この上もなく慎重に   作:都っ市

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 タイトル考えるのがいちいち大変です


雪ノ下母「奉仕部って最初に聞いたとき絶対エロいヤツだと思った」

「ただ挨拶されただけで、何ビビってんだ」

 

 一時間前の俺が、今の俺を見たならそう言うかもしれない。気持ちはわかる。

 

「もっと落ち着いて対処できただろ」

 

 一時間後の俺は、今の俺を振り返ってそう言うかもしれない。ごもっともだ。

 ……いやいやいやいや、そんな簡単な話じゃないって。今現在の俺の身にもなってみろって。

 確かに雪ノ下母は、ただただ微笑みかけてきただけ。そしてこんばんは、と一声発しただけだ。気圧されるような鋭さ、何らかの含み、そんなものは一切ない。

 しかしそもそもの話、知人の親御さんと鉢合わせるというのは結構な冷や汗イベントではなかろうか。こちらは子供で相手は大人。面識はあっても会話したことはほぼない。聞くところによれば、俺に対して何らかの関心があるとかないとか。陽乃さんがこの人に俺のことをどう説明したのかも気にかかる。

距離感の掴み方が難しい条件がこれだけ揃っているのだ。ポーカーフェイスにも限度がある。焦りを隠すだけでギリギリ……いや、隠せてる? 隠せてない? 隠せてないか。

 とにかく先生、助けてください。

 その場を譲るように脇へ踏み出すと、雪ノ下母の視線は俺の背後、平塚先生の方へ移る。先生もそれに気づいて頭を下げた。

 

「ああ、これは……こんばんは、お世話になります」

「いいえ、こちらこそ雪乃がいつも」

 

 雪ノ下母が車を降りるのを見て、先生も俺の隣までやってきた。

 よし。これでいい。大人は大人と話すものだ。まともに正面から向かい合った瞬間は少々戸惑ったが、やはりただの学生など眼中になさそうだ。それで一向に構わない。どうぞ俺のことはお気になさらず。

 平塚先生と談笑を交わす雪ノ下母。今日は和服じゃない。羽織ったコートの下には、カーディガンとスカートをお召しになられている。そりゃそうか、年がら年中あんな恰好してられるわけがないし。うちの母親は敬遠しそうな装いだが、大変よくお似合いだ。どうでもいいけど「ユキノシタハハ」っていちいち長いな。「ユイガハマママ」といい勝負だ。いい勝負っていうか、完全に互角だ。

 お二人は初対面ではないようで、近況なんかを話し合っている。そういや、陽乃さんも平塚先生に教わってたんだっけか。その頃から面識があるのかもしれない。

 

「雪乃はよくやっていますか」

「仲の良い友人ができて、楽しそうにしていますよ」

 

 こういう質問だと普通は成績について答えるものだろうが、そこはもう話題にするまでもないらしい。さすが学年一位。そりゃ雪ノ下のあの性格だと、心配になるのは対人関係の方だよなぁ……。

 

「一年の頃に比べると随分柔らかい印象になりましたね。笑顔が増えました。慕っている後輩もいる様子です」

「あら、本当に?」

 

 後輩っていうのは一色のことを言ってるんだろうか。あれは慕われているというより、甘えられると案外チョロいという弱点を突かれてるだけのような。ちょっと奥さん! お宅の娘さん、チョロすぎてロクでもない後輩に目ぇ付けられてますよ! このままじゃ将来どんな悪い虫が寄って来るかわかったもんじゃありませんよ! お気を付けあそばせ!

 とは言うものの、一色が懐いていることに変わりはないし、雪ノ下母にとってもその事実は喜ばしいようである。ていうかこの突発保護者面談、俺まで聞いちゃっていいのかしら。よくないんじゃないかしら。

 さっさとこの場を離れたいところだが、黙って去るのも目立つ位置にいる。どこかで帰るタイミングを掴むしかない。聞いてちゃマズい話があるなら、そういうサインが出されるだろう。関心がない話題でもないので、しばらく聞いていることにする。

なるべく存在感を消したまま突っ立っていると、陽乃さんもこちらにやってきた。すすす、と近づいてくると、右手を胸の高さに持ち上げる。ちょっと、何ですかその人差し指。

 陽乃さんはまたしても指先で俺の脇腹をビシビシつつき始めた。マジしつこいなこの人。

 

「後輩というのは、同じ部活の子ですか?」

「あぁ、いえ……部員は二年生が三名だけでして」

 

 狙い澄まして繰り出されるその華奢な指先には、痛っ、こちらが下手な防ぎかたをすると逆に怪我をさせてしまいそうな怖さも潜んで痛っ、それがまた余計に対処を難しく……痛い痛い、やめてちょっと、ちょ、空気読んでくんない!? なんか今おたくのお母さんが主役(メイン)っぽい状況じゃない? お願いだからおとなしくしといてくれません??

