ノック   作:サノク

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前日談

私は白いエプロンドレスを翻し、そっと廊下の壁に耳を当てる。辺りに誰もいないことは分かっていた。音ははっきりと私に届く。中の部屋で話されていることが。

 

 

「ナナカ。どうして君はこうも美しいんだ?」

太い男の声だ。私にはこの男が誰か分かっていた。この家の、主だ。

 

「夏の日よりも君はずっとたおやかで美しい。」

ゲンナリとするような、馬鹿馬鹿しいほどの愛を轟くその様子に思わず呆れてしまう。

おそらくはシェイクスピアのソネット18番の引用だろうが、あんな崇高な詩を汚すなと言ってしまいたい衝動にかられる。

「ナオヤさん……。」うっとりとした女の声。

それも屋敷の主人をする男と比べるとずいぶんと若い。夢を見ているようなその甘い声はさらに続く。

「でも、私、そんな可愛い人ではないわ……。ひどい女よ、だって奥様からあなたを」

「何もいうな……ナナカ。」

屋敷の主人の声がしたかと思うとリップ音が聞こえてくる。

そしてその愛が深くなる気配を察して、私はゆっくりとその場から離れた。

 

廊下を歩いていると自分の肌に鳥肌が立っているのがわかった。腕をさすりながら、"隣の家の賢い女の子が家庭教師としてやってきた"という表の名目を全うするため、子供部屋に戻る。

 

「真子!どこいってたの!」

幼い少女が勢いよく飛びついてきた。彼女はこの屋敷の一人娘だ。

「ごめんね、ちょっとトイレに行こうとしたら迷っちゃって。」

私は軽く謝罪しながら、この子と会うのも今日で最後だな、と感慨深い気持ちになる。

 

真子というのは私の名前ではない。私の本名は浅井サキ。

この屋敷の奥方から依頼された浮気調査のために、送りこまれたのだ。

決定的な瞬間を捉えたあとは、書類を書いて今わざと外出している奥方さまに提出する簡単な仕事だ。

 

それにしても、と少女を見る。

私の浮気調査の結果、屋敷の主人、つまり少女の父親は浮気をしていた。(それもこの屋敷の使用人と!白昼堂々と!)

奥方さまはおそらく怒るにちがいない。その後この二人の関係がどうなるかは分からないが、例えどうだったとしてもこの少女に罪はない。それにもかかわらず、この後に彼女には辛い出来事が訪れるのだ。すなわち、彼女の両親の離婚か、関係の悪化に伴う別居……いずれかが。

 

「真子?どうしたの?」

幼い眼差しがこちらを見上げてくる。私はその頭をそっと撫でて微笑む。

「いいえ、勉強の続きを始めましょうか。」

「えー!いやよー」

少女は口ではそう言いながらも笑いながら机に戻っていく。

 

この屋敷の主人も、最初に顔を合わせたときは、もちろん奥方さまからそういう依頼があってこの屋敷を訪れることになっていたのだから疑惑は知っていたのだが、そうだとしても人の良い方だと思った。ずっと年下で子どもの私にも丁寧な口調を崩さず、やさしく出迎えてもらったものだ。

だが、結果はこうだ。

どうあっても彼のしたことには変わらないし、私の報告書の内容も変えることはできない。そんなことは決してないが、例え私がここで任務に背いたとして、残るのは仮初めの平和に過ぎないのだ。ならば、ここで始末をつけるのが結局最善の策なのだろう。

 

ふと顔を上げると一生懸命算数の問題に取り掛かり、頭を悩ませる様子の彼女がいた。

 

その姿を見て主人の笑顔と奥方のやつれたような姿を思い出す。

後味の悪い任務だ、とため息をはかずにはいられなかった。

 

 

ーーーー

 

「君を。」私は呟いた。「夏の日に例えようか。」

マドラーをゆっくりと回す。

白い湯気がカフェオレから立ち上っていた。

そこでカップに口をつけると、後ろから声が飛んできた。

「いや、君の方がずっと美しく、おだやかだ。」

 

 

「荒々しい風は五月のいじらしい蕾をいじめるし、

なによりも夏はあまりにあっけなく去っていく。

 

時に天なる瞳はあまりに暑く輝き、

かと思うとその黄金の顔はしばしば曇る。」

軽快なぐらいの若い男の声、同僚だった。

彼は軽やかにほうきでゴミを掃いていく。

 

「どんなに美しいものもいつかその美をはぎ取られるのが宿命、

偶然によるか、自然の摂理によるかの違いはあっても。」

フランス語を話しているかのような、それでいてスペイン語で歌っているかのような言葉だと思った。

私は彼をじっと見つめる。

 

「でも、君の永遠の夏は色あせたりしない」

 

「ひとが息をし、目がものを見るかぎり、

 この詩は生き、君にいのちを与えつづける。」

 

ようやくそこで彼の詩の朗読が終わった。振り返って、こちらを向いた。

 

「ずいぶんと季節外れの詩を詠みますね、お嬢さん。」

今は冬ですよ、と言いたげに彼は微笑んだ。無駄に整った容姿をしている。

「私にはあなたが歌っていたように思えましたけど。」

彼は年上だが、ここでそんなものは関係ない。呆れた目で彼を見ると、肩をすくめられる。

 

「先日の任務で、縁があったんですよ。」

言い訳するように私は付け加えた。彼から目を背け、窓の外を見る。

 

「先日の任務って……お嬢さんの任務は浮気調査だったように思いますが?」

あの古くさくて馬鹿でかい屋敷の。と彼は加える。

そうですよ、と私は言った。

「こりゃ驚いた、あの屋敷の主人はソッチ系だったんですか?」

「違います。異性愛者ですよ、普通の……普通?ではないかもしれませんが。」

自分で言って、浮気していた人物に普通という表現が適切か分からない。

彼はそれを聞くと首を傾げた。

「え?でもあの詩は"そういう詩"じゃないですか。」

 

私はカフェオレに口をつけた。

 

シェイクスピア、ソネット集。

そこに出てくる美しい少年と作者の間には……より詳しく言うのなら18番からの二人の関係は愛がはっきりと歌われている。

うつくしく、劇的で、人間じみながらも、儚い愛が。

 

あの詩の美しさは誰にさえ穢せるものではないが、同僚の彼の言う通り、屋敷の主人はあの詩を引用すべきではなかったとも思う。

それはそのシチュエーションではなく、詩のバックグラウンド、そして実際の関係という点でだ。

「ほんと、バカな人ばっかり。」

空になったカップを机に置く。その仕草をみて同僚は言う。

「男がですか、お嬢さん。」

 

「違いますよ、任務に関係する人がです。」

 

それを聞いて同僚がハハ、と笑う。

 

「当たり前じゃないですか、そうじゃないとここで働けませんよ、俺たちは。」

 

彼は床に落ちたクッキーを魔法のように宙にあげ、ちりとりの中に入れる。

 

「だって、俺たちはスパイなんですから。」

 

 

 

 

 

 


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