眠たすぎて、瞼どころか頭が重い。
睡眠が足りていない。授業の内容は頭の中にもノートの中にもさっぱり残らなかった。昨晩課題に手こずったせいだ。まさに本末転倒。いや、そんなんどうでもいい。眠い。
今日は雪ノ下が部活に来ないと由比ヶ浜から知らされ、結局は奉仕部自体を休みにすることとなった。終礼の前からずっと、今日の部活をどう過ごすかと眠い頭を悩ませていたところだ。正直ほっとしていた。
ともあれ、久々に明るいうちからの下校である。
今日は結構風が強い。自転車を漕ぎながら全身に向かい風を浴びていると、一時的には目が冴えてくる。そして、ようやくまともに頭が動き出す。
由比ヶ浜は『部活に来ない』という言い方をした。詳しくは聞かなかったが、口ぶりから察するに『授業には出席していたが部活には来ない』ということだ。果たして理由は……と、思考が余計なところまで及びそうになり、慌ててブレーキをかける。
赤信号だった。
漕ぐ足を止めたところで、今日これからのことを考えてみる。とりあえず宿題だけは片付けてさっさと寝たい。
自宅で集中できないのは明らかだった。このまままっすぐ帰って自分の部屋に戻れば、また昨日と同じようにグズグズと悩んで手が動かなくなって、そのうち居眠りとかしてしまいそうだ。というか、間違いなくそうなる。
こういう場合、無理にでも勉強するなら環境を変えるに限る。喫茶店なりファミレスなり、適度にノイズがある場所がいい。信号は青に変わったが、渡らずに方向転換した。心当たりの店を目指して、再び漕ぎだす。
なにせ学校帰りのグループが多いから仕方ないのだが、この時間の店内はかなり騒がしい。あちこちから響く周囲を憚らない笑い声は、適度なノイズとは言い難い。
とは言え、くつろぎに来たわけでもない。諦めて窓際の二人席に陣取った。
小腹は空いているが、甘いものの気分ではなかった。たまごサンドとドリンクバーを注文する。店員が去ると、飲み物を取りにも行かず腕を枕にしてテーブルに突っ伏した。
ほんの少し。ほんの少しだけ、サンドイッチが運ばれてくるまでは、目を閉じていたかった。
「失礼します」と声をかけられて身を起こしたのは、それから五分後か、十分後か。目をこすりながら身を起こす。ちくしょう、眠い。勉強どころじゃないんですけど。店員さん、もうちょっと持ってくるの遅くてもいいんですけど。
とりあえずコーヒーでも、とドリンクコーナーへよたよた歩いていくと、中学生たちが奇抜なミックスフレーバーを作り出す素敵な遊びに興じていた。盛り上がってるところ悪いが、注いだらさっさと場所を空けてくれよな! あと、グラスから溢れそうなその茶褐色の液体は責任を持って残さず飲み干そうな! はちまんお兄さんとの約束だぜ!