 

「陽乃? あなた何を子供みたいなことしてるの」

「へー? 何がー?」

 

 白々しいぞ、この二十歳。が、母親のその一言で一応手は引っ込んだ。

 

「ごめんなさいね」

「いえ……」

 

 なかなか離脱の機会が巡ってこない。それどころか、陽乃さんの地味な攻撃に押されて先生たちとの距離が縮まった。その上、背後には依然として陽乃さんのプレッシャーを感じる。

 

「あなたも部員なのね? もう一人は、お団子の髪の子かしら」

「あ、はい……」

 

 ほら、会話に巻き込まれた。勘弁してほしい。知らない大人と会話するのは苦手なのだ。ついでに、知らない同世代や知らない年下との会話も苦手としている。オールラウンダ―と呼んでくれていい。

しかしながら、平塚先生もいる場だ。泣き言を言っている場合じゃない。先生に恥をかかせるわけにはいかないのだから。えー、こういうときは……そう、まずはきょろきょろしない。背筋を伸ばして胸を張れ。……顎は引く。

 

「二年F組、比企谷八幡です」

「どういう字を書くのかしら」

「比べる、企てる、谷、でヒキガヤです」

「下は数字の……?」

「えっと……八幡(やはた)製鉄所の方です」

「なるほど。立派なお名前ねぇ、縁起がいいわ」

「え、あー、ありがとうございます……?」

 

 生まれてこの方、俺の名前などにここまで好意的(に見える)興味を示した人間はこの人が初めてだ。社交辞令なんだろうが、ちょっと感動してしまう。というか、それ以上に戸惑ってしまう。困る俺を見て、くくっと忍び笑いしている平塚先生。笑ってる場合じゃない。助けてください早く。帰りやすい空気つくってください。

 

「確か……ボランティアのようなことをしているのだったかしら?」

「奉仕部だよ、ほーしぶ」

 

 陽乃さんが後ろから口を挟む。

 

「あぁ、そうだったわ。奉仕……先生が顧問をお勤めなのですね?」

「はい」

「お恥ずかしいのですが、あの子がどういった活動をしているのかよく知らなくて……」

 

 言葉は平塚先生に向けているようでいて、雪ノ下母は俺にも視線を送ってくる。これダメじゃない? 話終わるまで帰れないヤツじゃない?

 

「ごく簡単に申しますと、依頼に応じて悩み解決の手助けをする部活です」

 

 先生が掻い摘んで説明する。

 

「例えばどんな……?」

 

 しかし、返された質問には答えず俺を見た。先生が俺を見ると、雪ノ下母も俺を見る。いつの間にか隣に立っている陽乃さんも俺を見る。え、何、俺が答えるヤツなの?

 

「た、例えば……?」

 

 例えば、何だろうか。とりあえず記憶をさかのぼってみる。えー、バレンタインとか? クリスマスとか? なんかそういう生徒会関連のイベントの手伝いが多いな。でもそれって実質は生徒会の下請け、というか一色の下っ端みたいなもんってことで、これを「悩み解決の手助け」とするのは無理がある。他には……「クラス内のチェーンメール問題を解決して」とか。「女の子に告白したいから手伝って」とか。いやいや、これも外向きの説明にはふさわしくない。なんだこれ、難しいな。

 

「あー……自分の書いた小説を読んで感想を聞かせてほしい、とか……」

 

 ダメだろ。最初に挙げるのが材木座っておかしいだろ。もっと何かあるだろ。もっとまともなのが。

 

「料理が上手くなりたいので教えてほしい、とか……テニスが上手くなりたいので、練習を手伝ってほしい、とか」

 

 内容を簡略化してはいるが、まぁこの辺りが無難だな。うん。こんな感じです、はい。

 

「あとは、家族の帰りが連日遅くて心配だから、原因を突き止めてください、っていうのもありましたね」

「いろいろやってるんだねぇ」

 

 言葉だけは感心しているように聞こえないでもないが、陽乃さんはかなりどうでも良さそうだ。まぁ、部活の説明なんてものが面白いはずもない。

 

「依頼は誰でもできるのかしら?」

 

