でも別に差し支えないし。それに、生涯付き合うような大事な友人なんてものはいつの間にか出来てるものだ」
そんな答えを返してきた。
海斗には、こんな風に捻くれたところがある。
大人になる頃には云々というのは知らないが、後半に関しては納得できてしまうあたり、たちが悪い。
何より特徴的なのは、その目だ。
他の人より少しだけ色素の薄い彼の瞳は、様々に移り変わって多彩な感情を見せる表情とは違い、その奥底は凪いでいて滅多に揺らがない。
それが、どこか老成した大人のようだと千冬は思う。特に、はしゃぐ級友を温かい目で見ている時は。
千冬が束と絡むようになってからは、そこに海斗もいることが多くなる。
最初は師の娘ながら実に不愉快な奴、と思っていた束が次第に悪友と呼べるような関係になっていくのと同時に、海斗とも学校でもよく話すようになった。
千冬と束と海斗。
3人セットにされることの多かったせいもあり、今では千冬にとって二人は誰よりも信頼できる友だ。
そして、だからこそ――中学に進学して間も無く起こったその件に、千冬は二人を巻き込みたくなかったのである。
◇ ◇ ◇
始まりは、唐突に両親が亡くなったことだ。
突如9歳下の弟と二人きりになってしまった千冬に手を差し伸べたのは、近くに住んでいながらこれまで一切の関わりがなかった遠縁の親戚だった。
それは50近くの夫婦で、二人は千冬と一夏の二人を引き取ろうと申し出たのである。
まだ中学生になったばかりの千冬には収入など当然なく、また突然親がいなくなったことで右も左も分からない状況だ。
二人の笑顔に胡散臭いものを感じながらも、千冬はその申し出に頷かざるを得なかった。
――結果から言えば、それは失敗だった。
夫の方は引き取った千冬のことを完全に性の対象として見ているようで、家にいる間は常に身体に纏わりつく視線が不快で仕方がなかった。
時期的にもちょうど初潮を迎えて本格的に身体が女になり始めたころであり、膨らみ始めた胸や尻を這い回る視線に、千冬は必死で耐えた。
妻の方はというと千冬や一夏には何の興味も抱いていなかった。
彼女にとって二人は織斑家の遺産について来たゴミのようなものであり、何かに腹を立てては腹いせに千冬に手を上げることも少なくなかった。
それでも、千冬は耐えた。自分一人ならばとっくにこんなところは飛び出していただろうが、まだ小学校にも入れない歳の一夏を育てるにはこの夫婦の金が必要だ。自分が犠牲になって何とかなるのならば、千冬は幾らでも耐えられた。
しかしいくら一夏のためと心を殺しても、鬱憤は溜まる。
家で反抗的な態度を取ると一夏に手を上げられるため、その反動で二人の目のない学校では苛立ちを隠してはいられなかった。
剣呑な雰囲気の千冬に、クラスメイトは愚か教師までも怖がって触れようとはしない。
千冬も自分が側からどう見えているかは分からないでもなかったので気にはしなかったが、そんな状態でも変わらずに接してくれる友人二人の存在はありがたかった。
そんな日々が続いたが、そのままならば千冬はどうにか耐え続けただろう。織斑千冬には、それが出来るだけの強さがあった。
だが、ある日。
千冬は、夫婦のこんな会話を聞いてしまった。
『ねえ、手続きはまだ終わらないの?』
『もうしばらくだ。まあ、そう焦ることはない。じきに織斑家の財産は全て私たちのものになる』
『早く終わらないかしら。私、あんなガキの世話なんか嫌で嫌で仕方がないんだけど』
『そうか?どちらも中々の美形じゃないか』
『美形って言ったって、男の方はまだ子供もいいところよ。育つ前に我慢の限界が来るわ』
『女の方は中々良い感じだが。あと数年も待てば、美味しく熟すだろうよ。ご馳走を我慢した分、食べる時にはより美味しく感じられるだろうな』
『……まあ、女の方は好きにすれば良いわ。ガキは要らないから』
『分かった。手続きが終わり次第、児童養護施設に置いてくるとしよう。養育費を払うのも馬鹿らしいしな』
――もう、限界だった。
財産目当てなのは分かっていた。男が、自分の体を狙っているのも分かっていた。だが、一夏の養育費さえ出してくれれば耐え忍ぶ気でいたのだ。
それを、児童養護施設に置いてくる?――ふざけるな。
千冬は激情のままに部屋に戻り、自分のものと一夏のものを全てこの家に越してくる時に使ったスーツケースに詰め込む。
そして眠っている一夏を背負い、スーツケースを片手で抱えて家を飛び出した。
◇ ◇ ◇
夜空の下で一人あてもなく彷徨い、冷たい風にも吹かれて、千冬の頭は冷えた。
だが、あんな話を聞いてしまった以上あの家に戻る気は毛頭ない。
しかし、今の千冬は正真正銘の無一文である。おまけに、今度こそ頼ることのできる親戚はいない。
――夜道を歩きながら、途方に暮れていた千冬。
その目の前に、偶然。彼女の大事な二人の友、その片割れの恩田海斗が通りかかったのである。
最初に気が付いたのは、海斗の方だった。
「――織斑」
俯いて歩いていた千冬は、聞き慣れたその声に弾かれたように顔を上げ――慌てて踵を返した。
「おい、織斑。待てよ!!」
腕を掴まれた千冬は、反射的にその手を振りほどこうとして。
「――へっ?」
――そのまま引っ張られ、両の肩をガシッと掴まれた。そしてグッと顔を寄せられる。
「〜〜!?お、恩田!?」
近いから離してくれ、と続けようとした千冬の言葉は、海斗に遮られた。
「――俺は、頼る価値もないか?」
「そ、そんなことはない!」
「なら、どうして何も言ってくれない?」
「……お前に迷惑を掛けるわけにはいかない」
千冬は、俯いて首を振った。
その顔から雫が滴り落ちるのを見て、海斗は一瞬手に力を籠める――が、すぐにそれに気づいて力を抜く。
「なあ織斑。俺が昔、『大事な友人はいつの間にか出来てるものだ』って言ったことを覚えてるか?」
千冬は俯いたまま頷く。
「お前は作ろうと思って作った友人じゃない。いつの間にか信頼するようになった、大事な友人だ。お前が頼ってくれた方が、俺は嬉しい」
「しかし……!」
千冬は唇をギュッと結んで助けを拒もうとして――痺れを切らした海斗に顎を掴まれ、強制的に顔を上げさせられた。
間近に迫ったその色素の薄い眼に、普段は全く揺らがない彼の瞳に激情の色が見えて、千冬はヒュッと息を呑む。
「なあ、どうしようもなくて困ってんだろ!?どうにもならなくて泣いてんだろ!?だったら――目の前の
そこまで言ってから、彼我の距離の近さに気付いてか海斗は千冬の顎を掴んでいた手を離す。
そして、
「……なあ、言ってくれよ。助けてってさ」
そう囁いた。
千冬は空いた手をグッと握り締めて――フッとその力を抜いた。
「…………なあ、恩田。私を……私たちを、助けてくれ」
そうして、ようやく紡がれた言葉。
海斗は待ち望んだ言葉に笑みを浮かべ、力強く頷いた。
「ああ、任せとけ」