席に戻ってたまごサンドをかじりつつ、鞄をのぞき込む。さて、何から手を付けたものか。
国語だな。楽しい楽しい現国のお勉強だ。まずは得意分野から取り掛かって、リズムを作ることにしよう。長文読解の問題集を引っ張り出し、開く。ぐっと目を閉じ、少しでも凝りをほぐそうと首をぐりぐり回す。ああ、もう、眠い。クソ眠い。でも仕方ない。やろう。アイスコーヒーを一気に飲み干し、ペンを手に取った。
今日の課題は『随筆2』。制限時間は二十分。
では、始め。
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実際、国語の教科書というものは面白い。
まことのひねくれボーイとして知られる俺であるが、現国の教科書に取り上げられる作品はわりと素直に楽しんで読めるものが大半である。なかなかイカした文章が揃っている辺り、さすが語学・文学の専門家が選りすぐっただけのことはある。
小説は言わずもがな名作揃い。随筆や評論も、説教臭さが鼻につくようなものは案外少ない。今解いているような問題集にしたって、ハズレはほとんどない。
小説は数ページだけを切り取って掲載しているものが多い。興味を惹かれた作品を図書室で借りて全編読んでみる、なんてこともときどきやっている。
そういえば昔、「国語の教科書って面白いよな」という会話をクラスメートとしたことがあった。「は?(何それ、国語得意自慢? 優等生アピール? きも)」とだけ返されたのを覚えている。あれは多分、中学一年くらいの頃だな。ていうかこれ、会話じゃねぇな。
ぼんやりとそんなことを思い出しながらも、ペン先は忙しく文章を辿って上下する。目は休みなく正解を探す……あった。五問目クリア。
答えを書き込みながら、横目で残り時間を確認する。残り十四分。いいペース……いや、本当にそうか? 周りがうるさい上に寝不足、と考えてみれば順調な方だが、こういうときはやはり見落としや誤読が多い。さっさと仕上げて後から念入りに見直しておく方がいいだろう。
気を引き締めて、第六問。
〔 ⑧ 〕に当てはまる表現を、本文中から十字以上十五字以内で抜き出しなさい。
これも簡単っぽい――ほら、あった。ちょうど十一文字、これで間違いないだろう。見つけ出したそれを、解答欄に書き入れる。
『下手の考え休むに似たり』
暫し呆然となって、自分でたった今書いたその言葉を見つめる。
初めて目にする表現だったが、解説なんて見なくても意味するところは大体わかる。というか、はっきりわかる。むしろ、刺さる。思ってもみない角度から、いきなり図星を指された気分だった。駄目だ、今は考えるな。
いつの間にか止まっていたペンを、再び動かす。自分の内側に意識を向けないように、昨日と同じ煩悶を繰り返さぬように、目の前の活字に必死で喰らいついた。
どうにか、時間ぎりぎりで完答。途中までは余裕があったのに、やけに手こずった。雑念に引っ張られたせいだ。ため息を吐きながら解答のページを開き、自己採点を始める。
一問目、正解。二問目、三問目、四、五、全部正解。サラサラと自分の解答に赤丸を付けていく。
――『下手の考え休むに似たり』とは
雑念の原因となった六問目には、嫌に丁寧な解説が添えてあった。読まなくてもわかるっつーの、とか思いながらも律儀に目で辿ってしまう。
――良い考えも浮かばないのに長く考え込み、時間を浪費する様を言う。
舌打ちが出そうになった。途中で無理に引っ込めようとして、赤ペンを動かしながら口元を歪める。わかっているのだ。まさしく現在の自分の状態がこれだ。ずっと正解の見えないことで悩み続けている。
――囲碁や将棋において、実力の劣る者の長考を嘲ったことに由来する。
今は出会いたくなかった言葉だ。次の問題も正解……つーかそもそも、戒めるためじゃなくて嘲るための言葉だったのかよ。最初に言い出したヤツ性格悪いな、絶対。
しかし、この比企谷八幡も性格の悪さには定評ある男だ。「休むに似たり、休むに似たり」と繰り返す脳内八幡が俺を苛んでいる。ウゼぇな、覚えたての言葉を無闇に使いたがる小学生かてめーは。十問目も正解、丸。