 ところが、この人は興味を惹かれたようだった。雪ノ下母。

 

「……ええ、まぁ」

「例えば、学外の人間でも?」

 

 思わず平塚先生を見るが、先生は俺の口から答えるように目だけで促す。

 

「いや、それは……」

「できるよね? 私もメールでお願いしたことあるし」

 

 確かに、陽乃さんから相談メールを受けたことはある。ただしアレは明らかに遊び半分の依頼だったし、解決もしていなければ、しようともしていない。由比ヶ浜は真面目に答えていたが、あの件を実例とは言い難い。

 実例と言うなら、川崎沙希の弟、大志からの依頼がある。ねーちゃん不良化問題。まさについ先程例に挙げた依頼がそれだった。

 ていうか口ぶりから察するに、この質問の意図は……まさか、何か依頼を持ちかけようとしていらっしゃる? いやいやいやいや。勘弁してください。

 

「そう、ですね。あー……相談自体は受け付けたことがありますが」

 

 正直に、そのままを答える。嫌な予感に、ついつい口調が早くなっていた。

 

「ただ、基本は学生相手の便利屋みたいなものなんで。もし、仮に何か依頼をされたいんだとしてもお力には……」

「雪乃のことなのだけれど」

 

 雪ノ下母は、そこで娘の名前を出した。

 

「お話だけでも聞いてくださる?」

 

 強い語気で俺の言葉を遮ったわけじゃない。だが、その一言で俺は黙った。肯定の意味で口を噤んだ。話だけでも、と言われてしまうと拒否のしようもない。

 いや、それよりも。今の俺に対してはそれが決定的な一言だと、その名前を無視できないのだと、この人は知っているのか。知られているのだろうか。

 

「聞くだけでしたら……」

「ありがとう、ごめんなさいね」

 

 雪ノ下母は本当に感謝した様子で、本当に申し訳ないという態度で、話を切り出した。

 

「あの子を家に戻すにはどうするのがいいかしら?」

 

 また、先生の表情をうかがう。口を出すかどうか、判断しかねている様子だ。

 戻す? 連れ戻す? つまり、一人暮らしをしている雪ノ下雪乃を、実家に戻したいということか。陽乃さんが妹の部屋に移り住んだばかりなのに。あるいは陽乃さんの引っ越しも、次女を連れ戻すための根回しのひとつということだろうか。

 

「……本人と直接話し合うのが一番かと……と言うより、他に方法がないと思いますが」

 

 雪ノ下母は、ふふ、と笑った。困ったように、それでいて上品な仕草。何かおかしい。質問する相手を間違っているとしか思えない。

 

「そうですね、そのとおりなのだけれど……今のままでは話す機会も少なくてね。仲の良いお友達の意見をぜひ聞いてみたいの」

「別に仲良くは」

 

 ない? ないだろ。もちろん仲良くなんかない。仲が良いとか悪いとか、そういう間柄じゃない。

 

「あら、あの子はそう思っているかしら」

「……どうも思ってないと思います」

 

 嘘だ。いや、不正確だった。正しくは「思います」じゃない、「思い込もうとしています」だ。

 雪ノ下母はひたと俺を見据えている。何かを測ろうとしている目。泳ぐ俺の視線を捕えて押さえつけるかのような目力。この人、マジで美人だな……。そりゃこの長女とあの次女の母親だもんな……。

 

「あなた、雪乃から何か相談を受けたことはない?」

 

 奇妙な質問だった。だから、なぜそれを俺に聞くのか。何をどう間違えたら俺が娘の相談相手になり得ると思えるんだ。ちらっと陽乃さんの顔をうかがってみたが、退屈しているのか、明後日の方向を見ている。表情はわからない。この人が何か言ったのか?

 だが、「相談」の心当たりは確かにあった。由比ヶ浜と雪ノ下、二人と水族園に行った日。観覧車を降りた後のことだ。あの時、雪ノ下が口にした依頼。あれは相談事に類するものではないか。

 

「相談って、どういう……」

「あの子の個人的な問題に関わる機会は、これまでになかったかしら」

 

 雪ノ下母は質問の表現を変えて言い直した。

 

「…………今のところ、ないですね」

 

 そうだ、俺自身はまだ何の関与もしていない。働きかけていない。今現在、俺は彼女の個人的問題に踏み込んではいない。これは嘘じゃない。だが、やはりこれも不正確な回答のような気がした。

 

「そう……ごめんなさい、話が逸れてしまったわ。けれど、やっぱりこんなことを聞かれても困るかしらね」

 

