第11話 浅井サキという女
夢を見ている。
私はそう自覚していた。はっきりと分かったのは、それが私が私を見ていたからだ。
私の目の前に、今よりはるかに幼い私がいた。それを映画のように私は眺めているのだった。
ある日、私は全てを失った、突然訪れた喪失に、私は耐えられなかった。混乱し、震え、何も考えず起きた部屋を飛び出した。
幸運だったのは、それを誰にも見咎められなかったことか。神様がいるなら、もしかしたら彼は不幸であるというのかもしれない。いや、未来視のサイドエフェクトなんてものがあったら、誰かはそういうかもしれない。しかし、私はその先にある未来を知っていた。それはどんな他のものより幸福であると確信していたのだ。
外は重い雨が弾丸のように降っていた。あまりにひどい雨のせいか、外にいる人は誰もいない。
コンクリートの黒い床が一面に広がっていた。
私は裸足で、そこを走り抜けた。足の裏に尖った石が突き刺さる。血が出た。痛みに顔が歪む。それでも走り続けた。
走って、走って、まるで逃げるように走った。
やがて走り疲れて、地面に倒れこんだ。
ーーーーーー
私は茶野隊の作戦室にあるベットで仰向きになり、天井をただぼーっと見つめていた。
"二宮さんのこと、支えてほしいんだ。"
頭の中で、犬飼さんの言葉がなんどもなんども響く。そう言われたときに犬飼さんが出したその声も、仕草も、場の様子も、全て克明に私の頭に刻まれていた。
何より、印象に残ったのは彼の表情だった。まだここにきて一ヶ月の私には彼の心情を完全に理解することはできない。しかし、そこにあった懇願するような顔つき、救いを求める目ーーそして、私をもっとも動揺させたものである、思いやりの唇。
犬飼さんの心情なんて、私には分からない。
だけど、今日見たそれは、確かに二宮さんのことを純粋に思い、心配する気持ちだったのだ。
私は腕を目に当てる。
なんで、そんなものを見せつけてくるのだろう。犬飼さんだけじゃない。
彼が心配するその二宮さんもまたそうだ。
彼は独自で鳩原さんの事件を追っている。犬飼さんはそう言っていた。独自に追っている。その言葉の込められた意味はおそらくそんなことを本来はする必要がない、誰かから命令されたわけではなく自分の一人でやっている、ということだろう。なぜ、そんなことをするのか。そこあるのはきっと簡単な答えだろう。いや、実際二宮さんの胸中はもっとずっと複雑なのかもしれない。しかし、推測するに二宮さんの心の一端にあるのはそれがたとえどんなに小さかったとしても鳩原さんに対する思いやりに違いなかった。
なぜ、そんなものを見つけてくるのだろう。そんなものを見せてほしくなかった。そんなものを、見せてくるから私は、ここにいる人たちは今まで見てきた汚い大人たちなのでは決してなく、思いやりと愛情に溢れた人々なのだと理解してしまうのだ。
私は自分の心に、忌み嫌うべき感情の芽が生えてきていることに、気づき始めていた。
もう片方の手を胸に当てる。侵入先であるボーダーに所属する彼らへの情、というあまりにも任務には必要のないものが、確かにそこに存在するのだった。
私は唇をかみ、腕を震わせる。
ただ、作戦室に雨の音が響く。もう梅雨も終わりに近づいていい頃だろうに、雨はしつこく降り続いていた。時々雷の音が聞こえてきた。どっと疲れが押し寄せてくる。何も考えたくない気分だった。私は身をベットに委ねる。まぶたはもう開けれそうにない。
そのようにしていて、どれぐらい時間が過ぎただろうか。
いつの間にか、私は眠りに落ちていた。
ーーーー
私は地面の上に倒れていた。
突き刺すような雨が私をぶつ。足の裏が痛くて、見てみるととても血がにじんでいた。
ここ、どこだろう。とぼんやり考える。少なくとも、隣街よりずっとずっと遠いところに来たようだった。
雨は私の体温も奪っていく。冷たい、寒い、疲れた。体の節々が痛い。もう一歩も動けない。
ここで死んじゃうのかな。こんなところで死んじゃうのかな。冷たくて、痛くて、死んじゃうのかな。そう思うととても悲しくなってきて、涙が出てきた。泣いちゃだめだ。
「おい、小娘。」
ずっと上の方から声が落ちてくる。私のぼやけた視界に、大きくて黒い男の人が入ってきた。
「名前は。」
ただぼーっと、そう聞いてきた男の人を見返す。黒いな、と思った。力が体から抜けていく。
「サキ。」
でも、その一言だけは口にした。それは、私が持っている唯一のものだったからだ。
「苗字……上の名前は?」
苗字ぐらい、知ってる。そう返してやりたい気持ちにもなったが、今の私にはそれを証明できない。一言「知らない。」とだけ返す。少し惨めな気持ちになった。
「そうか。サキ、お前、うちにくるか。」
私はじっと男の人を見つめた。
男の人も、私を見つめた。
いいかな、ついて行ってもいいかな。今、ここでべそかいて死んじゃうぐらいなら、きっとその方がいいかな。
私はうん、と頷いた。
そして疑問を一つ口にする。
「おじさん、名前は。」
突然、雨が止む。
私の上の雨が止む。
私は抱きかかえられていた。傘を持った男の人に。片腕で私を抱き抱えながら、男の人は言う。私は濡れていたからその高そうな黒いスーツはびしょ濡れになったのに、そんなことも気にしていない様子だった。