――『下手の考え休むに如かず』とも。
うっせーよ。
悩むも休むも同じこと? 大いに結構。休息上等だ。少しくらい休ませてくれ。
モヤモヤをため息と共に肺から押し出すと、妙にでかい音になってしまった。近くの席の大学生っぽい男にジロリと見られた。すいませんでした……最後の問題にも赤丸。どうだ、全問正解だぞ、この野郎。……雑念漬けだったにしては上出来だが、いまひとつ気分は晴れない。
なんか、たったひとつの宿題を終えるのに無茶苦茶疲れた。もういい、休憩休憩。グラスを持って席を立つ。
ドリンクコーナーと席を往復しながらがぶ飲みを続けていると、携帯が鳴り始めた。
思わず身構えたが、画面に表示された名前は陽乃さんではない。平塚先生だった。そりゃそうか。我ながら神経質過ぎる。まさか昨日の今日でちょっかいかけて来たりしないだろう。落ち着け、俺。ていうか、この電話どうしよう。
出たくない。出たくないが、出ないとそれはそれで面倒くさいということは学習している。
『――もしもし、平塚ですが』
出てしまった。
「はい」
『今、時間は大丈夫か?』
「へぇ、まぁ」
元々うるさかった中学生のグループが馬鹿笑いを始めた。席は離れているが、さっきの大学生はかなりイライラきている様子だ。
『随分と賑やかだな。寄り道でもしてるのか』
「はぁ……ちょっと駅近くのファミレスで。勉強です」
『あぁ、いつものとこか。サイゼリヤじゃない方だな』
「はぁ……え、は? 何で〝いつも〟を知ってんすか」
怖っ、やめて、怖い。
『生活指導だからな』
「そういう問題ですかね……」
総武高の生徒がよく利用する飲食店くらいは把握していて当然なのかもしれないが、やっぱちょっと怖い。今晩思い出したら一人でトイレ行けなくなっちゃう。
『近いな。ちょうどいい、五分ほどそこで待てるか?』
「へ? え、何か話あったんじゃ」
『どうせなら顔を合わせた方が話しやすかろう』
「いや、何もわざわざ」
『通話料もかかる』
「いや、こっちの都合」
……切れたよ……。何も予定に不都合があるわけじゃないが、釈然としない。そもそも何の話をする気だろうか。なんか、説教とかだろうか。逃げちゃってもいいだろうか。
先生は五分と言ったが、二分でやってきた。逃げ出した場合の言い訳を考えながら窓の外を見ていると、やけにカッコいい車がするりと駐車場に滑り込んでくるのが見えた。クリスマス前に一度乗せてもらった、2シーターのスポーツカーだ。本当に近くにいたんだな……。逃走の余裕はまったく無かった。
颯爽と店に入ってきた先生は俺の向かいに座ると、メニューを見ることもなくコーヒーを一杯注文した。
「すまないな、勉強中に」
「いえ、キリはよかったんで」
あれ? なんか文句のひとつも言ってやろうと思ってたのにさらっと流してしまった……謝られるとすんなり許してしまう俺の優しさが憎い。
「そうか……まぁ手短に済ませるとしよう。確認しておきたいことがあってね」
「ていうか、この時間はいつも仕事じゃないんですか?」
「教員にもノー残業デーというものが課されるんだよ」
口調はさらりとしたものだが、目に光が無い。ていうかノー残業デーって「課される」ものなんだぁ、へえー、そうなんだー、知らなかったなー……。そういえば、親父に聞かされた愚痴でそんな内容のがあったような。たしか残業を制限された分のシワ寄せが後でやって来る、とかなんとか。定時で帰れるからって手放しには喜べないもんなんだな……。悲しいな……。
「ていうか、今ここに来ているのは実質残業なんじゃ? あ、でも顧問としての仕事って時間外勤務の扱いにはならないんでしたっけ」
「本題に入ろう」
静かな笑顔にそれ以上の発言を封じられ、おとなしく話を聞くことにする。オーライ。ハチマン、ヨケイナコト、イワナイ。キカナイ。
「奉仕部の今後について、だ。君たちはもうすぐ受験生となる」
先生が何を問おうとしているか、その二言だけで理解できた。
「いつまで続けるか、ってことですか」