 そりゃ困るでしょ、普通。とは思ったものの、口に出すわけにもいかない。

 

「そもそも、なぜ一人暮らしをしているのか、俺は知りませんし……一度はそれを認めて、なぜ今さら戻らせたいのかもわかりません」

 

 成績はずっと学年トップのはずだ。彼女に限って、一人暮らしそのものが受験勉強の妨げになるようには思えない。見ている限りじゃ、怠惰な生活を送っている様子もない。

 

「理由はいろいろあるけれど、やっぱり心配で。実家にもなかなか顔を出そうとしないし。何かと制限したくはないのだけれど、せめて目の届くところにはいてほしいの」

 

 雪ノ下母は、一人暮らしを始めた理由については触れなかった。まぁ、こちらとしてもその点をつつく意味はない。

 

「心配って、どういう……」

 

 質問を続けようとして、止めた。あぁ……そういうことか。今、ようやく少し理解できた。

 この人はそもそも、俺に答えなど求めていないのだ。そりゃそうだ、娘と同じ部活、ただそれだけの学生の意見を参考にしようなんて無理がある。つまりこの質問を俺に突きつけること、それ自体に意味があるのではないか。そう考えるのが自然だ。何かを暗に示している。

 生徒会が主催したバレンタインイベントの直後。あの夜にもこんなことがあった。雪ノ下を擁護する声をあげた由比ヶ浜に対し、「これは家族の問題だから自重するように」と雪ノ下母は遠まわしに伝えた。線引きした。要はあれと同じなのではないか。ただし、方法は真逆。

 

「俺の意見じゃ参考にならないと思いますね。雪ノ下……あー……雪乃さん、と本当に仲が良いのはもう一人の部員、由比ヶ浜ですが、そいつにも難しい問題だと思います。少なくとも説得は無理です」

 

 いや、可能性はあるのだろうか。由比ヶ浜の言葉なら、あるいは。少なくとも俺よりは余程可能性が高いだろう。だが、説得の成功率がどれだけ高かったところで関係はない。結局のところ、赤の他人が家庭の事情に口出しなどすべきではないし、できないのだ。

 恐らくこの人は今、それを俺に知らしめている。本来は口出し無用の家庭内の問題に対して、敢えて意見を斯うことで。「ほら見なさい、答えられないでしょう」と言われているようであまり気分は良くないが、実際そうなのだから仕方ない。

 

「そう……そうね、無理を言ってしまったわ」

 

 よく言う。最初から答えられないとわかった上で聞いているのだ。この母親もなかなか、お人が悪くていらっしゃる。

 しかしこう言っては何だが、牽制のつもりなら無駄なことだ。雪ノ下と母親との間にどういう問題が生じているのか知らないが、端から口を挟むつもりなんかない。ひょっとして、雪ノ下に対する奉仕部の影響力を過大評価しているのだろうか。

 そういうことなら、どうぞ安心していただきたい。娘の心配はわかるが、雪ノ下雪乃の問題は間違いなく彼女自身のものだ。「私の気持ちを勝手に決めないで」と彼女は言った。今の雪ノ下が、それを他者に委ねることはきっとないだろう。

 だが、話はそれで終わらなかった。

 

「では、せめて先生の方から雪乃に話してやってくださいませんか?」

「……私から、ですか。本人はどのように言っているのでしょうか」

 

 丁寧モードの平塚先生は別人にすら見える。メールでのやりとりでもこんな感じだが、やはり慣れない。突然話を振られても先生は落ち着き払っていた。むしろ俺の方が呆然としているくらいだった。

 

「『余計な心配をする必要はない』、『引っ越しに無駄な費用がかかる』、と」

「おまけに、『一人暮らしの資金は将来働いて返すから』だってさ」

 

 陽乃さんはけらけら笑ってから、ふっと息を吐いた。

 

「ズレてるよねぇ、ホントに」

 

 雪ノ下母も同じくため息を吐いて、困り果てたという様子で頬に手を当てる。あぁ、その仕草は雪ノ下雪乃のそれによく似ている。彼女が呆れたときに見せる、こめかみを押さえる動作に近いものがあった。いや、そんなこと今はどうだっていい。

 

「……承知しました。結果をお約束はできませんが、まずは本人の話を聞いてみたいと思います」

「十分です」

 

 平塚先生はそれ以上の質問を返すこともせず、要望を受け入れた。かなり慎重な答え方だったが、雪ノ下母は満足したようだった。ちょっと待ってほしい。なんだそれ。

 