「おじさんじゃない。浅井。浅井だ。
お前も今日から、浅井サキだ。」
「じゃあ、おじさんは私のお父さんなのね。」
同じ苗字の人は家族だ。おじさんが浅井で、私が浅井サキなら、おじさんはお父さんだ。
私はそう言う。
お父さんはにやっと笑って、「単純なやつ。」とつぶやいた。
ーーーーーー
私はパチリと目を開けた。そして、目元で涙がにじんでいるのに気づいた。
私はそれを拭う。涙は、人が作る雨だ。
夢を見ていた。とても幸せな、夢を見ていた。
あれから四年が過ぎた。私は大人になり、世界はそんなに単純ではないということにも気づいた。
私は浅井サキであり、女子中学生であり、スパイであり、お父さんの娘だ。
今ここに寝転がっている女の子は、高橋サキであり、ボーダーの隊員であり、茶野隊のオペレーターだ。
そのどちらが本物の私なのかは、はっきりしている。どちらが、大切なのかも、また同じように明白だ。
今、1番大切なのはお父さんに恩を返すこと。
私はパチリと自分の頬をたたく。
とりあえず、持っている情報を整理しよう。
まず私の最終目標は【トリガーをボーダーから持ち出し、帰還すること。】
そのために必要なことを逆算して考えると、大前提として、スパイである私の存在とその計画がボーダー側にバレるようなことがあってはならない。特に、トリガーを持ち出す前には。
また、持ち出すトリガーに関する情報を確定しなければならない。依頼人が求めているのは、どの種類のトリガーなのか?トリガーが置いてある場所は?そしてその通路は?
同様に、計画後の後処理としてこちらの身元がバレるようなことも避けるべきだ。
そして、もっとも肝心であるいつ、計画を決行するのかということ。これら決める必要がある。
全てがパズルのように、計画に必要な1ピースだが、あえて今すべき優先順位をつけるなら、大前提である計画の隠秘、トリガーの情報の確定、計画の実行に関する日時の情報集め、計画の後処理という順になる。
また、私が今つかんでいる直接的に任務に関する情報は、トリガー反応というトリガーについている追跡機能のこと、風間隊が本部の警備に当たっていること、そして二つの情報を手に入れるきっかけとなった鳩原さんが起こした事件の存在に厄介なサイドエフェクトの存在だ。
未来視のサイドエフェクト。確か歌川さんによると、見たことがある人物の未来が見える能力のはずだ。まだ私とそのサイドエフェクトを持つ"迅"という人物の間に面識はないが、もし何も策を講じず会ったのならば計画は崩れ去っていただろう。
これは大前提である、ボーダー側に計画はバレないということが消え去ってしまう。緊急性が高い事案だ。
逆にトリガーについている追跡機能は緊急性が高くない。計画決行前に対処する必要はあるし詳しく探っていく必要もあるが、今すぐすべきことではない。それに判明した後は特別私が対処すべき事柄でもないだろう。 お父さんに連絡すれば、こういったことに慣れたあの人は対策してくれるはずだ。
風間隊の警備も同じような類だが、これは計画を実行する前と最中に私が対処しなければならない。加えてこれには少々不可解な点もある。
そして鳩原さんが起こした事件は、まだ全く出揃っていない多くの計画に必要な情報が詰まっている可能性のある重要な存在だ。
つまり、今すべきことは未来視のサイドエフェクトへの対策とトリガーに関する情報を集めながら、鳩原さんが起こした事件を追うことだ。
こう思うと一見、三つのことを同時に行わなければいかないように思える。しかし、実際やるべきは二つのことなのだ。
なぜなら、鳩原さんの事件はあまりにも多くの重大な情報を抱えている。そしてその中の一つに未来視のサイドエフェクトへの対策を含んでいるのだから。
"なぜ、未来視のサイドエフェクトを持つ人物は鳩原さんが起こした事件を見抜けなかったのか"
ここに、私の計画を成功させるための大きなヒントが隠されている。
私は立ち上がり、一通りの身支度を済ませてボーダーを出た。最短になる入り口を選んで出ても、ここから中学校は少し遠い。ため息を吐きながら歩き出す。外は曇り空で、ところどころ地面には昨夜の豪雨を示す大きな水たまりがあった。途中でご飯のためにコンビニに寄る。
私は弁当を選びながら、少し考えた。
私はお父さんにとても感謝している。それは確かだ。そして、そのためにスパイ活動をしてきている。何もできなかった私を拾ってくれたお父さんに貢献したかった。尊敬するお父さんに褒められたかった。それがやりたいと思った理由だったように思える。きっとそれも確かだ。
そしてそれを最大の目標にしている。
だけど、心のどこかでまだ私は引っかかっている。
これは決してお父さんへの否定でも、反逆でもない。そんな思いはまったく持っていない。だけど別の側面で、私はまだどこかで、ボーダーに対して、スパイ活動をすることに戸惑いを感じている。ボーダーで出会った人の顔が私の頭によぎっている。
その明白な事実を頭の片隅に追いやり、私は会計を済ませてからコンビニを出る。
そして、早足で学校に向かう。
大丈夫。まだ、まだ大丈夫。まだ、私の1番は揺らいでいない。
誰かはそれを逃げだと呼ぶのかもしれなかった。