「そうだ。今後も奉仕部の活動を続けるか。継続するなら、今までどおりの形か、それとも活動の頻度や時間帯を調整するか。そして活動の終了をいつにするか」
無論、優先されるべきは学業だ。しかし目的もよくわからん部活とはいえ、突然活動を打ち切るなんてわけにもいかないだろう。着地点を見定める必要はある。
二人は? 他の二人は何と言うだろうか。
きっと継続に賛成だろう。根拠は――根拠は、あるような。ないような。少なくとも、敢えて反対するような理由はなさそうだ。俺にだってない。
「その前に気になるのは――」
答える代わりに、他の問題を提起する。
「決着をいつにするか、ですね」
「なるほど?」
運ばれてきたコーヒーを受けとりながら、平塚先生はなぜか満足そうに頷いた。
奉仕活動における貢献度競争。負けた方は勝者の言うことを何でも聞く。入部当初に始まった雪ノ下との勝負に由比ヶ浜が加わり、今はバトルロワイヤル形式で進行している。
「例の勝負……部活動廃止と同時に勝敗を判定、でもいいかもしれませんけど」
「ふむ。由比ヶ浜はそういうつもりでいるようだったな」
そうなのか。まぁ今までは期限の話なんてしたこともないし、そう考えるのが自然かもしれない。今の発言から察するに、由比ヶ浜とはもうこの件について話を聞いているらしい。とすると、部長の雪ノ下とはそのさらに前に話しているのだろう。
「個人的には、いつ活動を止めるか考えるのは決着ついてからでいいんじゃないかと」
「ほう」
その場所を守るために苦悩した者もいる。その場所を失わぬように行動した者だっているのだ。受験生になると言ったって、勉強の妨げになるような依頼は断ればいいのだから、わざわざ活動の終了を急ぐ必要はないはずだ。
だが、件の勝負についてはその限りではない、と思えた。決められることは先に決めてしまえばいい。どうしたって白黒つけようがない、形も定まらないようなものだってあるのだから。
「ついでに聞くが、決着の具体的なタイミングについて何か意見はあるかね?」
「いや、それは……俺は別にいつでも」
由比ヶ浜はこの勝負を利用することで、強引にでも奉仕部の、三者の在り方に輪郭を与える道を示した。俺自身が否定した選択だ。そして雪ノ下も、今は別の道を見ているようだ。
いずれにしろ、雪ノ下と俺の棄権により由比ヶ浜を勝利させ、彼女に結論を委ねるという選択肢はもうない。由比ヶ浜が独力で俺たちに勝てば話は別だが、そうなったとしても彼女がその手段を採ることはもうないだろう。そんな気がする。
「しかし、君の方から勝負の件を持ち出すとは予想していなかったな。ある程度の自信はある、ということかな?」
「負ける自信でなら負けませんね」
「清々しいまでの即答だな……」
実際そうなのだから仕方ない。いやまぁ、俺にしては活動熱心だと思わないこともないのだが、いかんせん得点に繋がっているケースが少ないような気がする。採点基準は平塚先生の独断と偏見って話だし、何とも言えんけど。そもそも点数制が採用されているのかも定かでない。
「私は以前、どちらも優位には立っていない、互角だ、と告げたはずだがね。結果を確信するには早いだろう? 現状が不利だと考えているなら、逆転を狙いたまえ。そこが熱いんじゃないか」
「いや、あんとき先生勝負のこと忘れてたでしょうが」
あれって確か、一色と城廻先輩の依頼のときか? 当時、由比ヶ浜に至ってはそういう勝負があることすら知らなかった始末だ。俺の指摘に平塚先生は苦笑を浮かべる。
「正直に言って、そもそもこの勝負は君と雪ノ下の交流を促すための方便だったからな。アイスブレイク、ってやつだ」
「ぶっちゃけますね」
まぁ、今さらと言えば今さらの話だ。にしても、打ち解けさせるために対立を煽るって、矛盾しちゃってませんかね……。
「少なくとも当時は、ということだよ。この勝負が今の君たちにとって意味あるものなら、それはそれで良し」
「狙いどおりってわけですか……」
辟易する俺に対して、先生はまた笑ってみせた。今度は苦笑いじゃない。
「結果オーライ、という話だ。君たちはいつでもあっさり予想を超えてくれるし、当然のように期待も裏切ってくれる」