「勝手を言って申し訳ありませんが、よろしくお願いしますね」

 

 決して強制はしていない。だが、平塚先生は無視できない。必ず雪ノ下にこの件を伝え、家に戻る選択肢を示し、再考を促すだろう。求める声がある以上、何らかの対応をしなくてはならないのが先生の立場だ。嫌だ無理だで片付けられる部活動とは事情が違う。

 そしてきっと雪ノ下も、平塚先生を無視できないだろう。雪ノ下が家に戻る、その決め手にはならないかもしれないが、もし陽乃さんも雪ノ下を連れ戻すために働きかけるなら、後は時間の問題かもしれない。

 なんだそれは。

 別に、雪ノ下が一人暮らしだろうが実家暮らしだろうが俺はどうでもいい。雪ノ下が家に戻されるとして、その経緯も俺には関係ない。

 だが、湧き上がる疑問を、反感を抑えようがない。なんだそれは? 声に出してしまいそうだった。さっきまでの俺とのやりとりはもののついでであって、結局は聞き分けのない娘の説得に先生を動かすということなのか。

 雪ノ下母は丁寧に頭を下げた。そして振り向くと、運転手に声をかける。

 

都築(つづき)?」

 

 話が終わりそうな雰囲気を察していたのだろう、運転手は既にドアを開いて降りて来ようとしていた。そうだ、そう言えばこの人ツヅキさんって名前だった。どこかで聞いたことがあったはずだ。都築さんは雪ノ下母のためにドアを開こうとこちらへ回り込んで来る。いや、ちょっと待った。言うだけ言って帰る気か。

 自分が一番納得できないことが何なのか、自分でもあまりわかっていなかった。多分、平塚先生を使うようなやり方が気に入らないんだろう。きっとそうだ。しかし、それについて俺が口を挟むことなどできるはずもない。

 

「雪ノ下さん」

 

 それでも、代わりに言えることがひとつある。だから呼び止めた。

 

「今、思いついたことがあります」

 

 陽乃さんの目がきらりと光った。雪ノ下母も、興味深げに俺を見る。「ほほう?」みたいな視線。「面白い、聞くだけ聞いてやろう」的な目。いや、大したことじゃないんですよ。本当に。

 

「何か策、あるのかな?」

「いえ、策ってほど大げさなものでは……提案っていうか。まぁ、やることは簡単です」

 

 そう、なんとなく黙っていられなくなって、それがくだらない思いつきであってもぶつけてやりたくなってしまった。それだけだ。期待されても困る。引き止めてしまって申し訳ないくらいだ。だから手短に、ごく簡潔にそれを口にした。

 

「猫を飼えばいいと思います」

 

 夕暮れの駐車場は、水を打ったような静寂に包まれた。程なくして、大人たちは疑問の表情を見合わせる。

 

「猫……?」

「猫です」

 

 いかにも猫。すなわちキャットである。

 

「動物はお嫌いですか?」

「いいえ」

 

 俺が尋ねると、雪ノ下母は困惑の表情を浮かべたまま首を横に振った。ですよね。

 

「ご家族のどなたか、猫嫌いな人はいますか? それとも、他の動物を既に飼っているとか」

「いいえ」

 

 ですよね。

 

「他に何か、猫を飼えない理由はありますか?」

「特には……」

 

 そうですよね。本当は聞かなくても知っています。以前、由比ヶ浜が雪ノ下に質問しているのを横で聞いていたから。

 

「じゃあ、いいと思います。猫」

 

 雪ノ下親子は黙っている。俺の提案をどう解釈するか、暫し吟味しているといった様子だ。いやだから、そんな大層なことじゃないんですって。

 

「そんなにおかしいですか?」

 

 全然反応が返ってこないので、さすがに落ち着かなくなってきた。次女の猫好きくらい当然知っているだろうが、補足しておくことにする。

 

「世間の父親は、息子と会話するためにキャッチボールに誘ったりするらしいじゃないですか。うちの親には無い発想ですけど……まぁそれと似たようなもんです。話すきっかけがないなら、まずは接点を用意すればいい」

 

 雪ノ下親子の顔は見ずに、一息に話し切る。妙に酸っぱい表情をした平塚先生と目が合った。先生は一瞬何か言いかけて、悩んだ末に口を閉じる。代わりに、雪ノ下母が疑問を口にした。

 

「でも、それで変わるかしら……?」

「多少の効き目はあると思います。少なくとも、帰る頻度が増えるくらいは期待していいんじゃないですかね」

 

 実家で猫を飼う。猫は可愛い。次女、猫見たい、猫さわりたい。結果、実家に帰ってくる。ほら、完璧だ。多分。知らんけど。

 

「まぁ、提案ですらないっていうか、本当にただの思いつきですから」

 

 こんな戯言、無責任もいいところだ。まさか鵜呑みにすることもないだろう。そもそも「家族の問題」については根本的解決になっていないし、そこに近づく手段としてもいささかズレている。

 だが、あくまで依頼は「娘を家に戻すこと」。雪ノ下雪乃が物理的に実家へ足を運ぶ機会を増やすため、それだけのためなら有効だろう。あいつに聞かれたら、「そんな目的のためだけに動物を飼うなんて」とか怒られるかもしれないが。

 だが、ではどんな理由があればペットを飼っていいというのか。出会いのきっかけがどうだったかなんて、実際のところ些細な問題だ。大切に飼えるかどうか、元気に育ててやれるかどうか。それだけだ。雪ノ下は必ず大切にするだろう。

 そして大切にすればするほど、悩みの種も尽きない。ごはんが合わないとか噛み癖がなおらないとか病気にならないかしらとか、そんなことでうんうん唸ることになるのだ。ふはは、ざまぁみろ雪ノ下。

 と言いたいところなのだが、それで猫を飼うなんて話になるわけもない。

 

「いいえ、十分だわ。採用させてもらいましょう」

「へ?」

「は?」

「え?」

 

 雪ノ下母の反応は想定とまったく違っていた。うーん、それはちょっとねぇ……って言われると思っていた。むしろ「何言ってんのこの子」的な反応まで覚悟していた。平塚先生も都築さんもぽかんとしている。嘘でしょ……?

 

「いえ、ごめんなさい。少し性急過ぎたわね。でも、前向きに検討させていただくわ」

「あ……え? あ、はい……」

 

 愕然としている俺に、雪ノ下母は柔らかく微笑みかけた。

 

「ありがとうね」

「い、い、いいえ……え、マジですか? 猫、高いですよ?」

 

 陽乃さんが噴き出し、雪ノ下母にもクスっと笑われた。恥ずかしっ。何を口走ってんの俺。反応が予想外過ぎて無駄に焦ったせいだ。仕方ない。ドンマイ。いや、でも今のはさすがに恥ずかしい……。

 

「そうね、出費は小さくないわ。お父さんとも相談しないと……雪乃には話した方がいいかしら。サプライズの方がいいかしら」

「勝手にどの猫飼うか決めちゃったら怒るかもねぇ」

 

 なんかいきなり家族会議が始まってしまった。

 

「予告なしでペットショップにお連れすればよろしいのでは」

「なるほど、そうしましょうか」

「それいいねぇ、めっちゃ怒りそう」

 

 運転手都築さんまで加わってきて、サプライズの提案を始めた。ちょっと、ちょっと待って。ついていけない。あとどっちにしろ雪ノ下は怒るの? それ「いいねぇ」じゃなくない?

 

「あの、失礼ですが……そろそろ暗くなってきましたので……」

 

 先生は苦笑いを浮かべつつ、解散を促した。

 

「あら、すみません。遅くに引き止めてしまって……行きましょうか」

 

 雪ノ下母の声を受け、都築さんはドアを開いた。別れを告げた雪ノ下母が車に乗り込むと、今度は助手席の扉を開く。しかし、陽乃さんは動かなかった。

 

「陽乃?」

 

 後部座席からのぞきこむようにして、雪ノ下母が車内から呼びかける。

 

「私、もうちょっと話すことあるから」

 

 えぇー……。まだ何かあんの? もういろいろ限界なんだけど。寒いんだけど。早く帰りたいんだけど。

 

「帰りはどうするつもり?」

「静ちゃんに送ってもらうよ」

「あなた、そんな勝手に……」

「いいえ、構いませんよ」

 

 先生はこういうところで鷹揚だ。さらっと引き受けてしまった。

 

「じゃ、そういうことだから」

 

 雪ノ下母は娘の自分勝手に呆れた様子を見せたが、先生と俺、それぞれに改めて礼を言うと頭を引っ込めた。都築さんがばむっと扉を閉めて、運転席へ戻っていく。

 わざわざご丁寧に窓を少し開けて、雪ノ下母はもう一度頭を下げた。都築さんもこれに倣うと、速やかに車を発進させる。場違いな高級車は、静かにファミレスの駐車場を後にした。