心底愉快なようでいて、呆れているようでもあった。
「あれこれ口を出してはみるがね。本当に君たちみたいな生徒を狙った方向に導けるなら、私はとっくに本でも出してるさ」
ははぁ。ドキュメンタリー系の番組で特集される感じですか。情熱的な大陸とか宮殿inカンブリアとかですか。帯に「しずカッコイイ」とか載せちゃう感じですか。
「つい最近もこんな話をしなかったかな? 我々にできるのは、選択肢を増やすこと。誤った道をできる限り断つこと。そのくらいだよ」
「はぁ……」
忘れもしない。ちょうどその話をしたときに、俺の将来の夢は断たれてしまったのだから。グッバイ、叶わぬ俺の夢。バイバイ、専業主夫……。
「そろそろ話を戻そうか。例の勝負、始まりこそ成り行きだったが、私もそこに焦点を当てて活動方針を見直すことにしよう。今まで曖昧にしていた部分を明確にして、君たち三人が共有する。そういうことでいいか?」
「はい、まぁ……最終的には勉強の邪魔にならんような調整が要るでしょうけど」
異存はない。少なくとも来学期中には結論を出す必要があるだろうが、今はこれでいい。
明確にする、はっきりさせるってのは良いことだ。模糊とした悩みでグズグズと燻っていた今、このタイミングで平塚先生と話したことである程度気分が切り替わった。
少なくとも、多少は例の煩悶から遠ざかることができている。代わりに今は、雪ノ下や由比ヶ浜に負けた場合、何を命令されるかで悩んでいる。うーん、休まる暇がない……。
そうだよな、「何でも言うこと聞く」だもんな。それすなわち何でもアリだもんな……。材木座の専属編集になれとか、屋上から戸塚への愛を叫べとか、サッカー部に入れとか、あーしさんの恋路を応援しろとか、相模と握手してこいとか、川なんとかさんに連絡先教えてもらってこいとか、城廻先輩の側近眼鏡に加われとか。これらすべて〝アリ〟なのだ。それが「何でも」ということなのだ。あな、恐ろしや……なんとか「焼きそばパン買ってこいよ」くらいで済まないもんですかね。
脳内で繰り広げるミッション・インポッシブルに苦闘していると、先生は珍しく気遣わしげな目で俺を見た。
「悩みが尽きないようで大いに結構だが、あまり思い詰めないようにな」
「いや、そこまでってわけでも……」
あるかな? あるな。何も結構じゃない。思い詰めまくりの追い詰められまくりだ。裏切者の汚名を着せられたIMFの工作員くらい窮地に立っている。そうか、俺こそがイーサン・ハントだったのか……。
「ま、リフレッシュは大切だ。気晴らしに……そうだな」
先生はテーブルの上に置いたままの問題集をトントンと指で叩いた。
「勉強でもしたまえ」
「気晴らしが勉強ですか……」
「慣れれば案外効果的だぞ?」
「それは知ってるんですけどね」
どうしてだろう、ため息が深くなっちゃう。今の俺に必要なのは気晴らしじゃないな。お休みだな、やっぱり。いっぱいいっぱい休みたい。何も考えず無為にゴロゴロしていたい。
「さて、私はもう行こう。時間を取らせて悪かったな」
「いえまぁ、別に」
むしろせっかくのノー残業デーにわざわざ出向かせて申し訳ないような……いや、でもこの話どう考えても電話で済んだよね。通話代にしたってコーヒー代よりは安いよね? やっぱこの人俺の事好き過ぎじゃないの?
それはそうとして、俺の方はこれからどうしたものか。結局課題は一つしか終わってないし、もうしばらくここで勉強続けるか。いつのまにかうるさい客は帰ってるし。
先生がコーヒーを飲み干し、腰を上げようとしたときだった。まったく不可解な話、実に不思議なことだが、隣に雪ノ下がいるような気がした。いやそんなはずないんだが、本当にすぐ傍からこちらを見ている者がいる。
先生と俺は、ぴったり同時に二度見した。窓を。窓の外を。
「うわ……」
「……うわ」
雪ノ下は雪ノ下でも、姉の方だった。ガラス越しにこちらをのぞきこむ視線と目が合った途端、花ほころぶような笑顔。にこにこしながら手とか振っている。マジで……? なんでいんの……? 暇なの……?