 黒々とした車体が見えなくなるところまで見届けた瞬間、緊張の糸が切れた。何、この疲労感。ふすーっと鋭く空気を押し出すような音に目を向けると、平塚先生のため息だった。

 

「まったく……本当に……ヒヤヒヤさせてくれるな、君は」

「は? 俺? いやいやいや。めっちゃ礼儀正しかったでしょ、さっきの俺」

 

 立ち居振る舞いに関しては、過去最高に気を使ったつもりなんですけど。めちゃくちゃ疲れた。

 ところが、先生はあまりそう思っていないらしい。

 

「少しばかり挑戦的に過ぎたぞ」

「え? え、俺そんな態度悪かったですか」

 

 間違っても粗相の無いよう、細心の注意を払ったつもりだった。あれー? おかしいな……。そんなはずないんだけどな……。

 

「君はしゃきっとしてたつもりだったんだろうし、実際のところ普段と比べればかなりマシだったんだが……残念ながら好印象をもてる態度ではなかったな」

「マジっすか」

「基本的に無愛想だもんね」

「真顔は真顔なんだが、うん……表情が硬く見えるというか」

「目がねぇ、腐ってるもんね」

 

 陽乃さんは愉快そうにクスクス笑っている。腹立つ。その一言いちいち足す必要なくない?

 

「いや、結局具体的に何が悪かったのか、よくわからんのですけど……」

「この際はっきり言うがな」

 

 虚ろな目でタバコを取り出しながら、平塚先生は指摘する。ライターがシュッと低い音を立てた。

 

「さっきの君の言い方では、『こんな単純なことすら試してないくせに他人を動かそうとするな』と聞こえてしまう」

「ふ、深読みし過ぎでしょ……そこまでは思ってません」

 

 やっべー、そんな感じ出てた? 見え見えだった? っべー。

 

「ある程度は思ってるわけだ」

「いや、その……ていうかそれを疑ってる時点で先生も同じこと思ってるんじゃ」

「深読みし過ぎだ」

「えぇー……?」

 

 絶対嘘ついてるよこの人。多かれ少なかれ共感があるからこその推理だよコレ。俺の疑いの目を他所に、先生は疲れた顔でタバコをふかす。すはぁ、という吐息に乗って白い煙が広がった。

 

「ま、そりゃそう思うよねぇ。そんなことぐらい本人と話し合えって思うよね」

「いや、それは……だから、そこまで言ってないですって」

「ああいう人なんだよ。あの人、いつでも何でも人にさせるのが主義だからさ」

 

 批判や非難ではなかった。ただ、事実を述べている。陽乃さんの言葉からはそういう無機質な響きしか聞き取れなかった。どんな主義だそれ……。ぜひ見習いたい。

 

「まぁ、悪くなかったよ、今の。ある意味核心には近いし。本当にあり得ると思うよ、採用」

 

 笑いを引っ込めた陽乃さんは、励ますかのように俺の案を評価した。さすがにちょっと信じ難い。自分で提案しておいて何だが、それでいいのか、と思ってしまう。俺の発案がきっかけでトントン拍子に話が進むというのは、どうにも奇妙だった。

 

「……雪ノ下の猫好きは家族皆さん知ってるんでしょう。今まで飼わなかったのはそれなりの理由があるんじゃないんですか」

「お、それ聞いちゃう? 説明しようか? 逐一解説しちゃおうか?」

 

 少し落ち着いたと思ったら、またこうやってノリノリで面倒くさいテンションを押し付けてくる。聞く気が失せたので、別の質問にすり替えることにした。

 

「そういや、俺のことは結局何て言ったんですか?」

「おや。気になるかな?」

「昨日の今日で直接顔合わせることになれば気にもなるでしょ」

「そりゃそっか。それで、私のこと疑ってるってわけね」

 

「当たり前でしょう」とは口にしなかったが、顔には出てしまっていた。陽乃さんが電話してきたのが昨晩で、その翌日にさっきの有様だ。この人の差し金ではないかと、疑わない方がどうかしている。

 

「だから本当に偶然だって言ってるのにさぁ」

「何の話だ……?」

 

 話が見えていない平塚先生は、咥えタバコをくりくりと動かしながら頭を掻く。

 

「お母さんが比企谷くんのこと気になってて、『どんな子なの』って私に質問してきたんだよね。そんで私が比企谷くんに『どんな子って説明してほしい?』って聞いたの」

「んん……? わかるようなわからんような……いや、わからんな」

 

 ですよね。俺もわかりません。経緯は理解できても、思惑がまるでわからない。

 

「ちょうどさっき、車の中でその話してたよ。私もいろいろ考えたんだけどねー」

 

 陽乃さんは人差し指を口元に当て、困ったような表情を見せた。

 

「結局、私の主観であれこれ言っても仕方ないでしょ? だから事実だけをそのまま伝えたよ。『同じ学年、同じ部活の男の子』」

 

 なんだ、結局それだけか。いや、そんなはずがなかった。

 

「そして、雪乃ちゃんがバレンタインにチョコレートを渡した男の子」

「…………」

 

 それ、言うのかよ。言っちゃったのかよ。ため息が出そうになったが、項垂れて見せるのは意地が許さなかった。陽乃さんからのリクエスト受付に対して「お任せで」なんて言った手前、文句はつけられない。

まぁ、バレンタインの件は言うかもなってちょっと思ってはいたのだ。頭の片隅くらいで。正直、あの母親に知られても全然構わないと言えば嘘になる。だってほら、そういうのってそっとしておいてほしいじゃない、普通は。そっとしておくじゃない、普通は。ホント勘弁してほしい。

 

「比企谷。また目が澱んでいるぞ」

「ていうか、ほとんど睨みつけてるように見えるよねぇ」

 

 陽乃さんは俺の顔を正面から覗き込むようにしながら、薄く笑ってそんなことを言う。俺が目を伏せようとそっぽを向こうとお構いなしで、じろじろと観察を続ける。

 

「寒くなってきた! 早く行こうよ静ちゃん」

 

 そうしていたかと思えば、唐突に俺から離れて先生のスポーツカーの方へと歩いていく。静かな駐車場には、カツカツというヒールの音がよく響いた。

 

「その呼び方はやめろ」

 

 言いながらも先生はポケットから鍵を取り出し、リモートで車のロックを解除した。車に乗り込む陽乃さんを見ながら思わず呟く。

 

「何だったんですか、アレ……」

「何だったんだかなぁ……」

 

 先生も疲れたような声を出したが、不意に悪戯っ子のような笑顔を見せた。

 

「まぁ、私の生徒が人気者になりつつあることは、教育者として喜ぶべきことかもしれないな」

 

 そんな不吉な人気者聞いたことねぇよ。

 

「笑い事じゃないですよ……」

「笑い事さ。さっきの話だけじゃよくわからんが、見たところ君は突然絡まれて混乱しているらしいな。だが、よく考えてみろ。知人のご家族と仲良くお喋りしただけだ。あまり気にかけることじゃない」

 

 そうかなぁ……。ホントに? そんなこと言われても気になっちゃうんですけど。明日雪ノ下と会ったときにどう接したらいいか、余計にわからなくなってきたんですけど。

 

「まぁ、それでも気になるものだろうな。君くらいの年頃では特に。悩み事が山積みだ」

「……いや、そりゃまぁ」

 

先生は上着を翻すと、タバコを携帯灰皿に収めながら謝罪した。

 

「さっきは『思い詰めるな』などと軽はずみに言ってしまって悪かったな。やはり少年には試練が似合う。大いに悩み尽くすといい」

「いや、去り際にそんなこと謝られましても……」

「気をつけて帰りたまえ。これ以上は寄り道しないことだ」

 

 言い残して、颯爽と歩き去る。言われなくても、これ以上寄り道するような余裕は残っていない。もうとにかく疲れたし、眠い。帰ったら宿題も食事もできずに爆睡する自信があった。

 陽乃さんが助手席の窓から「じゃあね」と手を振っている。先生も振り向いてこちらを見たので、自転車の鍵を探す手を止め、頭を下げた。

 先生の車を見送りつつ、とぼとぼと自転車を押しながら先程のやりとりを反芻する。何故だか脳が、身体が妙に熱い。ぼーっとする。疲労のせいか、寝不足のせいか。

よくやったよ俺。何がなんだかわからなかったが、よくぞこの難局を乗り越えた。乗り越えたっていうか、ただ質問に対してボソボソ答えてただけなのだが、それでも俺マジ偉い。超偉い。

食欲がまったく無いが、帰ったら何か少し甘いものでも食べよう。疲労にはやはり甘味。

 先生のスポーツカーはとっくに見えなくなって、辺りはすっかり暗闇に沈んでいた。自転車にまたがり、強く地面を蹴って走り出す。

 

 

 …………いや、でも「猫、高いですよ?」は無いよなぁ……。


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