「……どうする? まだここに残るかね?」
「いえ、もう出ます」
陽乃さんの姿を見た途端、また脳が忙しく雑念を引っ張り出してきた。宿題は残っているが、やっぱ今日のところは帰ろう。いつのまにか新しい客が近くのテーブルで騒ぎ始めたし。
先生は立ち上がった俺の手からスマートな動作で伝票を奪い、長い指で挟んだそれをひらと振ってみせた。そこらの男がやると気障ったらしいが、この人がやるとうっかり惚れるな。危険過ぎるぜ、教師平塚……。
「え、あ、あざっす」
「どういたしまして」
へっへ、いつもすいやせんねぇ……と脳内で揉み手をしながら、会計を済ませた先生の後に続いて扉を出る。陽乃さんは薄暗くなってきた駐車場に立ち、目を細めて夕焼けの名残を眺めていた。
「何してるんだ、こんなとこで」
「ちょうど前通ったら静ちゃんの車、見えたからさ。いやぁ、奇遇だ!」
にこやかな挨拶が妙に白々しく見えるが、本当にたまたまなんだろうか。
確かに先生の車は目立つし、駐車場は見通しがいいから見つけやすかっただろう。目の前を通っているのは幹線道路だし、偶然通りかかったと言われるとあり得ないとは言い切れない。
「比企谷くんも。最近、よく会うね?」
「そっちが神出鬼没過ぎるんですよ」
でもそれがまた、返って疑わしいような気がしてくるのだ。この人、妹ほどじゃないが平塚先生にも何かこだわってるような感じするんだよな……。なんとなくだけど。まぁ、だからってまさか先生の後をつけたわけでもないだろうし、正真正銘の偶然なんだろう。
「大学の帰りか?」
「ううん、今日はちょっとお休みしちゃったから」
今日、部活に来なかった部長のことを思い出した。それをまた頭の隅に追いやる。陽乃さんが講義を休んだことと関係しているとは限らないし、関わりがあったとして、だから何だ。
伏せていた顔を上げると、陽乃さんが俺にジト目を向けていた。
「ていうか、さっき目が合ったとき『マジで? なんでいんの? 暇なの?』って顔したでしょ。静ちゃんも」
「さすが、正確ですね」
「正確だな」
素直に褒めたというのに、陽乃さんはコイツぅ、とか言いながら人差し指で頬や首筋をぐりぐりえぐってくる。く、くすぐったい、こそばゆい、痛い痛い痛い!
たまらず逃れた方向には、どう見てもファミレスの駐車場には不釣り合いな高級車が停まっていた。先生のスポーツカーじゃない。まぁ先生の車も少し離れた場所で異彩を放っているが。背中に追撃があったので、さらに距離をとる。痛いってば。
雪ノ下家の車だった。
運転席に座る男性から目礼されたので、会釈を返す。何度か見かけている顔だ。この人、俺のこと覚えてるんだろうか。
「デートの邪魔したからって、そーんなに冷たくしなくたっていいじゃない?」
「何を馬鹿なことを言ってる。あと静ちゃんはやめろ」
陽乃さんは背後で平塚先生と話し込んでいる。その隙に、さっさとその場を離れたらよかったのだ。すいません急ぐんで、とか何とか言って。
それなのに。
止せばいいのに、視線を送ってしまった。後部座席の、スモークが貼られた窓。その向こうから、こちらを見ている目があるかもしれないとわかっているのに。
俺の目の前で、その窓は静かに開く。顔を覗かせ、柔らかく微笑んだのは雪ノ下雪乃ではない。彼女の母だった。
「こんばんは」
その挨拶は、明らかに俺一人に向けられていた。視線は俺に注がれていた。
「……こん、ばんは」
固い動きで、深めに頭を下げる。礼と言うよりは、ただ目を逸らすためのお辞儀。俯いたまま、暫し迷う。どうする? 早くこの場を去るに越したことはないが、あまり慌てた態度では雪ノ下母から逃げたような印象を与えるかもしれない。それは望ましくない……いや、逃げたいんだけど。そもそも陽乃さんからも逃げたかったし。
昨日の今日だぞ……。昨晩、陽乃さんの口から母親の話が出て、「そのうち放っておけなくなる」なんて意味深に釘を刺されて、二十四時間と待たずにこれか。
この状況はいったい何なんだ。わからないが、思わずにはいられないことが一つある。
だから、ちょっとくらい休ませろって。頼むから。